サイケデリック・奇譚

永遠の日常は非日常。

カテゴリ: 事件

【閲覧注意】
この事件の取り調べ中に、実は1984年にも当時の関根の周辺で少なくとも3人の男女が失踪した事が判明している。
犯行発覚のきっかけになったのは、関根の知人で「アフリカケンネル」へのマスコミ対応で疑惑を否定し続けた元自衛官の証言だった。


【1984年の事件】
(「アフリカケンネル」はまだ存在せず)
・当時の関根の兄貴分としてふるまっていた暴力団員の失踪
関根が資産家である風間家の娘(博子)と結婚する際に協力し、報酬を支払う予定だったが、実際には支払わずにトラブルになっていた。
周囲に「近く、でかい金が動く」と話していたが、自宅に迎えに来た車に乗って出かけたまま行方がわからなくなった。(2月)

偶然にも山崎とこの暴力団員は知人だった

トラック運転手をしていた男性の失踪
男性は以前関根が経営していたペットショップで働いており、関根は店の看板を男性の名義で発注。
男性は看板の代金を立て替え、返済を要求していたことが判っている。
近所のガソリンスタンドで関根から電話を受け、返済を約束されたと出かけたまま、行方不明となった。(5月)

スナックを経営していた女性の失踪
元自衛官の妻で、夫婦間で金銭トラブルがあったことが判明している。
元自衛官は夫婦喧嘩の際に妻を死なせてしまったため、関根に遺体の処理を依頼したと供述。(6月)

この元自衛官は、後に失踪した暴力団員と妻の遺体の死体損壊・遺棄に関与を認め、関根が解体した遺体を自分が川に遺棄したことを証言した。
(トラック運転手の失踪事件の関与は否定)

証言に基づき川の捜索が行われたが、歳月の経過とともに問題の川は橋の取り壊し事業等が行われており捜索は難航する。
当時の遺体の解体・焼却現場となった旧犬舎も捜索したものの、物証は乏しく立件できず。
未解決のままとなった。

関根もこの事件への関与は認めている。
妻のバラバラになった遺体を遺棄した元自衛官は、暴力団員の遺体の焼却も行ったと証言した。

同じような金銭トラブルを起こしていたにも関わらずこの暴力団員の殺害が発覚しなかった事から、川崎昭男氏の殺害に踏みきったと公判ではみており、殺人が殺人を呼ぶ連鎖ともいうべき現象が起きていたことがわかる。
事件の立証はできなくとも、失踪事件への関根らの関与は確定とみられている。

⁂未解決でありながら、関根の関与が疑われる失踪事件は他にも多数
だが状況証拠や疑惑だけでは関与の断定はできず、「埼玉県愛犬家殺人事件」の他に比較的関与がはっきりしているのが上記の3件のみである。



【事件に関する時系列】
非常にややこしく複雑な背景が入り乱れる。そのため、わかりやすく時系列に事柄を並べてみた。
・1993年 
4月 
 川崎昭男氏失踪事件
7月
 稲川系暴力団幹部・遠藤安亘及び和久井奨失踪事件
8月 
 滝口良枝さん失踪事件

・1994年 

1月 
 大阪愛犬家殺人事件発覚 マスコミが大々的に報道
 埼玉県でも同じように愛犬家が連続失踪していると噂が広がり始める
2月 
 マスコミが「アフリカケンネル」に取材開始 一気に事件が表面化
 川崎氏遺族らが事件性を訴え、関根は潔白を主張したが当初から疑いは濃厚とされた
 (但し、証拠は全く発見されず)
 群馬県在住の元自衛官が「アフリカケンネル」の取材を一手に取り仕切る
9月 
 埼玉県警が元自衛官を詐欺容疑で逮捕 山崎の関与が判明
10月 
 山崎永幸の事情聴取へ
 山崎は事件への関与を否定 その後逃亡
11月 
 一緒に逃亡した山崎の妻(当時)を逮捕
12月 
 山崎の出頭 事件の証言開始
 川崎昭男氏の遺品・遺骨の発見 

・1995年 
1~2月 
 関根元・風間博子・山崎永幸の逮捕及び被害者ら4人の遺品・遺骨が次々と発見される

⁂捜索範囲は山林や河川など広範囲に及んだが、骨片は高温で焼却されていたためDNA鑑定が難しかった。だが、義歯など数ミリ~数センチの遺品を探す懸命の捜査が実を結ぶ。
捜査員らは川底などを篩(ふるい)にかけて遺品を探した。


