師匠シリーズ


862 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:17.00 ID:/4sM9Swo0
大学四回生の冬だった。
そのころの俺は、卒業に要する単位が全く足りないために早々と留年が決まっており、
就職活動もひと段落してまったりしている同級生たちと同じように、悠々とした日々を送っていた。
とは言っても、それは外面上のことであり、
実際はぼんやりとした将来への不安のために、真綿でじわじわ締め付けられるような日々でもあった。
親しい仲間と気の早い卒業旅行を終え、あとは卒論を頑張るだけだ、と言って
分かれていく彼らを見送った後、俺の心にはぽっかりと穴のようなものが空いていた。

変化しないことへの焦燥と苛立ち。
そしてその旅の途中で知ることになった、かつて好きだった人に子どもが出来ていたという事実に対する、
なんだか自分でも説明し難い感情。
そのころの俺をはたから見ていれば、「無気力」という言葉がぴったりくる状態だっただろう。
しかし、この身体の中にはさまざまな葛藤や思いが渦を巻き、
それが外へ噴き出すこともなく、ただひたすら体内で循環しつつ
二酸化炭素濃度を増しているのだった。
『デートしよう』
というメールを見ても、その無気力状態からは脱せず、
やれやれという感じで敷きっぱなしの座布団から腰を上げた、というのが実際のところだった。

指定されたカレー屋に向かうと、メールの送り主がめずらしく先に来ていて、
奥まった席に一人でちょこんと座っていた。
その少女は黒で固めたゴシックな服装をしている。今日はなにやら頭に黒い飾りもつけているようだ。
店内の不特定多数の視線がそわそわと彼女に向いているのが雰囲気で分かる。
格好の珍しさだけではなく、それが良く似合っていて可愛らしい風貌をしていることが原因だろう。
そんな子が一人で座っているのだから、仕方のないことだった。
そういう視線が集まっているところへ、
こんな冬の間ずっと着ていてヨレヨレになっているジャケットの眼鏡男が無精ヒゲを生やして、
のっそりと歩いて行くのはさすがに気が引ける思いがした。

「おっす」
黒い子がこちらを見て軽く手を挙げた。相変わらず軽い感じだ。
彼女の『デートしよう』というのは、『こんにちわ』と訳せるのを知っている俺は、
「うす」とだけ言って向かいに腰掛けた。
一瞬背中に集まった視線が、また徐々に霧散していくのを感じながら、「今日はなんだ」と訊いた。





863 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:18.00 ID:/4sM9Swo0
その子は音響というハンドルネームで、ネット上のオカルト関係のフォーラムに出入りしている変な子だった。
かく言う俺も、かつてその手の場所には良く出入りしていたが、
もう興味も気力も絶えて久しく、ほとんど足を踏み入れなくなっていた。

「瑠璃ちゃんが帰ったよ」
音響がカレーの注文を終えてから口を開いた。
「帰ったって、ニューヨークへか」
「うん」
そうか。あの子はもうこの街からいなくなったのか。
俺は音響と双子の姉妹のような格好をしていた少女のことを思い出す。

あの不思議な瞳をした少女は一年半前にふいにこの街にやって来て、
それを待ち構えていた恐ろしい災厄を、はからずも自ら招き寄せたのだった。
それも様々なものを巻き込んで。
その時のことを思い出して、ゾッと鳥肌が立つ。
この街にじっと潜んでいた、見えざる悪意のことをだ。
今でも現実感がない。
それと関わったがために去って行った人たち。そして死んでいった人たち。
頭の中で指折り数えても、どこか夢の中の出来事のようだ。
確かに人となりは浮かぶ。伝え聞いたとおりに。そして会ったことがある人は、その顔も。
しかし、どれもまるでぶ厚いガラスの向こう側にある景色のようだ。

怪物の生まれた夜に集った人たちはもう全員いなくなってしまった。
それだけではない。ヤクザも。通り魔も。あの吸血鬼でさえ。
一人、一人と、順番に。
時に、まったく無関係であるかのように、ひっそりと。
だが、確実にその見えざる悪意は、敵対したすべての存在をこの街から消していった。
その誰もが俺なんかよりずっと凄い人たちだった。なのに。
なのにだ。

思わず怖気(おぞけ)で身体が震える。
そんな恐ろしい相手から、最後の標的である瑠璃という名前のその少女を、
俺と音響の二人だけで死守する羽目になったのだ。
今にして思っても考えられない事態だ。
頼みの綱である俺の師匠さえ、その時点ですでに使い物にならない状態だったのだから。
じっとりと手のひらが汗ばんでいる。思い出すだけでこれだ。

