サイケデリック・奇譚

永遠の日常は非日常。

カテゴリ:歴史 > 戦争

 「縞模様のパジャマの少年」(原題:The Boy in the Striped Pyjamas )は2008年に公開された。
イギリス・アメリカの合作映画となる。
実際に撮影が行われたのはハンガリーにて。
映画公開はアメリカが先んじて2008年の9月、次いでイギリスでは11月の公開となった。
(日本公開は翌年の2009年)

原作はジョン・ボインの同名小説。
第二次世界大戦のホロコーストを背景に描く。
映画作品は日本ではPGー12に指定されている。

(⁂PGー12・・・・・12歳未満(小学生以下)の鑑賞には、成人保護者の助言や指導が適当とされる)



この作品では、あえてセリフのない場面がいくつか登場する。
劇中歌「Smile When You Say Good Bye」は、日本語吹き替え版においてもそのまま英語で歌い上げられた。


【あらすじ】
・舞台は第二次世界大戦中のドイツ・ベルリン。
父親の仕事の為にベルリンの郊外へっ引っ越してきた8歳の少年、ブルーノが主人公。
近くにはユダヤ人収容所があったが、収容所の意味をブルーノは知らないでいる。

やがて、ブルーノは鉄条網越しに1人のユダヤ人少年・シュムエルと出会い、話をするようになった。
8歳のシュムエルは、いつも同じ縞模様のパジャマを着ている。

「縞模様のパジャ...」の画像検索結果

・一方、ブルーノの父親は実は厳格なナチ党員であった。
収容所の所長になるために栄転してきたのが、ブルーノの父親だったのだ。

父親の仕事に家族は全く疑問を抱いていない。
母親は子供達のために夫と衝突することはあっても、それ以上の事は感じていない。

ブルーノの姉もブルーノ自身も、まだ幼いごく一般的な子供。
自らの家族とともに幸せにくらしながらも、収容所の人々との差異をそのまま受け入れている。

・ある日、ブルーノの父親は1人の青年将校・コトラー中尉をディナーに招待した。
ディナー上で亡命したコトラー中尉の父親を強く追及したブルーノの父親は怒りがおさまらず、ユダヤ人の使用人を殴りつける。
その後、コトラー中尉は最前線の戦場へと送られる事となる。

・やがて、ブルーノの祖父が亡くなった。
初めて死というものを認識するようになったブルーノだが、相変わらずシュムエルとの奇妙な友情は続いていた。
鉄条網をはさみ、その価値観と住む世界の違いからチグハグな会話ではあるが、確実に少しずつ2人の友情ははぐくまれてゆく。

「縞模様のパジャ...」の画像検索結果

・収容所の煙突からは異臭が立ち上る。
ブルーノは疑問に思うようになり、両親に尋ねるようになった。

母親は収容所で行われている事をまったく知らないまま、子供達の環境を考えて夫を残し転居することを決意する。

・引っ越しの前日。
いつものようにブルーノはシュムエルと話をしていた。

シュムエルの父親は、収容所内で行方が分からなくなっていた。
父親を探したいというシュムエルは、ブルーノに協力を頼む。

ブルーノは収容所の敷地の地面が柔らかく、掘れば自由に出入りできるのでは?と考えた。
抜け出すのではなく、一緒に父親を探してくれと頼むシュムエルに、ブルーノは約束を承諾する。

忍び込みがバレないように、囚人と同じ縞模様のパジャマをシュムエルが用意し、ブルーノはスコップを用意する。2人の秘密の計画が始まった。

「縞模様のパジャ...」の画像検索結果

・引っ越しの当日。
ブルーノの家はバタバタとしており、その隙をついて少年は家を抜け出した。

サンドイッチを持参したものの、落としてしまい、それでもシュムエルの待つ鉄条網へと急ぐ。
勝手に物を持つことが許されないシュムエルは、パジャマを重ね着することでこっそりと持ち出していた。

・パジャマに着替え、髪の色をごまかすためにナイトキャップをかぶったブルーノは、生まれて初めて収容所に足を踏み入れた。
その恐ろしさに怖気づくブルーノだったが、「お父さんを一緒に探してくれる約束だろう?」とのシュムエルの言葉に勇気を振り絞る。

