サイケデリック・奇譚

永遠の日常は非日常。

カテゴリ: 歴史の闇

ディアトロフ峠事件とは、1959年2月当時のソ連領ウラル山脈北部で
スノートレッキングをしていた男女9人が
不可解な死を遂げたことで知られる事件である。

未だに説明のつく改名がなされていない上、
当時は米露の冷戦さなかであったことから様々な憶測を呼んだ。

「ディアトロフ」とは、一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフの名からきており、
事件はホラート・シャフイル山(地元マンシ語で「死の山」の意)の東斜面で起きたのだが、後にディアトロフ峠と呼ばれるようになった。

当時の調査によると、一行はマイナス30度の極寒の中テントを内側から引き裂いて裸足で外に飛び出した事がわかっている。
遺体には争った形跡はなかったが、9体中の2体には頭蓋骨骨折、別の2体は肋骨損傷1体は舌を切り取られていたという。
さらに何人かの犠牲者の衣服から高い線量の放射能が検出されている。

当時のソ連の捜査当局は“抗いがたい自然の力”によって9人が死に至ったとし、事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じた。


【事件の概要】
・1月25日、スヴェルドロフスク州北部の中心地イヴデリに一行の乗った列車が到着。
彼らはトラックをチャーターしさらに奥地に入り、イヴデリから約80km北方にある最後の有人集落ヴィジャイに到着、そして1月27日いよいよヴィジャイからオトルテン山へ向け出発した事が判明している。

この時、班員の一人が急病に罹り集団から離脱。
それ以後、彼らの足取りは目撃証言も含め全く不明である。
そのため遺留品のカメラや日記等から推測するしかないのだが、どうやら悪天候のためか道に迷い目的とは違う山に登ってしまったらしい。

最初の救助隊が送られたのは、2月になってからであった。
その後軍と警察も動き始め、救助活動はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものとなる。


・2月26日、捜索隊がホラート・シャフイル山で酷く損傷して放棄されたテントを発見。
「テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われていました。中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていました」との証言あり。
テントは内側から切り裂かれていたことがわかっている。
そのテントから、8つないし9つの、靴下の足跡・片足だけ靴を履いた足跡・そして裸足の足跡が、近くの森に向かって続いていたが、500m地点で雪に覆われてしまっていたためそれ以降は不明。

森のはずれの大きなヒマラヤスギの下で下着姿で靴を履いていないユーリー・クリヴォニシェンコと、ユーリー・ニコラエヴィチの遺体、そして焚火の跡を捜索隊が発見。

ヒマラヤスギとキャンプの間で、捜索隊は更に三人の遺体を発見。

遺体はそれぞれ木から300m、480m、630m離れた位置から別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していた。


残り4人の遺体を探すのには、更に2ヶ月を要した。
残りの遺体は、ヒマラヤスギの木から更に森に75m分け入った先にある渓谷の中で、4mの深さの雪の下から発見された。


以下、箇条書き。

 ・テントは内側から切開されており、一行のメンバーたちは靴下や裸足でテントから逃げ出している。
・検死の結果、5人全員の死因が低体温症であることが判明
・5月に発見された4人のうち3人は致命傷を負っている。
  1人は頭部に大きな怪我。2人は肋骨を酷く骨折していたにも関わらず遺体に外傷は見られなかった。
  また、肋骨を折られた1人は舌が無かった
・現場には一行の足跡のみ残されており、至近距離で争った形跡もない。
・気温が摂氏マイナス25度から30度と極めて低く、嵐が吹き荒れていたにも関わらず遺体は薄着であった。
・彼らの内の何人かは片方しか靴を履いておらず、その他の者は裸足か、靴下しか履いていなかった。
・一行のメンバーのうち、6人は低体温症で死亡し、3人は致命的な怪我を負って死亡。
・9人以外に他の者がいた様子も、その周辺地域に誰かがいた様子もなし。
・何人かの犠牲者の衣服に、高い線量の放射能汚染が認められている

発表された資料には、メンバーの内臓器官の状態に関する情報が含まれていない。


当局の最終的な調査結果は、全員が“抗いがたい自然の力”によって死亡したという公式発表としては信じられないものであった。
死因審問は1959年5月に公式に終了。「犯人はいない」との結論に至る。
資料は機密文書保管庫に送られ、1990年代になってようやくコピーが公開されるようになったが、その頃には幾つかの資料が失われていたという。

また事件(遭難)当時、空にオレンジ色の光の発光も報告されており、UFO説・軍事機密説・雪崩によるパニック説なども主張されているが、本当のところは未だに不明である。




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187 :本当にあった怖い名無し : 2006/05/04(木) 03:49:43 ID:8r/F/JVf0
信じるか信じないかは別として知り合いに変わったやつがいる
小学校時代からの友人で、現役の住職をやってるやつがいる

私自身は霊感なんてこれっぽちも持ち合わせていないのだが
こいつのせいで 何回かありえない現象にあっている

私は職業システムエンジニアでそういったものはまったく信じてないし、
ありえないし、いるはずがないと日頃から公言している
そういうのもあって住職がやたら私にそういうものや話しをしてくる

社会人になって間もない 夏のある夜、住職から電話があった
「よぉ 俗世間の生活はどうだ? 楽しいか? 今から時間あるか?」

ちょっと酔っ払ったような軽く興奮したような そんな早口の口調だった
日頃は年の割には達観したというか落ち着いた口調の奴なんだが、めずらしい事もあるもんだと思って
私 「まぁ明日休みだし、久しぶりに飲むか?」と答えたら
住職「今からいく」
十分もしないうちに住職がやってきた

住職「いやぁ ひさしぶり 何年ぶりだ?ん?」
そういいながら 家にやってきた
私「あほか こないだおうたとことこやろ それよりなんか用か?」
住職「友達にあうのに用がいるのか? あははは」


188:本当にあった怖い名無し :2006/05/04(木) 03:50:27 ID:8r/F/JVf0
酒をちびちび飲みながらくだらない話をしてたんだが
なんか様子がおかしい 
妙にうれしそうだ

