サイケデリック・奇譚

永遠の日常は非日常。

カテゴリ: 事件

小4の頃
弟が生まれるから実家に預けられてた時期があった。
ばあちゃんも爺ちゃんもすげー優しくて楽しい日々を過ごしてたんだが、
ある日、トイレ行こうと思って12時ぐらいに起きたんだ。
トイレは一階で俺がいた部屋は2階だったんだ。

階段下りてトイレしてかえろうとしたら
爺ちゃんがいる和室からうめき声が聞こえてきたから
爺ちゃん病気か?と思いふすまを開けたんだ。

そしたらじいちゃんが、うーんとか言ってうなされてえたんだけど、
爺ちゃんの布団のすぐ横に、人型の真っ黒いなにかがジーッと爺ちゃんを見てるんだよ。

わけわかんなくて固まってたんだけど、
うめき声の主が、その黒い何かなのはわかったんだ。
俺は霊感とかないんだけど、その黒いのがすげー怒って爺ちゃんをにらんでるのは分かった。

数分間そうして固まってたんだけど、不意に黒い奴が俺をにらんだんだよ。
睨まれた最初はすごい怒りと殺気を感じたんだけど
だんだん怒りのオーラがなくなってったのがわかった。
そして泣き声?みたいなオォン…オォン…って言いながら消えてったんだよ。

俺は怖すぎてもうわけわかんなかったんだがそこから動けなった。
そいつがいなくなると爺ちゃんも落ち着いて静かに寝始めた。
その部屋にいるのはもちろんこわいが
自分の部屋に帰る途中に黒い奴に遭うかもしれないと思うとその場を動けなかった。
結局その日はそこで寝たんだ。

次の日、爺ちゃんに夜中のことを話してなんか知ってるか聞いたんだ。
そしたら爺ちゃんはなかなか話したがらなかったんだけど
しつこく聞いたらこんなことを話してくれました。

爺ちゃんは若いころ学生運動をやってたらしいんだけど
あるデモの日、機動隊にデモ隊が投石やパイプなんかをして攻撃したらしい。
機動隊はあまりの攻撃の激しさに撤退を始めたが
盾を持ってないガス銃を持ってた隊員が一人、デモ隊につかまったんだって。

その隊員は数十人にパイプやビン、角材で暴行されて重傷を負い意識を失った。
するとデモ隊のリーダー格のやつがその隊員にガソリンをかけて
そいつの合図でデモ隊が一斉に火炎ビンを投げた。

隊員は燃えながらも途中で意識が戻り、必死に火を消そうとしたらしいが
数十秒くらいして死んだらしい。
じいちゃんはその現場にいて、ほかのデモ隊のやつらと一緒に歓声を挙げたそうだ。

それから学生運動のブームはすぎ
じいちゃんは普通に就職してばあちゃんと出会い、結婚し父が生まれたんだが
ちょうど子供が生まれたぐらいから夜布団にその機動隊員が来るようになったそうだ。
機動隊員はただ何をするでもなく
怒りながらじいちゃんをじっと睨むんだそうな。

その話を聞いてから
俺は爺ちゃんとその後いっさい口をきかなかった。
爺ちゃんがそんな人だとは思わなかったからマジショックだった。
後悔してるとか反省してるとか言ってたが
そんなんで許される分けねえだろごらああ!

爺ちゃんは数年前に病気で他界したが、死ぬ直前までごめんなさいと連呼してたんだって。
もう機動隊員の方に申し訳なくて…


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(記事内の渋谷暴動事件と思われる)

【閲覧注意】

【被害者たち】
・襲撃を受けた部隊は臨時特別機動隊であり、専門訓練を受けた機動隊ではなく支援部隊であった。
そのため武装も比較的軽装であり、ある意味非常に貧弱な装備しか持ち合わせておらず襲撃も150名ほどの想定しかしていなかった。

殉死した3人は下着のみの姿で発見され、半分が焼けただれた体で顔だけが異常に膨れ上がっていた。
遺体に加えられた残虐な損壊も甚だしく、ベテランの検視官すら「これが人間のすることか」と絶句したという。
死因は3人とも脳内出血と脳挫傷だったが、凄惨な暴行痕が残されていた。

小隊長の福島誠一警視(享年47歳)
・頭蓋骨亀裂骨折・脳内出血・肋骨17本の骨折(折れた骨は肺に突き刺さっていた)・顔、頭、胸部に28カ所の打撲傷。
柏村信治警部(享年35歳)
・火傷・頭蓋骨亀裂骨折・肋骨2本の骨折・頭部に複数の打撲傷・腕、背中にも打撲傷。
森井信行警部補(享年23歳)
・頭蓋底骨折・頭部に複数の打撲傷・顔、顎、胸、肩に火傷・左肩に打撲傷・左右の足に打撲傷。

これほど重大な事件であるにも関わらず、機動隊のフォローなしには現場検証すら難しく、捜査は難航する。警察官惨殺という殺人事件を起こした後でさえ、反対派及び中核派(極左暴力団)の抵抗・反撃・襲撃といった捜査妨害が続いていた。

とはいえ500人以上もの集団が秘密裏に集結・逃亡するためには、地元の地理に詳しい者の関与が必須であり、最終的には、空港反対同盟青年行動隊員らを中心に地元住民ら153人が連行逮捕55名が起訴となる。
逮捕者の連行に反対同盟は家族会を結成し、逮捕者に対する支援を開始。

しかし、以前の公務執行妨害やデモ集会時とは全く異なる事態に警察側の態度は硬化する。
それまでの逮捕者は、警察内でも同情的な意見もあり厳罰に処される事はなかったが、もはや殺人暴徒集団と同等に成り下がってしまった反対同盟(地元住民)らの責任は逃れようがなかった。


【変わる世論】
・当時は共産主義活動が活発であり学生運動に共感する者も多く、マスコミは反対派に同情的だった。
学生だけでなく反対派の子供までも「行動隊」と称して国家権力と戦うといった構図は、世論的にもわかりやすく、応援者も多かったと思われる。

しかし、この3人の警察官殺害を機にマスコミの態度は一変。
大っぴらに犯人捜しが行われ、世論も学生運動に冷ややかな眼差しを向けるようになった。

こんなエピソードがある。
都内の駅ターミナル内で、活動学生らが反対運動支援のカンパを呼びかけていた。
「学生側も危篤者二人。当局は巧みに報道管制をしいている」とのビラを撒くも「罪のない警官をなぜ殺した」と詰られ、殺人も許されると開き直る学生らとの諍いが、あちこちで勃発したという。

このような中、全共闘運動は急速に支持・勢力を失ってゆく。


【崩壊する反対派組織】
・警察官死亡のニュースは、反対派住民らの上にも大きな影を落とした。

反対同盟事務局長の北原鉱治は新聞記者の取材に対し「機動隊が前面に出てこのような代執行をしたことが、一切の事態の原因です」と断言。
「問答無用で死人が出るような状況を作っているのは権力側」であるとし、「警官三人が死んだ責任はあげて国側にある」と主張

しかし事の重大さがのしかかり、反対住民らは重苦しい雰囲気に包まれていた。
10月には青年行動隊の1人・三ノ宮文男が精神的苦痛を理由に自殺
他にも警察の捜査による逮捕者の続出や、法廷闘争の疲弊、加えて保釈金や裁判費用捻出など、代償はあまりにも大きすぎた。
生活すらままならなくなった住民達は、実力闘争離れから急速に離脱してゆく。

三ノ宮文男・・・事件時には「もうやめろ!」暴行を受ける警官の上に覆い被さってかばっていた。

しかし、この崩壊は新たな住民達の悲劇を生む。
闘争の実行役は地元反対同盟から新左翼活動家へと基軸が移り、巧みに闘争内容がすり替わってゆく。
闘争のため疲弊した農家を支援するとの名目で活動家らが地域に入り込み、活動家女性を嫁がせて親戚関係を作り上げるなど、いびつな力関係を強要し出す。
囲い込まれて活動家運動に巻き込まれた農家も少なくない

反対派から移行した農家には「脱落者」の烙印が押され、反省文を書かせられたり、暴力を振るわれる等の被害が相次いだ。


同年、同じような事件として朝霞自衛官殺害事件沖縄ゼネスト警察官殺害事件渋谷暴動事件といった警察や自衛官を狙った凶悪襲撃事件が相次いで起きる。

朝霞自衛官殺害事件
・陸上自衛隊朝霞駐屯地で警衛勤務中の自衛官が、新左翼党派によって殺害された事件。
犯人グループが「赤衛軍」を自称したことから「赤衛軍事件」とも。

沖縄ゼネスト警察官殺害事件
・沖縄返還協定に反対するデモ行進中、警備の警察官が殺害された公安・政治事件。
群衆内に過激派が紛れ込んでおり、山川松三警部(享年48歳)が殉死
棍棒等による殴打を受け、倒れたところを火炎瓶で攻撃され火だるまとなったが、 直後にデモ隊のなかから消火しようとする者が現れ、組合旗まで使って火を消し止めている
さらに警部はデモ隊の宣伝車で病院に搬送されたが、脳挫傷、クモ膜下出血で死亡した。

渋谷暴動事件
・渋谷で起きた暴動事件。27人の機動隊に対し、中核派150人が火炎瓶で襲撃
火だるまとなった隊員らは転げ回り、同僚が消化器で消し止めている。
逃げ遅れた21歳の巡査が囲まれて鉄パイプで殴打され失神
「殺せ!」と叫ぶ学生らは巡査にガソリンをかけ、次々と投げつけられた火炎瓶の火柱の高さは5メートルに達した。焼死者1名、重傷者3名

事件後も、活動学生の主張は「弾圧に対する労働者、農民側からの階級的復讐」であり、「アメリカはベトナム人民を殺し続けているが、佐藤(首相)はこれに協力している。だから、われわれ人民にも佐藤を殺す権利がある」(当時はベトナム戦争時下)、「権力のイヌは殺されても当然だ」と嘯き続けた。

一方、機動隊・警官隊側もやはり人間であり、復讐や怒りに身を任せて過激な弾圧に出る者も決して少なくはなかった。
そもそも活動学生は労働者でも農民でもない。社会経験すらないただの学生の鬱屈を思想にすり替えた「甘え」に近く、都合良く矛盾から目をそらし犯罪(殺人)を声高に叫ぶ集団に怒りを感じたとしても非難することはできないだろう。


暴力は暴力を生む。
そのループはどこかで断ち切らない以上、延々と続く。

1993年、日本社会党の伊藤茂運輸大臣が殉職警官の顕彰碑に献花した際、「社会党が反対運動に火を付けたから警察官が死ぬ事件が起きた」と、反対派住民らから冷ややかな声が囁かれた。

