村井秀夫刺殺事件とは、1995年4月23日に発生した殺人事件。

村井秀夫は、200人を超えるマスコミ関係者が集まり、監視中の東京都港区南青山にあった教団東京総本部前で、山口組傘下の右翼団体を名乗る在日朝鮮人構成員に殺害された。


オウム真理教・幹部で「科学技術省大臣」の名称を与えられていたこの様子は、TVニュースで繰り返し放映され日本中に衝撃を与えている。



刺された後、直ちに村井は東京都立広尾病院に救急車で搬送されたが、右脇腹深さ13cmの刺傷が致命傷となり、出血性ショックによる急性循環不全の為、翌4月24日午前2時33分に亡くなった。

実行犯は事件後直ちに逮捕。
事件直後の上祐史浩外報部長(当時)のTV番組内での証言によれば、村井は死ぬ間際に「ユダにやられた」と洩らしたという。

2000年のインタビューでは上祐は、
「彼(村井)は刺殺される直前に、オウム真理教の事件その他はユダヤの陰謀であると言おうとしていた、そんな気配がある
「ユダヤ叩きというのは、僕にはどういう意味なんかよくわからない」が、「彼はあの直前に、テレビに出演してユダヤ叩きをやろう、という計画を立てていた
「刺殺される数時間前に彼から私の方に「ユダヤ叩きをやりますよ。今から戻ります」という電話があった」
「彼はその直後に刺殺された」、
と述べている。
また、事件当日、「オウム出版の編集部に彼が「ユダヤの陰謀関係の本を集めてくれ」と依頼していたという事実も指摘されているそうだ。

(実際には、村井刺殺直後から「ユダ云々」とは周囲の人間が聞き及んでおり、口封じのために殺されたのだろうとの見方が強かった。5年後のインタビュー時には、教団は名前を変えて活動しており、かつてのマイナスのイメージを払拭したかったものと思われる。)

裁判では、実行犯は若頭の指示により犯行に及んだと主張。一方、若頭は「指示」そのものを否定した。
警察の捜査でも、暴力団若頭とオウム真理教の接点はない。

教団では村井が死亡した4月24日以降の10日間、事件現場となった東京総本部前で弔いの踊りを披露し、村井を追悼した。

10日間の理由は「死者は遅くとも死後49日以内に輪廻転生するが、これが早ければ早いほど高い世界に転生し、遅いほど低い世界(人間界は45日目、地獄界は49日目)に転生する。」という教団の教義に基づく。
殺人板ではあるが、村井は幹部としての「功績」が高いので10日以内に転生するという理由だという。


【当時の教団の混乱】

・3月20日「地下鉄サリン事件」をきっかけに、2日後の3月22日には教団施設への強制捜査が行われている。
(毒ガス対応のために、鳥と鳥カゴを携帯しての捜査であった)
岐部哲也・越川真一・林郁夫・石川公一・新実智光・早川紀代秀などの教団大物幹部も次々と逮捕。

村井自身にも疑惑の目が向けられており、連日大勢の報道関係者や警察から24時間体制で監視されていた。
逮捕も時間の問題となった最中の殺人である。
教団東京総本部前報道陣が取り囲み、TVカメラの前で刺殺された。

だが、村井刺殺事件によって口封じ殺害がさらに多発することを懸念し、警察による教団幹部への別件逮捕は急速に進められてゆく。


つまり、当時から警察も一般視聴者も、マスコミも、口封じ殺人であることを暗黙のうちに了解していたことになる。知らぬはカルトの内部のみ。

村井の刺殺場所となった教団東京総本部ビルは、当事件発生からちょうど20年後の2015年4月に解体。

余談ながら、有田芳生は実行犯と交友があり、現在も「背後関係の一切無い単独実行犯」説を主張し続けている。


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