【閲覧注意】

ここで軽く印旛沼事件に触れておく。
連合赤軍の発足は1971年の7月だが、実際には12月まで革命左派・赤軍派と分離したまま情報交換のみを行っていた。
事件が起きたのは革命左派の山岳ベースであり、建前としては思想は比較的自由であり、また進学希望や親族に会いに行くなど、当初は下山は自由のはずだった。
(ベースはあくまで警察の追及を逃れるための拠点にすぎなかったため)

しかし向山茂徳早岐やす子の2名はは下山が許されず、やむなく脱走
後に捕まり殺害され千葉県印旛沼周辺に埋められた2人は、ともに情報漏洩の恐れありと判断されたため、処刑対象となった。
(実際には向山は大学進学、早岐は恋人に会いたいという下山理由)

この2人の処刑を提案したのが赤軍派の森恒夫であり、この件は革命左派の中でも一部以外には伏せられていた。
しかし森は本当に殺害するとは思っておらず、処刑を知って驚愕・震撼「あいつらは革命家じゃない!」と叫んだという。


【崩壊する組織】
1971年 8月 印旛沼事件の発生
・早岐殺害時に関わった小嶋和子の精神が不安定になり、衝動的に脱走を繰り返す。

9月
・印旛沼事件実行犯の1人が脱走しようとして失敗。
「殺されちゃうんだぞ」と吉野雅邦が泣きながら詰め寄り、既に不穏な空気が流れ始めていた。

9月11日
・元赤軍派の坂東國男と植垣康博が福島県の交番をナイフで武装し襲撃するが失敗。(失敗の原因は、たまたま交番が無人だったため)

森は印旛沼事件から革命左派に内心恐れを抱いていた。そのため、箔をつけて優位に立とうと必死だったらしい。
交番襲撃失敗に関し、ナイフではなく銃でしっかり攻撃しろと2人に強く指示
この心理は後の残虐性に繋がってゆく。

10月
・森、永田洋子、坂口弘、寺岡恒一(後に森により死刑宣告)の4人で会議が開かれ、合同軍事訓練を赤軍派拠点の新倉ベースで行う事が決定。

12月2日
・山梨県新倉ベースに向かう山道に元革命左派が集結するも、各自水筒を持参せず。

12月3日
・新倉ベースにて「連合赤軍」が初めて合流。水筒問題を利用して森は優位側に立つ事に成功。

12月4日
・森が元革命左派所有の銃の譲渡を要求
永田は要請を保留しつつ、元赤軍派の遠山美枝子が指輪をしたままでいることを「革命的警戒心が足りない」として批判対象に挙げた。

⁂前日の水筒問題で、リーダーである永田らが自己批判を行わせられた報復との指摘あり。
遠山は美人であったため永田に目をつけられ、陰惨な最後を遂げる。彼女の遺体は顔が潰されていた。

12月5日
・遠山が指輪を外さないことに永田が激怒。しかし元赤軍派には理由がわからず、怒った永田は「このままではとても一緒にやっていけない」ふて寝

12月6日
・元赤軍派メンバーで遠山問題について議論。
何が悪いのかと首をひねる面々に、森は革命左派は脱走者を殺害すると告知。ここで初めてメンバー達は「下山=死」であることを知った。

同日、森は永田に遠山批判は至極当然のことと報告。彼女が総括終了しないうちは下山させないこと、他の者も下山したら殺害すると伝えた。
対して永田は「必ず」「なるべく早く総括」し「総括できるまで山から降ろさない」と強く要求。

その日のうちに遠山は総括(全員からの批判)を受ける。その直後、行方正時と進藤隆三郎(森と折り合い悪し)の総括も行われた。

12月7日
・合同訓練最終日。
全員が訓練の感想を述べ、団結に涙を流して感動・感激する者もいたが、理解できずに戸惑う者も少なからず。統一性全く無し
元革命左派メンバーは新倉ベースを去り、別の山岳ベースに移動。

⁂この後も遠山・進藤・行方の批判・総括は連日続く
森は3人に雪の降る屋外での射撃訓練を命じていたが、実際には訓練でも何でもなく、ただ発射の構えをひたすら長時間繰り返させるだけの意味のないものだった。