シュムエル自身も父親を探すために何をどうしたら良いのかもわからず、その捜索方法も建物を一棟ずつのぞいて探す他に考え付かない。

シュムエルの父親を探すうちに、建物内にある命令が下った。
全員、外に出るようにと。

ブルーノは驚くが、シュムエルは慣れている。
時々、こういうことがあるのだと。
心配はいらないと。

大人達に混ざり「行進」してゆくブルーノとシュムエル。
衰弱した人間はついてゆけず、倒れればその上を他の者が踏み潰してゆく。
体力が衰え、歩くことすらやっとな状態である彼らは、同胞をいわたり避ける力さえ残っていない。

やがて集められたユダヤ人達は全員、服を脱ぎシャワーを浴びるように告げられた。


・ようやく母親はブルーノの不在に気が付いた。
半狂乱となった母親は夫に息子が消えたことを相談。

父親は収容所の職員をも巻き込み、息子の捜索に乗り出す。

そして、収容所の鉄条網の外に脱ぎ捨てられていたブルーノの服を、警察犬が発見した。

・収容所内。
集められた人々はシャワー室に閉じ込められていた。
ブルーノとシュムエルは2人で、手を握り合っていた。

「縞模様のパジャ...」の画像検索結果

天井に開けられた穴から、防護マスクをした者が薬物を投入し、蓋が閉じられた。


・ブルーノの父親は半狂乱となって、収容所内を捜索している。
母親は鉄条網の外で、息子の服を抱きしめて号泣している。


・ラスト。

映像はシャワー室の扉のみ。
ゆっくりと明かりが消え・・・・やがて、エンディングロールへと続く。


 


http://2ch.nvxi.jp/r8/logs/1295172583.html


19 名前:本当にあった怖い名無し :2011/01/18(火) 02:17:32 ID:XJTZZalY0
子どもの頃、
よく祖母の家に転がってた古臭いもので遊んでたんだけど、
今になって見てみると
激戦地で玉砕した日本兵の遺品だった。




http://2ch.nvxi.jp/r8/logs/1295172583.html


12 名前:本当にあった怖い名無し :2011/01/17(月) 22:46:43 ID:l9aynWoA0
1946年 雑誌「ニュー・ヨーカー」 
ジョエル・サイア氏「ベルリンの手紙」


ある日の夕暮れ近く、
勤めからの帰りがけに、一人の若い婦人が、
クネーゼベックシュトラッセの
ひどく爆破された住宅街で電車を待っていた。




その時、一人の盲目の男が彼女に突き当たった。
彼は背が高く、やつれた中年の男で、
黒い眼鏡に古びたセーター、
かかとにまでとどくだぶだぶのズボンを着込み、ステッキで道を探っていた。
もう一方の手に彼は手紙をもっていた。
彼は腕に、黒い球三つで作られたピラミッドの模様のある
黄色い腕章をつけていたが、
それは外を歩く時すべてのドイツ人の盲人や聾人が身につけるものであった。

その盲人は夫人に突き当たったことをわびた。
彼女は、別になんでもないと彼にいい、
さらに何かのお役にたつことがあったらと彼に聞いた。

そこで彼は手紙を彼女に渡し、
その封筒の宛名に連れて行ってくれますかと尋ねた。
 
手紙は大変遠いクネーゼベックシュトラッセに住んでいる誰かにあてられたものであり、
それにはよほど歩かねばならないと婦人は彼に言った。
「やれやれ、今日はもうこんなに歩きましたのに。
この手紙を私の代わりにとどけて頂けませんでしょうか?」と彼は言った。
 
彼女は喜んでそれを引き受け
家に帰る途中にとこを通るから少しも面倒ではないと答えた。
盲人は彼女に厚く礼をいい、
2人は別れ、盲人は彼女が来た方の方角に杖をついていった。
 
2、30ヤード歩いたところで、
彼女は盲人がちゃんと歩いて行ったかどうか振り返ってみた。

彼はステッキを小脇に抱えて、
急ぎ足にすたすたと歩いていたのである。

これがペテンであることには間違いなかった。
手紙をもって行く代わりに彼女はそれを警察に差出し、
どうして手に入ったかを説明した。

警察が封筒の宛名のアパートに行ってみると、
2人の男と1人の女がたくさんの肉をしまっていた。
その肉は医者が検査したところ人間であった。

封筒の中の手紙には、ただ一言、次のように書いてあった。
「今日は、この人でおしまいです。」




897 :本当にあった怖い名無し:2009/08/24(月) 19:08:22 ID:GU3s4VKzO
祟られるとか悪い影響がないんだったら
むしろ連れて帰ってきてあげたいけどな>日本兵