4月 
 関根らの起訴
 関根元・・・川崎昭男・遠藤安亘・和久井奨・滝口良枝ら4人の殺人罪・死体損壊・遺棄罪
 風間博子・・・川崎昭男・遠藤安亘・和久井奨ら3人の殺人罪・死体損壊・遺棄罪
 山崎永幸・・・川崎昭男・遠藤安亘・和久井奨・滝口良枝ら4人の死体損壊・遺棄罪
4~5月
 関根の供述により1984年の失踪事件の再捜査 物証の発見ならず
7月 
 関根・風間・山崎の初公判開始
 関根・・・罪状否認保留 弁護人は検察側の批判にまわる
 風間・・・川崎氏の車の移動は認めるが、事情は知らなかったとして事件の起訴事実の全面否認
      遠藤安亘・和久井奨の死体遺棄は認めるも、殺人・遺体解体は否認
 山崎・・・起訴事実を大筋で認める

10月
 約束が違うとして山崎が証言拒否を宣言


⁂山崎の主張・・・「証拠を出せばすぐに釈放」の密約が反故にされた。詐欺容疑で拘留中だった後妻の釈放、面会、検察庁内で情交の場を提供された。
検察の主張・・・密約はなかった。妻の釈放は山崎の要求によるものではなく、正当な手続きを経て行われたものであり、検察庁内で情交などありえない
(ただし、翌年の1996年には妻との面会を許可した事を認めている)


この問題について、関根と風間の弁護人は検察の立証の柱となっている「山崎供述」は検察側によって誘導された信憑性の薄いものであり「自供すれば殺人を不問に付す」という司法取引は信用に価しないものと主張
関根元の主張・関根の弁護側の主張、風間の主張・風間の弁護側の主張、山崎の証言・山崎の弁護側の主張はそれぞれ全く異なるものとなり、公判は波乱を帯びた混乱の場となる。
11月
 関根・風間の公判に山崎が証人として初出廷するも、証言拒否
 その後も検察・警察批判、裁判官に罵声を浴びせるなど問題行動を続ける

⁂山崎の弁護側は、山崎には逃げ場がなく仕方なく犯行を手伝ったとして無罪を主張していた。
だが、山崎本人は公判トラブルが起きるまで起訴事実を全面で認めている


12月
 山崎に懲役3年の実刑判決 山崎側は控訴

⁂山崎の隷属的な立場は認めるものの、暴力・監視などは受けていなかったと認定。
役割の重要性、結果の重大性は大きく、例え脅されていたにしろ、自らの意志で犯行に加わったことが決め手となった。

・1996年
 東京高裁にて山崎の控訴棄却 上告せず刑の確定へ

・1998年
 山崎永幸満期出所
 
ここに至り初めて関根が起訴事実を認めたものの、主犯は風間であり、実際の殺人は山崎が行ったと強く主張妻である風間を守るために仕方なく犯行に加わったとした
が、これ以降元夫婦間の対立が決定的なものとなってゆく

・2000年
 
105回の公判 ようやく結審に至る
 関根元及び風間博子に死刑求刑 風間の無罪(冤罪論)が浮上
 (犯行関与の可能性は高いものの、殺害・死体損壊の証拠は関根・山崎の証言のみ
 
・2001年
 関根元及び風間博子の死刑確定 両名とも控訴
 
実は供述書は関根・風間・山崎ともに内容がそれぞれ異なっており、対立・矛盾する部分も多い。
しかし、関根・風間の供述では、遠藤安亘を除く3人を山崎が絞殺したとの点が一致している。
「山崎供述」はあくまで山崎の都合の良いように供述されたものであり、もっと早い段階で山崎も犯行に加担していたという点でもほぼ一致しているものの、被害者らと山崎を結ぶ利害関係が見つからなかった
仮に山崎が殺害を請け負ったとしても、金銭などの報酬のやり取りの形跡もない。
そのため、最も信用できるのはやはり「山崎供述」によるものと判断された。

⁂実際に山崎の証言が最も具体的で、不自然・不整合な部分もほとんどなかったという。
犯人しか知りえない情報も多く、全体的に信用できるとされたが、同時にある程度の虚偽や誇張が一部含まれている可能性も指摘されている事も記載しておく。


この時点でもまだ、関根は風間が主犯であると強く主張していた。


・2003年
 関根・風間両名の控訴審開始
 
再び山崎が証人出廷したが、検察や弁護人への批判、裁判制度への疑問を呈しつつ、曖昧な証言に徹する。
唯一の証言らしきものが風間の無罪主張だったが、具体的な物証に基づく根拠はあげていない。