私「お前 なんかあるやろ そんなにうれしそうなんおかしいぞ」
住職 「やっぱわかる? 今日はちょっとおもしろいものもってきた」
私「なんや? ビデオか? ゲームか? つまらんもんは嫌やで」
住職「ふふ ジャーーん いわくつきの御人形!」
そういって鞄の中から木箱だして 蓋をあけて見せた

私「うわ・・・・いやがらせか? 第一そんなもんどっからひろてきたん?」
住職「まぁきけ」

話しはこうだった
住職の知り合いAさんから妙な相談を持ちかけられ
私の家に来る前にいってたそうだ
妙な相談というのは、Aさんが東北でかった古い人形を見てくれというものだった
Aさんいわく 
人形を手に入れてから、家で子供の話し声や誰かがいる気配が常にするので
住職のお寺でお払いしてほしい 
そんな相談だったらしぃ

私「・・・でこの人形になんかあるん?」
住職「まぁそれは内緒 言ったら面白くないやん」
住職「これ見てみ御人形さん悲しいというか怒ってるというかそういう顔してはるやろ」
私「・・・確かに古臭いが そんなんありへんよ あほらしい」

住職「お前ならそういう思てね もってきた んで今日はここに置いていく」
私「・・・まじで? 預かりもの置いていくなよ 何考えてるの?」

住職「まぁお前、日頃から全否定してるやん それにこれ昼間でないと・・」
私「はぁ?意味わからん ふざけんな もって帰れよ」
住職「それにこれはAさんとこ返されへんからな ほなな かえるわ」


189 :本当にあった怖い名無し :2006/05/04(木) 03:53:07 ID:8r/F/JVf0
本当に置いていった・・
見たところちょっと薄汚れてたが普通の日本人形だった
少し酔ってたせいもあって気にも止めないで、人形を箱にほりこんで、
箱をTVの上に置いてその日はぐーすか寝たんです

しばらくして 喉が無性に渇いて目が覚めた 
時計をぱっとみると03:30
人形のことなんかすっかり忘れて 台所で水をごくごく飲んでたんです

そしたら服をちょいちょいと引っ張られて
ん?とおもってみたら 子供が私のよこっちょにいて
「うちらもお水・・・」
あぁ・・はいってコップに水をいれてる最中に我に返りました
びっくりして振り向くと 
部屋中に何十人も子供がいてこっち見てたんです

情けないことにそっから記憶がなく、
朝 住職のインターホン連打で目が覚めました

私「もぉ休みの朝早くからちょっとは迷惑かんがえろよ」
住職「ん? なにいうてるん?もぉ昼過ぎてるぞ」

時計をみると12時を過ぎてました
住職が私の顔を見てニヤニヤしながら、「昨日なんかあった?」
私「なーんもあらせんよ 酔ってたしぐっすり寝てたわ」
住職「んーー・・そうかぁ・・ まぁ 人形どこ?」
私「そこTVの上」
住職がTVの上においてある人形をひょいて持って、なんかブツブツ
言い始めた後 数珠を人形にかけたんです

住職「ほんまになんもなかった?」
内心 人形が箱から出てたと昨夜の子供の件でかなりびびりまくってましたが、
弱みをみせるのもしゃくなので 何もないと言いはねました


190:本当にあった怖い名無し :2006/05/04(木) 03:56:16 ID:8r/F/JVf0
住職「これね たぶん コケシ なんよ ようさん子供が憑いてる」
私「・・・・・」
住職「こんだけ 憑いてたら ご供養してもあかんしな これは焼かなあかん」
私「・・・・・適当なこというなよ・・・」
住職「ほんまやで ほれ」
住職が人形の着物はぎとったら 人形の腹から 何やら名前を書いた小さな紙が
ばらばらとでてきた

それを見てその場で泣きそうになったけど
その日のうちに 住職の知らないお寺にいってお払いしてきてもらいました


191 :本当にあった怖い名無し : 2006/05/04(木) 04:00:32 ID:8r/F/JVf0
以上 おわり


192 :本当にあった怖い名無し  :2006/05/04(木) 04:11:38 ID:lQhvxJXcO
乙!
その紙は一体何だったんだ…(゜д°)


194 :本当にあった怖い名無し :2006/05/04(木) 04:23:24 ID:8r/F/JVf0
当方関西なので会話が関西弁で申し訳ないです

細かいことはわかりませまんが、
災害か 飢饉の間引きかなんかじゃないかと
数十人以上憑いてて 憑きすぎてどんどん呼び寄せるくらいの物だと
普通のしろものじゃないとは言ってました

まぁ私は今でも信じてませんけどね


195:本当にあった怖い名無し  :2006/05/04(木) 04:42:53 ID:Q2ae8jTQ0
>192
コケシ(こけし)は”子消し”だから、間引いた子供の名前を書いた紙を
人形の腹の中に入れていたんだろうな。
(-人-)合掌


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世田谷一家殺害事件。
2000年に東京都世田谷区の一家4人が殺害された事件。
警視庁による正式名称は「上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件」。

2016年1月現在、犯人の特定・逮捕には至っておらず、未解決事件となっている

21世紀を目前に控えた2000年12月30日午後11時頃から翌31日の未明にかけて、
東京都世田谷区上祖師谷3丁目の会社員宅で、
父親(当時44歳)・母親(当時41歳)・長女(当時8歳)・長男(当時6歳)の4人が殺害された。
隣に住む母親の実母が31日の午前10時40分過ぎに発見し、事件が発覚。


この事件は、年の瀬の犯行だったことや、
子供もめった刺しにする残忍さ、及び犯人の指紋や血痕・靴の跡(足跡)等数多くの遺留品を残している点
殺害後に犯人が長時間被害現場に留まり、
勝手にパソコン使用・アイスクリームを食べるなどの犯人の異常な行動が多く見られ、
証拠の多くが現場に残されていながらも、
犯人の特定に至っていないことでも注目される未解決事件である。