2007年、かつて逮捕された元青年行動隊員が殉職した3警官の顕彰碑に献花。
「婚約者がいた警察官や子持ちの人もいた。当時は相手の立場まで想像できなかったが、今なら残された家族の気持ちにまで思いが及ぶ」と語っている。

【閲覧注意】

【事件前夜】
・この事件が発生したのは、第二次行政代執行時。
当然、その前には第一次行政代執行が行われている。

1971年1月、空港公団は土地の買収にあたり損失補償金の支払いを開始したものの、地権者は受け取りを拒否。受け取り期限を過ぎたため、当時の県知事は法律に基づき再期限を設け、応じない場合は2~3月に代執行(第一次行政執行)を行うと通達。

第一次行政執行では、反対同盟はバリケードを組み、地面に掘った穴に立てこもることで代執行を阻止。
この時、反対運動に加わらなかった周辺地域住民らにも対し、反対同盟はビラや宣伝カーなどで抗議活動をアピール。結果として多くの野次馬や親戚・友人らが集まったため、機動隊の投入は行われず事態は膠着する。

2月24日。反対同盟の少年行動隊が代執行実施班に体当たりし、ガードマンが応戦した際に警棒を用いたため負傷したとして入院する騒ぎが起きる。野次馬の中には活動支援学生らが紛れ込んでおり、人々を扇動したため投石などの暴行傷害が発生
知事は代執行を停止する。

再開後も同じような妨害工作が為されたが、3度目の代執行時には機動隊による検問を設けたため事態は逆転する。

しかし、度重なる妨害工作に苛立ったのだろうか。日当で雇われた公団臨時職員らは、体を括り付けた農民ごと木を引き抜き、次々と非情な態度でバリケード等を破壊
「壊し屋」と称された公団臨時職員らは、木の上の農民を振り落とす際には網を張ってはいたが、あまりの混乱に直接地面に落下、骨折するなどの負傷者が続出、逆に機動隊員が制止する場面もあった。

暴動は13日間続き、述べ動員数は反対派が約2万人。
機動隊は約3万人で、機動隊・空港関係者・県職員・作業員らの負傷者は1071人
(火炎瓶などの攻撃で重傷を負った者含む)
一方反対派の負傷者は606人にすぎず、逮捕者は461名に留まった。
 


【事件の発生】
・第二次行政代執行の開始は9月。
千葉県警察機動隊・警視庁機動隊、関東管区機動隊など、総勢5300人の警備部隊が動員された。
一坪共有地には日本社会党議員等の一坪地主が座り込み、敷地内には再び立てこもり小屋が設置されていたほか、事件前日の15日には中核派などの過激派2000人が現地入りしており、「権力の手先である機動隊を殲滅、北総地帯を解放区とする」と強く宣言していた。
また、過激派の間では「警察は権力の手先であり、すきあらば殺せ」が合言葉となっていた。

16日。代執行開始直後から「ゲリラ部隊」が警備部隊を次々と襲撃
空港予定地北西側で爆発物や襲撃暴行が発生したため、東峰方面の警備がやや手薄になる。これが惨劇の元となった。

当時、東峰十字路を警備していたのは神奈川警察の堀田大隊261人
3つの中隊に分かれ、各自の担当の警備に向う。
反対派の地元青年行動隊及び学生からなるゲリラ集団は火炎瓶・竹槍などで武装し東峰地区へ。
東峰十字路に機動隊が入り込んだとの情報に、ゲリラ集団は2隊に分かれて攻撃を開始する。

やがて、東峰十字路付近にて両者が激突。
第3中隊の第2小隊の小型輸送車が火炎瓶攻撃により炎上、部隊は分断されたまま700名を超すゲリラ集団に襲撃を受けた。
連絡を受け救援部隊が向かったが、それらもまた各自襲撃を受け、指揮系統は大混乱となり部隊は総崩れとなった。

パトカー・輸送車等の車両は炎上し、この部隊だけで80名の負傷者が続出。全身火傷失明骨折全ての歯を折られた者100針以上縫う大怪我を負った者もいる。

東峰十字路北部に展開していた第1中隊第1小隊(福島小隊)は、完全に孤立し、200名を超すゲリラ部隊に包囲されたまま、火炎瓶・角材・丸太・投石で執拗な攻撃を受け、重傷者20名、殉死者3名を出す最も悲惨な結果となった。


直接火炎瓶を投げつけられ火だるまになりのたうちまわる隊員らを、襲撃集団は数人がかりで竹槍や釘を打ち込んだ角材で殴打。動けなくなった隊員は衣服を剥ぎ取られ、装備を奪われた状態で滅多打ちにされた。
「殺せ」「ヤッちまえ」との叫ぶ声の証言もあり、ずたずたにされた隊員らは裸にされて土下座させられている。
付近の住宅には居住者がいたが関わり合いを恐れており、機動隊員らもあえて無関係の第三者に助けを求めることはなかった

死亡した福島警視は、火炎瓶を受けて火だるまになり、転げ回っていたところを集団で襲われ、手錠をかけられて鉄パイプ等で滅多打ちにされている。
他の2人も倒されたところを同様に滅多打ちにされて虐殺された。

生存者の証言には、襲撃された警察官は後で「証言できないように」顎や顔を集中攻撃され、倒れた隊員には濃硫酸をかけてわざわざ火炎瓶で放火していたとの目撃談がある。
また、成田赤十字病院の院長は、防弾チョッキの上からでも骨折するよう、かなり強固な武器で殴られていたと証言。

ようやく救援部隊が到着した時には、血塗れでうめく隊員達を残しゲリラ集団は逃亡していた。
(衣服を剥ぎ取るなど)武装解除された者が36名、他に30名がゲリラ集団に拉致されていたが、同日中に全員が機動隊によって救助されている。

現場検証の場も凄まじかった。
たたき割られたヘルメットや、引きちぎられた血塗れの衣服、血痕のついた竹槍が多数見つかり、付近の道や草叢までもがベットリと血がついていたという。
通常火炎瓶はコーラやビール瓶が使用されるが、この場では数百もの一升瓶の破裂跡があった。
火力の威力は、数十メートルの火柱に相当
また火炎瓶には農薬が使用されており、盾で防いでもガソリンが飛び散り、必ず引火するように改良されていた。

あまりに凄惨なこの襲撃には仲間である反対派からも非難の声があがり、後日マスコミを通じて地元住民や目撃者達もやりすぎだったと証言

ショッキングすぎる証言や映像に人々は驚愕し、思想や対立とは関係なしに残虐な犯罪集団が暴走し始めている事にようやく気づきはじめた。


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【閲覧注意】

東峰十字路事件とは、新東京国際空港(現・成田空港)建設予定における空港反対派によるゲリラ襲撃で警察特別機動隊3名が旬死したテロ事件。

当時、空港建設予定地内には反対派の所有する土地があり、そのため千葉県は行政執行に踏み切った。
事件が起きたのは、第二次行政代執行初日の1971年(昭和46年)9月16日。
この襲撃は非常に残忍・陰湿かつ強い悪意を感じさせ、国家権力VS学生運動といった思想対立が暴走しつつあった当時の様子を伺わせる。

反対派集団が武器として使用したのは、火炎瓶・竹槍・角材や丸太等であり、機動隊側の負傷者は80名を超す
当時はテロによる犯罪ではなく傷害致死事件とされたが、現地には現在も慰霊碑が残されている。

たわいのない(素心宮司)の思い...
極左暴力集団=過激派の当時の呼称


【事件の背景・成田闘争】
・この事件の背景には「成田闘争」(三里塚闘争とも)が根深く横たわる。
この闘争は、もともとは空港内外の民有地取得の問題や、騒音問題に反対する地元住民らが革新政党指導の下で結成した組織による反対運動から端を発する。

千葉県北部は「続日本書紀」時代から続く軍馬の飼育生産地帯であり、源平合戦では源氏に軍馬を提供するなど、非常に歴史的価値が高い
また、明治時代には政府は殖産産業として近代牧畜に力を入れ、宮内庁御料牧場が設置されるなど、急速に発展した歴史を持つ。
さらには、第二次世界大戦終戦直後には農地解放が行われ、帰省先のない引き揚げ者や帰還兵らを入植者として受け入れた。

一方古来から続く古村の人々の反骨精神も強く、軋轢や極貧の生活に耐えかね脱落する者も後を絶たなかったが、それ故に土着意識が強く築き上げられていったと思われる。

しかし60年代に入ると、世界的な大量輸送時代(ジェット機の登場)と高度経済成長により、日本の航空需要は急激に増大する。
当時から現・羽田空港はあったものの、限界点が既に見え始めていた。

そのため当時の池田内閣では新空港の計画に着手。
在日米軍の管制空域などの兼ね合いもあり場所の選定は簡単ではなく、最終的にこの地が候補地として決定した。
が、反対運動は根強く、座り込み・デモ等が相次ぐ。


しかし1966年、現・羽田空港内で3件の航空事故が発生
少なくともうち2件は空港の管理能力不足が原因だった。

全日空羽田沖墜落事故
・2月 全日空ボーイング機の東京湾墜落133名全員死亡
カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故
・3月 当機が空港着陸直前に墜落。搭乗者72名。うち死者64名、生存者8名。 
英国海外航空機空中分解事故
・事件が起きたのは、カナダ太平洋航空402便墜落事故の翌日。
現英国航空機が富士山の乱気流に巻き込まれ空中分解、墜落124名全員死亡

国際的な情勢もあり日本政府は空港の開港を急ぎ、反対派の暴動も過激化する。
やがて空港反対派は当時活発に活動していた新左翼党派と結託するようになり、警察・機動隊と地元住民及び新左翼党派グループによる血生臭い暴動へと変化した。

新左翼党派・・・当時世界的に勢力を伸ばしつつあった共産主義派の1つ。主に学生らが中心となって活動する多分派だが、国家権力に対抗という姿勢はやがて犯罪集団へと過激化する。

当時から「ボタンの掛け違い」と揶揄されていたこの論争は、過激な襲撃事件を引き起こしただけではなく、開港の遅れとともに双方に死者を出す惨事を引き起こした。
この闘争に関わった死者は13名。負傷者は100名を超す。

以下、主な事件のみ。
東峰十字路事件 死者3名 負傷者80名
芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件 死者1名 負傷者5名
派出所が襲撃され放火された事件。署員6名に対し襲撃集団50名
東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件 死者1名 負傷者2名
新左翼党派の1派・中核派による放火事件。)
千葉県収用委員会会長襲撃事件
中核派による個人襲撃。待ち伏せしてハンマーや鉄パイプで襲撃襲撃者の人数は不明
その後も脅迫行為が続き、委員会の機能停止を招く。被害者はその後自殺