・2005年 
 風間が遠藤安亘・和久井奨の死体損壊について、初めて一部関与を認める
 東京高裁にて両名の控訴棄却 両名とも上告

・2009年 
 最高裁が上告棄却 両名とも死刑が確定

・2016年
 関根元が心臓発作で倒れ、治療開始 入院

・2017年
 関根元 病死

・2018年 
 東京拘置所にて現在も風間博子収監 死刑を待つ


正直なところ、この一連の事件の解明されていない部分が大きすぎて全容は理解しかねる。
唯一の生き残りの風間博子は戦後12人目の女性死刑囚にあたるが、多くを語ろうとしていない。
「アフリカケンネル」は廃業となったものの、残された犬たちの世話は風間の実家が支援していたという。

様々な後味の悪さをまき散らしたこの事件の主犯である関根は、拘置所内でも多くのトラブルを起こしていたらしい。
事件発覚当時のワイドショーや週刊誌などの記事を覚えておられる方も多いだろう。

事件の詳細は、志摩永幸(山崎永幸)の「愛犬家殺人事件」に詳しく記載されている。
(この暴露本はゴーストライターの可能性が高いとの指摘あり)
また園子温監督がこの事件を題材に映画を製作しており、他にもこの事件を扱った作品も多い。

殺害した遺体を損壊、バラバラに細かく解体して証拠を隠滅するという点では「北九州連続監禁殺人事件」に通じるものがあり、犯人でありながら自らマスコミに露出する姿は江東マンション神隠し殺人事件の犯人に通じるものがあるのかもしれない。(遺体を細かく切断処理すると言う点では3件とも一致)

この現代においても未解決事件は多数あり、同時に行方不明者の数は数万人を超える。
案外、こういった闇の世界は身近にも潜んでいるのかもしれない。


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【閲覧注意】
一見何の繋がりもないように見えた4つの事件だが、川崎氏と暴力団幹部らとの事件は「アフリカケンネル」でつながっていた事が証言で明らかになる。


⁂実際のインタビュー映像含む 短いながらも、関根のキャラクターを垣間見る事ができる


【愛犬家・川崎氏の殺害】
川崎昭男氏と関根らの親交がいつ頃から始まったのかはよくわかっていない。
もとは犬を購入するために「アフリカケンネル」を訪れたことがきっかけだったと思われる。

犬を探していた川崎氏だったが当時兄の会社の経営が思わしくなかったことから、関根に勧められるまま犬の繁殖ビジネスに乗り気になったらしい。
だがショップから人気犬をつがいで購入し子犬が産まれたら・・・・という手口は、関根の常套手段の1つである。

川崎氏が「アフリカケンネル」に支払った金額は1100万円。
2頭同時に受け取る事は出来ず、まずは繁殖用の雌犬が川崎氏のもとに届けられた。
しかし実際のその犬種は数十万程度であり、雌犬も成犬ではあるが繁殖には適さない高齢犬であった事を知り騙された事も気づく。
また、購入した雌犬の行方もわからなくなり、川崎氏は繁殖ビジネスの続行を断念。
残る雄犬の引き取りをキャンセルし、また代金の返還を「アフリカケンネル」に要求していた。

当時の関根の借金は1億4000万円。
詐欺商法がますます強引で悪辣なものに変わりつつあった。
関根と風間は代金の返却は不可能と判断し、トラブル解決のために川崎氏の殺害を計画する。

1993年4月20日
金を返すと偽って関根は川崎氏を呼び出し、大型ワゴン車の中で談笑しながら栄養剤と称して毒薬入りカプセルを手渡し、飲ませることに成功した。
症状が出るまで15~30分ほどかかるため、その間に死亡現場のガレージに川崎氏を連れていったと思われる。

使用された薬物は、動物の殺処分用の硝酸ストリキニーネであり、激しい痙攣による呼吸麻痺によって死に至る凄惨なものであった。
薬物は「犬の安楽死のため」に知人の獣医師から譲り受けたものであり、関根は数十人分の致死量の硝酸ストリキニーネを所持していたという。

硝酸ストリキニーネ・・・殺鼠剤等にも使用される。
脊髄による硬直性痙攣が起きるため、傍目には声も出さず呆気なく死んでゆくような錯覚を起こさせるが、実際には筋肉が激しく痛み、強い不安・恐怖感を伴う
激しい痙攣による呼吸麻痺で窒息死するが、意識障害は起きないので最後まで意識は残ったままとなる。
強直性痙攣・後弓反張(体が弓形に反る)・痙笑(顔筋の痙攣により笑ったような顔になる)が特徴
個体によって致死量が微妙に異なり、場合によっては長い痙攣の末にようやく死に至るケースもある。
また、吸収してからは血流を通り脊髄に到着して初めて痙攣が誘発されるため、その前に痛みなど体の異変が起きる事もある。現在では、動物の安楽死・殺処分には使用されていない