以下に犯人の特徴を列記する。
・犯人は犯行時に手を負傷、現場に残された血液から血液型はA型と判明(殺害された一家にA型なし)。
・血液からは薬物反応はなし。たばこも吸わない。
・被害者宅の冷蔵庫のビールは手つかず。一方で、犯人は麦茶を飲んでいた。
・犯人は右利き。
・犯人の指紋は渦状紋。被害者宅からは十数個発見されるも過去の犯罪者の指紋データと合致せず。
・服装などから犯人は身長170センチ前後、胴回り83センチ前後
・警視庁の2,000を越える犯罪者指紋データから特定出来ないということは犯罪歴がない可能性がある。
・犯行時の行動から性格は大胆で図太い?しかしトレーナーを畳むなど几帳面な部分も。

血痕のDNAから父系がアジア系民族、母系には欧州系(地中海)民族が含まれることが判明。
「日本人には少ない型」であるといえる。


詳細は省くが、2006年当時のDNA型鑑定によれば母系統・父系統ミトコンドリアより
日本人よりもその他のアジア系民族に多いタイプであることが判明。
このタイプのの分布頻度は日本人の約13人に1人、中国人の約10人に1人、韓国人の約5人に1人である。
親指の指紋(渦状紋)は、中心に豚の鼻のような2本の線があるという。


被害者宅1階部分は玄関を入るとすぐに書斎がある。
この書斎は、父親が仕事部屋兼応接間、子供の学習部屋として使用、現金約6万円が手付かずであった
犯人がンターネットを閲覧したとみられるパソコンもここに置かれていた。

さらに、犯人の入出経路とされる浴室、
長男が殺害されていた子供部屋・バルコニーがある中2階・台所やダイニングルームと
その奥の犯人によって物色されていた居間がある2階。
そして母親と長女が寝ていた屋根裏部屋(ロフト、3階)の4層構造。

一方、3種類の粉末蛍光染料が発見された車庫は
事件発生時にシャッターが閉まっており犯人が侵入した形跡はなかった。
車庫前には1台分の小型車を停めるスペースがあり、
事件直後のニュース映像では一家所有の車がこのスペースに置かれているのが確認できる。

 


被害者宅の裏側は公園。
犯人の入出経路は被害者宅の裏(公園側)にある2階浴室の窓と見られている。
玄関とする説もあり。

浴室の窓は空いており網戸は外にはずれ落ちていた。
また、窓の真下の地面辺りから犯人の靴跡とよく似た大きめの足跡が発見、
同じく窓の真下の公園フェンス付近の木の枝も折れていた。

特別捜査本部が検証した結果、若者なら2階の浴室から無理なく侵入可能なことが明らかになっている。

発見時に玄関の扉の鍵は施錠。
また、玄関のドアノブなどからは犯人の痕跡(指紋や血痕)は発見されず。


・犯人が着ていたと思われる遺留品のジャンパーに擦った痕がない。
・浴室の窓などから繊維痕、擦れた跡が発見されていない。
・被害者宅に残っていた血の付いた足跡が階段の途中から上りの一方向のみ

だったことから、「玄関から靴を脱いで侵入し犯行に及び、
床が血だらけになったため階段の途中で再び履いた」という警察幹部の見解もある。

被害者の殺害の推定時刻は30日午後11時30分頃。
①犯人は2階子供部屋の二段ベッドで寝ていた長男を殺害後、
②異変に気づいた父親を殺害
③最後に屋根裏部屋(3階)で寝ていた母親と長女を襲って殺害。
なお、犯人が軍隊などで習うような横歩きをしていたことが足跡から判明している。

父親の遺体は1階の階段下、母親と長女は屋根裏部屋下の2階踊り場付近で発見。
さらに、屋根裏部屋の布団から母親と長女の血液が発見された。
父親・母親・長女は全身負傷していた。
長男のみ手で首を絞められたことによる窒息である。
また、父親の頭部に柳刃包丁の破片が残っていたという報道もある。
母親と長女は顔や首を中心に上から切りつけられていたが、
父親は足(太もも)や尻なども切りつけられていた。

女性被害者は何度も刺されていたという情報もあり、被害者の性別によって殺され方が異なっている。
死後も執拗に何度も刺していることが明らかである。
現場に長女の血のついたティッシュペーパーが落ちており、
犯人は母親が負傷した長女の手当てをしているのに気がつき再び襲ったとみられる。

長男は二段ベッドの下段にてうつ伏せ、布団が被せられていた。

殺害に犯人が持参した柳刃包丁の刃が最初(父親殺害)の犯行時に数ミリ欠け、
その後には完全に折れたことから被害者宅にあった文化包丁も凶器として使用された。
血痕から母親と長女は先端の折れた柳刃包丁で傷を負わされた後に文化包丁で殺害されたことが判明。


パソコンの通信記録から犯人は侵入の翌朝まで
なんと10時間以上に渡り被害者宅に潜んでいた可能性がある。
電話が通じず不審に思った母親の実母が被害者宅を訪問、
呼び鈴を鳴らしても反応がないので合鍵で中に入り事件が発覚した。

犯行時に負傷した傷の手当てか
現場では救急箱が物色されており、
犯人の指紋が付着した絆創膏、血痕が付着したタオルなどが2階の台所に散乱。
絆創膏の一枚は傷口に当てた後で剥がし、居間にあったノートの裏に貼り付けている。
また、生理用品で止血を試みるなど治療した形跡も確認。

殺害後に犯人は被害者宅の冷蔵庫からペットボトルのお茶(麦茶)やメロン、
アイスクリーム4個を取り出して食べている。
この他台所には犯人の唾液が付いたコップも放置、物色中にガムを噛んでいたことまで判明
犯人はアイスのカップをなんと握りつぶして食べていた
また、犯人が直接かぶりついたためアイスに歯型が残っていたという。