「卒業って、どうなったの」
音響がスプーンを置いて突然そう訊いて来た。
急に現実に引き戻される。
そう。どこにでもいる、留年組の大学生の自分に。



864 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:19.00 ID:/4sM9Swo0
「あと二年はかかるな」と答えると、「ダッサ」と言われた。
お返しに「お前はどうなんだ」と訊いた。
「今年受験だろ。こんなところで油売ってる暇があるのか」
「いいの。余裕だから」
「どこ受けるんだ」
「師匠んとこの大学」
「師匠って言うな」
この小娘は、このところ嫌がらせで俺のことを師匠と呼ぶのだ。
もちろん全部知った上でのことなので、始末に悪い。
明らかにニュアンス的に尊敬の成分はゼロだ。俺がそう呼んでいた時以上に酷い。

「ていうか、うちの大学が余裕かよ。腐っても国立だぞ」
それにそんなに余裕ならもっと上の大学を受ければいいじゃないか。
そう言おうとしたら、先回りされた。
「お母さんが、地元にしなさいって」
あっそ。

地元民の国立大生の女は学力的にワンランク上の法則ってやつか。
アホそうな見た目に忘れてしまいそうになるが、こいつは帰国子女で英語ペラペラだったな。
住んだことのある国の言語を読み書きできるという、ただそれだけで、
点数配分の多い課目で大きなアドバンテージになるというのは、ずるい気がする。

「そう言えば、あの角南さんは卒業?」
「ああ」
不貞腐れて頷く。
普通の大学生は四年経ったら卒業するの!
そう言って、きつめのスパイスに痛めつけられた喉に水を流し込む。

「で、用件はなんだ。このあとデートでもしようってか」
この小娘に呼び出される時は、その九割が妙なことに首を突っ込んだ挙句の尻拭いのお願いだった。
「それなんだけどね」
音響はそう言って平らげたカレーの皿をテーブルの隅に押しやる。
そして黒いふわふわしたバッグから一冊の本を取り出して目の前に置いた。
やはり残りの一割ではないらしい。
しかし出されたその本を見て、おや、と思った。見覚えがあるのだ。



866 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:21.00 ID:/4sM9Swo0
「『ソレマンの空間艇』じゃないか」
子どものころに読んだジュブナイルのSF小説だ。
タイトルが印象的だったから覚えていたが、内容はすぐには浮かんでこなかった。
日本人の子どもが宇宙船に乗り込んで大冒険をする話だったような……
「へえ、そうなんだ」
なんとか思い出そうとしている俺を、全く興味なさげに音響は切って捨てた。
「自分で持って来たんだろ」
ムカッとしたのでそう言い返すと、音響は不思議なことを口にした。
「この本の内容のことなんだけど、この本のことじゃないの」
一瞬、うん?と目を上の方にやってしまった。
なにか禅問答のような言葉だ。
「私の友だちから相談を受けたんだ。その子の弟のことで」
音響はそうしてその禅問答の説明を始めた。





そのクラスメイトの女子生徒には小学生の弟がいた。
それがなんだか最近弟の様子が変だったのだそうだ。よそよそしかったり、話しかけると怒ったり。
単に反抗期だと思っていたが、
ある日弟の部屋に入ろうとすると、急になにかを隠して「出てってよ」と怒った。
背中に隠したのは本のようだった。
どこからかいやらしい本を手に入れて見ていたのだろう。
なるほどそういうことか、と思ってその時はそれ以上深く詮索しないであげた。
ところが、その数日後、夜中にふと目が覚めてしまった彼女は自分の部屋から出てトイレに行った。
その途中、弟の部屋の前を通ったのだが、ドアが少し開いていた。
いつもなら閉めてやりもせず、そのまま通り過ぎるところだが、
中からなにかの気配を感じて彼女は立ち止まった。

弟が起きているのだろうか。
そう思ったが、電気は消えている。部屋は真っ暗だ。
そっとドアに近づき、隙間から中を伺おうとする。
しかし、廊下側の明かりのせいで自分がドアの前に立つと、
中からはきっと人が来たことが分かってしまうだろう。
そう思い、ドアのすぐ横に身体を貼り付けるようにして聞き耳を立てたのだった。



867 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:22.00 ID:/4sM9Swo0
その時、彼女の耳は奇妙な音を拾い上げた。

シャリ……
シャリ……

聞き馴染みのある音。
けれど今この状況では聞えるはずのない音。
彼女は妙な悪寒に襲われた。

シャリ……
シャリ……

紙の捲れる音。
紙の表面が指と擦れ合う音。

シャリ……
シャリ……

――――本を読んでいる時の音だった。
部屋の中は真っ暗なのに?

