師匠シリーズ    

246 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:12:00.11 ID:cMOGa5XM0
メモ帳にはキノコのようなものが小さく描かれ、それがゴチャゴチャした線で消されていた。
「これもだ」
何頁かメモを捲り、またぐいと開かれる。
オカッパのような髪型の誰かの顔が描かれているが、失敗したのか途中で線が途切れている。
「そしてこれ」
ドキリとした。
別の頁に、さっきとはまるで違う筆致で頭のようなものが描かれている。オカッパ頭が。
顔は描かれていない。頭の外殻だけの絵。

「お……女の子」
「そうだ」
師匠はニヤリと笑う。
僕は思わずメモ帳を受け取り、さっきのキノコのようなものの絵を見る。

髪だ。あらためて確認すると、キノコではなく明らかに髪の毛として描かれていた。
ドキドキしながら頁を捲っていくと、他にもそのオカッパのような髪型がいくつか現れた。





247 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:12:34.50 ID:cMOGa5XM0
偶然。
にしては多すぎる頻度だ。
電話ボックスに入った不特定多数の通行人が無意識に握ったペン。
それが描くものがたまたま同じであるという蓋然性は?
そしてそれが偶然ではないのだとすると、そこに描かれたものは一体……
生唾を呑んで僕は師匠を見る。

しかし彼女はへら、と笑うとメモ帳を摘むようにして取り上げた。
「だいたい分かったし、もういいや」
そうしてメモ帳をデスクの引き出しに放り込み、また雑誌を手に取った。
読みかけた場所から頁を追い始める。
さっきまで興奮気味だったのに、すっかり興味を失っているようだ。

この熱しやすく冷めやすいところが師匠の特徴の一つだった。
そんなやりとりの間にも事務所の中には服部さんが叩くキーボードの音が静かに響いていて、
僕はふいにここがどこであるのかを思い出す。



248 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:13:07.60 ID:cMOGa5XM0
「何時からでしたっけ」
僕が言うと、師匠は雑誌から目を逸らさずに壁を指さした。
そこにはホワイトボードが掛かっていて、
『所長』と『中岡』の欄に『十三時半、依頼人』という文字がマジックで走り書きされている。
もう少しでその時間だ。
「あれ、そう言えば所長は?」
「あれだよ。下のボストンで待ち合わせ」

ああ、そうか。思い出した。
今度の依頼人は若い女性で、こんな妖しげな雑居ビルにある
興信所などという場所に、いきなり足を踏み入れるのを躊躇したのだ。
気持ちは分かる。
それで、まずビルの一階にある喫茶店『ボストン』で所長と待ち合わせをしていたのだった。
そこで少しやりとりをして、多少なりと安心してもらってから
事務所まで招き入れる、という算段だろう。



249 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:13:43.57 ID:cMOGa5XM0
この零細興信所の所長である小川さんは、服の着こなしからして随分くだけた大人なのだが、
人あたりは良く、初対面の依頼人の緊張をほぐすようなキャラクターをしていた。
「あ、やべ。お茶切れてたんじゃないか」
師匠はふいに立ち上がって台所の方へ小走りに向かった。
そしてガタゴトという音。
引き出しをかき回しているらしい。

傍若無人な振る舞いをしている師匠だったが、
何故かこの事務所ではコーヒーやお茶などを出す係を当然のように引き受けている。
女だから、などという固定観念で動く人ではないはずなので、意外な一面というところだろうか。
台所をひっくり返すような騒々しさに苦笑していると、
服部さんがキーを叩く手を止め、
ぼそりと呟いた。

「彼女は、この仕事に向いてない」
服部さんから僕らに話しかけて来ること自体まれなので、
この部屋に他に誰かいるのかと一瞬キョロキョロしそうになったが、
どうやらやはり僕に聞えるように言ったらしい。



250 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:14:18.89 ID:cMOGa5XM0
「探偵には」
そう補足してから、服部さんはまたキーを一定のリズムで叩き始める。

自分の師匠が馬鹿にされたというのに、僕は何故か腹が立たなかった。
ただ服部さんがどうして今さらそんなことを口にするのか、
そのことを奇妙に思っただけだった。

「でも、服部さんだって一緒に仕事したことあるでしょう。僕はあの人、凄いと思いますけど」
一応反論してみる。
確かに師匠はオカルト絡みの依頼専門なので、
どうしても本来の興信所の業務とは異なる手法を取ることが多いが、
その端々で見せる発想や推理力の冴えは、
探偵としても凡庸ではないと十分に思わせるものだったはずだ。
そんな僕の説明を聞き流していたように見えた服部さんだったが、またピタリと手を止め、
眼鏡の位置を直しながら淡々とした口調で言った。

「名探偵に向いている仕事なんて、何一つない」
「え」



251 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:15:30.22 ID:cMOGa5XM0
それってどういう意味ですか、と訊こうとした時、
「あったー」という声がして、
ふにゃふにゃになったインスタント緑茶の袋を手に台所から師匠が顔を出した。
「間に合った?間に合った?セーフ?」
師匠が入り口のドアを見てそう繰り返す。
階段を上ってくる足音が聞こえる。

師匠と、そしてそのオマケの僕が呼ばれた依頼。
つまり、不可解で、普通の人間には解決できない不気味な出来事が、
これからドアを開けてやってくるのだ。


関連記事
【師匠シリーズ】 保育園 前編 1
【師匠シリーズ】 保育園 前編 2
【師匠シリーズ】 保育園 前編 3
【師匠シリーズ】 保育園 前編 4
【師匠シリーズ】 保育園 前編 5