かつて日本国内の新潟の施設が、韓国政府により爆破テロのターゲットにされたことをご存知だろうか。
1959年、12月4日。
幸いにも計画は露呈し、ターゲットの暗殺及び新潟日赤センターの爆破は阻止された。

「新潟日赤センター爆破未遂事件」と称されるこの事件は、韓国領事館の人間が密入国した韓国工作員と結託して計画したテロ事件であるが、日本国内でのメディア報道はあまり多くない。

政治的な要素も多く絡んでいるため、事件の詳細を理解するためにはやや時代背景を振りかえる必要があるが、非常に興味深い事件でもある。



【朝鮮戦争】
・意外に思われるかもしれないが、朝鮮における日本国という立場を理解しやすくするためにここで朝鮮戦争の内容に触れておく。

第二時世界大戦後、米国を中心とする西側諸国(資本・民主主義)とソビエト連邦(現ロシア)を中心とする東側諸国(社会・共産主義)との対立構造が生まれた。
冷たい戦争(冷戦)はその後も長く続き、ソビエト連邦が崩壊するまで続いたがここでは割愛する。

1945年の日本の降伏とともに、朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作氏は治安維持のために、朝鮮人への行政権の速やかな委譲を決定、朝鮮独立運動家の呂運亨に接触を図った。
呂運亨は即座に安在鴻らとともに朝鮮建国準備委員会を結成し、朝鮮人民共和国の建国を宣言
その混乱に乗じ、半島にソ連が軍事侵攻。
慌てた朝鮮総督府は米国に朝鮮半島の統治を委譲し朝鮮人民共和国の後ろ盾を得ようとした。

しかし独立の方針を巡り右派(民族主義)と左派(共産主義)が対立し混乱。
当時は中国国内で活動していた「大韓民国臨時政府」党も「朝鮮の正当な政府」であると強く主張し表舞台に躍り出た。
それぞれが米国、ソ連・中国などの後ろ盾を得る事により、さらに対立は深まってゆく。

⁂後述するが、大韓民国臨時政府の初代党首は李承晩である。

実は、朝鮮半島の38度における南北の分割占領状態は、当初は一時的なものと考えられていた節がある。
だが米ソ対立(冷戦)は激化の一途をたどり、半島の分断地域も互いに「統一」を叫びながらも関係は悪化する。

1948年、大韓民国(韓国)設立。
しかし、わずか2年後の1950年には中国とソビエト連邦の協力を得、金日成率いる朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)が国境線の38度線を超えて南下侵略朝鮮戦争が勃発した。
開戦にあたり韓国軍は逃走米国(国連)軍に助けを求めたために更に状況は混乱を極めることになる。

ややこしい上に複雑な背景が入り乱れる。
朝鮮戦争勃発が6月25日
連合国軍最高司令官であったダグラス・マッカーサー氏が韓国に降りたったのが同月29日
当時は日本国内も混乱の最中であったため、マッカーサー氏はその日の内に東京へ帰り、その後も韓国と日本との間のとんぼ返りを繰り返さざるを得ない状況下となる。

「朝鮮戦争」の画像検索結果

やがて韓国内で複数の自国民大虐殺事件が繰り返され始めた。
北朝鮮軍には中国からの軍事的協力もあり、国連軍には疲弊の色が目立ち始めた。
(この時ソビエト連邦は公式には静観の立場であったが、実際には不明)

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朝鮮戦争時における国境線の推移。
赤が北朝鮮領、青は韓国領。

北朝鮮の背後に中国の影がはっきりと見え始めた頃、敗色に焦ったのかマッカーサー氏は「中華人民共和国を叩きのめす」と発言
このままでは第三次世界大戦の怖れありとして、当時のトルーマン大統領はマッカーサー氏を解任した。

その後、1951年にソ連の国連大使が休戦協定の締結を提案。
しかし、交渉は難航する。
ようやく休戦協定は結ばれたのは1953年。米国・ソ連とも最高指導者が交代した後であった。