この時、山崎は運転手を務めていたらしい。
川崎氏の死後、ガレージに現れた山崎は遺体に直面する。

「お前もこうなりたいか?」
「子どもは元気か?元気が何より」


証言によれば、関根が山崎に向けて発した言葉である。

・山崎自身も犬のブリーダーを行っていたため、群馬県内で人里離れた場所に住んでいた。
貨車を改造した住居は通称「ポッポハウス」。
犬たちの騒音被害や近所トラブルを避けるため、周囲に人家のない場所であった。

山崎は関根の指示で、自宅に遺体を運び込む。
風呂場で関根はそのまま遺体の解体に取り掛かり、その間に山崎は残された川崎氏の車を都内に運ぶように命令されたという。

別居中とはいえ、子供に危害が加えられるかもしれないという危機感を抱いた山崎は関根の言葉に従った。

関根の指示通りに風間と合流し、東京駅の地下駐車場まで車を移動させて偽装工作を行うが、「あんたさえ黙っていれば大丈夫」との風間の言葉にさらに山崎は逃げ場を失った。


熊谷で風間を車から降ろし自宅に帰ると、既に遺体は解体され原型をとどめていなかった。
翌日の早朝にはドラム缶で骨や所持品を焼却し、肉片・焼いた骨片・焼却しきれなかった所持品などを近くの国有林や川に遺棄した。

⁂後に山崎の証言のもとに警察が川崎氏の遺品(所持品)を発見している。


・川崎氏は会社帰りに関根に呼び出されていた。
関根とのトラブルを知っていた家族は翌21日には捜索願を警察に出している。
(この時点で既に遺体は解体され、細かくバラバラに遺棄されていた)

警察は初めは家出人としてみていたが、30日には東京都内で乗り捨てられた車を発見し、事件性ありとして捜査が開始された。
やがて警察は被害者と関根とのトラブルに注目する。

関根の周辺では数年前から連続失踪が起きていた。
事態の重大さに気づいた警察は関根と山崎に対し監視・尾行を開始する。
しかし、その後も大胆なことに捜査の目をかいくぐって関根周辺での失踪事件は相次ぐ。

関根に会った直後に失踪した被害者が4人となった同年の秋頃には、より本格的な捜査が県警により展開され始めた。関根らの監視は強化され、関根の知人には1人で会わないようにとの忠告まで行われている。
しかし、何の物証も発見できないことが1番のネックとなり、関根らの逮捕に踏み切ることができなかった。

関根は新犬舎で建設業者への支払いを踏み倒していたため、警察内では「詐欺容疑」で別件逮捕することも提案されたが、やはり殺人事件の立証は難しいとされ、見送られている。

注目すべきはこの時点で警察はほぼ殺人を確証していたことである。。
しかし関根の言葉通り「遺体なき殺人」であり、「ボディを透明にすれば捕まらない」と言う通り、物的証拠が見つからない限り動きは鈍くならざるを得なかった。


【暴力団の幹部と運転手の殺害】
・関根には人を誑し込む天性の才能があったことは間違いなく、周囲には良い人・ホラ吹きでユーモラスな人物だと信じ込んでいた人間も多い。
だが、一旦トラブルになった人間には躊躇なく残忍で凶悪な面をのぞかせている。

「アフリカケンネル」は、その強引な悪質商法からトラブルが顧客トラブルが絶えなかった。
とはいえ勿論何ら問題なく動物を購入していった客も多いことを念のために記載しておく
もめると関根は暴力団との関係をちらつかせ相手を黙らせていたが、実際に稲川系暴力団の幹部・遠藤安亘と親交があった。
幹部とはいえ遠藤は組長代理であり、相当高い地位にいた人物となる。
トラブルが大きくなれば遠藤が出向くなど、「アフリカケンネル」では用心棒的な役割を果たしていたらしい。