日本飛行機専務宅放火殺人事件 死者1名 負傷者1名
中核派による個人住宅放火事件。専務の妻が焼死。当時関係者の住宅放火が連続して発生
東山事件 死者1名 負傷者多数(機動隊員及び住民反対派含む)
投石・鉄パイプ・火炎瓶によるゲリラ襲撃事件。反対派支援者が機動隊の催涙ガス弾を頭部に受け、2日後死亡。先に負傷したのは機動隊員であったが、後に問題化。
成田空港管制塔占拠事件 死者1名 自殺1名 負傷者多数
文字通り管制塔占拠事件。反対派同盟を支持する極左暴力集団22名が突入し、機材を破壊。
火炎瓶を投げていた活動家が引火し火だるまになり、逮捕後治療を受けたが死亡
同じく逮捕された活動家も拘留中に自殺した

さらに、反対派の住民も1名自殺している。

「浦和市車両放火内ゲバ殺人事件」
放火され炎上した車両

この闘争は未だ解決しておらず大きな禍根を残しているが、最も後味が悪いのは同じ住民同士の対立と同調圧力による無言のプレッシャー、過激派の介入により泥沼化した住民トラブルだろう。

当時から当然賛成派も存在していたが、後の調査では、反対運動から抜けられなくなった、または賛成と口に出せなかった者が半数以上を占めていたことが判明している。
賛成派であることが知られたら殺されると思っていたとの証言もあるほど。

この闘争は実は国外でも大きな注目を浴びていた。
国際線での人的被害(多数の死亡者)が実際に起きており、米軍基地もまた過激派のターゲットだった。

ダイナマイト闘争・・・過激派の1派が、米軍基地に対し火炎瓶・ダイナマイト等で武装し襲撃した事件。当時は時限爆弾・火炎瓶・ダイナマイト等の爆発事件が頻発していた

日本政府の対応が強く迫られた時代でもあり、やや強引な政策となった事は否定できない。

が、果たして当事者の反対派住民らが多数の死者・負傷者を出してまで、どこまで本当に空港開設反対を主張していたのだろうか。
思想的第三者が入り込んだことで、反対派住民らもある意味被害者となった可能性も高い。

あさま山荘事件はショッキングだが、少なくとも権力側(警察・機動隊)と思想犯との対峙であったため、まだ僅かだが救いがある。
しかし、山岳ベース内で起きた連続殺害事件は無意味な集団暴行でしかなく、その矛盾に現在も苦しむ生存者も少なくない。

【警察の捜査と森の裏切り】
・大規模な山狩りの結果、警官隊は迦葉山ベースを発見。
証拠隠滅のために焼かれた榛名ベースとは異なり、大量の異様な証拠品が残されていた。
数の多すぎる寝袋、リュック等の荷物、不自然に切り裂かれた衣服と、大量の糞尿である。
人間は窒息死の際、屎尿を垂れ流す。
切り裂かれた衣服は、死後硬直した死体から衣服を脱がせた事を示していた。

また当初からメンバーの人数が合わない事が指摘されており、これらのことから警察は早い段階で大量殺人があったことをほぼ確信していたが、雪山での遺体捜索は警察犬でも難しく、逮捕者達の自白を待つことになる。

2月19日
・永田は旧知の弁護士と面会。森への伝言を託す。
「山で大変な闘争」があり、「誰にも話してはいけない」「弁護士にも話せない」ため、森にも黙秘を貫くよう励ましのつもりだったのかもしれない。(権力への協力=裏切り行為=敗北となる
弁護士が伝言を伝えたところ森は無言だったが、口止めは3週間と持たなかった。

3月5日
・妙義ベースに残されていた最後の被害者・山田孝の衣服の写真を見せられた奥沢修一が殺害を供述。
事件の関与を認めた。

3月6日

・加藤兄弟も事件関与を認め、殺害を供述。

3月8日
・突然、連合赤軍リーダー森恒夫本人が裁判所へ事件の全容を書いた上申書を提出
これは実質的な全面自供であり、黙秘(=闘争)を続けていた他メンバーは驚愕、強いショックを受けた。

永田は後に、「いかなる自供も許さなかった」彼の「『共産主義化』に反する事」であり、「共産主義化への確信の何かが、その上申書を見てすぐガラガラと崩れる落ちるように感じ」たという。
坂口は森の権力に対する屈服と明言し、「総括を主導した人物の重大な裏切り」であると断定。

しかも、森本人は指示するのみで実際には死亡したメンバーの埋葬すら参加していない
森は上申書は被害者の遺体を遺族に返す為のものであり自供にはあたらないとしたが、遺体を返すためには関与メンバーの自白が必須となる。この行動は、他メンバーの自白をも間接的に強要するものだった。

不思議なことに、森にとって上申書はあくまで裁判所に提出したものであり、警察への協力(自白)とは考えもしなかったらしい。相次ぐメンバーの自白と遺体の発見にひどく困惑していたという。

この事態に、逃亡(脱走)していた4人も出頭、供述を始め、生存者17名全てが警察に逮捕された。
見つかった遺体は12人。
メディアは連日遺体捜索のニュースを報道し、無残に痩せ細り性別もつかないほど損傷した遺体の写真も公開された。
また、吉野らの供述により印旛沼事件も明るみになり、2人の遺体も発見される。
永田・坂口は頑なに黙秘を続行。

⁂夫を殺されて逃亡した山本保子は、生後数ヶ月の娘は死んだものと思っていたらしい。
再会できた時には号泣し、中村に感謝したという。

しかし4月には検察官が理論武装に弱い永田の弱点を見抜き、「革命を主張するならば統一公判が必要」であること、このままでは「同志殺害は精神異常者の犯行」となることを伝えると、永田は供述書に同意し、やがて自供へと繋がった。
坂口は最後まで黙秘を続けていたが、金子と胎児の遺体写真を正視することができず、「屈服」する。が、供述書を書くことは拒否し、手記というかたちで告白した。

この凄惨極まりない事件は当時の世論にも大きな影響を与えた。
社会党議員やマスメディアのなかには、あさま山荘事件後も連合赤軍を擁護する声も少なからず続いていたが、両事件の真相及び実態が判明するにつれ、彼ら擁護者派の面目と信用は丸つぶれとなり、手のひらを返すように批判側へと鞍替えする。
新左翼運動は嫌悪されるようになり、世論の一部に残っていた連合赤軍に対する共感も立ち消えた。
これらの現象は、その後の左翼派運動にも大きな負のイメージを国内に植え付ける結果となる。


【混迷する裁判と森の自殺】
・被害者は12名であるが、検察側は最初の被害者・尾崎充男のみ傷害致死とし、他の11名は殺人事件と断定。裁判でも認定された。
印旛沼事件・あさま山荘事件も関与が大きすぎる為、本事件と併せて扱われている。

公判開始前、森は原稿用紙500枚もの「自己批判書」を書き上げた。
事件全貌を明らかにするためであり、事件の責任は自身と永田にあると断罪するためだったというが、その内容はあまりにも拙い。

この後、信じがたい事に坂口と永田は再び革命左派に復帰する。
一方、次々と罪を認め服役に甘んじる者も多かった。

1972年 5月
・坂口の革命左派復帰。

10月
・当時の革命左派は、事件の原因はかつての最高指導者(故人)による「反米愛国路線の放棄」のためと主張しており、納得できないまま永田も派に復帰する。
・森は4~5月に書いた自己批判書を全面撤回

11月
・森・永田・坂口・坂東國男・吉野・加藤倫教の6名で統一公判が行われることが決定。

また坂口と森との間では手紙が交換されており、その一部が公開されている。
S(坂口)
「君(森)が革命左派の反米愛国路線を攻撃するのは構わない。
だが、彼等に対して様々な中傷を加え、暴力の行使まで宣言したことはどんな理由をつけても正当化できるものではない。」
M(森)
「反米愛国路線を放棄したから粛清を引き起こしたなどという革命左派メンバーの主張は、絶対に受け入れられない」
S
のぼせ上がるのもいい加減にしてほしい
君は山岳ベースであれほど過酷な要求をメンバーに課して置きながら、獄中での態度はなんだ!
『上申書』は書く、『自己批判書』は書く、自供はする。
こんな筋の通らないことをした君が、他組織のことをむやみに批判する資格があるのか!
M
「断固たる批判を待ちます! 君の批判については、一片の弁護もなく認めるものだと思います」

1973年 1月
・公判間近になり、森は拘置所で首を吊って自殺
坂東宛に遺書が残されていたが、その文章は驚くほど稚拙な文体だった。
独自の理論を辻褄あわせのように並べ立てているため、正直よく意味がわからない。
自分の理論は後付けによるものと認めつつ、革命左派の組織的民主主義のため方向性が純化しなかったが故に自分が主導せざるを得なかった。自己嫌悪と絶望にさいなまれ、初めての革命的試練を飛躍するために真の勇気を出すといった内容。

森の自殺を知った他メンバーの反応は様々。
永田は「ずるい!」と叫び、坂口は「卑怯者」と批判。
坂東は自分(坂東)の弱さが、結果として森を追い詰めたと発言。
妻子を失った吉野は、森は優柔不断で実行力もない小心者と表現した上で、「自己処刑の闘争」を遂げて満足しているだろうと語った。

2月
・出廷拒否の末、ようやく統一公判判開始。
思想が一致しない彼らの齟齬や矛盾点が明確に浮き上がる。

1974年 7月
・革命左派に疑問を感じた永田が派を離党。
植垣・坂東とともにプロレタリア革命派(赤軍派)に参加。

1975年8月
クアラルンプール事件発生
日本赤軍の要請により超法規的措置で坂東が釈放され、国外へ逃亡。そのため裁判は混乱し、坂東本人の公判は休止状態のままである。
坂口も釈放要求があったものの、坂口本人が武装闘争は間違いであるとして出国を拒否

クアラルンプール事件・・・日本赤軍がマレーシアにあるアメリカとスウェーデン大使館を占拠し、約50名を人質に赤軍の囚人釈放を要求したテロ事件。

その後の公判は、事件の重大性に対し、あまりに情けない展開が続く。
12名の死者に対し、真実を明らかにすべきとする吉野に対し、坂口は死者に鞭打つ事はできないとして反対姿勢を崩さず。あくまで理論・闘争・思想に拘る。

1977年 8月
・思想的対立のため、吉野と加藤が統一被告団から離脱。
分離裁判開始。

9月
ダッカ日航機ハイジャック事件発生
日本赤軍が東アジア反日武装戦線と組み日航機をハイジャック、収監中の活動家ら9人の釈放を要求。
連合赤軍では植垣が釈放対象だったが、やはり本人が出国を拒否

ダッカ日航機ハイジャック事件・・・日本航空472便が5人の武装したテロリストにハイジャックされた事件。実行犯の1人は坂東國男。乗客・乗務員ら約150人を人質に、バングラデシュのダッカ国際空港に強制着陸させ、囚人釈放とともに600万ドル(当時の16億円)を日本政府に要求した。