休戦協定に調印したのは国際連合軍司令部総司令官と中国人民志願軍司令官と、金日成司令官。
しかし、当時の韓国の大統領李承晩は停戦協定を不服として参加しなかった


【日本へのテロ事件の背景】

・前述したように李承晩大統領は停戦協定には反対だったが、実質的には1951年の協定提案から極地的な戦闘はあったものの、ほぼ休戦状態となったと言える。

だが、信じ難いことに休戦協議中の1952年に李承晩大統領は一方的に李承晩ラインを宣言
日本国領土である竹島を不法占拠し、対馬に侵攻漁師等数千人を人質として「対馬返還」を要求し始めた。
当然、対馬も竹島も国連承認の日本国領土である。

「李承晩 韓国」の画像検索結果
⁂マッカーサーライン
軍事的混乱の最中に日本漁船の活動可能海の保証領域として暫定的に定められたもの。
国際法的には何ら意味がなく、後のサンフランシスコ講和条約にて破棄された。
またこの図では省略されているが、実際には対馬・竹島周辺海域はともに軍事的必要性から連合軍指揮下の特例海域扱いだった。

「 李承晩」の画像検索結果

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国連軍の力が弱まっていた時期をついた不意打ちだったが、そもそも国連が疲弊した原因と韓国は無関係ではない。
理解しにくい部分ではあるが、どうやら李承晩は「国連軍に守られる立場である」ことを最大限に利用しようとしたのではないかと思われる。
(あくまで1説ではあるが、李承晩は中国に取り入るつもりだったのではないかという説もある)
日本人の殺害事件も(第一大邦丸事件)発生し、人質の命を盾に「敗戦国」日本に大きく難問を突き付け始めた。

休戦協定の締結は翌年の1953年であり、国連の機能が正常化する前に武力・実力行使で領土を盗んだ形になるが、朝鮮戦争中にも虚偽の報告が相次ぐなど情報が錯綜しており、国連の混乱に乗じてうやむやとした印象が強い。

当時の韓国は国土や経済が荒廃しきっており、国内においても政府軍が共産主義の可能性ありとした自国民を次々と虐殺してゆくなど(保導連盟事件・居昌事件)人道的にもかなり荒んた状態であった。
当時の世界情勢からみても、最貧国の1つだったといえる。

・一方、北朝鮮は共産諸国からの支援を受けそれなりに復興を遂げつつあった
日本国内の在日朝鮮人のための在日朝鮮学校への支援を行うなど、積極的に国としての存在アピールを行った。

⁂朝鮮連盟の前身は「在日本朝鮮人連盟」であるが、日本国内の裁判所・検察庁などへの襲撃など大規模な武力闘争を繰りかえしたために解散を命じられている。


ここで太平洋戦争後の在日朝鮮人の流れをざっと記載する。
1945~1952年
 マッカーサー氏の指令により、密入国者・犯罪者の在日朝鮮人らが韓国へ強制送還
       大村収容所だけで3600人を超したという。
 在日朝鮮人のうち、帰還志願者は140万人。志願者は日本政府が手配して帰還させた

1952年
 サンフランシスコ講和条約により、日本国主権が回復する。
       以後、韓国政府は在日朝鮮人の引き取りを拒否
1955年
 北朝鮮側が日本国内の朝鮮連盟と緊密にコンタクトを取り始める。
1956年
 北朝鮮の金日成主席は在日朝鮮人学生を衣食住・学費の全てを無償で北朝鮮へ受け入れると発表。
      「地上の楽園」と称して在日朝鮮人の帰国を呼びかける。
      朝鮮総連も帰国促進運動を開始
1959年
 石橋内閣の閣議了解
      「在日朝鮮人の北朝鮮帰還問題は基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」
1959年8月
 韓国の李承晩大統領が、予定されていた日韓会談をキャンセル。理由は以下。
             「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」
同月 
 インドのカルカッタで日朝赤十字社間で帰還協定が締結される。
     この事態を受けて韓国政府の指示より在日本大韓民国居留民団北送反対闘争委員会を結成
同月25日
 在日本大韓民国居留民団員らが日本赤十字本社を襲撃
1959年 12月
 「新潟日赤センター爆破未遂事件」発生。

時系列には前後するが、未遂事件の10日後の12月14日には、北朝鮮への帰国船の第一陣が出航している。北朝鮮へ「帰国」する人々の中には韓国政府による虐殺事件済州島四・三事件、麗水・順天事件等)を逃れ、密かに日本へ密入国した韓国人も含まれていた。


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