こちらの記事は、全くの蛇足になる。
そのため、興味のない方はスルーしていただいてかまわない。

これほど重大かつ凶悪な事件でありながら被害者と加害者がめまぐるしく入れ替わり、誰もが被害者になりかねなかった状況は、閉鎖された空間における例えばオウム真理教北九州連続監禁殺人事件などをいやでも思い起こさせる。

学生であり机上の空論に振り回された10~20代の若者達であったとしても、彼らの心中で何が起きていたのか。「殺らなければ、殺られていた」とは23歳の寺林真喜江の証言である。

これはテロリズムなどでは全くなくただの大量殺人事件であり、渦中の者達は全員が被害者であると同時に全員が加害者であった。


【主犯・森恒夫の自己批判書における総括要求論理】
(一部)
・短期間に個々人の内在的総括をなし切らねばならない
暴力による指導、暴力による同志的援助が必要である
・総括し切れない者には、命がけの状況ロープで柱に縛りつけ、食事も与えないを強要して総括させ、決して甘やかしてはいけない
・縛られた者は、たとえ片腕を失くしても革命戦士になろうとする気概をもって総括すべきである
・縛られた者が総括し切るという事は0から100への一挙的な飛躍である

ベース活動内で、このような論理が次々と作られていったと証言。

坂口の手記によれば、森はベース内の演説において「銃による武装」が殲滅戦による勝利には必要不可欠であるとし、銃主体の革命戦士化はイコール共産主義化となる。武装による壊滅戦は団結を強化させてゆき、やがてプロレタリアート独裁政権が樹立する、と語っていたらしい。

⁂プロレタリアート(Proletariat)・・・資本主義社会における賃金労働者階級

しかし、この批判書が書かれたのは逮捕後であり、実際にベース活動を行っていた頃にはこのような規定を書き記したようなものはなかった。
(永田は何度も森に総括要求におけるレジュメ作成を依頼)

また、坂東宛の遺書の中では「(略)ぼくはあとからそれを理論化」していると告白。
森本人以外、永田や総括対象者でさえ、何が問題で総括されているか不明の場合も多かった。


【他メンバーによる回想録】
「死者に口なし」の諺通り、全ての責任を自殺した森に背負わせるのは酷かもしれない。
が、同時にリーダーとしての資質を疑問視していた声も密かに当時からあったらしい。
公判前に自殺という「敵前逃亡」もまた、森は「卑怯者だ」との印象を強めた。

例え逮捕されても黙秘を続ける事が「闘争」であり、「革命戦士」の義務だと主張したのが森。
総括被害者の1人は、逮捕されて刑事と言葉を交わしたというのが総括の理由だった。

坂口弘
坂口の批評は辛辣だ。
森君の共産主義化の観念は固定しておらず、総括の進行に伴い、さらに過激化」し、「共産主義化とはそもそも何なのか。実は、こんな初歩的問題ですら」不明であったと分析。

彼(森)は敵対勢力に行使するべき暴力を仲間に向けた事を十分に理解しており、彼の際だった特徴の1つは行為と認識が常に一致せず客観的事実を認めず常に自己の認識に現実を当てはめようとしていた。都合の悪い指摘は総括の趣旨を歪めると摘発、総括要求のターゲットとされた。

上記は坂口の手記の一部の要約であるが(実際にはもっと長文)、「極論すれば山岳ベース事件は、森恒夫の観念世界の中で起きた出来事」(抜粋)だったと述べている。

加藤倫教
「物言えばやられるのだが、物を言わないわけにはいかない。それもどのように言えば森や永田に認めてもらえるのか、誰にも分からなかった。何が基準なのか分からない「総括」要求と暴力に、森と永田以外の者は怯えていた。」