12月10~12日
・元革命左派が本来の拠点である群馬県の榛名の山榛名ベースに帰還。
後に元赤軍派が合流し、惨劇の場所の1つとなる。

12月20日
・森と坂東が指導部会議のために榛名ベースに到着。
留守中も総括対象の3人に監視をつけ、訓練を続行

この日には様々な論議が芽吹く。
森は小嶋和子の発言を問題視し、擁護する永田と寺岡恒一と対立
また妊娠中にも関わらずキャンプに参加した金子みちよを絶賛する一方で、尾崎充男の行動が「軍人らしくない」と批判
永田は強くこれに反発、尾崎を擁護するとともに同志であるはずの金子には問題があると主張。
議論は夜を徹し、最終的には森が中国の革命戦争史を共産主義に絡めた理論演説で永田を説き伏せた形となる。森の毛沢東思想への強い執着に感動した永田は、その後は彼に心酔し無条件で従う。

⁂この頃に革命左派内で都市部と山岳部で対立が悪化
世論の動きを肌で感じていた都市部と柴野の一周忌を巡って衝突した永田らは荒れていた。

12月21日
・連合赤軍としての結束を固めるために元赤軍派の坂東と元革命左派の伊藤和子の結婚が決定
永田は伊藤に他に好きな人がいる事を知りつつ、説得という名の命令を下す。
小嶋が印旛沼での殺害が「良い」結果をもたらしたと口を滑らせ、森の不評を買う。

この日、山本順一と保子夫妻が生後1ヶ月の乳児を連れてキャンプに合流
しかし理想と現実のギャップは大きすぎ、離脱は不可能となった。

12月22日
加藤能敬小嶋が革命左派の歌のリードを取っていたところ、森が批判を始め、空気を察した寺岡が歌うのをやめさせる珍事が発生。夜、森は各自に自己批判を要求。

12月24日
・森が指導部会議にて革命左派の最高指導者である川島豪を批判
川島と森は意見が合わず、川島の立場の方が上だったため渋々森が従った因縁がある
更に深夜、被指導部の人間が再び能敬のリードで歌を歌っている事が気に食わず、寺岡に命じて歌をやめさせた。永田が能敬と小嶋の2人に討論による総括を提案、以降2人は作業から外される

12月25日
・再び森の川島批判が続く。
大きく影響を受けた永田に対し、坂口にはその批判内容は荒唐無稽に感じられた。

更に森は能敬と小嶋の態度が「総括する態度ではない」として正座させ、2人を呼び捨てにする。(以後、他のメンバーもこれに倣う)
「総括に集中させるため」、2人に食事を与えることを禁止

12月26日 
・能敬と小嶋のキス現場を永田が目撃。「神聖な場を汚した」として強く激怒・批判
加藤が沈黙すると他にも隠していることがあるはずと永田は感じ、森にどうするか詰寄り、森は「殴るか」と返答。

森は以前に剣道の試合で負けて気絶した事があり、覚醒時には新鮮な気持ちで全てを受け入れることができたと語り気絶するまで能敬を殴る事を提案。

坂口は残酷と思いつつ、気絶すれは終わると考え賛同。
就寝していた他のメンバーも起こされ、全員が加藤と小嶋のリンチに加わる事が義務付けられた。
加藤の弟である倫教と元久はためらったが逃げ場はなく、倫教は泣きながら兄を殴る

厳しい追及と暴行に、やがて能敬は小嶋と性的関係にあると答え、永田はさらに激怒
暴行を受けていた小嶋がトイレを訴えると、その場で排泄させた。

キャンプ内での性的関係はその時によって善悪が変化する。
永田本人は妊娠不可能の体であり、森と性的関係を結ぶ前は坂口とも関係があった。
恋愛沙汰は永田にとってかなり複雑なものであり、気分次第で追及・放置が繰り返されている。
(本人は「恋愛はブルジョワ的」なもので「戦士には必要ない」境地に至ったと後に証言)

ブルジョワ・・・ここでは資本主義の金持ちを指す。⇔プロレタリア(労働者)階級

12月27日
・能敬は一晩中殴られたが気絶せず。腹を立てた永田は極寒の屋外の木に縛り付けて放置を指示。
森は気絶しなかったのは「総括できていないから」であり、木への束縛は「集中させるため」と説明。
この後さらに数人の批判が行われ、殴るのをためらった、或いは途中でやめた者も批判対象となった。

この日、決定的な判断が下される。
元赤軍派は覚悟が足りないとされ、新倉ベースから榛名ベースへの全員移動が決定。
被害者らの運命が決まった。

12月28日
・縛られた小嶋がガラス戸を見ていたところ、森は彼女が逃亡を企てていると騒ぎたて、永田に何故見抜けないのかと批判(抗議)
永田が指導部メンバーと協議し始めると、今度は嫉妬「指導者として正しくない」と批判
その後永田は指導部メンバーとの会話を避けるようになり、コミュニケーション分裂に拍車がかかった。