899 :本当にあった怖い名無し:2009/08/24(月) 22:58:24 ID:9eRylEk40>>897
どこだか南方諸島に旅した人が(霊感バリバリw)、
空港で時間待ちしてた時、
突然背中に寒気が来て驚いて振り返ると
日本人観光客のきゃぴきゃぴしたネーちゃんら御一行様が
帰りのヒコーキに搭乗するところで…
そのネーちゃん御一行様全員の背中に
血まみれの日本兵たちが満面の笑顔で張り付いてたとか。

昔の大和撫子の面影も無い今どきのネーちゃんたちでも、
一応日本人だから彼ら日本兵にとっちゃ
とり憑いて帰るにもうれしかったんだろうなぁ…
祟りがあるのかどうかは知らんけど。



900 :本当にあった怖い名無し:2009/08/24(月) 23:26:41 ID:ZHkgtP19P
日本に帰れるからじゃなく
きゃぴきゃぴしたネーちゃんらに抱きつけたので
満面の笑顔だったとしたらかわいいw



901 :本当にあった怖い名無し:2009/08/25(火) 00:19:41 ID:3G3MBGxE0
キャピキャピの女の子しか
連れてかえってくれそうな日本人がいなくて、
苦々しい顔をしながら
その子におぶさっている分隊長の口許が
微妙に緩んでいるのを見つけて、
ニヤニヤしながら
他の子におぶさっている上等兵さんとか。
そう云うのを霊感の有る人が見つけた時、どう云う顔をするんだろうね。



902 :本当にあった怖い名無し:2009/08/25(火) 00:47:21 ID:1chXDV/30
そういえば こないだクリント・イーストウッドの
「硫黄島からの手紙」TV放映されたの見てたんだけど
あの壕の中、
日本兵が滅茶苦茶いっぱいいる気がした。

でさ、TV民放で放映されたってことは
日本中の家庭のTV画面にあの壕と日本兵の霊?が映った訳で。

ほれ、霊って電波に乗ってくるって言うじゃん。
きっと硫黄島に取り残されてた日本兵の霊たちも、
あの日の放送でそれぞれ自分たちの故郷へ、
TV画面を通じて帰って来れたんじゃないかと…
勝手に自分はそう思ってる。

おかえりなさい、
お疲れさまでした。





339 :本当にあった怖い名無し:2009/05/12(火) 17:11:07 ID:e2J7ct1bO
知覧の特攻記念館にいった後のこと 
ひどい鬱に見舞われて入院することになった
その時無職で情けない気持ちで一杯だった

軍ヲタなので特攻のことはそれなりに知っている
入院中、その特攻記念館の遺書等を思い出したり
「宇垣指令長官(特攻隊の指令、8月15日戦死)こんな情けない自分で申し訳ありません!」
などといってパニックを起こして数日わんわん泣いていた。

本当におかしかったのだろう、
先人が命と引き換えに守った日本で働けない不甲斐なさで一杯だった。

そのパニックが納まりつつある夜、
頭丸坊主に陸軍用の飛行服を着た20代前半くらいの若者が
5人位ベッドの前に現れて
「俺達が支えてやるから気にするな」と言って消えていった
 
その時は恐怖心はなく呆然と見ていた
それから退院してから、体力に自信のない自分が
倉庫内作業の仕事をすることになり、 おかげで肉体も精神も人並みに自信が付いた
やはり先人を大事にすることは大切と思い、日本人としての心と誇りを持っていこうと思った
 
パラノイアかもしれないのですみません



341 :本当にあった怖い名無し:2009/05/12(火) 22:05:54 ID:AGjFilu70
>>399
5人も護ってくれる存在が居るなんて凄い・・・
感動した!!!



342 :399:2009/05/12(火) 23:16:23 ID:TkAubHqX0 ?2BP(0)PCからです
ありがとうございます

4年位前の話なんですが
書いていてまたほろっと来てしまって…
今まで生きて元気にこれたのも彼らのおかげだと思うので
近いうちと、8月15日にお礼参りに行こうと思っています



http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1231943568/

210 :本当にあった怖い名無し:2009/04/05(日) 21:08:44 ID:yT2t1aU1O
硫黄島関連の実際にあった心霊話


・航空自衛隊の飛行機に向かって、立入禁止になっているはずの
山の上から、手を振っている人影が見える。 
噂では、機体の日の丸を見て、友軍が来てくれたと歓迎してる日本兵の霊らしい