川崎氏の失踪後、遺族らはあからさまに関根に疑惑を向けており、関根と面談も行っている。
この時に同席したのが遠藤であった。

犯行を察知した遠藤は関根を強請りだす。徐々にその金額はふくらんでゆき、相手を甘く見過ぎていたということだろう、関根の首根を掴んだと思い込んだ遠藤は、やがて新犬舎の土地建物の権利証まで要求するようになった。
ただでさえ借金を抱えていた関根と風間は、このまま遠藤に骨の髄までしゃぶりつくされるのを待つ程、お人よしではなかった。
遠藤の「ボディを透明に」し、運転手として同居していた和久井奨も口封じのために殺害することを決定。

1993年7月21日の夜、関根と風間は遠藤宅を訪れた。(山崎は車内で待機)
2人は要求に応じるフリをして登記済証を渡し手油断させ、川崎氏と同じように硝酸ストリキニーネ入りのカプセルを栄養剤と偽り遠藤と和久井に飲ませた。

やがて遠藤は倒れたが、和久井にはカプセルの効果が出るまで時間がかかっている。
遠藤の急変に薬物知識のない和久井は驚いただろうが、まさか毒を飲まされたとは思わなかったかもしれない。
関根は「救急車を呼ぶ」ために和久井を誘導のために表通りまで走らせ、時間を稼ぐ。

その後関根らは車に戻り、さらに表通りで救急車を待っていた和久井を乗せて「遠藤が女を呼んでいる」からとそのまま車を発車させる。
運転手は山崎で、助手席にカプセルを飲んだ和久井、後部座席に関根と風間がそれぞれ座っていた。

人気のない堤防沿いの道路を走行中、ようやく和久井が苦しみ出す。
和久井は車のフロントガラスにひびが入る程激しく苦悶した後に、絶命した。

その後遠藤の遺体を回収し、3人は2台の車で再び山崎の自宅に向かう。
この時、初めて山崎は2人が行う遺体の詳しい解体の様子を目にすることとなる。

風呂場に持ち込まれた遺体は、先に遠藤、次に和久井の順に手際良く解体されていった。
山崎も包丁を砥ぐなどして協力したという。
後に山崎は出所後に事件の様子を書いた本を出版し、その本の中でこの時風間は鼻歌を歌いながら肉片を切り分けていったと記載している。
ただし、公判で風間は死体損壊を否定

そして翌日、22日の早朝には2体の解体はやはり完了していた。
風間は熊谷の「アフリカケンネル」に戻り、関根と山崎が再びドラム缶で証拠隠滅のための焼却を行う。
前回と全く同じように、肉片・骨灰は周辺の山間部の川に遺棄された。



【滝口良枝さん殺害】
・主婦・滝口良枝さんは次男が「アフリカケンネル」で働くようになったことから関根と知り合った。
関根の女性関係はかなり派手であり、良枝さんとも関係を持っていたらしい。

「アフリカケンネル」は遠藤による強請りでさらに経営難に陥っていた。
ますます関根の金をかき集める術はなりふり構わぬものになってゆく。

関根は良枝さんに「アフリカケンネル」の株主になることを勧め、出資金を引き出すことを計画する。
(最も株主として金を出させられていたのは他にも多数いたらしい。関根は人を信頼させる手管がうまく、どんなに疑惑の噂があっても、実際に会って少し話しただけで絶対の信頼を得る程に人心掌握術に長けていた)

しかし、実際に関根に良枝さんを株主に据える気は全く無かった。
すでに滝口家は他にも6頭の犬を「アフリカケンネル」から購入しており、合計900万円ほど支払っている。初めからその他に滝口家から引き出せるだけ金を引き出す事が目的だったと思われる。

ただし良枝さん殺害については、金銭トラブルの他に関根本人が彼女との関係を煩わしく思うようになったことも動機の1つとされている。どちらにしても、あまりに身勝手過ぎる動機でしかないことに違いはない。

1993年8月26日 午後
関根は良枝さんを呼び出し、出資金の名目で270万円を詐取。
これは、当時の滝口家のほぼ全財産にあたる。
彼女を殺害したのは、その直後。やはり栄養剤と偽ってカプセルを飲ませている。
良枝さんは関根を完全に信じ切っており、最後まで何ら疑うことはなかったらしい。

川崎氏殺害に使用された同じガレージに呼び出された山崎は、4人目の遺体に遭遇することになる。
山崎には良枝さんとの面識はなく、これが初めての対面だったという。

あくまで山崎の証言であるが、ここでも関根は山崎を脅かし続け、三度山崎の自宅で遺体の解体が行われたという。
その際に関根は屍姦を行い、「お前もやってみろ」「ひんやりして気持ちいいぞ」等山崎に言葉をかけた。
27日未明。
骨や所持品は全て焼却され、遺体は他の犯行同様に周囲の山間部の川に遺棄された。