夜。尾崎充男が正座させられる。森は彼が「日和見主義」「敗北主義」だと追求。

12月29日
・森の指示で尾崎の主義克服のため警官役をさせ、坂口との決闘が開催される。
実際には一方的な殴り合いでしかなかったが、この決闘で森と尾崎が和解すると、今度は永田が嫉妬で苛立ち尾崎批判を始めた。
決闘中に妊婦である金子が席を立った事を指摘(批判)し、決闘後に尾崎がティッシュを取ってくれと頼んだ事を「甘え」と批判。総括する態度ではないとして、さらに殴る事を提案
その後は直立不動を命じ、食事なし、トイレも禁じる。
殴られる尾崎に「頑張れ」とエールを送った加藤能敬は、今度は森に褒められている。

リンチを「暴力的総括援助」と言い換えた彼らは、肉体の限界状況下の態度で初めて真価が問われると考え始めていた。閉ざされた世界で、急速に彼らの思考は麻痺してゆく。

大槻節子は美容室で髪を切ったため批判対象者となった。
杉崎ミサ子は「革命戦士として自立するため」内縁の夫・寺岡と離婚すると表明。永田と森は多いに評価したが、肝心の寺岡本人は不在のまま。
様子をみていた金子みちよもまた吉野との離婚を持ち出したが、永田は許可しなかった。

12月30日
・一晩中立たせられていた尾崎が弱音を吐いた事に怒り、森はさらに殴打し立ったまま縛り付けた
ところが尾崎の腕に長時間縛られた事による水疱が現れると、森はひどく動揺する。
山田孝に相談し、結局は「腕の1本や2本なくなっても革命戦士になったほうがよい」と判断。
尾崎の刑はそのまま続行となる。

また、森は加藤能敬・小嶋・尾崎ら3人に食事は与えず、今後の総括態度により様子を見て決めるという「決定報告」を宣言。さすがに永田は驚くが無条件で従った。

また、警察に収監されていた中村愛子がベースに帰還。
空腹に耐えかねて刑事が出した食事を食べた事を自己批判するが、永田は総括者の見張りを命じただけで追求せず。能敬の弟の倫教は兄との待遇の違いに不満を持つが口には出さなかった。

⁂印旛沼事件の被害者・早岐は親族の刑事と食を共にしたことが殺害原因の1つ。

12月31日(大晦日)
1人目の被害者・尾崎の死亡
食事の準備の傍らで、空腹に耐えかねた尾崎が「すいとん」と繰り返しつぶやいたのが暴行の発端

森はかつて能敬は顔面を殴ったせいで気絶しなかったと考え、腹部を中心に殴ることを提案。
尾崎は繰り返し腹部に膝蹴りを受けたが失神せず。森は強く憤ったものの、夜には死亡しているのが見つかった。

死因は餓死(栄養失調)凍死衰弱死内臓破裂等いくらでも可能性はあるが、彼は死ぬ前に舌を噛み切っていた。自殺か、苦悶の痙攣によるものかはわからない。
(遺体発見は翌年3月以降のため、正確な死因は不明)

尾崎の死亡は「共産主義化しようとしなかったために、精神が敗北し、肉体的な敗北に繋がっていった」結果であり、「本気で革命戦士になろうとすれば死ぬはずがない」ため、「総括できなかったところの敗北死」であり自己責任の死であると森が結論づけ、以後「敗北死」が常用される。

永田は尾崎の死に気づかぬよう、能敬と小嶋を屋外の木に縛り付けた。
遺体は吉野雅邦、前沢虎義の2人が地中に埋め、山田と岩田充男が縛られた2人の監視に立つ。
前沢と岩田はここで初めて印旛沼事件の事を知る。
岩田にとって向山は同級生であり、尾崎は大学の寮で同室で、ともに親しい友人達であった。

更に永田が全体会で尾崎の敗北死を報告。
「彼の敗北死を乗り越えて前進する決意を我々自身がより固めていかなければならず、食事が食べられないということもあってはならない」と宣言し、全員にパンとコンビーフを配布。
活動資金に困っていた彼らにとって、これは非常に豪華なディナーとなった。
 
時系列は前後するが、この日、元赤軍派が榛名ベースに到着。
森は到着を受け入れたが、進藤・遠山・行方ら3人の総括が終了していないと批判。
進藤が脱走を考えていると感じ、永田と坂口に総括不足を報告。
しかし2人の同意は得られなかった。

森が総括不足と感じた理由は以下。
進藤・・・縛られた尾崎、能敬、小嶋を気にして落ち着きがない
遠山・・・女同士のライバル心がまだ残っている
行方・・・神経質でノイローゼ的な様子に見える

翌日、年の明けた1月1日から、一気に死者が続出する。