・本土から飛んで来た定期便が、嵐で視界不良になり、
飛行場が確認できずにいた時、地上からパッと誘導灯がついて、無事に着陸できた。
パイロットが礼を言うと、基地の人間は誰もサーチライトなど点けていなかった。


・隊員が部屋で、「加藤隼戦闘隊」のビデオを見終わった時、
「なかなか良いものを見せてもらった、ありがとう」という声がした。

とっさに、英霊が来られてるんだなと感じた隊員は、酒と煙草を机の上に置いて、供養した。
その後、その隊員は宝くじで一億円が当たった。



211 :本当にあった怖い名無し:2009/04/06(月) 19:46:07 ID:djqs93xD0
>>210
空の定期便に英霊たちがたくさん乗っていたのを送り届け礼を言われた話なら
読んだことがあったけど、これもいい話だな



212 :本当にあった怖い名無し:2009/04/08(水) 20:58:45 ID:wP//etUi0
自分も戦争に行かされたりしたら、やっぱ死んだ後でもいいから日本に帰りたいしな。
他国のジャングルで永遠にさまようのと、日本の墓地で桜でも見ながら過ごすのと、
取り残された英霊達の気持ちを考えたら胸が裂けそうになる。



214 :本当にあった怖い名無し:2009/04/08(水) 22:18:27 ID:GyUxvX1m0
日本への飛行機の、日本人乗客について帰ってくるんだって。
(┰_┰)





937 :本当にあった怖い名無し:2009/08/26(水) 19:19:54 ID:/GoYDqzI0(1/3)
俺が2年前に自衛隊基地施設建設の為に硫黄島へ6ヶ月間行った時の話。

数か月もの間、島に閉じ込められると
自然と顔見知りの隊員さんが出来て、
色々話すうちに硫黄島の心霊現象なんかの話題になることがあるんだ。

隊員さんの話では、戦後~平成にかけて硫黄島の心霊現象は壮絶なものだったらしい、
夜中に行進する兵隊なんかは当り前で、
中には夜な夜な水を求めて徘徊する黒焦げの兵隊や
窓の外に体の一部が無い兵隊が恨めしそうに見ていたりってのが毎日あったんだと。
恐らく彼らの中では戦争はまだ終わって無かったんだな。

だけど、平成6年2月に天皇陛下が硫黄島を訪れた際に、
慰霊碑に鎮魂と日本を守る為に命を犠牲にして戦ってくれた事への感謝の意を捧げると
その日を境に幽霊がピタリと出なくなったらしいんだ
まあこの辺はよく聞く有名な話だよ。



938 :本当にあった怖い名無し:2009/08/26(水) 19:21:55 ID:/GoYDqzI0(2/3)
んで、ここからが俺が体験した話。

隊員さんから心霊現象の話を聞いた夜、自室で布団を頭まで被って寝てると、
誰かが揺すり起こしてきたんだ
寝たばかりで辛かったからシカトして寝ようとしたら、今度は激しく体を揺すってきた
そして、さらには

『おい!朝だぞ!!いいかげん起きろ!!!』

と、怒鳴る声、
そんなはずはないと思いながらも薄目を開けると、
確かに布団の隙間から朝日が漏れていた。
今日は全然寝た気がしないなぁ~。
なんて思いながら体を起こすと恐怖で体が固まった・・・
夜なんだよ・・・ 
 
もうさ、部屋も外も真っ暗で、
普段は五月蠅い同僚のイビキも虫の音も風の音も聞こえない無音だし、
起きる瞬間まで体を揺すってた奴もいないし、体中に鳥肌がブワーーって立って、
混乱と恐怖で頭ん中いっぱいになっていると、
ドアの前に暗闇よりもさらにもう一段階黒い人型のシルエットがあったんだ。



939 :本当にあった怖い名無し:2009/08/26(水) 19:23:48 ID:/GoYDqzI0
俺がその黒い人型に気付くと、そいつが一歩前に出て

『何をしている!!さっさと支度をせんか!!!バカ者!!!』

とハッキリと聞こえる怒声がした、

その時に気を失ったのかわからんが、
気が付いたら朝で相部屋の同僚が心配そうに

『なんか、メッチャうなされていたけど大丈夫??
顔も青いし、体調悪いなら今日は休めば?』 って言ってきた。
たしかにフラフラするし、体調悪かったから一日布団の中で過ごすことに。