また何故か、2階の居間ではソファにカード類、手帳や銀行の預金通帳、運転免許証など
生年月日の分かる書類などが仕分けされていた。
2階の浴室では、浴槽の中に父親の仕事関係の書類や領収書、母親の塾の書類、
前述の止血をしたと見られる生理用品、タオル、アイスのカップなどが散乱。
このことから犯人が家の中を物色して不必要な物を浴槽に捨てた?可能性がある。

また、浴槽に散乱していた書類や広告チラシなどはハサミや手で引きちぎられており、
犯人は被害者宅のトイレを使用した形跡があった。
「実話ナックルズ」によると、大便の中からインゲンとゴマが検出されたという。
これは、被害者一家の胃の内容物や食事とは異なっている。
また、犯人が2階居間のソファで仮眠した形跡が残されている。



被害者宅のすぐ脇は、仙川の側道が続く。

犯人の私物と思われる現場の遺留品が購入できた場所として、
京王線沿線やJR荻窪駅周辺、小田急線本厚木駅周辺などが挙げられており、
これらの地域が事件当時の犯人の生活圏だった可能性がある。

現場には犯人の私物と思われる遺留品が多数残されていた。
以下に現在判明している遺留品の情報を記していく。

・現場に残されていた衣類は綺麗に畳まれていた(害者宅の2階部分)
・被害者宅の最寄り駅のある京王線沿線や杉並区のJR荻窪駅前など
現場周辺でもトレーナーや柳刃包丁、ヒップバッグ、ハンカチに付着していた香水は購入可能。
・柳刃包丁やヒップバッグ・帽子・ハンカチ・手袋など
マフラー以外の物が小田急線本厚木駅付近の衣料品店や金物店でも扱われており、
トレーナーも神奈川県厚木市内の店舗で3着が販売されていたことが判明
・同線の相模大野駅周辺ではトレーナーとマフラー以外の物が購入可能。
・トレーナーには返り血が大量に付着していたものの、2階の居間から綺麗に畳まれている状態で発見。
同年TBSで放送されたドラマ『ビューティフルライフ』で、主演の木村拓哉が着ていたタイプとされ、当時、若者の間で流行していたラグランシャツと呼ばれるものである。

・このトレーナーと同タイプで同サイズのものは全国で130着、
都内では4店舗で計10着しか売られていなかった
・ユニクロ製「エアテックジャンパー」で、黒色、Lサイズ。
・遺留品ではないが、現場に残されていた足跡から英国ブランド「Slazenger」(スラセンジャー)で、韓国のメーカーが1998年10月から2000年11月にかけて4530足製造販売していた。
・黒で無地のハンカチ2枚は45センチ四方で無印良品で販売されていたもの。
・ヒップバッグは深緑色でふた付き、ベルトの長さは83センチに調節。
韓国製で1995年から1999年にかけ関東地区のディスカウント店などで2850個販売された。
また、バッグの表面からは
日本ではほとんど流通していない、硬水によく溶ける特種な洗剤とみられる成分も検出。
このことから、犯人または周囲に「日本国外の渡航歴がある人物」の存在が論じられているようになる。」
・バッグの中にはその他にも、印刷機のロールに装着するインク汚れ防止用フィルムや
道路標識の反射材などに使われる微小なガラス球(ビーズ)、
金属シリコン、ニッケル、銅、約1億4000万年前のものと思われるモナザイト(花崗岩に含まれる鉱物)など
の細かい粒が大量に見つかっており、
その中には日本に流通していない成分や一般の人には入手しにくいものまで含まれていた。
・遺留品のバッグの中から長さ数センチの黒色の毛髪が発見、
毛髪のDNA型は現場に残された犯人のものと一致。

・被害者宅にあった父親のトレーナーがなくなっており、犯人によって持ち出された可能性がある。

父親は1階の階段下で外出着姿(片足が裸足)、母親や長女は2階階段踊り場付近、長男は2階の子供部屋でそれぞれジャージなどの寝巻姿で発見されている。

ところが、父親の遺体の上には引き出しが乗せられていたといい、
さらに母親の遺体は全体が黒っぽい山のように見えたとも証言していることから
顔を含む全体に洋服が被せられていた可能性がある。
ただし警察が到着した時点では一部動かされてしまっていたため、
遺体の顔まで引き出しや洋服により覆われていたというのは確実な情報ではない。
この他、長男は頭の方から布団が被せられており長女は顔が下向きになっていた

また、事件からちょうど100日目の2001年4月9日、
東南アジア産出の花崗岩で作られた地蔵が被害者宅から
仙川を隔てた遊歩道脇に置かれていたことがある。
地蔵の底と台座上部に「六」の文字のようなものが彫られており、指紋は採取されなかった。
 

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人形の怖い話ありませんか?(ΦДΦ)<一巻目

289 :もしもし、わたし名無しよ:2005/09/22(木) 12:32:32
基本的にドライだけど、一体だけ気になる子がいる。
イタコの家系の子に「あ、これいるね。小さい女の子」と言われた人形で、
海外の某強制収容所で鞄に入れたまま移動してて、ついてきたらしい。

別に怖くもなんともないんだが、
しばらく忙しくてかまってなかったりすると夢に出てくる。
夢で泣いてて「~なら・・・で・・・」とよく解らない事を言って怒っているのを、
他の人形が宥めたりしている夢とか、枕元の隣にこっちをじっと見て寝ている夢とか。




あと不思議な事に、箱に入れてしまったいるんだけど、
忙しくてしばらくかまわないと、髪の毛が物凄くボサボサになる。
よく遊んでいる時はサラサラだし、
他のサラン植毛の人形は一度もそんな風にならないので何か不思議。

いないかもしれないけど、いるとかわいそうなので、
その子はなるべく寂しくないように玩具を入れたり、子どもの喜びそうな場所にはこっそり連れて行く。
怖がられるので、その子が憑いてると言われた話は周りには秘密。
霊感0なので、いてもいなくても別にいいやと思ってる。
怖い話じゃなくてすまん。