1980年 7月
・永田と植垣他が決別。事件の一因に永田の個人的な要因があると指摘された事による。
(同じ指摘を坂口は1977年から行っており、永田は個人攻撃だと批判)

1982年 6月
・永田と坂口の死刑判決。植垣は懲役20年。

一連の連続リンチ事件において、監禁時少なくとも数名は食事を与えられ、心肺停止時には蘇生が試みられていたが、死を予見しながら「やむを得ない」と認容していたため消極的な殺人罪となる。
(最初の被害者尾崎充男のみ、傷害致死認定)
「総括」は、対象者に対する客観的基準や方針が全くなく、ただ森と永田の優越感、または猜疑心・嫉妬心またはその場の雰囲気から場当たり的にターゲットになった。

また、裁判で強調されたのは「そもそも総括達成の方法・基準が全くないのに、総括が出来ると思うこと自体論理矛盾」である事、「敗北死」とは「被害者に汚名を着せ」た責任転嫁であり、「総括=(遅かれ早かれ)死」であることをほぼ全員が認識しながら共犯関係に引き込まれ、ある種の集団思考停止状態に陥っていた点である。
事実、メンバー達は自分達の行動の無意味さを知りつつ森に刃向かうことはなかった。
「何をやっているんだろうな」とつぶやき、密かに諫められた者もいるほど、森の恐怖政治は強固だった。
(森は密告制をとっており、メンバーらの信頼関係は崩壊していた)

裁判にて、本事件の原因とされた主犯2人の分析は以下。
森恒夫
「自己陶酔的な独断に陥り、公平な判断と部下に対する思いやりが乏しく、人間的包容力に欠けて」おり、「長たる器量に著しく欠けるものがあった」
永田洋子
「個人的資質の欠陥」として「自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を有していた」

一方、坂口は実質的な組織のNO.3であったものの決して安泰であったわけではなく、常に危ういバランスの上に立っており、また仲間へも密かな気遣いを見せることもあったが、やはり事件の重大性から死刑を免れることはできなかった。

以下、他のメンバーらの最終判決。
(関与した金融強盗、山岳ベース事件、あさま山荘事件等一連の事件に及ぶ)
主犯・森恒夫 -・・・・公訴棄却(公判前に自殺の為)
主犯・永田洋子 -・・・・死刑
坂口弘 ・・・・ 死刑
坂東國男 ・・・・国外逃亡中(日本赤軍と合流 国際指名手配中
吉野雅邦 -・・・無期懲役と罰金
植垣康博・・・・懲役20年
青砥幹夫・・・・ 懲役20年
前沢虎義・・・・懲役15年
加藤倫教 -・・・・懲役13年
杉崎ミサ子・・・・ 懲役12年
寺林真喜江・・・・懲役9年
中村愛子・・・・ 懲役7年
伊藤和子・・・・懲役7年
奥沢修一・・・・ 懲役6年
岩田平治・・・・・懲役5年
山本保子・・・・懲役4年
加藤元久・・・・未成年のため保護処分


2011年永田は東京拘置所内で脳腫瘍のため病死
坂口と吉野はともに収監中。(生存)

坂口の死刑は確定しているものの、共犯者である坂東が逃亡中であるため裁判が終了しておらず、刑執行の見通しが立っていない。

【閲覧注意】

【事件の終焉】
2月1日
・山本・大槻の遺体を埋めるため車で移動中の坂口らが、大勢の警官と指名手配のポスターに警戒、遺体を車に乗せたままベースに戻り報告する。

しかし森は坂口を信用せず、翌日坂東に様子を見に行かせることを決定。

森は金子が総括しない時には「子供を取り出す」必要があり、いざとなれば自分が取り出すと話しだす。永田も手伝うと言い、子供の父親である吉野は「拒絶はできない」ためやるしかないと決意

子供を組織の子として育てるという森に、永田は母体である金子を小屋に入れ食事させることを提起し、坂口の同意を得て彼女を屋内に移動させる。
小屋内でも金子への批判・追及は続いたが、永田は女性陣に金子の体をきれいに拭かせて新しい服を着せてから再び縛った。

この頃は森と山田の対立が深まっていた。
執拗な過去の追及に山田はCC(中央委員会)からの辞任を表明するが、批判と総括要求は続く。

2月2日
・森から青砥に婦人科の医学書購入の指示あり。
あまりにも非常識な指示に呆れ結局青砥は従わなかったが、森は本気だったのか何度か同じ指示を繰り返している。

山田の総括が不完全であるとして食事の禁止が決定
森は屋外に雪で台を作らせ、その上に山田を正座させた。
この時思わず植垣が「またか」とつぶやくと、隣にいた青砥も「いやだなあ」と答えている。

正座は一日中続いたが、夜も「総括できていない」として屋内で正座が続く。
森は山田の総括は「0.1パーセントの可能性」でしかないとし(つまり不可能)、監視付きで一日一杯の水のみで重労働の薪拾いをさせることを決定。

2月3日
・早朝、山本と大槻の遺体を埋めたメンバーが帰還し、森・永田・坂口の指名手配ポスターが多く張られていることを報告。

金子は永田にトイレを訴え、永田は森に進言したが森は無視。繰り返し永田が訴えると、ようやく認めたものの間に合わなかった。
下着を替え再び柱に縛ろうとするが衰弱した金子は立つ事ができず、永田は森に金子を横に寝かせることを進言。森は金子が刃向かう可能性があるとして寝かせて縛った。

この夜、就寝前に永田は吉野に金子へ牛乳(ミルク)を与えるよう指示を与えている。
金子本人は既に正気を失いつつあったが、吉野は気づかなかった。
メンバーの傍らで奇妙な発言を繰り返す妻に焦った夫は、森の視線を気にして牛乳を与えることを失念してしまった。
動揺を隠し冷静な振りをして就寝した吉野は、翌朝、妻の餓死死体を発見することになる。

一方、空腹のまま薪拾いを行っていた山田は不慣れなため良い成果を出す事ができなかった。
再び山田は逆エビ型に縛られ、そのまま追及と暴行が始まった。

2月4日
・早朝に金子みちよの死亡が確認される。
11人目の被害者

⁂事件発覚後、掘り起こされた金子の遺体には妊娠8ヶ月で身長40.5cm、体重1630gの胎児がいた。
逮捕後、吉野は女の子だった事を聞き泣き出したという。

金子の死に、森は体内の子供を取り出す事を断念。
金子が自分の死を隠していたため不可能になったとし「子供の私物化と闘えなかった」、「子供の私物化を許したのはCCが躊躇したから」とCCへの自己批判を行った。
(あくまで自分の責任ではなく、委員会全体の責任とすり替えた)

この件は大きな波紋を呼んだようである。
永田は山田の総括について、食事の有無と総括は無関係であること、丸太敷きの床のうえに逆エビに縛るのは厳しすぎると主張。坂口らの同意を得て、山田に食事を与え柱に縛り直すことを決定。
金子の遺体はこの日のうちに吉野らによって埋葬された。

⁂思考が麻痺していた吉野は、妻の遺体を埋葬するにあたって初めて遺体は物ではなく「人」だと認識したらしい。穴に落とされた彼女は痛いだろうと感じ、腹部が地面に当たると「子供の悲鳴が聞こえたような気がした」という。

この日以降、森は永田とともにベースを離れ都内のアジトに潜伏
かつて下山メンバーが交通手段を決めずに行動していたことを激しく批判・追及していた森本人が、全くのノープランで下山したことに永田はひどく驚いた。
(その後も同じような事態を永田は何度も目撃する)

ようやくここで永田は森の大きな矛盾口先だけの言行不一致と自己保身責任逃れの現実逃避に気づくことになるが、引き返すにはもう遅かった。

2月5日
【迦葉ベース】
・榛名ベースを解体するため、数人のメンバーが榛名山に出発。

2月6日
【迦葉ベース】
殺された山本順一の妻、保子が脱走
子供は取り上げられており、夫も殺されたためたった1人での逃亡だった。(1972年3月出頭)

脱走に気づいた中村愛子が坂口に報告、坂口は保子が子供奪還のため警察を連れて来ることを警戒した。
総括中で縛られたままの山田に警察が来たらどうするか問い、手榴弾で自爆するという回答に何故銃で戦うといわないのかと反論。山田が銃を持って戦うと答えると、「総括は終了した」と宣言、縄をほどくが山田の手足は凍傷で動かなくなっていた

坂口は中村に金を渡し、山本夫妻の子供を連れて榛名に向かい、その後ベースメンバーに妙義山に移動するよう伝えるよう要請。坂口の言葉を受け、中村は乳児を連れて迦葉山を下山。榛名に向かう。

2月7日
【榛名ベース】
・小屋の解体を終えたメンバーは迦葉への移動を開始していた。
移動手段にはバスが使われたが、服装や悪臭などから不審がられ、当初予定のバスを見送り停留所で次のバスを待つ。
この時、前沢虎義が突然走り出し脱走。(1972年3月出頭)
板東が同行していたが、人目を気にして追うことができなかった。

また、赤ちゃんを連れた中村はタクシーで榛名山に向かったが、その汚れた身なりと表情から親子心中を疑ったタクシー運転手が警察に通報保護された。
(中村は翌日友人に迎えに来てもらい、次の日には友人に山本夫妻の子供を預けて消息を絶つ。1972年3月出頭)

【迦葉ベース】
・坂口が森への報告のために下山、公衆電話から都内のアジトに連絡するも連絡がつかず。
坂口は必ず山田を助けるつもりでおり、いざとなれば森の殺害すら考えていた。

しかし突然の榛名メンバーの帰還に事態は混乱する。
妙義山への移動が伝わっていなかった上、前沢の脱走中村の失踪にメンバーは浮き足立ち、騒然とした状態のなかで坂口は山田の総括完了宣言ができず、坂口と青砥がレンタカーの調達中に再び山田は縛られてしまった

2月8日
【迦葉ベース】
・メンバーら妙義山へ出発。
ようやく森らと連絡が取れ、坂口は前沢と中村の脱走を伝え、自己判断で妙義山への移動開始、山田の縄を解いたと報告。
しかし、途中で強硬派の板東が電話を奪い取り、山田の自爆する発言は問題であると進言
山田への総括の必要性が森と板東との間で強調される。
これにより、坂口が森に感じ始めていた「戦闘意思が腰砕けになって」しまったという。

森は永田に坂口は「共産主義化をわかっていない」と批判、「坂口君はこれまで永田さんに庇護されてきた。今後はそれは許されない」と強く主張。
残念ながらこの段階で、事実を最も的確に把握していた坂口の行動は封じられてしまった。
坂口は山田の総括完了を宣言できず、山田の運命が決まってゆく。