布団の中で昨夜のことを思い返すと怖いってより何か切なくなった・・・
米兵、日本兵問わず彼らの戦争は何時終わるんだろう・・・
(硫黄島ではもちろん米兵の幽霊も出る)
建設中に未だにあちこちから出てくる人骨や遺品
こんな状態じゃ、おとなしくなることはあっても成仏はしないな・・・とか
今の俺たちは彼らの命の上に立つ価値があるのか??とか
色々考えさせられてな。


以上が俺の硫黄島での体験談、まあ、他にもあったけど、
これが一番印象深いエピソードかな


終わり



940 :本当にあった怖い名無し:2009/08/26(水) 19:49:10 ID:mV2CKNUg0
貴重な体験談どうもありがとう。
軽々しく感想が言えない。 
今目の前にあることではないからそのまま放置されているけれど、
とても大事なことなんだよね…。



941 :本当にあった怖い名無し:2009/08/26(水) 19:56:58 ID:SeRSOy7YOage
>>936-939乙です
今の日本も節目の年だし、考えさせられるね
良い話だと思います。



942 :本当にあった怖い名無し:2009/08/26(水) 20:12:41 ID:AkqoyQka0
乙です。
早く世界が争いのない世界になって、
硫黄島にも誰でも慰霊に訪れる事が出来るようになるといいな。マジで。



http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1424959780/

614 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2015/03/30(月) 18:26:19.74 ID:6jl1tNdx0.net
桜ネタじゃないが、桜の季節にあった話でもいいかな?


修学旅行やなんかの学校行事になると、
必ず一人は「ここに霊がいる」って言い出すのがお約束だったけど、
仮に自演じゃなかったとしたら
「その場所にいる何か」がその人限定で見せたりなんだりしてるんだろうか?


とある3月に自称霊感もちの妹と東京観光中、
浅草の浅草寺に行った時の事。

敷地内に東京大空襲で亡くなった方々の慰霊碑みたいなのがあったらしくて、
妹が「お参りしたい」と言い出した。
何日か前に、東京大空襲のドラマを見たから気になるらしい。

自分は気が進まなかったので、
離れたところからお参りしているのをなんとなく見てた。
しかし妹、ずっとしゃがんだままいつまでたっても戻ってくる気配なし。

つづく


615 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2015/03/30(月) 18:26:48.35 ID:6jl1tNdx0.net
つづき

声をかけに行ったら、
「体が重くて立ち上がれない…気持ち悪い…」だと。

自称霊感もちのくせにそういう所にほいほいお参りとかするからだよばーか、と思ったが、
本当に気持ち悪そうだったので黙っておいた。

とりあえずベンチに連れて行って休ませようと思った時、
妹の背中になんか小さな手形が背中いっぱいについてたのに気付いた。
小麦粉とか粒子の細かい砂みたいな、
線香の燃えカスみたいな粉を子供の手のひらにはたいてぺたぺた触った感じ。

その場で「背中汚れてるぞー」ってぱんぱんはたいてきれいにしてやった。
気味悪かったが妹が怖がるといけないから、手形云々は黙ってた。


そしたら今度は自分が気持ち悪くなった。
昔42度くらい熱が出て死にそうになったんだけど、頭の中がその時と同じ状態。
正直歩くのもしんどい。
でもなぜか、ぜんざい食べたら治るって変な確信があった。

背中ぱんぱんしてから元気になって、
「大丈夫?ねえ大丈夫?」っておろおろしてた妹に
「ぜんざい、食べたい…」と伝えて、妹の肩を借りて食べに行った。


運ばれてきたぜんざいを食べているうちに、
体がどんどん楽になって、食べ終わる頃には全快していた。

正直これが霊のせいなのかどうかわからないが、不思議な体験だったと思う。
ぜんざいのお代はちゃんと妹に払ってもらった。



617 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2015/03/30(月) 18:30:43.37 ID:grxmX/Lo0.net>>615
空襲で死んだ子供なのかな。
甘い物食って供養になったのかもね。



618 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2015/03/30(月) 19:06:54.81 ID:AUsouXvHO.net>>615
これは良いほんのり
戦争中は甘いものも満足に食べられなかったんだろうね…



http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1231943568/

740 名前:無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2009/02/26(木) 07:37:23 ID:4t6LX8yL0
グアムはたくさんの旧日本兵が命を落とした場所です
そんな場所に観光にいってはしゃいでる日本人・・・
世界中から笑いものでしょうね・・・