292 :もしもし、わたし名無しよ:2005/09/22(木) 13:04:54
じゅうううううううううううううううううぶん怖い。
つか、強制収容所で何かがカバンに入って家の人形に移ったの?
まさか強制収容所で拾った人形じゃないしな。


295 :もしもし、わたし名無しよ:2005/09/22(木) 17:31:12
289ですが。
人形を鞄に入れっぱなしだったんです。
で、帰国して友達に会う前の約束を電話でしてる最中に、
『人形になにかいるね、旅行に連れてった?』と言われ、
会ったら
「あ、やっぱりいるね。そこで殺されたすごく小さな女の子、何にも解らないうちに死んでるね」との事。
「なるべく楽しい所に連れて行ってあげてね」と言われたので、
こっそり遊園地なんかに行く時には連れてってる。
しばらく放置すると大概夢に出てくる。

怒っていたり、泣いてたり、追いかけてきたり、寄り添ってきたり色々だけど、
「あ、悪い、最近忙しかったからなぁ」くらいで
怖いとはあんまり思わないのは、いても小さい子だしってのがあるかも。


【閲覧注意】

フォンニィ・フォンニャットの虐殺
は、ベトナム戦争中の1968年に、南ベトナムクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で、大韓民国海兵隊第2海兵師団(青龍師団)によって、非武装の民間人69-79人が虐殺された事件である。


1968年2月12日。
フォンニィ・フォンニャット村を訪れた韓国海兵隊第2海兵師団(青龍部隊)第1大隊は婦女子を集めると至近距離から銃殺、刺殺し火を付け立ち去った。

ところが、その日のうちにアメリカ海兵隊員4名・南ベトナム兵26名からなる部隊が現場に到着。
アメリカ・ベトナム兵は生存者へ手当を施し、病院へ搬送した。
また、J・ボーン伍長によって事件現場の撮影が行われている。
事件後に生き残った村人たちは犠牲者の遺体を国道1号線に並べて抗議の意思を示した。

当時のフォンニィ・フォンニャット村はアメリカ海兵隊と友好関係にあり、村の男たちはアメリカと同盟関係にある南ベトナム軍に参加していた。

続く2月25日には韓国海兵隊によってハミの虐殺が引き起こされ、ハミ村の婦女子・老人135名が虐殺されている。

事件を受けてアメリカ陸軍参謀総長ウィリアム・ウェストモーランド大将が韓国軍に調査報告を繰り返し求めたところ、韓国軍は韓国海兵隊の軍服を着たベトコンによる陰謀であったと報告した。

(フォンニィ・フォンニャットの虐殺当時の韓国内では、韓国政府が行った聞慶虐殺事件保導連盟事件では共産主義者に罪を着せることで虐殺事件を闇に葬りさることに成功していた)


韓国軍からの報告を受け取ったアメリカ軍では、監察官による調査を行う。
1970年にはに韓国海兵隊による虐殺事件であったことが判明する。

ベトナム派遣軍最高司令官だった蔡命新は、ハンギョレ新聞によるインタビュー(2000年)に対し、アメリカ人はゲリラ戦に無知であったために韓国側と対立することがあったが、最終的にはアメリカ軍は韓国軍の戦術を取り入れるようになったと述べている。


関係の程は明らかかではないが、事実、翌月には、アメリカ軍の一小隊によってソンミ村虐殺事件が引き起こされている。
だが、アメリカ軍は軍法会議を開き、実行犯を処罰した。
この事件について蔡は、戦争では普通のことであるとして実行犯を擁護する発言を行っている。

アメリカ軍内部では韓国軍を完全な後方部隊とするべきか、南ベトナム民族解放戦線が完全に支配する地域に配置転換するべきか、検討が行われている。
南ベトナム民族解放戦線では、全員が敵となるため、虐殺が起きてもトラブル扱いはされずに済む

韓国兵は残忍なやり方で女性を強姦してから殺害するケースを好み、アンリン郡の村人によれば、とりわけ女性にとって韓国軍は恐怖の的だったらしい。
また、妊婦や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだりした。
生き残った村人はバラバラになった遺体を井戸から引き上げ、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬るしか術がなかった。

1969年2月。
事件の遺族達によって南ベトナム議会に賠償を求める請願書が提出される。

一方、2000年には、蔡命新将軍は数々の事件について、我々は誰にも償いをする必要はないと宣言。

2013年8月。
クォン・キヒョン大韓民国国防部スポークスマンは、グローバル・ポストに対して、「韓国軍が組織的に民間人虐殺を行うことは不可能」「ベトナム女性への性的搾取はない」と、ベトナム戦争当時の韓国軍によるベトナム人虐殺・女性凌辱を否定した。

韓国軍によるベトナム人虐殺事件は、他にタイヴィン虐殺・ゴダイの虐殺・ハミの虐殺等が挙げられる。

以下、虐殺証拠写真。 【閲覧注意】 (スクロールで閲覧可能)














両胸をえぐり取られた上に銃撃を加えられた瀕死の21歳の女性。
写真撮影後に病院に徹送され、「お母さん、お母さん…」と母を呼びながら妹達の前で絶命した。
(J・ボーン米海兵伍長撮影)



至近距離から撃たれ前頭部を吹き飛ばされた2名の妊婦。
(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影)



アメリカ軍の手当を受ける負傷した少女。
(J・ボーン米海兵伍長撮影)



殺害された子供。
(J・ボーン米海兵伍長撮影撮影)



韓国軍に焼かれた住民。
(J・ボーン米海兵伍長撮影)




ロバート・モレヘッド・コック米陸軍大佐が監察官として作成した虐殺事件の報告書。
(1970年1月10日)


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【閲覧注意】

ソンミ村虐殺事件は、ベトナム戦争中の1968年にアメリカ軍兵士がクアンガイ省ソンミ村(現:ティンケ村)で非武装のベトナム人住民を虐殺した事件である。

ソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなり、また国外でも大きな批判の声が起こってアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。

