師匠シリーズ

932 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:10:41 sgJKT7Op0
薮になっている所を回り込み、
街灯の明かりが作る陰影をじっと観察しながらそろそろと進む。
妙に静かだ。
堅い土の地面に小さな石が転がっていて、
俺の足がそれを蹴飛ばす乾いた音が響く。

藪の手前に木製のベンチが二つ並んでいる場所があり、
そこに誰かいそうな気がして首を伸ばしたが、遠目にも人の姿は見あたらなかった。
公園が違ったのかと思って、
頭の中で住宅地図を再生しようとしていると、
その誰もいないベンチから人の気配が漂ってきた気がした。

緊張してもう一度視線を向ける。
二つのベンチにはやはり誰もいない。
その向こうは見通しがいいので、誰も隠れてはいないはずだ。
後ろの藪の中ならば分からないが、見るからに硬そうな枝木だ。
あの中に潜むなら、相当の引っ掻き傷を覚悟しないといけないだろう。

あとはベンチの横のゴミ入れか。
そう考えた瞬間、なにか嫌なものが身体を駆け抜けた。

そのゴミ入れはよくある金属製の網状になった円筒で、上の方に向けて少し径が大きくなっているやつだ。
その内側には黒いビニール袋がはめ込まれている。
ただ、普通に公園などで見るタイプよりかなり小さい。
大人の腰までも届かないくらいだ。
そのゴミ入れから異様な気配がしている。

いや、意識を集中すると分かる。
気配などというあいまいなものではなく、はっきりと血の匂いだと分かった。
息を止めながらゆっくりと足を進める。
血の匂いが強くなってくる。
明らかにゴミ入れの中からだ。
少し近づいてよく見ると、
ゴミ入れの下の影になっている所に、なにかの染みが出来ている。

黒い。
血だ。
見えにくいが、ゴミ入れの下部のすべてに広がっているとしたら、かなりの量だ。
足の長い蚊が横を通り過ぎ、
かすかな羽音を残してゴミ入れの中に消えた。
つばを飲む。
ガサリと、ゴミ入れからなにかが動く気配。


933 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:14:50 sgJKT7Op0
反射的に身構える。
声がした。掠れた声。

……きたか

どこからともなく聞こえてきたのならまだ良かった。
声は明らかにゴミ入れの中から聞こえてくる。

……よく、聞け 時間が、ない

その声は、容易に近寄らせない響きを持っていた。
いやそれは、俺の
自己防衛本能が反映されていただけなのかも知れない。
そのゴミ入れは、とても小さいのだ。
横から見ているだけでは口の部分より下は見えないが、
大人が中に入り込むには小さすぎる。
身体のパーツがすべて揃っている状態で入り込むには、あまりに。

……綾を、さがせ、携帯が、つながらない、
たぶん、家、にいる、会って、こう、言え

ゴミ入れの中から聞こえる、この世のものとも知れない声に
混乱しながらも、俺は耳だけに意識を集める。

……これは、夢ですね

それきり、声は途絶えた。
足の長い蚊がゴミ入れの中から飛び立ち、どこかへ消えた。
あたりは静まり返っている。
俺は息をのむ。
全身に得体の知れない寒気が、ぞわぞわと立ち上ってくる。
なにが起こっているのか分からない。

分かろうとすれば分かるだろう。
足を踏み出し、ゴミ入れを覗き込みさえすれば。
けれどその足が踏み出せない。
思考が、脳が、大脳だか間脳だかの蒼古的な部分が、行くことを拒んでいるみたいだ。


934 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:22:26 sgJKT7Op0
ただごとでないことだけは分かっていた。
俺の個人的でささやかな世界が
致命的な傷を負い、もう元の形に戻らないだろうことも。

ただ、血を見ても反射的に救急車という発想は浮かばなかった。
今、自分のするべき最善のことは、
ただ指示されたことを全うすることだと直感したのかもしれない。
頭に電流が走ったような軽い痛みの後、
俺は目覚めたように走り出した。
ゴミ入れから立ち上る生臭い匂いを鼻腔から振り払うように。

公園を出て、入り口の外にとめてあった自転車に飛び乗る。
大変なことになった。
大変なことになった。
力一杯ペダルをこぎ出しても、頭は混乱したままだった。

これは夢ですね?
夢なわけはない。
恐ろしいくらいリアルだ。
匂いも、音も、足に、太股に乳酸が溜まっていく感じも。
なにもかも。

今日一日の記憶を呼び覚ましてみる。
けれど、一分の隙もなく繋がっているのが分かる。
さっきまでネットで検索していたサイトのことも、
その前に食べたカップ麺のことも、
それを食べながら高校時代の友人と電話で話したことも、
鮮やかに思い出せる。