741 名前:名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2009/02/26(木) 12:33:20 ID:29z/GwWP0
>>740
ケセッキGOOKがわかった風な口をきくな
グアムも観光地 お金を落とせば現地の人は喜ぶ
世界中に恥を振りまいてるダメ国の分際が・・・
私のお勧めはパラオ 親日!
それは日本軍の振る舞いのおかげ 行けばわかるググればわかる


742 名前:名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2009/02/27(金) 00:51:16 ID:R72N5ZhJ0
>>740
お前ら日本人の血を引いてない人間にはわからないんだろな。
グアム・サイパンで命を落とした日本軍の軍人の魂は
日本人旅行者にくっついて帰ってくるんだよ。
グアムからの帰りの飛行機で、軍人背負ってない東洋人はお前ら在日だけ。
霊感があると非常にわかりやすい。



【島原の乱・勃発】
・この頃、旧有馬家・旧小西家の家臣らは武士から農民に身分を転じていた。
反乱計画(一揆)の指導的役割を演じたのが彼らである。
組織の首謀者らは湯島に集い談合し、既にキリシタンの中で人気を集めていた四郎時貞を総大将として決起することを決定。

⁂旧家臣らは地域の民衆を組織化し反乱軍をつくり上げたが、島原半島の地形の関係で南目、北目と呼ばれる地域で明暗が分かれた。
南目地域では、賛同する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれている。
北目地域では、地形を利用し天然の砦として反乱の強要一派を追い落とし、協力を拒否

(最も、南目でも参加しなかった集落、北目でも一揆に参加した集落もそれぞれ存在する)

1637年10月。
有馬村のキリシタンを中心とするグループが代官所に赴き、代官・林兵左衛門を殺害
これが「島原の乱」の第一の事件となった。

島原藩は直ちに討伐軍を編成。
しかし勢いに乗った一揆軍に押され、兵は島原城へと引き返したが、そのまま討伐軍は籠城となった。
一揆軍勢は島原城下に押し寄せ、町を焼き払い、略奪行為に及んだという

事態に慌てた藩側は、他の領民らに武器を与え、一揆軍を鎮圧させようとしたらしい。
だが、武器を手にした領民達の中には一揆側へと身を投じる者も多かった
ますます一揆騒動は拡大し、勢いを増してゆく。

数日後、天草四郎率いる一揆軍が肥後天草で蜂起

本渡城等を攻撃し、11月14日には富岡城代の三宅重利を討ち取った。
さらに勢いに乗った天草一揆軍は、唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃
北丸を陥落したものの、本丸の防御には手こずり、やがて九州諸藩からの討伐軍が迫ってきている事を知り、やむなく落城せずに撤退した。

その後天草一揆軍は有明海を渡り、島原半島の一揆勢と合流する。

「島原の乱」の画像検索結果

討伐軍に備えて総一揆軍は旧有馬家の居城であった原城に籠城する事を決定。
原城は廃城になっていたが、一揆軍は城を修復し、藩から奪った武器弾薬、食糧などを運び込んだ。


原城址 

実はこの時、一揆側は日本各地に使者を派遣していたらしい。
思惑としてはこれを機に、日本各地でキリシタン蜂起を促そうとしたのではないかとの説がある。
ポルトガルからの援軍を期待した可能性も指摘されている。
実際、一揆側は当初ポルトガル商館のある長崎への侵行を試みていた。
幕府も有力大名を各領地に戻し、治安の安定を強化させている。

乱の終結後は、四郎ら首謀者達の首は長崎の出島のポルトガル商館前にさらされている。



【討伐・兵糧攻め】
・乱の報告を受けた幕府側は三河の深溝藩主の板倉重昌と旗本の石谷貞清を派遣し、九州諸藩の討伐軍を指揮させた。
だが、数回にわたり総攻撃をしかけるも、一揆軍にことごとく敗走させられている。
堅固な城の守りと団結した一揆軍に勢いがあったのも確かだが、討伐軍は諸藩の寄せ集めの軍でもあり、さらに板倉家は大名としては小禄であったため、九州の諸侯らは指揮に従わなかった