1968年3月16日に、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のうち、“意地悪カリー”ウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソン・ティン県にあるソンミ村のミライ集落を襲撃し、無抵抗の村民504人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子ども173人)を無差別射撃などで虐殺した。
集落は壊滅状態になった。
(3人が奇跡的に難を逃れ、2008年現在も生存している。最高齢者は事件当時43歳)

さらにこれら中隊が何ら抵抗を受けていなかったにもかかわらず、別の中隊も増派され、近隣の村落で虐殺を行っている。
この時ヒュー・トンプソン・ジュニア准士官が操縦する偵察ヘリコプターが村落上空を通りがかり、多数の死者と民間人への攻撃を目撃。
彼は上官への報告・救助ヘリの派遣要請・生存者の救出を行い、虐殺を止めさせようと妨害を試みている。


アメリカ本国においては当初は「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」という虚偽の報告がなされたが、 翌1969年にフリーランスジャーナリストのシーモア・ハーシュが、雑誌『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じたことが端緒となり、ライフ誌の報道などでもアメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかとなる。

この虐殺事件は、複数のアメリカ軍兵士から軍上層部に報告されていたものの、軍上層部はアメリカ世論をベトナム反戦運動の方向へ導く可能性が高いことなどから事件を隠蔽したとされる。


以下、惨殺証拠写真。 【閲覧注意】


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Dead_woman_from_the_My_Lai_massacre.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Dead_man_from_the_My_Lai_massacre.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Haeberlewounded.jpg
この中央の兵士は、故意か偶然か自分の足を打ち抜いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Haeberlehutonfire.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Dead_woman_child-My_Lai.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:My_Lai_massacre.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Dead_man_and_child_from_the_My_Lai_massacre.jpg


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763
おいら ◆9rnB.qT3rc:2010/05/02(日) 16:42:56 ID:EgsXsJKE0

【出土品】
1/3

「お兄ちゃんの知り合いのあの子なあ、アレとはイマイチ合わん」
上野の飲み屋で、味噌鍋を二人でつつきながらヒレ酒を呑んでいたとき、
急に広島弁のジイさんに言われた。
最初、何を言っているのか判らなかった。
どうやら、最近ここに飲みに来るミカドさんのことを言ってるらしい。

この広島弁のジイさんは三船敏郎声のヒッピー崩れ。
「ごめんねバアさん」の時、空襲で死んだ女の子の憑き物を抜いて貰った恩人だ。
だが、ふざけているのかヒネくれているのか、自分の名前を絶対に明かさない。
店の大将も教えてもらえてないそうだ。
そのくせ、お爺さんと呼ぶと怒る。
始末に悪い。

一方ミカドさんは、変な踏切で助けた訳アリ女子大生だ。
ここを彼女に紹介してから、このジイさんとも何回か顔を合わせていたが、
当の店の大将がそういった話をあまり好まないので、
お互いにオカルトな話題は振らせない様にしている。
彼女の『スタンド』と呼ばれる、大きな黒い口のワニの化け物の話題にも、今ひとつ振り切れていない。
そこのところは残念だ。

「あの子って、ミカドさんの事ですか?」
「帝?大仰な名前じゃのう」
「違いますよ。三門と書いてミカド。大仰でも何でもないでしょ」
「変わらん。空門、無相門、無願門で三門。三解脱門じゃ。知らんのか?」
…このジジイ、こういったことは変に詳しい。
実際、何をしていた人だろう?
というか、その前にいい加減あんたの名前を教えろよ。
話し難くて仕方ない。


764おいら ◆9rnB.qT3rc:2010/05/02(日) 16:43:45 ID:EgsXsJKE0

2/3

「何か理由でも?彼女、気に障るようなコト言ってましたっけ?」
「いんや。よう解らんが、コレが妙にイガイガしよる。それと爪先が痛い」
「それも、決まってあの子が来ているときだけよ。気味が悪い」
あの…その爪先が痛いってのは、痛風です。きっと。
オカルトとは関係ありませんから。
と思っていると、ジジイがGジャンの上着のポケットから、何か取り出すのが見えた

ポケットから出されたソレ。
ヒッピー崩れのジジイが持つには、不釣り合いなアクセサリだった。
おい、いつも言ってる割には、ピースマークじゃないのかよ。
ガッカリだ。
ブローチくらいの大きさか、象牙で出来ている様にも見えたソレは、
何と言うか…何かの爪が2つ、三日月のように連なって「C」の字を成していた。
ブーメラン?
いや、何かの刃物を模している様にも見えるが…
多分日本のものではない。
どことなくアジア系の意匠の浮き彫りには、全面に赤黒くスミ入れが成されている。
結構古いものかもしれない。

で、ミカドさんが近くにいるとイガイガ反応するわけですか、これが?
彼女の『スタンド』と関係があるのか?
判らない。
取り敢えず今は話題を戻そう。

どこで見つけたのかしつこく尋ねても
「それは話したくない」と言って、ジジイはどこか苦しそうに笑った。
これはジイさんの個人的なお守りなのだという。
詳しい入手の経緯を聞きたかったが、上手くはぐらかされる。

「ほんなら、少しだけ教えたる。コレは越南の土産じゃ」
「骨と一緒に出て来た。大勢の人の骨だ。その中にあった。ワシが掘った」
「この黒いのは人の血だ。洗っても取れん」
「…」
店の大将が、露骨に嫌な顔をしたのが横目に入ってきた。


765おいら ◆9rnB.qT3rc:2010/05/02(日) 16:44:21 ID:EgsXsJKE0

3/3

かの国で大勢の人が一時に死んだとなると、その原因はだいたい察しがつく。
ヒッピージジイでPieceと言えば…、
「ベトナム戦争ですね?その時の遺骨と一緒に出た…?」
ジイさんは眉を片方上げて、少しニヤリとした。
ビンゴだ。
でも当時、その戦争に反対していたヒッピーが、何故現地に行っているのだろう?