前沢虎義
「本人は闘えると思っているからやって来たんだから、『やります』とか答えるんだけど、そんなじゃ総括になってないと言われ続ける。具体的な問題を問うんではなくて、『あのときこう考えただろう』と訊かれて、実際はそうではないのに、何度も問われるうちに、『思ったかもしれない』とポロッと答えたら、『それがおまえの問題だ』と追及される。最終的にやってもないことを問題にされる
(組織内で森への反論はなかったのかと尋ねられ)
「言えたのは、赤軍の幹部だった山田孝ぐらいだろうけど、彼は山に入る前のところで、一度組織を離れている。だから、それを森から突かれるんだよね。
坂口も『おかしい』と態度では示しているんだけど、どこがおかしいのか言葉にはできない
山田は言えるんだけど、日和っていた弱みを持っている。
もともとは、森と山田だと、山田のほうが赤軍の組織のなかでは上にいたんだけど、組織が大変なときに長期休暇をとっていたもんだから、立場が弱くなっていた。
吉野は、行動力があって頑張るんだけど、論理は足りないというか。
坂東は、森の用心棒みたいなやつだったし」

他の手記や取材などからも、メンバーの殆どが異常を感じて動揺しつつ、互いに動揺を気取られないよう虚勢を張り続けていた事がうかがわれる。
「指導者は優れていなければならない」という論理が常にあり、そのため森を弾劾しようとする動きすら起きなかった。


【永田洋子の嫉妬】
・現在、多くの当事者達が社会復帰を果たしている。
彼らの殆どは語り部として事実を残そうとしているか、または沈黙を守っているかに二分される。
例え一枚岩でなかったとしても、犯罪組織に身を置き、共産化運動に同調したことで彼らに全く非がないとは言い切れないのも事実だが、この事件における彼ら「連合赤軍メンバー」は、主犯の2人以外は間違いなく被害者といえよう。

これら一連の不条理な総括の発端は、実は森ではなく永田洋子にある。
2人が主犯たる所以だが、その大きな転換点は遠山美枝子の総括・殺害にあった。

前記事の通り、永田が遠山批判を始めたのは彼女が指輪をしていたことによる。
他の女性メンバーらも入山時に化粧を批判されており、永田に追従する形で遠山批判に加わった。

他のメンバー(主に男性陣)には何が問題かよくわかっていなかった。

また、元赤軍の遠山を攻撃したことは、前日の森の元革命左派の水筒問題追及への報復だったと感じたメンバーも少なくない。

中村愛子の証言(要約)
・「美人だとか、頭がいいとかいうことはブルジョワ性に傾きやすく、反革命につながる。私は美人も頭がいいのも嫌いなのよ」とは永田の言葉。
遠山と大槻節子は美人で頭も良く、「美人だと思っているでしょう。モテると思っているでしょう」と批判されていた。
仲間が死んでゆくうち、永田に嫌われないことが生き残るために必要だと思った。

永田本人は、後に男性中心の非合法活動を続けているうちに「女性としての生き方」を批判的に考えるようになり、その考えが「女性らしさ」を維持し続けようとしていた遠山達を批判することに繋がったと自己分析している。

【統一者の不在】
逮捕後、森の供述はころころと変わった。
事件の一切の責任は自分と永田にある
革命左派の考え方が事件の原因
革命左派の誤りを自分が純化させてしまったのが事件の原因(遺書)

一方、永田・坂口・坂東ともに事件の主導者は森であると断言
吉野はリーダーとして革命左派を統制しきれなくなった永田が、「森の指導力」に依存していった事を指摘しつつも、その不安を責めることはできないとした。

脱走したメンバーの中には、理由を聞かれ、総括・粛正をしたくなかったと証言した者もいる。
また脱走を考えながらも、警察の山岳調査が本格的に開始されたことを知り殺人が止まる事を期待した者や、死んだ仲間のことを考えてベースに留まった者もいた。

加藤倫教の証言
・「あのとき、誰かが声をあげさえすれば、あれほど多くのメンバーが死ぬことはなかった


日本では思想の自由が認められ、誰でも自分の考えや価値観を表現することが認められている。
だがこの事件は、共産化運動を隠れ蓑にしたただの連続猟奇殺人でしかない。

1987年、「連合赤軍事件の全体像を残す会」が結成され、事件の記録、犠牲者の追悼、事件の「総括=けじめ」を目的に、当事者らの証言などを集めている。


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