坂本堤弁護士一家殺害事件は、1989年(平成元年)11月4日に旧オウム真理教の幹部ら6人が、オウム真理教問題に取り組んでいた弁護士・坂本堤氏(当時33歳)と家族の3人を殺害した事件である。
坂本氏の妻は29歳、長男はわずか1歳であった。


当時は「オウム真理教」による反社会的事件が多発し、坂本弁護士は真摯に問題に取り組んでいたため、失踪直後から教団の関与が疑われていた。

しかし、6年後、遺体が発見されるまでは失踪事件として扱われている。
現場にはオウム真理教のバッジが発見されていたが、神奈川県警察は「事件性なし」として捜査は行われなかった。


犯行が解明されたのは、1995年(平成7年)9月、実行犯の一人である岡﨑一明(後に宮前に改姓)が自供したためである。

松本サリン事件、地下鉄サリン事件と並ぶ「オウム3大事件」とも称される。



遺体発見には全国が注目したが、それは6年もの歳月の間、当時の人々が事件を忘れ事なく、また常に注目していたことの現れであろう。


【襲撃までの経過】

・1989年、当時坂本堤弁護士は「横浜法律事務所」に所属。
出家信者の母親から息子のオウム真理教脱会について相談されたことがきっかけとなり、5月からオウム真理教の反社会性を批判・追及していた。
(カルト集団「オウム真理教」は当時の社会問題になりつつあった)


同年にはオウム真理教幹部と会談するも決裂。

坂本はオウム真理教の宗教法人の認可取り消しなどの民事訴訟の準備に入っている。

(この教団はカルトであり、教祖を無条件に崇めるものであった。入会すれば脱会は難しく、家族や身内友人らも泥沼のように引きずり込んでゆく事件が全国で起こりつつあった

以下の映像は1995年の事件が明るみに出た後のものではあるが、「宗教弾圧だ!」「子どもを返せ!」などのシュプレヒコールの様子が洗脳された人々の姿をあますところなく記録している。
当時は入信もほぼ拉致のような強制的な場合もあり、同じような小競り合い各地で報道された。
洗脳された親により連れ去られた子供の数も多い。
因みに叫んでいるのは、赤の他人たちである


 
また、教団の内部は全く不明であったため、犯罪者・債務不履行者など訳アリの人々がが逃げ込むには恰好の場所でもあった。

・どこまで本気だったのかは不明だが、オウム真理教代表者の麻原彰晃(本名・松本智津夫)は政治政党「真理党」を結成、翌年の1990年には政治出馬を予定している。
そのため、坂本弁護士の活動は邪魔になると判断、信徒に彼の殺害を命じた


【TBSビデオ問題】

 ・当初、教団側は正当な宗教団体であることを強くアピールしており、マスコミへの取材にも積極的に参加している。
人間的魅力があったのか、話術に巧みだったのかは不明だが、著名人・有名人・芸能人から政治家や大学教授まで教団を絶賛する姿も多かった。そのため、さらに信者な膨れ上がった可能性もある。

とんねるずのバラエティに出演した時の様子である。
ご自分をスーパースターかなにかの様に思い違いをされているのか、それとも周囲が持ち上げすぎていたのかは不明。


・1989年、事件の起きる数日前の10月26日。
東京放送(TBS)のテレビワイドショー人気番組『3時にあいましょう』がオウム真理教問題について坂本堤へインタビューを行い、その様子を放送する事を決定。
だが、なぜか事前にその情報が教団に漏れ、信者らがTBSを訪れて抗議。坂本氏のインタビューの放送を差し止めた。TBS側はこれを承諾。
しかし、この時TBS側はオウム真理教幹部に収録した坂本弁護士のインタビュービデオを公開している。

坂本弁護士一家殺害事件が発生したのは11月4日。あまりにも日数が近すぎる。

TBSは取材源の秘匿というジャーナリズムの原則に反しただけでなく、結果的に殺人幇助をしたこととなる。

一家失踪後もビデオを真理教側に見せたことを隠し続けていことが発覚。
悪質な捜査妨害のうえ、結果としてオウム真理教を庇い続けていた。

この時のTBSの対応如何では、その後の数々の事件も防げた可能性も強い。

『3時にあいましょう』は『スーパーワイド』とタイトルを変えていたが、事件が明るみになってからは打ち切られた。


【犯行の経緯】
・初回の殺害決行時は同年11月3日。
信徒の弁護士から坂本の住所を聞きだし、幹部である村井秀夫・早川紀代秀・岡﨑一明・新実智光・端本悟・中川智正が、坂本弁護士の通勤途中を待ち伏せ拉致・塩化カリウムを注射して殺害しようと計画。
だが、この日は休日であったために坂本氏は通勤せず計画は失敗

その為、麻原の指示により、翌11月4日未明に自宅に侵入し一家全員を殺害を決定。
麻原の主張では、この世で間違った生き方を知れいる者は、さっさと殺して来世で正しい生き方をさせるべきというものであった。(通称「ポア」

この事件にもやはり、不明な点が多く、詳細はここでは省きたい。
ただ、子供だけはと必死に守ろうとした親の顔面を殴るなど、非常に悲惨なものであった事は間違いなく、その気になれば情報はネット上でも入手することが可能である。
実行犯の1人は、1歳の子供を殺したことに動揺したらしいが一瞬だけのようだ。

坂本一家が失踪した直後、1989年11月21日には弁護士有志の団体「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」が結成された。
1995年9月に遺体が発見されるまでの6年間、坂本一家を救うべく、精力的に日本全国規模で活動が展開されていた。(教団に拉致・監禁されていた人間も多い)


1995年の地下鉄サリン事件の後、警察はオウム真理教の捜査を本格的に開始。
うすうす噂はされていたものの、その時坂本の一家の殺害が明るみになった。
発覚をおそれてか、発見時、家族の遺体はバラバラに埋められていた。
坂本の遺体は新潟県西頸城郡名立町(現・上越市)の山中。
妻は富山県魚津市別又の林道別又僧ヶ岳線脇。
に長男は長野県大町市日向山の山中。

坂本氏の死体は、歯型から身元がわからぬようにとツルハシで粉々に砕かれ、遺棄現場で景気付けに食べたというタラバガニの殻(ゴミ)と一緒に埋めたと実行犯らは証言。
発見された坂本の頭蓋骨には大きな穴が開いていた。


この事件では、刺殺された村井を除き実行犯全員に死刑判決が出ている。



現在、一家は一ヶ所に集められ、墓所は鎌倉・円覚寺「松嶺院」にある。







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