その後、ジジイから引き出せたネタは、結局一つだけだった。
それもくだらないクイズ付き。
しかもおいらが正解した訳ではない。

「教えてくださいよ。ベトナムの何処で出たんです?」
「ワシの口からは言えん。呪われとる、嫌な場所じゃ」
「その変わり、クイズを出しちゃる。当ててみい」
そう言って、横に置いていた店の味噌の容器を逆さにして、ドンとカウンターの上に置いた。
「ほれ、読んでみ」
「はぁ…味噌の反対…醤油じゃなくて、塩でもなくて…、トンコツでもないよな」
「ばかもん。そのまんま読まんかい」
「味噌、噌味、ソミねぇ…ソミ…ソミ…うーむ」

ジイさんはマジにイラついていたのだろう。
そこまで言っておいて、思わずその呪われているという、嫌な場所の名前を、自ら言ってしまった。

あの有名な、虐殺のあった村の名前だった。                    




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タイビン村虐殺事件
ベトナム戦争時の1966年2月にベトナムビンディン省タイビン村で韓国軍が住民65人を虐殺した事件。

・1966年2月、ベトナムビンディン省に駐屯していた大韓民国陸軍首都師団(通称猛虎部隊)は早朝にタイビン村を訪れ、住民68名を1ヶ所に集めると銃撃を加えるとともに手榴弾を投げつけて婦女子を含む65名を殺害。生存者はわずか3名。

タイビン村では虐殺された犠牲者名を記した慰霊碑と事件を記録した壁画が設けられ、生存者が虐殺の証言を行っている。


ゴダイの虐殺
同1966年2月にベトナムビンディン省で韓国軍が住民380人を虐殺した事件。
・1966年2月、南ベトナムビンディン省タイソン県ビンアン村のゴザイ集落を訪れた韓国陸軍首都機械化歩兵師団(猛虎部隊)は住民380人を集めると一時間のうちに一人残らず虐殺した。
首都師団はゴダイの虐殺と並行してビンアン村の近隣にあるタイヴィン村で1,200人を虐殺するタイヴィン虐殺を行ったとされる。

韓国政府は、ベトナムでの虐殺や強姦など、自国の過去の蛮行を公式に認めようとしていない。
韓国兵の行為には韓国のメディアも人権活動家も目を向けなかった。
その根底には、韓国人の、ベトナム人に対する人種差別意識が原因との見方もある。


ハミの虐殺
1968年2月25日に南ベトナムクアンナム省ハミ村で大韓民国海兵隊によって非武装の民間人135人が虐殺された事件。
・1968年2月12日、韓国海兵隊第2海兵旅団(青龍部隊)(は南ベトナムクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で民間人虐殺事件を起こしその日のうちにアメリカ軍・南ベトナム軍によって犯行が明らかにされていたが、2月25日に再び、同じクアンナム省のハミ村で女・老人・子供・135人を虐殺した。

このため、アメリカ軍内部では韓国軍を完全な後方部隊とするかベトコンが完全に支配していて誰を殺しても問題とされない地域に配置転換するべきであるとした検討が行われている。



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【胸糞注意】
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660
師匠と八番目の弟子 ◆JuhF/R5.eU:2010/03/08(月) 22:00:55 ID:iBzBsDiAO

二つ目は、師匠の地元のお話。
前書いた、媚人、死人、死国について。


今は昔、香川の讃岐の山奥に、村があった。
その村は、老人ばかり住み、若者と言えば急米という若者位しかいなかった。
その若者は祖母と住んでおり、また、その若者は左手が無いものの、
右手だけでたくましく仕事をこなし、老いた村人からは頼られる存在だった。

そんなある日、町からお侍が訪ねてきて、我が城で侍にならないかと持ち掛けてきた。
急米は悩んだ。
何故なら町に行けば、老いた村人の世話をする人がいなくなる。
老いた村人は苦労するのは目に見えていた。
だが祖母が一言、都に行き、華やかな暮らしを見てみたいとせがんで来たため、
急米は渋々その町の城、香川城に行き、侍になることとなった。

急米は左手は無いものの、持ち前の勤勉さ、努力で剣の達人となり、殿様の右腕にまで上り詰めた。
だが、急米の居ぬ間にある悲劇が村を襲った。
城の者達により、急米と祖母が住んでいた村は焼き払われ、一人残らず殺されたのだ。
あるものを除いて。
それは急米が村で飼っていた犬。

ある日、急米の元にその犬が訪ねてきた。
そしてなんと喋ったのだ。
その急米の犬には殺された村人の怨念、魂が移っていたのだ。
そしてその犬は急米を廃村と化した村へと導き、急米に死んだ村人達と引き合わせ、事の経緯を伝えた。
急米は村人達の死に顔をみて、泣き崩れたという。

そして急米は城へと戻り、なぜそのような事をしたのかと詰問した。
殿様の答えは理不尽極まりない物だった。


661師匠と八番目の弟子 ◆JuhF/R5.eU:2010/03/08(月) 22:14:54 ID:iBzBsDiAO


その村は松茸がとれやすく、
また、村ごと焼き払う事で、村人や村を灰にし、松茸をとりやすい環境にしたのだ。
だが、村人の怨念か、松茸は一本しか採れなかった。
そして、それを手ぐすねしたのは、他ならぬ急米の祖母だったのだ。
つまり、祖母は金に眩み、村を売り、
たかが一本の松茸の為だけに村人達は殺されてしまったのだ。

その話を聞いた急米は怒り狂い、殿様を刀で切り殺した。
そして、金の亡者と化した祖母や、村人達を殺した、城にいた者を一人残らず殺した。
まるで何かに取り憑かれた如く。
その時、急米を見た人はこう言ったと言う。
その時の急米は笑いながら人を殺したと。まるで鬼の如し…笑鬼だと…
そして香川城はお家断絶、崩壊した。
たった一つの松茸の為に。