軍としての統率に板倉は苦心したが、討伐軍の戦意は低く、人事の失敗は明らかだった。

乱の長期化による幕府への影響、海外からの参戦の可能性を恐れた幕府は、改めて老中・松平信綱と戸田氏鉄(国替えにより3つの藩を治めた実績を持つ)を派遣する事を決定。

追い詰められた板倉は焦り、功を急ぎ過ぎて信綱到着前に決着をつけようと一揆軍へと総攻撃を開始する。
だが、やはり足並みは揃わず、連携も伝わらず、討伐軍4000名の死傷者を出す大惨事となった。

総大将である板倉はこの時、鉄砲で撃たれて戦死している。

度重なる失敗に、幕府は人事派遣の増援を決定。
水野勝成と小笠原忠真である。
(双方とも、やはり国替えにより複数の藩を治めた経歴を持つ)

信綱が到着した事により、討伐軍の様子は一変した。
九州諸侯軍は軍を増援し、合計12万以上の軍勢に膨れ上がった。
充分すぎるほどの兵を得た信綱は、原城を陸と海の両方から完全に包囲する。


原城の包囲網図

さらに一揆の動きを念入りに調べ上げ、また甲賀忍者を城内に忍び込ませ、食糧が残り少ない事を確認。
この報告により、信綱は兵糧攻め作戦に切り替える事になる。

⁂忍者・・・・後世のイメージが1人歩きしているが、実際には専門知識を持ったゲリラ集団。
       情報収集、尾行、探索などのノウハウを持つ。

⁂兵糧攻め・・・・敵の食糧補給を絶ち、相手を飢餓で弱らせる攻め方。



1月6日。
長崎奉行の依頼を受け、オランダ商館から幕府側にゴーデリング砲(船砲)が提供される。
また、デ・ライブ号ともう一隻の船を島原に派遣し、海から原城に向かって砲艦射撃が行われた。
       
「ゴーテリング砲」の画像検索結果

しかし明確な効果はなく、細川氏をはじめとする諸侯からも外国人の助けを受ける事への批判が高まり、信綱は砲撃を中止させた。
だが実際の信綱の思惑は、ポルトガルからの援軍を期待する一揆軍への心理的ゆさぶりであった。

⁂ポルトガルはカトリック国であり、オランダはプロテスタント国でもある。
さらに、当時オランダとポルトガルは紛争中でもあった。
オランダ側には、ポルトガルを排除して日本の貿易を独占したい狙いもあったと思われる。


兵糧攻めは続く。
討伐軍は密かに原城内にいる一揆軍に使者や矢文を送り、内応や投降を呼びかけている。
捕えた四郎の母親ら家族に手紙を書かせたが、一揆軍側は受け取りすら拒否した。

この頃、食糧の尽きた一揆軍は断崖絶壁を降り、海の海藻を食べていた。
信綱は城外に討って出た一揆軍の死体の腹を裂き、胃の中が海藻のみであることから食料が尽きかけていることを知ったという。

2月24日。
討伐軍の軍議で、このまま兵糧攻めを継続するか、総攻撃を仕掛けるかで意見が割れる。
一揆軍の自滅は自明の理だったが、信綱は総攻撃を行う事を決定
悪天候のため総攻撃自体は28日に延期されたが、鍋島氏の抜け駆け行為により、予定の前日に攻撃開始となった。(鍋島氏に続き、諸大名も次々と参戦した

兵糧攻めにより、一揆軍側の城内にはほとんど食糧もなく、弾薬も尽きかけていた。
圧倒的な数の差により原城は落城し、天草四郎時貞をはじめとする一揆軍は1名を除き全員死亡する。

攻撃により戦死しなかった者も、その後全員が処刑されたという。

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⁂詳細は不明のままだが、実際には総攻撃の前に多くの投降者、脱出者が出ていた事が確認されている。
原城に籠城した者達全員がキリシタンだったわけでもなく、強制的に参加させられた者、戦火から逃れるために一緒に行動していた者も少なくなかった。
隙をみて脱走した者、口実をつけて城外に出て投降した者、断崖絶壁を海側に降りて脱出した者らの記述がいたる各種史料に残っている。
また、総攻撃の際にも一揆軍からの脱出に成功した者、あるいは殺されずに済んだ者も多かったともいう。
1説には幕府への投降者数は1万人以上ともいうが、記録はなく不明なまま。


ただひとりの生存者の名は山田 右衛門作
ポルトガルの絵を学んだ南蛮絵師であり、有馬・松倉氏のお抱え絵師でもあった。
乱が発生した時は庄屋であり、村人ともに一揆に参加。原城内では、四郎に次ぐ副将にあたる。