実はこの日、たった1日違いでで榛名ベース跡地が警察に発見されている。

2月9~11日
・移動しながらベース候補地の探索。
ようやく妙義山に洞窟を見つけ、ベースとする。(妙義ベース)
坂口のリーダーシップは的確であったが、それ故に山田のケアにまで手が回らなかった。
縛られたまま寝袋に入れられて放置されていた山田の衰弱は激しく、体を必死にねじって雪を食べようとしていたという。青砥はその様子に山田が脱水症状になっているのではないかと感じていた。

2月12日
・12人目の最後の被害者、山田の死亡が確認される。

坂口が森に電話で死亡を報告。その様子が悲しそうだったと、森は永田相手に坂口批判を開始。永田は坂口を擁護したものの、それも批判の対象になった。

勢いあまったのだろうか、森は自分の妻にも問題があるため森と永田が結婚するのが「正しい」道だと宣言。永田は了承し、翌日坂口にその旨伝えることを告げると、今度は森が躊躇ったという。

2月13日
【都内】
・坂口上京。
森は山田の縄をほどいた事で坂口を批判
山田の遺体はまだ埋葬されておらず、森はすぐに埋めるよう坂口に要請。
坂口は山田の最後の言葉「総括しろだって?ちくしょう!」を森に伝え、暗に賛同していないことを示したが、森本人に伝わったかどうかは不明。
永田、森が好きになったので離婚したい旨を坂口に告げる。坂口はしばらく無言の後、頷く。

2月14日
【都内】
・森の不在時に、永田は本当は坂口が好きだと伝えるが、坂口は取り合わず。
森の帰宅後、離婚に向けて相談と称して2人は喫茶店で総括について話し合う。永田は必要なことだと諭すが、坂口は「総括が何だか分からなくなった」と回答。

2月15日
【都内】
・榛名ベース跡地発見の記事を新聞で知った森と永田が妙義山へ移動開始。

【妙義山ベース】
坂口・板東による総括会議。(坂口は14日のうちに帰還)
坂口が山田の縄をほどいた件で自己批判の後、「私を批判して欲しい」と言うも誰も発言せず
各自の総括を順番で行うが、途中で居眠りはじめた者もおり、「もうやめた」と植垣が発言。全員で眠ってしまった。
深夜、坂口ら数人で山田の遺体を妙義山中に埋葬。

2月16日
【妙義山ベース】
・坂口らはラジオで榛名ベース跡地が発見されたことを知り、移動を決定。
少人数の方が怪しまれないため、合流地点で再集結することにして、先発隊の車が出発。
坂口も森達2人に電話連絡するため一緒に同乗。
(2人は妙義山へ移動中だったが連絡がなかったため坂口は知らなかった)

途中、検問に引っかかり警官の職務質問を受けるが、坂口は顔の割れていない杉崎ミサ子と奥沢修一に時間稼ぎを命じ、板東ともに逃走
杉崎と奥沢は9時間車に籠城し、その間に坂口らは一旦妙義山ベースに戻り、残っていたメンバーと一緒に再び長野方面へと移動。

⁂警官達は森と永田の2人組をメインに探しており、「不審なアベックを見ませんでしたか?」との問いにまさか坂口は森と永田のことだとは夢にも思わなかったらしい。

【妙義山中】
・妙義山ベースへ移動中の永田と森が、山狩り中の警官に職務質問を受ける。
が、身綺麗で手配中の山岳組とは雰囲気が異なっていたため、うまくすり抜けることに成功。
ベースへ戻る方法で永田と森で意見が食い違う。永田は最短距離でベースに向かおうとするが、森は山狩りを警戒して迂回ルートをたどる事を主張。
結局は森の主張通り迂回ルートを通ったため、翌日先回りされて逮捕される結果を招く。

2月17日
【榛名ベース】
・森と永田が無人のベースに帰還。
山狩りの警察官達に包囲された事を知った2人は「殲滅戦」を覚悟。
森は「もう生きてみんなには会えないな」とつぶやいたが、それは「敗北主義以外のなにものでもなかった」と永田は後に回想

警察官に発見された2人は格闘の末、あっさりと逮捕。「殲滅戦」で彼らは傷1つ負わなかった。

【逃亡中のメンバー・場所不明】
・2人の逮捕はラジオで速報で流れ、坂口達は驚くが奪還に向けて決意を表明。

2月19日
・坂口らは山中で道に迷い、何とか軽井沢にたどり着く。
着の身着のままで逃げてきた彼らはまず食料を確保しようとして、通報され4名が逮捕された。
(植垣、青砥、伊藤和子、寺林真喜江)

この逮捕もまたラジオで速報として流れ、残った坂口、坂東、吉野、加藤兄弟の2人があさま山荘事件を引き起こす。

あさま山荘事件・・・追い詰められた連合赤軍メンバーが保養所の管理人の妻を人質に立て籠もった事件。警官隊・機動隊に囲まれた長期にわたる籠城にも関わらず一切の要求もなく、人々に不気味な印象を与えた。連合赤軍メンバーの親族らも集まり説得を行ったが、その中には処刑された寺岡の親族もおり、籠城したメンバーらは無言でそれらを聞いていたという。

2月28日
・長時間の籠城により人質の安否が気遣われ、ついに機動隊が山荘に突入。
抵抗したものの5人は逮捕。
これで脱走者を除く生存メンバーは全員逮捕となったが、この時点ではまだ死者(総括リンチ被害者)の存在は判明していなかった。

しかし、まもなく迦葉ベースが発見されると、大量殺人の証拠が浮上する。
次々と発見される無残な総括遺体の様子は連日報道され、そこで初めて我が子の暴行死を知った親も少なくない。

また報道を受け、逃亡中の4人(岩田平治、山本保子、中村愛子、前沢虎義)も翌3月中に全員が自首・出頭。事件は終結した。

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【閲覧注意】

【混乱するメンバー達】
1月25日
・迦葉ベースにて、新しい地獄が始まる。
車をぬかるみにはめたとして山本が批判され、しかし免許のない者に車の仕組みが理解できるはずもなく山本は批判を認めなかった。
あくまで「自分は革命の手伝いに来た」のであり、CCの決定には従うがそれだけだという山本は正座の罰を受け「山に来るべきでなかった」と涙を流す。
山本夫妻の子供は別のベースに隔離されていた

榛名では大槻が「なんで総括をされているかわからない」と泣いており、永田本人も理由がわからないまま森に従い続けていた。
相変わらず森は懐中電灯の電池を金子が隠し持っていると主張、永田に荷物を調べさせるが見つからず。
さらに妊娠中の金子は出産に備えてこっそりタオル類を隠しているに違いないと主張、調べさせるが見つからず。

森は次に、金子は永田に反発し男を利用しているとしたが肝心の永田がそうは思えないと反論
しかし森は持論を撤回せず。
印旛沼事件で殺害した向山と大槻がかつて恋人関係にあった事を持ち出し、厳しく追及・批判
金子と大槻を縛る事を永田に提起。

永田は無言のままだったが、妊婦の金子はタンスに寄りかかれるように縛り、食事も与えるといった内容にようやく同意する。
が、縛られた後は2人ともトイレにも行けず放置されることとなった。

1月26日
【迦葉ベース】
・森の指示で山本の総括が決定追及・暴行の後に逆エビ型に縛る
坂口は榛名で大槻と金子が総括のため縛られていることを報告。植垣は大槻に恋心を抱いており、その関係についての追及も行われた。植垣は追及終了後も大槻が縛られているのならと正座を続ける。

【榛名ベース】
総括されている者の態度ではないとの理由で、金子が柱に縛り付けられる。
森は前日の発言を翻し、当面食事を与えないと決定
出産を控えた普通の主婦的な態度で甘えている、妊娠を言い訳にしているというのが問題であり、生まれる子は個人の所有物ではなく我々全体のものでなければならない、と語る。

永田はこっそり大槻に食事を与えたが、その後は食事を与えることが禁じられた。

1月27日
【榛名ベース】
・山本総括の報告を聞いた森は、ベース小屋の完成前であるにも関わらず別の場所への移動を提起。
森・永田連名で坂口へメモを伝えたが、実際は永田は全く関与していない
別行動をとっていた奥沢と山田孝が風呂に入った事を知り、森と永田は山田への批判・総括要求を決定。(奥沢は迦葉へ主発した後であり、その後も奥沢への批判追及は行われなかった)
さらに森は金子がお腹の子供を私物化しているため、子供を(体内から)取り出すことを考えなければならないと永田に語る。

1月28日
【榛名ベース】
・森は坂口らに金子逃亡の危険性ありとして髪を切る事を指示。妊婦への暴行が始まった。

さすがに永田は殴るのを躊躇していたが、森は金子に「永田さんが憎いだろう?」と尋ね、はいと答えさせると、「組織の女ボスになろうと思っても無駄よ」と針金で殴らせた。
入山を後悔していた金子は、森に脅されながらも山本夫妻の子供と一緒に榛名ベースへと移動する。

1人残された青砥は自殺・逃走を考え、警官隊のガサ入れが来ないかとさえ期待していたという。
(山田孝と合流後、迦葉へ向かう)

【迦葉ベース】
・奥沢の落とした運転免許証が近隣の者に発見され、警察に情報が漏れるのではないかと騒然となる。
吉野は、例え相手が一般人でも殲滅戦を行うべきだと決意。

1月29日
【迦葉ベース】
・森らが合流。吉野の「殲滅戦計画」を受けた森は、一般民間人を巻き込む事について吉野を批判・追及。吉野は釈明した。
ベース小屋はまだ半完成だったがテントを引き払い小屋内へ移動。
大槻、金子、山本の3人は床下に縛られた

山本はCCの矛盾点を挙げ、論理の破綻を指摘したが、森は相手にせず。
舌を噛み切り自殺しようとし猿轡をさせられた。(山本は抗議のため水すら飲むことを拒否
妻である保子は夫の胸に顔を埋め、泣きながら「総括して」と繰り返した。

1月30日
【迦葉ベース】
・夜中のうちに山本が死亡。(9人目の被害者
森は「敗北死」であると断定した。

また大槻がベース移動後は真面目に総括に取り込んでいないとして批判対象になったが、永田が無言を貫き、この時は大槻問題はスルーされた。
代わりに奥沢と山田が風呂に入ったことが問題視され、山田への総括要求が決定する。(山田本人不在

しかし後に会議では永田は突如大槻の攻撃側へと変化し、永田の言葉を受けるかたちで森は大槻への殴打を決定。
その後床下へ移動すると既に大槻節子は死亡しており、死因は殴打決定の声が聞こえた事による「ショック死」=「敗北死」であると森が断定。永田が全体へと報告する。(10人目の被害者

1月31日
【迦葉ベース】
・資金集めに奔走していた山田がベースに帰還。カンパ失敗を森に報告。
批判が始まったが、山田が反論すると今度は風呂問題を持ち出して追及、しかし批判のみで終了する。

面白くなかった森は、金子は夫・吉野から自分に乗り換えて権力を奪おうとしている「権利主義者」であると騒ぎ、批判攻撃しつつ、お腹の子供の様子を看護学生の中村愛子と医大生の青砥に診察させている。