ということは、じゃあ……
そこで思考が断ち切られる。
いや、押しとどめているのか。
師匠に「綾」と本名で呼ばれた、歩くさんのマンションへ真っ直ぐに向かう。

途中、軽い下り坂があり、
スピードを維持したまま強引にGに逆らってカーブを曲がろうとした時、
前から来る通行人とぶつかりそうになった。

驚いた表情のその人をなんとかハンドル操作で避けたが、
バランスを崩して自転車から投げ出される。
一回転して尻を打ち、
思わず右手をアスファルトについてしまって皮が擦りむけた。
鋭い痛みに襲われる。
痛い。
すっごい痛い。
くっそう、と誰にとも知れない悪態が口をつく。
「危ねえな、こら」


935 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:26:16 sgJKT7Op0
茶髪の若い兄ちゃんが、髪の毛を乱れさせたまま近寄ってくる。
俺は飛び跳ねるように立ち上がると、
彼にすがりつく。
「今日のこと覚えてますか。
昨日のこと覚えてますか。自分で自分のことがわかりますか」
彼はすがりついてきた俺に一瞬身構えたが、すぐに動揺してその手を振りほどこうとする。
「バカじゃねーの。なんなのお前」

ドシンと俺の肩を両手で突き、踵を返すと早足で去っていった。
途中、何度か気持ち悪そうに振り返りながら。
残された俺は、擦りむいた右手と擦りむいていない左手を並べて観察する。
掌の傷の中に小さな石が埋まっているのを、なんとかほじくり出す。
痛い。
なんでこんなに痛いんだ。
泣きたくなるような、
寒気がするような、
耐えられない感じ。
とにかく動きだし、倒れている自転車を引き起こして跨る。

夜の道を走る。
ひたすら走る。
信号に引っ掛かり、トラックが通り過ぎて
次のヘッドライトが近づくまでのわずかな隙間を突っ切る。
遅れて鳴らされた
意味のないクラクションを背中に聞きながら、前へ前へとこぐ。

息が上がり、スピードが落ち始めたころに、ようやく歩くさんのマンションが見えてきた。
明々とした街灯の下を通り、
いつもとめている駐輪場に行く時間も惜しくて、道端にそのままスタンドを立てる。
立てる時、サドルを押さえる右手に痛みが走った。
顔をしかめながら玄関へ向かう。

入り口のセキュリティーはない。
中に入ってから、
部屋の明かりがついているか、外から確認した方が良かったことに気づいたが、
戻る時間も勿体ないので、そのまま階段を駆け上がる。
部屋番号を頭の中で繰り返しながら、
誰もいない通路を走る。
足音だけがやけに寒々しく響いている。


936 :すまきの話 ◆oJUBn2VTGE:2009/06/20(土) 23:27:43 sgJKT7Op0
向かう先をじっと見つめると、
目的の部屋から細い光の筋が伸びている。
ちょうど天井の蛍光灯が消えていて薄暗い一角だったから、
そのわずかに漏れ出る光を視認することが出来た。

いる。
中にいる。
関門を一つ越えた感じ。
でもたどりつくべき場所も、道の全貌もまったく見えない。
自分の世界が負った致命的な傷を、復元するための道が。
暗夜の中の行路が。
見えない。

叫びそうになる。
口を押さえる。
ドアを叩く。

ガンガンガン

ドアを叩く。

ガンガンガン

「いませんか」
焦っていると、チャイムなどというものはおもちゃにしか見えない。
早く出てくれ。
慌ただしく叩かれるドアの音というのは、誰だって嫌なものだから。

ガチャリ……
というカギが回る音に続いて、
キィ……
と微かに軋む音と共に、
ドアがゆっくりとこちらに開かれていく。
中からは、怯えたような表情の女性。

「助けて下さい」
顔を見るなり、そう言おうとして、息が止まる。
違うからだ。
言うべき言葉は、確か、

「これは夢ですね」
うっすらと冷え、張りつめたような空気が
室内から外へ流れ出てくる。

普段着のままの歩くさんは、首をかしげながら一歩下がる。
つられて俺も玄関口に入り込む。
歩くさんが手を離したドアが、
支えを失って俺の背後でバタンと閉じた。
歩くさんはもう一歩下がる。
靴を脱がなければ上がれないので、俺はその場で止まったままだ。
二人の間にある程度の距離が生まれる。
どうやらこれが、歩くさんのパーソナルスペースらしい。


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