そして急米の子孫はいま、香川市のどこかでうどん屋をしている。
今はもう名前を変えたが、名を変える前の名は…笑鬼。

今日はこの位にしましょう




星条旗よ永遠なれ




1名無しさん :2015/12/30(水) 22:35:06 ID:SqQBkhh20

某掲示板サイトに投稿した話を再編集して投稿します。
一気に投下するので、できたら返信お願いします。
コピペではありませんし、フィクションではありません。実話です。

ひいおじいちゃんがついこの間亡くなりました。
なので、いつもおじいちゃんが語っていた話をします。
おじいちゃんに怖い話をしてくれと頼むといつも話してくれる話しがありました。
その前に、おじいちゃんについて少し説明させていただきます。
僕のひいおじいちゃんは、太平洋戦争で陸軍の戦車兵でした。
それも、戦車を運転する操縦手だったそうです。

おじいちゃんの話によると、それはルソン島での戦いで起きたそうです。
ルソン島の戦いといえば、恐ろしい激戦地であったという話をよく耳にします。




2名無しさん :2015/12/30(水) 22:35:39 ID:SqQBkhh20

おじいちゃんは、この話をする時いつもこのように話しました。
ここから先はおじいちゃんの話を再現して書きます。

「忘れもしない1945年6月...あれは何日だったか、今では思い出せんな。
雨が降っていて、ただでさえ高いフィリピンの気温に加え
チハ車(97式中戦車チハの呼称)のエンジンの熱によって蒸し暑かったのを覚えいる。」

「日も傾いてきた頃、戦闘中に味方の戦車隊からはぐれてしまったんだ。
すぐ近くで砲声は聞こえるんだが...」

「戦車長が外に出ても味方の戦車も敵の戦車も暗くて見えないと言うのだ。
馬鹿な、そんなことないだろう、味方も敵も撃ちゃあ分かるだろ、と言ったが、
操縦席の細い窓から覗いても、本の数メートルまでしかヘッドライトは照らしていない他
何の光も見えなかった。」


3名無しさん :2015/12/30(水) 22:36:43 ID:SqQBkhh20

「しばらく前進していると、急にがくんと衝撃がきて、戦車が停止しちまったんだ。
それも、エンジンが止まったわけじゃなく、
なんかにぶつかってつっかえたみたいに、履帯が空回りしているように。

おかしいな、溝にはまったか?と怪しんでいたら、
突然四方八方から激しい砲声や銃声が聞こえたんだ。
車内に響く跳弾の音に、乗組員四人全員が震え上がっていたのを覚えている。
いつまでたっても音は止まらない。戦車は無事なようで、動力にも乗組員にも何ら異常は無かった。」

「それでも戦車は前に進まなかった。
俺は、アクセルも全開で戦車を走らせようとしたんだが、
除き窓からは戦車が前進してる様子は見られなかった。

すると、跳弾の音が少し収まって、音楽が聞こえてきたんだ。
日本の軍歌じゃなくて、...これは後で説明するか。
銃撃が収まってきた頃に、砲手のひとりが外の様子を見ると言って、
ハッチを少し開けて、身を乗り出したんだ。

ここからやっと全員が異常に気付き始めた。
その砲手が急に笑い出して、狂ったように軍歌を歌い始めた。
異変に気付いたもう一人の砲手が半身外に出てる砲手を捕まえると、そいつも軍歌を歌い出した。」

「二人の砲手が涙を垂れ流しながら狂ったように砲撃を始めたので
俺とあと一人は唖然として砲手の様子を見ていた。
俺はどうしたのかと聞くために操縦席を立って二人に詰め寄ったが、もう完全に乱心だった。
明らかに変だ、一刻も早く味方と合流しなくてはならないと直感した。」

「操縦席に戻ろうとしたところで、俺は恐ろしいものを見た気がしてすぐに後ろを向いた。
はっきりとは見ていないが、操縦席の除き窓に何か景色以外の物があった。
禍々しいものだとは気付いた。
上で軍歌を歌う奴らもこいつが原因だともすぐに分かった。
まだ正気を保っているもう一人の仲間もそれに気付いて、こっちを向いて口をぱくぱくさせていた。
俺はそれを見ないように後ろを向きながらアクセルを踏んだ。
戦車は走っているのか止まったままなのかよくわからないが、とにかく前進する努力をした。
俺はとても恐ろしかった。もう無我夢中だった。」


4名無しさん :2015/12/30(水) 22:37:26 ID:SqQBkhh20

「そのうち、また銃声が聞こえてきた。もうその音でほかの音は何も聞こえなかった。
隣の仲間もうわぁ、助けてくれぇ!と泣き叫んでいた。
俺も同じだった。銃声に紛れてあの音楽も聞こえてきた。
みるみるうちに音量が大きくなっていった。
俺が全て諦め、耳を塞いだその瞬間に、とてつもない衝撃とともに俺は意識を失った。」

「大丈夫か?と言われて俺は目を覚ました。もう元の戦場の音しか聞こえなかった。
声をかけてくれたのは隣にいた仲間だった。
もう大丈夫だ。安心しろと言われて後ろを見たら、あの砲手の二人は自決した後だった。
いつ自決したのかわからないが、二人の近くには拳銃が落ちていた。
俺たちは二人で戦車からはい出た。
東に日が見えた。
もう朝だった。
自分たちの乗っていた戦車を見て、これまたあっと声を上げたのを覚えている。
忘れもしない。戦車は血みどろだった。至るところに血がついていた。
そして、戦車の履帯のところに、星条旗(アメリカの国旗)の切れ端が絡まっていた。」

「その後、俺たちは友軍の戦車に助けられた。
後で聞いた話、俺たちが所属していた戦車隊は全滅したらしかった。
戦後、あの時聞いた音楽は『星条旗よ永遠なれ』だったと知った。」

そして、いつもこの話をした後にひいおじいちゃんはCDで『星条旗よ永遠なれ』を聞かせてくれました。
長々とすみません。
この話はこれで終わりです。



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