【閲覧注意】

【処刑の開始】
1月17日
・寺岡恒一を含む山岳調査隊がベースに帰還。
森は板東國男に寺岡に逃亡の様子はなかったか問いただし、CC(中央委員会)で総括できなければ死刑も止むなしと決まったと告げるが、実際にはそのような合意は無かった

夜、CC会議にて寺岡の総括・追及開始
殴打のなか、森から自分が指導者になりたかったんだろうとの言葉が飛び出した。
寺岡は森にリーダーの器ではない旨を発言、殴れと言ったが、森は「寺岡の指示で殴る」事を拒否。

1月18日
・早朝、睡眠中の全員が起こされ永田による寺岡の過去の問題点が追及される。
被指導部メンバーに決定権はないため全員無言だっだが、追及が始まると全員が参加し暴行開始

初めから総括=死を覚悟していた寺岡は、逆に森を挑発して煽り続けた
逃亡の意思を聞かれそのつもりだったと答え、組織を乗っ取りどうするつもりだったかと聞かれ金と女に囲まれた生活をすると答えた。
女について聞かれた寺岡は永田以外の女性のメンバー名を挙げ、永田が「私は」と聞くと「あんたは関係ない」ときっぱりと断言。

追及の中で、ついに森はナイフを取り出す。
寺岡の足を刺し、永田とともに権力との癒着があるだろうと責めた。
強く否定した寺岡に、森は「反革命」の烙印を押し、「死刑」を宣告。異議を唱える事のできる者はいなかった。

森は縛られ取り押さえられた寺岡の胸をアイスピックで刺すが、寺岡は死ななかった。
他のメンバー達も首・胸・心臓めがけて刺すが、それでも絶命しなかった。
数人がかりでタオルで首を絞め、ようやく寺岡は息絶える。

さすがの森も寺岡の死を「敗北死」とは言えなかったらしい。処刑は「テロリズムとの闘い」であったとして寺岡を刺した者を多いに評価するとしたが、他者からは同意も反対もなかった。
その後森は処刑を「分派主義との闘争」と言い換え、会議では永田が森のメモを読み上げ、総括の一環と位置づけている。

気まずかったのか、森は山本順一がスターリン主義について触れたこと処刑時の大槻節子の態度にも問題があると言い出し、矛先を他者に向けようとする。
なかでも山崎順は寺岡処刑に消極的だったとしてターゲットとなり、森は総括要求に踏み切った。

この日、名古屋で活動中の岩田充男が伊藤和子に逃亡を宣言。そのまま立ち去った。
伊藤は自分が試されているのではと訝しみ、その後ベースに帰還。

1月19日
・伊藤がベースに到着。
山崎が岩田不在に気づき「逃げたな」と言うと、森は自分が常に逃亡を考えているからそう考えるのだと責め立てた。が、実際に岩田逃亡の報告を受けた森は驚き、脱走者がでたことで逮捕されれば自分は死刑になると焦ったらしい。

だが岩田も殺人罪に関与しているため自首はしないだろうと考え直し、ベースの移動を提案。
永田は森の「敗北死」理論を信じ切っており自分が罪を犯したとは思っておらず、森の様子を見て逆に不思議に思ったという。

最もこの頃は都会部で活動していた女性メンバーの逮捕がラジオで山岳組にも伝わっており、彼女もかつて別の山岳組のベースにいたことがあること、また殺害された進藤隆三郎の恋人でもあったことからもベースの移動が論じられていた。(この時点でまだ女性は進藤の死を知らない

ベース移動に関し、森は山崎を連れて行けないとして処刑を示唆
移動のための処刑はあまりにも安易すぎるとして、永田は一芝居を提案。髪を切られ縛られた山崎に、死刑を宣告しその様子次第で今後を決めるというニセ死刑である。

森が山崎に死刑宣告を伝え数人でナイフを突きつけたが、坂口は力を抜いて暗に芝居であることを山崎に知らせていた。自分は死んで当然と答えた山崎に、森はこの日は満足する。

1月20日
・山崎の様子に深刻さが無くなったとして再び森が批判開始、アイスピックを使った総括を要求
寺岡の処刑時に「刺さなかった奴がいる」と言い出した森の言葉を受け、坂口が名乗り出た。

追及された山崎は、青砥に優しい言葉をかけられた時「逃がしてくれる」と思ったと発言。
慌てた青砥は山崎に殴りかかり、坂口が山崎の足にアイスピックを刺した。
森は山崎に他メンバーの批評を要求。他メンバーにも山崎への憎悪を煽ろうとしたと思われるが、逮捕された生き残りのメンバーの多くが「実に的確に言い当てていた」と証言。

森による暴行開始。他の者も参加した。
森主導の追及により、かつて山崎は警察に逃げ込もうとしたと話し、死刑宣告を受ける。

森、山崎の胸をアイスピックで刺すが絶命せず。
植垣と青砥がナイフで刺し、数人がかりで首をロープで締めて絞殺
8人目の被害者
森は山崎がそれまでの被害者達を「殺された」と解釈「人の弱みにつけ込んだ権力闘争」を行なっていた事が悪いと総括批判

同日、森は懐中電灯の電池の紛失は金子が隠したからだと騒ぐ。(金子は否定
会議上でこの問題が取り上げられると森は無言を貫いたが、その後は金子みちよへの批判が相次ぐ。

森曰く「僕の方ばかり見ている」金子は内縁の夫の吉野から自分に乗り換えようとしており、男を利用価値のあるなしで見ていると主張。吉野本人に妻への批判要求を行わせ、吉野に「もう金子に足を引っ張られたくない」発言を引き出した。
以前から金子は永田に気に入られようと離婚希望をしていたが認められず、森の一言であっさりと吉野からの離婚表明となる。

この日、ベースに奥村修一が合流。

1月21~25日
・ベース移動時期。(榛名→迦葉山ベース)
この間も森は吉野及び金子への追及を緩めなかった。

23日ひっそりと山崎の遺体が埋められ、メンバーの一人・青砥は皆に気づかれないようこっそりと合掌したという。青砥もまた森から批判対象になっていた。

また冬の山岳地帯のため、24日には山本保子、25日には夫である山本順一の運転する車がぬかるみにはまるトラブルが続いて起き、森を苛つかせた。

【閲覧注意】

【続出する死者】
1972年 1月1日
「落ち着きがない」事を理由に進藤の総括要求開始
森は進藤の過去をネチネチと指摘、赤軍派に加わる前の活動期質が抜けておらず、没主体的と責め立て、いたたまれず進藤が自ら「縛ってくれ」と頼み暴行が始まった。

森は尾崎の死について「膝で蹴ったのがまずかったかも知れない」為、死なないように「腹を手で殴って気絶させよう」と提案。
暴行の途中で進藤が「なんでこんなことが必要なんだ」と異議を唱えるも、森は取り合わず。暴行に躊躇う遠山は森に叱咤され、仕方なく殴った。

顔面が腫れ上がり血だらけになった進藤を見た永田は心配になり、「早く気絶させられないのか」とせっついたが、板東が鳩尾を殴っても気絶しなかった。
その後進藤は能敬と小嶋と同じように屋外の木に縛り付けられ放置その後死亡
2人目の被害者となる。

長時間のリンチに耐えた進藤だったが、最後には「もう駄目だ」と言ったという。
そのため森は革命戦士になる気力がなくなったことによる「敗北死」であると責任転嫁。

全体会で死者の報告を行うのは常に永田であり、森が全面に出ることはほとんどなかった。
しかし「腹を殴ったのがまずかったな」と発言したとの証言がある。

進藤の遺体は肋骨が数本折れ、内臓が破裂していた

後に逮捕された吉野は、この時激しく暴行したことで森に褒められ「総括姿勢あり、と見做され」安堵したという。

やがて雨が降り始めると、能敬と小嶋は小屋の床下に移動させられる。
極寒のなか元久は兄を気遣い屋内に入れて欲しいと頼むが、永田は黙っているよう指示

能敬は凍傷で手足が動かなかったが自力で歩こうとし、床下で縛られていた柱に頭を打ち続けていたのを「寒さで総括に集中できないから」と説明。
この様子に満足した森は能敬を評価し屋内に入れと指示、小屋中央の柱に縛り直した。

一方相変わらず小嶋の態度が悪いと批判、彼女が暗闇恐怖症であることを知ると縛ったまま目隠しをさせた。
やがて小嶋の状態が急変死亡する。

3人の犠牲者が出たことで「死を突きつけても革命戦士にはなれない」との意見が出るが、森は「死の問題は革命戦士にとって避けて通ることのできない問題」であり「精神と肉体の高次な結合が必要である」と反論
一連の事件の中でも最も「暴力的総括」の意味が問われた時であったが、驚くべきことに森の論理は大きく飛躍し「総括できれば、どんなに寒くても凍死しない」「どんなにお腹がすいても餓死しない」「銃の弾にあたっても死なない」といった主張で他の者を説き伏せてしまった。

小嶋の死因は、小屋に入れてもらえなかった事に対する絶望感と死への恐怖が克服できなかった「敗北死」とされた。

1月2日
・上垣が大槻への恋心を打ち明け、結婚したいと提案。
一度は森も評価(許可)したが、永田が反発すると、これに同調し一転批判の対象となった。

遠山が批判・追及の最中に「死にたくない」等と発言すると、「死にたくないとはブルジョア的な死への恐怖心であり、革命戦士にとっては必ず払拭しなければならないものである」と森は主張、恐怖を克服させるために小嶋の遺体の埋葬を指示。
(身元が判明しないように被害者らは全員衣服を剥ぎ取られている)

1月3日
・遠山と行方が小嶋の遺体を運び地中に埋めた。
この時、同行した寺岡が「反革命の顔をしている」と発言した事が問題化、森は反革命と敗北死は異なるとし、寺岡の総括を要求。総括が行われる。
(寺岡は東京に潜伏していたため「敗北死」という言葉を知らなかった)

小嶋の遺体を始末した遠山は、恐ろしかったが革命戦士になるために頑張ったと発言するも森は納得せず、総括は終了していないと判断。
他メンバーが遠山は小嶋と同じような顔をしていると責めると、彼女はパニックになった。
森は「ブルジョア的な女性としてのプライド」が残っているとし、自分で自分の顔を殴れと要求
痛みに動きが止まると罵声が飛ぶため、必死で遠山は自分の顔を殴り続けた。

30分後、顔面が変形して赤く腫れ上がり流血した遠山に永田は鏡を見せ、森は彼女を縛り上げると逃亡できないようにと髪を丸刈りにし縛ってそのまま放置食事とトイレも禁じた