彼女は背筋を走る痺れに身を震わせる。
弟が布団を被ってその中で懐中電灯をつけているわけでもない。
光も全く漏れないように布団を被っているなら、そんな繊細な音も部屋の外へ漏れ出ては来ないだろう。
弟は、暗闇の中で本を読んでいるのだ。
心臓がドキドキしている。
彼女は思い出していた。弟の通う小学校で密かに語られている噂話のことを。
『夜の書』と呼ばれる本のことだ。学校の七不思議の一つだった。

図書館に一冊の本がある。
それは昼間にはただの普通の本なのだが、
夜みんなが寝静まってから一人で部屋を暗くしてページを捲ると、まったく違う本になるのだ。
真っ暗で何も見えなくてもその本は読めるのである。
その本の中には、とても恐ろしくて、そしてゾクゾクするほど楽しい遊びの仕方が書いてある。



868 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:23.00 ID:/4sM9Swo0
最後まで読むと、信じられないようなことが起こるらしい。その先は色々な噂があってはっきりしない。
悪魔が出てくるとか、死神が出てくるとかいう話もあれば、
本の言う通りのことをすると、窓の外にUFOが現れる、という話もあった。
未来や過去の世界に行った子どもの噂も聞いたことがある。
いかにも子どもっぽい噂話だ。

けれど彼女自身その小学校の卒業生だった。
そしてその本を読んでしまったせいで頭が変になり、
二階の教室の窓から飛び出して大怪我をした同級生が実際にいたのだ。
もっともその本を読んだせいだということ自体がただの噂話と言えば噂話だ。
しかし先生たちがそんな流言飛語を封じ込めようとすればするほど、みんなその噂を信じた。
結局その同級生が持っていた『夜の書』は大人に焼かれてしまった。

けれど、もとからそんな本はないのだ。
焼かれても別の本が暗闇の中でしか読めない『夜の書』になり、
また誰かの手に取られるのを図書館の隅でじっと待っている……

彼女はドキドキしている胸を押さえ、ドアの横で必死に息を整えた。
そうして「なにしてるの」と言いながら、ドアを開けた。




店員がコップの水を入れに来たので、音響がそこで話を止めた。
俺はテーブルに置かれた『ソレマンの空間艇』をまじまじと見つめる。
「で、そのお前の同級生の弟くんは、真っ暗な部屋でこれを読んでたってわけか」
「そう」
「どんな様子だったんだ」
「明かりをつけたら目が血走ってて、なんか訳の分かんないことを言ってたらしいよ。
とにかく取り上げたら落ち着いたらしいけど」
「ふうん」
俺はテーブルの上の本に手を伸ばした。手に取ってパラパラと捲る。

かなり古い本なのか、表紙や小口は色が褪せてしまっているが、あまり読まれてはいないようだ。
中はわりに綺麗だった。
音響が少し驚いた顔で俺を見ている。
それに気づいて「なに」と訊くと、「ホントの話なんだけど」と言う。
「別に嘘だなんて言ってないぞ」



870 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:25.00 ID:/4sM9Swo0
だいたい、どんな信じ難い話でもそれなりに耐性はついている。
それに音響が持ってくるやっかいごとは、これまですべて実体を伴っていた。
それが良いことなのかどうかは置いておくとしても。

「よくそんなあっさり触れるね」
呆れたように言われてようやく、ああ、そういうことか、と気づく。
普通の人の感覚ならば、そんな話を聞かされた後では気持ちが悪くて触れないのだろう。
いくら昼間は普通の本だと聞かされていてもだ。
オカルトにどっぷりと浸かっていた日々が、意識しなくとも
この善良な小市民たる俺の脳みそをやはり非常識側にシフトしてしまっているということか。
しかしこいつに言われると何故かショックだ。
「それで、どうしたいんだ」
本を置き、表紙をトントンと指先で叩く。
「どうせ、その話聞かされて、なんとかするからって安請け合いしたんだろ」

『夜の書』というやつはある意味、夜の闇の中でしか実体がない存在だ。
今のこの『ソレマンの空間艇』にしたところで仮の宿主に過ぎず、
燃やすなり破り捨てるなりしたって、図書館の別の本に寄生し直すだけということだろう。
少なくとも噂の構造がそうなっている。
「その話を聞かされて、なんとかするからって言っちゃったの」
あ、そう。
「で?」
「なんとかして」
「自分ですれば」
「お願い師匠」
わざとらしいお願いポーズを無視して、もう一度俺は本のページを開く。
「真っ暗なのに読めるって、どういう現象なんだ」
音響に向かって、「お前、読んだか」と訊く。
すると両手の指を胸の前で組んだまま、首を左右に振った。
「だって怖いの」
「嘘つけ」
「だって受験生だから」
「受験生だから?」
俺がそう問い返すと、音響は口の端だけで笑った。
「……面白かったら、やばいじゃん」
こいつも筋金入りだ。
あらためてそう思う。


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