⁂この時の解体は全て関根が1人で行っている。
一貫して風間は姿を見せず、そのため関根の単独犯行とされている。



「アフリカケンネル」における関根・風間の犯行で明るみになっているのは上記の4件のみ。
しかし、「ボディを透明にする」という関根の口癖ともいうべき残虐な遺体の処理方法や手際の良い殺害方法等から表面にでていない余罪は多いと思われている。
動物虐待の疑いも濃厚
遺体の解体時には、骨・皮・肉・内臓と取り分けられ、肉片は数cm四方に細かく切断されている。
骨は衣服・所持品とともに完全に灰になるまで、燃え残りがないようにじっくりと1本ずつ焼いたという。

関根の言葉によると、例え遺体を地中に埋めたとしても骨は残るので焼却を考案。
しかし、そのまま焼くと異臭が発生するため、解体して骨のみを焼いたのだという。

山崎はこれらについて、関根が「楽しい」「面白い」と話していた事を証言している。


関根は稀代のシリアルキラーであるとともに、非常に人間的魅力に富んだ人柄だったと多くの人々が証言している。と、同時にその残虐な二面性に気づいていた人々も少なくない。

証拠隠滅のための遺体の解体を「楽しい」と感じるのは快楽殺人の要素がある。
遺体を捌いて分別し、それぞれ詳しく処理方法を変える偏執的な手法は粘着性の気質を感じる。
一切の証拠を完璧に消し去ろうとする病的なまでのこだわりは神経質な小心者を思わせ、大っぴらに「殺人哲学」をうそぶく行為は誇大妄想を思わせる。
自分は決して捕まらない(犯行は露見しない)という妄想は(人の生死を操作できる=)神にも近い存在という思想に結びつきやすく、ある種のカルト宗教の教祖にも通じるものがある。

また、犯行が露見する以前の「アフリカケンネル」のマスコミ対応は1人の元自衛官がほとんどカバーするなど、関係者の繋がりはどこまで裾野が広がっていたのか全くわかっていない。
(後述するが、元自衛官の妻は失踪しており未解決のまま

死刑囚として収監されていた関根は、2016年に体調を崩し、2017年3月、東京拘置所で病死した。


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 【閲覧注意】
「埼玉愛犬家連続殺人事件」とは1993年(平成5年)に埼玉県熊谷市周辺で起きた連続殺人事件を指す。
日本では稀にみる残虐・異常な殺人事件であり、その猟奇性も群を抜いている。

少なくとも4人が殺害されたこの事件は被疑者(犯人)逮捕は2年後の1995年。
さらに事件が解明されるにしたがって、被害者の数は増加の一途をたどる。
被害者は徹底して遺体損壊・遺棄されており、共犯者の情報提供なしには到底立件は不可能だったと思われる。

1994年1月、大阪愛犬家連続殺人事件が発覚し犯人が逮捕された。
その事件との直接のかかわりはないものの、埼玉でも同様に愛犬家が失踪しているとの情報が流れ始め、2月にはマスコミが噂を取り上げはじめたため、事態は表面化した。
犯人・関根元は関与を否定したが、行方不明となった被害者の家族は必死に事件性を訴え続けていた。
そのため事件はマスコミ報道が先行するかたちで進行してゆく。

結果として、被疑者ら(犯人・後に死刑判決)の映像が連日のように流れ続けた。
その後、概要が明るみになるにつれ、人々の間には戦慄が走る事となる。



同年12月。
従業員で共犯者の山崎永幸が事件を証言。ようやく被害者の遺骨や遺留品の発見に至る。
翌年1995年の1月には、主犯格である関根元・風間博子夫婦が逮捕された。

驚く事に犯人は、普段から「ボディ(遺体)を透明にする」と豪語しており、複数の殺人を公言
絶対に捕まらないと堂々と宣言していた。
実際に関根の経営するペットショップ「アフリカケンネル」周辺では失踪事件が頻発しており、悪質な商法や顧客トラブルなどで悪い噂が絶える事は無かった。


【4つの事件】
・1995年1月。熊谷市のペットショップ「アフリカケンネル」の経営者関根元と共同経営者の風間博子の2人が、死体遺棄の疑いで埼玉県警に逮捕された。

・2人が関与したとされる事件の発生は1993年
行田市に住む産業廃棄物処理会社役員で愛犬家の川崎昭男氏の失踪事件である。
失踪当時、川崎氏は犬の代金を巡って関根とトラブルを抱えていた。
関根を疑う声は当時からかなり多かったが、決定的な証拠がなかった。