昼食後、会議上での行方の発言を森が問題視過去の女性問題を追及
新倉ベースで自殺を考えたことがあると行方が口を滑らすと、そのまま縛り付けられ食事・トイレを禁じ放置された。
(問題視された行方の発言内容はグループの結束に満足しているといった趣旨のもので、発言を支持しようとした者もいたが坂口が密かに止めている

同日、中央委員会(CC)が結成される。
これにより、決定部と非決定部(命令に従うのみの者)が分けられた。

⁂CC結成により完全に永田らは革命左派と決別。山岳ベース以外に行き場を失う

1月4日
・屋内に移動してから態度が悪くなったとして能敬の追及・暴行が始まる。

縛られた能敬が周囲を眺めていたのは逃走の為と森は断定。
永田は遠山と行方も縛られていることを指し、仲間ができて嬉しいだろうと揶揄。うち1人は女性だから尚嬉しいはずと言い、能敬が潜伏活動の変装のために髪型を変えてきたのは女の気を引くためだろうと発言。
逃亡防止のためにやはり頭を丸刈りにされた能敬は殴られ続け、その後死亡が確認された。
4人目の被害者

死因は逃亡が見抜かれた絶望感による「敗北死」とされ、2人の弟は兄の死に泣き出した。
永田はこの死を乗り越え革命戦士になろうと声をかけたが、元久は「こんなことをやったって、今まで誰も助からなかったじゃないか!」と叫び、外に飛び出す。

⁂後に倫教は、兄の死から脱走を考えたと証言。
一度は総括が認められながら結局は殺害された能敬に、総括要求され縛られた者は必ず死ぬと悟り「総括の援助の為の暴行」不適切とされた人物を「間引く」ための方法だと知ったという。

1月5日
・被害者らの遺体の埋め直しが行われる。(この埋め直しは何度も行われた)
永田は森に厳しい総括は0か100しかないことを進言したが、森は「大きく賛同」し今後はもっと厳しくすると発言。(適切な返答が見つからず、はぐらかした可能性が高い)

1月6日
行方の総括及び追及開始
(懐中電灯で照らしたところ瞳孔が開いており、森が「死の領域に踏み込ん」だと判断した為)
疲れ切った行方は諦めたように「全ての事実」を認めて受け入れた。
森が逃亡を考えたかと問うと逃亡しようと思っていたと答え、森は逃亡防止のため肩甲骨と大腿部を薪も使って殴らせた。

後に永田は薄暗い小屋の中で瞳孔が開くのは当たり前と証言

一方、遠山への再尋問も開始
共産運動闘争参加の理由を聞かれ、母が生きやすい社会にしたかった旨を答えると「個人主義」と強く批判された。(遠山は母子家庭)
永田は遠山の恋愛遍歴を問いただし、「今は森が好き」と彼女が答えると保身の為に好きになるのかと批判、同時に森にも何故気づかなかったのかと責め立てた。

行方と遠山は動けないよう逆エビ型に縛り上げられ、縛られた上で遠山への殴打が続く。
森は彼女の足の間に薪を挟ませており、寺岡が「足を拡げろ」と揶揄し笑いが巻き起こると今度は永田が怒り出し、次は寺岡の批判・総括要求が始まった。

この日、永田は殲滅戦の準備のために山岳調査をおこなう必要を宣言している。
「異議なし」メンバーの全員一致で調査が決定。
後に逮捕された者はこれで「もう総括はないだろう」と希望を持ったと証言。他の多くの者も「安堵」したという。

1月7日
・遠山の衰弱が確認され、数人の男性が縄をほどき人工呼吸を行う。
森の指示を受けた坂口が酒を飲ませようとするのを、酒の温め方で永田と意見が合わず対立。
遠山の蘇生に消極的な永田の薄情を坂口が批判したところ、逆ギレした彼女は坂口に自己批判を要求。森も永田の擁護側にまわった。
あまりの馬鹿馬鹿しさに坂口は永田への批判撤回・謝罪するが、その直後に遠山の死亡が確認された。

5人目の犠牲者の「敗北死」について、永田は「死者への総括」を長々と語っている。
それは他の女性陣へと批判の矛先が向かいつつある事を示しており、総括を求められた大槻節子が男性から服を買ってもらった事を漏らすと、「あんた可愛すぎるのよ」と永田は口を滑らせた。
無意識に「男に媚び」ており動作も「男に気に入られるように」行っているとして総括を要求
大槻は「総括」することを約束し、妊娠中の金子みちよも空気を読んで吉野と離婚したいと発言するが、永田は却下した。

後に植垣はこのやり取りの意味が理解できなかったと証言

1月8日
・縛られたままの行方の精神が破綻しつつあり、童謡を歌い出す
坂口が「俺はもういやだ。人民内部の矛盾じゃないか」と疑問を告げるが、永田は「前進してゆくために」絶対の必要なことだと主張。

夜の会議で永田が坂口の発言を取り上げるが森は無言、他のメンバーも沈黙を守る。
その後、突然森は大槻を「女学生的」であり、金子を「主婦的」だと批判するが誰も同調せず。
(もともと大槻は女学生で、金子は主婦)

1月9日
行方の死亡が確認(6人目)
彼の死は「敗北死」宣言すらされなかった。

1月10日
・森が6人の死を「高次な矛盾」として総括(演説)を行う。
後に逮捕された永田は、この意味はよくわからなかったが暴力的総括要求は終了し、「殲滅戦」に向けて活動活発化すると理解したと話している。他の者も同じように受け取ったらしく、「明るい雰囲気になった」という。

驚くことに、この段階でようやく「共産化に向けて何をすべきか」の明確な方針が必要との発言が出ている。
永田本人は早い段階で森に文書化(レジュメ)の必要性を訴えていたが、森は消極的な姿勢を崩さず、結局は事件終了(あさま山荘事件での逮捕)までレジュメは作成されなかった。
他のメンバーらは何を総括すれば良いのかさえ不明のまま、ひたすら(被害者は死ぬまで)森と永田に振り回される日々を送り続ける。

1月11日
・迦葉山と赤城山(ともに事件の現場となる)の山岳調査開始。日光方面の調査も指示されていた。
森は寺岡への総括要求

1月12日
・永田は毛沢東に傾倒していたが、逃亡をはかった同志に路銀を送ったエピソードを初めて知り「逃げないように総括」し、でなければ殺すべきであると批判を始めた。
これは本来なら本末転倒の考え方ではあるが、誰も何も反論せず。

⁂この頃山田が東京で赤軍派メンバーに接触している。事情を知らないメンバーは入山を希望したが「今は来ない方が良い」と言われ断念。彼は後に「山田さんに命を救われた」と証言。

1月14日
・森は山本順一の運転する車で下山、時間がかかったことに苛立ち山本の運転を批判
山本は強く反論した。

その後、改造爆弾制作中に金子と青砥が笑顔で雑談したのが悪いとして森が批判し、永田が同意しその場で注意しただけで済む。

再び森が寺岡が「敗北死」と「反革命の死」を混同した事を持ち出し(繰り返すが彼は敗北死の説明を受けていない)彼をスターリン主義であると批判
永田・坂口に彼の過去の活動遍歴を問いただし、彼は分派主義であり啓蒙できなかったのは革命左派の主義にも問題があったとして永田批判をも行う。
結果として寺岡の総括が決定した。(この時寺岡本人は不在

1月16日
・吉野と寺林がベースに帰還。
寺岡の総括要求を告知され過去の問題点を挙げるよう要求された吉野は、自分へのテストではないかと怯えたが、やがて永田の真意に気づき、必死に寺岡のアラ探しを列挙
告げ口に満足した森と永田は、総括への意思を固めた。

皮肉なことに、この日別行動をとっていた寺岡は、一緒にいた板東に総括の意味を相談している。

寺岡が山岳調査から戻ったのは翌17日。
その日には本人不在のまま森による「総括要求=死」が確定しており、形ばかりの人民裁判が開始されることになる。

他の者達も拒めばいつ自分が殺されるかわからないというパニック心理に陥っていたと思われるが、おそらく死を最も恐れていたのは森本人であり、もはや共産主義云々の思想は関係なく、殺されないために殺すという地獄絵図ができあがっていた。

【閲覧注意】

ここで軽く印旛沼事件に触れておく。
連合赤軍の発足は1971年の7月だが、実際には12月まで革命左派・赤軍派と分離したまま情報交換のみを行っていた。
事件が起きたのは革命左派の山岳ベースであり、建前としては思想は比較的自由であり、また進学希望や親族に会いに行くなど、当初は下山は自由のはずだった。
(ベースはあくまで警察の追及を逃れるための拠点にすぎなかったため)

しかし向山茂徳早岐やす子の2名はは下山が許されず、やむなく脱走
後に捕まり殺害され千葉県印旛沼周辺に埋められた2人は、ともに情報漏洩の恐れありと判断されたため、処刑対象となった。
(実際には向山は大学進学、早岐は恋人に会いたいという下山理由)

この2人の処刑を提案したのが赤軍派の森恒夫であり、この件は革命左派の中でも一部以外には伏せられていた。
しかし森は本当に殺害するとは思っておらず、処刑を知って驚愕・震撼「あいつらは革命家じゃない!」と叫んだという。


【崩壊する組織】
1971年 8月 印旛沼事件の発生
・早岐殺害時に関わった小嶋和子の精神が不安定になり、衝動的に脱走を繰り返す。

9月
・印旛沼事件実行犯の1人が脱走しようとして失敗。
「殺されちゃうんだぞ」と吉野雅邦が泣きながら詰め寄り、既に不穏な空気が流れ始めていた。

9月11日
・元赤軍派の坂東國男と植垣康博が福島県の交番をナイフで武装し襲撃するが失敗。(失敗の原因は、たまたま交番が無人だったため)

森は印旛沼事件から革命左派に内心恐れを抱いていた。そのため、箔をつけて優位に立とうと必死だったらしい。
交番襲撃失敗に関し、ナイフではなく銃でしっかり攻撃しろと2人に強く指示
この心理は後の残虐性に繋がってゆく。

10月
・森、永田洋子、坂口弘、寺岡恒一(後に森により死刑宣告)の4人で会議が開かれ、合同軍事訓練を赤軍派拠点の新倉ベースで行う事が決定。

12月2日
・山梨県新倉ベースに向かう山道に元革命左派が集結するも、各自水筒を持参せず。

12月3日
・新倉ベースにて「連合赤軍」が初めて合流。水筒問題を利用して森は優位側に立つ事に成功。

12月4日
・森が元革命左派所有の銃の譲渡を要求
永田は要請を保留しつつ、元赤軍派の遠山美枝子が指輪をしたままでいることを「革命的警戒心が足りない」として批判対象に挙げた。

⁂前日の水筒問題で、リーダーである永田らが自己批判を行わせられた報復との指摘あり。
遠山は美人であったため永田に目をつけられ、陰惨な最後を遂げる。彼女の遺体は顔が潰されていた。