幕府軍との交渉役でもあり、討伐軍と内通していた。
原城落城の際には内通が発覚し、牢内に閉じ込められていたという。
妻子もいたが、内通発覚後に一揆軍によって切り殺されている。

江戸に連行され、取り調べを受けるが、その際の口上書は城内での様子を知る貴重な資料である。
(『山田右衛門作口書』)



【鎮圧後】
・乱の影響は大きく、反乱軍に対する処罰は苛烈なものであった。
島原半島の南目地域と天草諸島のカトリック信徒は、反乱軍に取りこまれなかったわずかな領民以外は、ほぼ根絶やしにさせられた
生き延びた少数の信者らは深く潜伏し、隠れキリシタンとなった。

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石仏の背後に隠された十字架

⁂天草三氏とされた天草家、志岐家、榎本家のうち、天草と志岐両家の浪人が一揆の指導層
榎本家は細川家に士官していたため、細川家臣として幕府討伐軍に参加していた。
また、島原・天草地方の住民全てが一揆に参加したわけではなく、討伐軍に参加した者も多かった。

鎖国政策を進める幕府は、キリスト教禁止令を強化させ、一国一城令を発し、複数の城を持つ場合には破壊させるよう義務づけた。


一方、島原藩主の松倉勝家も、領民の生活をないがしろにした過酷な圧政が一揆を招いたとして、現在でいう更迭処分に処せられている。その後、斬首となった。
江戸時代において、大名が切腹ではなく斬首の刑に処せられたのは勝家ただ1人である

天草を治めていた寺沢も責任を問われ、領地を没収されている。
寺沢はその後精神異常をきたして自害したという。その後、寺沢家は断絶となった。
討伐軍であっても、軍規を破り前日に戦火を切った鍋島勝茂は半年にわたり閉門の処罰を受けている。

松倉氏の後、島原藩は徳川氏譜代の家臣、高力・松平・戸田の3氏により統治される事となった。

ところで、天草の一揆が島原に連動して起きた理由のひとつに、年貢の過酷さがあげられる。
実はそれには理由があり、実は当時は天草の石高(収穫)量が誤って実際の2倍に算定されていた
間違った情報で年貢も定められたため、当然のように領民達の生活は苦しく、生活が成り立つはずもない。

初代唐津藩主である寺沢宏高が過大に算出してしまった事と、その後も天草の実情を無視した統治が続いた結果であり、起きるべくして起きた悲劇でもあった。

⁂公平を期するために記述すると、寺沢宏高は決して暗愚な君主ではなく、むしろ名君に近い。
国中の視察にも力を入れ、干ばつや水害に備える事、税金、年貢、労役で不正がないか常に目を光らせていた。結果として唐津藩は安定し繁栄している。
(天草諸島は飛び地)
最も、晩年はキリシタンに対する拷問も行った。


この誤報が是正されるまで、その後もさらに長い年月を要する。

島原の乱後、富岡藩を経て天草は幕府直轄の天領となった。
初代代官の鈴木重成は天草の貧しさの原因を見抜き、検地(測量)をやり直し、石高を半分にするように幕府に訴え続けたが、前例がないとして幕府はこれを拒否。

そのため重成は石高半減の嘆願書を残し、切腹抗議を行った
幕府は驚愕し養子の重辰を2代目代官とするが、重辰もまた石高半減を訴え続け、ようやく1659年、幕府が認めて石高は半減されることとなった。
島原の乱から、約20年後の事である。

⁂現在、天草には重成を奉った鈴木神社が建てられ、信仰を集めている。
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重辰の後、新たに領主となった戸田忠昌もまた、離島の多い天草は農業生産力を鑑みて天領が相応しいと提案。

その後天草諸島は明治維新まで幕府直轄領であり続けた。

島原半島に比べ、天草の場合はキリシタンは残存し続けた
離島が多いこともさることながら、幕府直轄領となり海産物が長崎を通じて輸出されるようになり、需要な財源となったために過度の追及がなされなくなった可能性があげられる。
また、時代背景の変化の影響もある。

余談ではあるが、島原の乱から百数十年後の1806年、天草地方の4村にてキリシタンの検挙が行われた。

この時は5,000人以上のキリシタンの存在が発覚
しかし幕府側は、「宗門心得違い」として踏絵を実行させ、改心を誓約させ押印させたのみで赦免している。
島原の乱に対し、この事件は「天草崩れ」とのみ称された。

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