同年7月
「アフリカケンネル」で顧客トラブルがあった場合に仲介役として動いていた稲川系暴力団の幹部・遠藤安亘とその運転手・和久井奨の行方がわからなくなった。

同年8月
「アフリカケンネル」で息子が働いていた行田市に住む主婦関口光江さんが行方不明となる。

・非常に速いペースで起きているこの失踪事件の被害者達には、関根とトラブルを抱えていたという共通項があった。だが事件性を示す証拠が全く発見されておらず、どうしても警察の動きも鈍くならざるを得ない部分もあった。
しかし、前述の通り共犯者の証言を得た事で事件は大きく動いてゆく。

この4件の事件の殺害方法はパターン化しており、被害者を動物殺処分用の薬品で毒殺、山崎の自宅風呂場で遺体でバラバラに解体した後、ドラム缶で骨を焼却し、群馬県の山林・川に遺棄するというもの。
(共犯者の山崎は群馬県に居住)
山崎の証言によれば、関根らの殺害方法や遺体の解体・処理は非常に手馴れたものであったという。

やがて、関根と敵対した人間は悉く手当り次第に失踪していた事も明確に判明してゆく。
だが遺体はどこからも発見されず、また事件の証拠となりうるものも全く発見されていない。
かろうじて山崎の証言により、4件の事件が立証できたのみ。
実際にはもっと多くの被害者がいる可能性が高い。
関根自身の言葉によれば、35人は殺害しているという。


【アフリカケンネル】
・もともと関根元は秩父市でペットショップの側ら動物リース業を営んでいた。
その頃から詐欺まがいの悪徳商法を行っており、トラブルが絶えなかった。
近隣住民からも怖れられ嫌われていたが、暴力団とのトラブルのために一時期別の県へ行方をくらましていたことがある。

・熊谷市に「アフリカケンネル」を開業させたのは1982年。
その名の通りオオカミのような猛獣も扱っており、またトラやライオンまで飼育していた。

動物を扱う術は天才的だったという関根だが、同時に人間の心理操作にも才能があったらしい。
外見とは裏腹の、ユーモラスで気さくな話術に引きこまれてしまう人間も多かった。

だが実際の姿は詐欺的商法を繰り返す悪質業者であり、その方法は顧客から手当り次第にあらゆる手段で金を奪うと言ってよく、関わりを避ける同業者らも多かった。

⁂例:子犬を買い取る前提で犬をつがいで高額で売りつけ、実際に子犬が産まれると難癖をつけて安く値切る。犬を買った客の犬を殺し、また別の犬を売りつける。等。

が、人気のある動物や珍しい動物も扱っていたため「アフリカケンネル」は有名な人気店でもあったらしい。
また、愛犬家たちの読む雑誌にも店の広告が堂々と掲載されていた。

「関根元」の画像検索結果

また風間博子は実際に犬好きであり、ドッグショーなどにも多く参加していた。
愛犬家向けの本も出版しており、本当に犬に愛情を持っていたことがうかがえる。

当時はバブル時でありハスキー犬ブームのなか、高額な値で犬達が売買されていた。
関根はハスキー犬ブームの仕掛け人でもあり、ハスキー犬の1種を繁殖させては愛犬家たちに高額で売っていた。

新しく犬舎兼自宅を建築するなどしていたが、バブルの崩壊とともに店の売り上げも減少し、借金がかさみ経営難に陥っていったとみられる。

⁂現在でもハスキー犬のファンは多い。しかしブームが終了した後には少なくない頭数が捨てられるなど殺処分の道を辿った事はあまり語られない。もちろん動物に全く罪はなく、さらに事件を後味の悪いものにしている。


・このショップの従業員で、役員でもあったのが山崎永幸(志麻永幸)。
山崎自身も犬のブリーダーであり、ドッグショーを通じて関根夫婦らと知り合った。
「山崎」は別居中の妻の姓であり、旧姓は「島」。(後に正式離婚)
関根と博子にも「島」と呼ばれていた。

ブリーダーという仕事柄、山崎の居住地は群馬県の山間地でもあり川崎氏の遺体解体に都合がよかったらしい。突然巻き込まれるかたちで事件に関与、関根に脅されて犯行に参加したという。
(顧客トラブルに対しても、関根は強く脅して黙らせる事が多かった)


この連続殺人事件は実は全容が今だ不明のままである。
関根は徹底して遺体・証拠を消し去っており、死刑が確定した後には2017年に拘置所内で病死した。
風間は事件についてあまり多くを語らず、逮捕後も無表情・無口であったものが残された家族や犬たちについては涙を流す事もあったという。
もともとは犬が好きな愛情深い女性だったと思われるが、彼女の口から詳細を知ることは難しいのかもしれない。