12月5日
・遠山が指輪を外さないことに永田が激怒。しかし元赤軍派には理由がわからず、怒った永田は「このままではとても一緒にやっていけない」ふて寝

12月6日
・元赤軍派メンバーで遠山問題について議論。
何が悪いのかと首をひねる面々に、森は革命左派は脱走者を殺害すると告知。ここで初めてメンバー達は「下山=死」であることを知った。

同日、森は永田に遠山批判は至極当然のことと報告。彼女が総括終了しないうちは下山させないこと、他の者も下山したら殺害すると伝えた。
対して永田は「必ず」「なるべく早く総括」し「総括できるまで山から降ろさない」と強く要求。

その日のうちに遠山は総括(全員からの批判)を受ける。その直後、行方正時と進藤隆三郎(森と折り合い悪し)の総括も行われた。

12月7日
・合同訓練最終日。
全員が訓練の感想を述べ、団結に涙を流して感動・感激する者もいたが、理解できずに戸惑う者も少なからず。統一性全く無し
元革命左派メンバーは新倉ベースを去り、別の山岳ベースに移動。

⁂この後も遠山・進藤・行方の批判・総括は連日続く
森は3人に雪の降る屋外での射撃訓練を命じていたが、実際には訓練でも何でもなく、ただ発射の構えをひたすら長時間繰り返させるだけの意味のないものだった。

12月10~12日
・元革命左派が本来の拠点である群馬県の榛名の山榛名ベースに帰還。
後に元赤軍派が合流し、惨劇の場所の1つとなる。

12月20日
・森と坂東が指導部会議のために榛名ベースに到着。
留守中も総括対象の3人に監視をつけ、訓練を続行

この日には様々な論議が芽吹く。
森は小嶋和子の発言を問題視し、擁護する永田と寺岡恒一と対立
また妊娠中にも関わらずキャンプに参加した金子みちよを絶賛する一方で、尾崎充男の行動が「軍人らしくない」と批判
永田は強くこれに反発、尾崎を擁護するとともに同志であるはずの金子には問題があると主張。
議論は夜を徹し、最終的には森が中国の革命戦争史を共産主義に絡めた理論演説で永田を説き伏せた形となる。森の毛沢東思想への強い執着に感動した永田は、その後は彼に心酔し無条件で従う。

⁂この頃に革命左派内で都市部と山岳部で対立が悪化
世論の動きを肌で感じていた都市部と柴野の一周忌を巡って衝突した永田らは荒れていた。

12月21日
・連合赤軍としての結束を固めるために元赤軍派の坂東と元革命左派の伊藤和子の結婚が決定
永田は伊藤に他に好きな人がいる事を知りつつ、説得という名の命令を下す。
小嶋が印旛沼での殺害が「良い」結果をもたらしたと口を滑らせ、森の不評を買う。

この日、山本順一と保子夫妻が生後1ヶ月の乳児を連れてキャンプに合流
しかし理想と現実のギャップは大きすぎ、離脱は不可能となった。

12月22日
加藤能敬小嶋が革命左派の歌のリードを取っていたところ、森が批判を始め、空気を察した寺岡が歌うのをやめさせる珍事が発生。夜、森は各自に自己批判を要求。

12月24日
・森が指導部会議にて革命左派の最高指導者である川島豪を批判
川島と森は意見が合わず、川島の立場の方が上だったため渋々森が従った因縁がある
更に深夜、被指導部の人間が再び能敬のリードで歌を歌っている事が気に食わず、寺岡に命じて歌をやめさせた。永田が能敬と小嶋の2人に討論による総括を提案、以降2人は作業から外される

12月25日
・再び森の川島批判が続く。
大きく影響を受けた永田に対し、坂口にはその批判内容は荒唐無稽に感じられた。

更に森は能敬と小嶋の態度が「総括する態度ではない」として正座させ、2人を呼び捨てにする。(以後、他のメンバーもこれに倣う)
「総括に集中させるため」、2人に食事を与えることを禁止

12月26日 
・能敬と小嶋のキス現場を永田が目撃。「神聖な場を汚した」として強く激怒・批判
加藤が沈黙すると他にも隠していることがあるはずと永田は感じ、森にどうするか詰寄り、森は「殴るか」と返答。

森は以前に剣道の試合で負けて気絶した事があり、覚醒時には新鮮な気持ちで全てを受け入れることができたと語り気絶するまで能敬を殴る事を提案。

坂口は残酷と思いつつ、気絶すれは終わると考え賛同。
就寝していた他のメンバーも起こされ、全員が加藤と小嶋のリンチに加わる事が義務付けられた。
加藤の弟である倫教と元久はためらったが逃げ場はなく、倫教は泣きながら兄を殴る

厳しい追及と暴行に、やがて能敬は小嶋と性的関係にあると答え、永田はさらに激怒
暴行を受けていた小嶋がトイレを訴えると、その場で排泄させた。

キャンプ内での性的関係はその時によって善悪が変化する。
永田本人は妊娠不可能の体であり、森と性的関係を結ぶ前は坂口とも関係があった。
恋愛沙汰は永田にとってかなり複雑なものであり、気分次第で追及・放置が繰り返されている。
(本人は「恋愛はブルジョワ的」なもので「戦士には必要ない」境地に至ったと後に証言)

ブルジョワ・・・ここでは資本主義の金持ちを指す。⇔プロレタリア(労働者)階級

12月27日
・能敬は一晩中殴られたが気絶せず。腹を立てた永田は極寒の屋外の木に縛り付けて放置を指示。
森は気絶しなかったのは「総括できていないから」であり、木への束縛は「集中させるため」と説明。
この後さらに数人の批判が行われ、殴るのをためらった、或いは途中でやめた者も批判対象となった。

この日、決定的な判断が下される。
元赤軍派は覚悟が足りないとされ、新倉ベースから榛名ベースへの全員移動が決定。
被害者らの運命が決まった。

12月28日
・縛られた小嶋がガラス戸を見ていたところ、森は彼女が逃亡を企てていると騒ぎたて、永田に何故見抜けないのかと批判(抗議)
永田が指導部メンバーと協議し始めると、今度は嫉妬「指導者として正しくない」と批判
その後永田は指導部メンバーとの会話を避けるようになり、コミュニケーション分裂に拍車がかかった。

夜。尾崎充男が正座させられる。森は彼が「日和見主義」「敗北主義」だと追求。

12月29日
・森の指示で尾崎の主義克服のため警官役をさせ、坂口との決闘が開催される。
実際には一方的な殴り合いでしかなかったが、この決闘で森と尾崎が和解すると、今度は永田が嫉妬で苛立ち尾崎批判を始めた。
決闘中に妊婦である金子が席を立った事を指摘(批判)し、決闘後に尾崎がティッシュを取ってくれと頼んだ事を「甘え」と批判。総括する態度ではないとして、さらに殴る事を提案
その後は直立不動を命じ、食事なし、トイレも禁じる。
殴られる尾崎に「頑張れ」とエールを送った加藤能敬は、今度は森に褒められている。

リンチを「暴力的総括援助」と言い換えた彼らは、肉体の限界状況下の態度で初めて真価が問われると考え始めていた。閉ざされた世界で、急速に彼らの思考は麻痺してゆく。

大槻節子は美容室で髪を切ったため批判対象者となった。
杉崎ミサ子は「革命戦士として自立するため」内縁の夫・寺岡と離婚すると表明。永田と森は多いに評価したが、肝心の寺岡本人は不在のまま。
様子をみていた金子みちよもまた吉野との離婚を持ち出したが、永田は許可しなかった。

12月30日
・一晩中立たせられていた尾崎が弱音を吐いた事に怒り、森はさらに殴打し立ったまま縛り付けた
ところが尾崎の腕に長時間縛られた事による水疱が現れると、森はひどく動揺する。
山田孝に相談し、結局は「腕の1本や2本なくなっても革命戦士になったほうがよい」と判断。
尾崎の刑はそのまま続行となる。

また、森は加藤能敬・小嶋・尾崎ら3人に食事は与えず、今後の総括態度により様子を見て決めるという「決定報告」を宣言。さすがに永田は驚くが無条件で従った。

また、警察に収監されていた中村愛子がベースに帰還。
空腹に耐えかねて刑事が出した食事を食べた事を自己批判するが、永田は総括者の見張りを命じただけで追求せず。能敬の弟の倫教は兄との待遇の違いに不満を持つが口には出さなかった。

⁂印旛沼事件の被害者・早岐は親族の刑事と食を共にしたことが殺害原因の1つ。

12月31日(大晦日)
1人目の被害者・尾崎の死亡
食事の準備の傍らで、空腹に耐えかねた尾崎が「すいとん」と繰り返しつぶやいたのが暴行の発端

森はかつて能敬は顔面を殴ったせいで気絶しなかったと考え、腹部を中心に殴ることを提案。
尾崎は繰り返し腹部に膝蹴りを受けたが失神せず。森は強く憤ったものの、夜には死亡しているのが見つかった。

死因は餓死(栄養失調)凍死衰弱死内臓破裂等いくらでも可能性はあるが、彼は死ぬ前に舌を噛み切っていた。自殺か、苦悶の痙攣によるものかはわからない。
(遺体発見は翌年3月以降のため、正確な死因は不明)

尾崎の死亡は「共産主義化しようとしなかったために、精神が敗北し、肉体的な敗北に繋がっていった」結果であり、「本気で革命戦士になろうとすれば死ぬはずがない」ため、「総括できなかったところの敗北死」であり自己責任の死であると森が結論づけ、以後「敗北死」が常用される。

永田は尾崎の死に気づかぬよう、能敬と小嶋を屋外の木に縛り付けた。
遺体は吉野雅邦、前沢虎義の2人が地中に埋め、山田と岩田充男が縛られた2人の監視に立つ。
前沢と岩田はここで初めて印旛沼事件の事を知る。
岩田にとって向山は同級生であり、尾崎は大学の寮で同室で、ともに親しい友人達であった。

更に永田が全体会で尾崎の敗北死を報告。
「彼の敗北死を乗り越えて前進する決意を我々自身がより固めていかなければならず、食事が食べられないということもあってはならない」と宣言し、全員にパンとコンビーフを配布。
活動資金に困っていた彼らにとって、これは非常に豪華なディナーとなった。
 
時系列は前後するが、この日、元赤軍派が榛名ベースに到着。
森は到着を受け入れたが、進藤・遠山・行方ら3人の総括が終了していないと批判。
進藤が脱走を考えていると感じ、永田と坂口に総括不足を報告。
しかし2人の同意は得られなかった。

森が総括不足と感じた理由は以下。
進藤・・・縛られた尾崎、能敬、小嶋を気にして落ち着きがない
遠山・・・女同士のライバル心がまだ残っている
行方・・・神経質でノイローゼ的な様子に見える

翌日、年の明けた1月1日から、一気に死者が続出する。

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