次の記事でさらに詳細を記載してゆく。

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【事件】大阪愛犬家連続殺人事件

以前、韓国軍による日本人漁師拉致事件を記載した。
第一大邦丸事件韓国軍による日本時漁師大規模拉致事件
その一方、日本の貨物船の船長及び機関長が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)にスパイ容疑で長期間拘束される事件も起きている。




【事件の発生】
・1983年11月。
日本~北朝鮮間を交易していた日本の冷凍貨物船「第十八富士山丸」が北朝鮮の南浦港から出航した。
2日後の日本の対馬南方周辺にて、隠れていた密航者・閔洪九朝鮮人民軍兵士18歳当時)を発見。
所属会社の富士汽船と海上保安庁へと通報する。
第十八富士山丸の船長・紅粉勇氏は門司海上保安部の要請により、山口県のある小島の沖にある六連検疫錨地に向かう。


本来なら密航者が発見された場合、速やかにその発見された船で元の国へと送り届けなければならない。
しかし、この場合は当局の指示により福岡県北九州市門司で身柄の引き渡しが指示されている。
さらに当局の取り調べにおいて、この密航者は日本政府に亡命を申し出た


・一方、第十八富士山丸はその事実を知らされないまま再び日本を出航、通常通り11日に北朝鮮へ向け出港、15日に入港する。

「第十八富士山丸」の画像検索結果

しかし、密航者(脱北者)は民間人ではなく軍人だった。。
船の乗組員らは全員抑留され、船長である紅粉勇氏と機関長であった栗浦好雄氏の2人には密航幇助及びスパイ行為の容疑がかけられる。
また、当船である第十八富士山丸も抑留されており、栗浦氏の整備・修理にも関わらず発電機が破損、修理不能となり廃船とせざるを得ない状態となった。



【北朝鮮の対応】
・4年後の1987年1月。ズ・ダン号事件の発生。

⁂日本の福井港周辺を漂着していた老朽船ズ・ダン号にて、朝鮮人医師ら金萬鉄一家11人が発見される。金萬鉄は脱北者であり、亡命を希望していた。

北朝鮮においては亡命事件が後を絶たず(平新艇事件等)、金萬鉄は南国への亡命を希望していた。
(日本政府への亡命要請は無し)
人道的立場から海上保安庁は彼らを保護
最終的には彼らは韓国へと入国したが、韓国と敵対していた北朝鮮はこの対応に激怒し、「政治的謀略行為」として紅粉氏と栗浦氏の帰国は困難との意を発表する。

・同年12月。
北朝鮮国内において紅粉氏と栗浦氏2人の裁判開始。
(11月には日本国内において亡命者・閔洪九が入国管理収監から仮釈放された)

さらに、同年に起きた大韓航空機爆破事件の影響も大きく日朝間に影を落としてゆくことになる。

・1988年。
北朝鮮で2氏への刑罰が確定。教化労働15年に加え、2年5ヶ月の獄中生活を強いられる事になる。
日本政府からは解放要求の働きかけがあったものの、日本外務省は正式国交ができない事を理由に民間ベースでの話し合いを奨励
(日本政府は北朝鮮を正式な国として認めていなかったため)
また、北朝鮮以外の第三国を介しての交渉もなく、外務省としては全く行動を起こしていない


【日本国内の取り組み】

・第十八富士山丸乗組員の救援運動に熱心に取り組んだのは、当時の日本社会党である。
不思議な事に、国交はなくとも政治レベルでの民間での取引が存在するという奇妙な構図となった。

・1987年。
当時の土井たか子委員長金日成主席との会談で乗組員の釈放・帰還を強く主張。
この時には「政府交渉に委ねる」との回答を得た。
だが、前述のように翌年の1988年には船長である紅粉氏と機関長の栗浦氏の裁判が行われている。

「土井たか子」の画像検索結果
土井たか子氏

・1990年。
防衛長官を務めた金丸信氏と社会党委員長を務めた田辺誠氏による北朝鮮訪問にて、乗組員らの解放が決定する。
その後社会党委員長土井たか子氏と自民党幹事長(当時)小沢一郎氏とともに、チャーター機でようやく帰国を果たす事ができた。
彼らが出港してから、実に7年が経過していた。

「田辺誠」の画像検索結果
左から金丸氏、金日成、田辺氏

「小沢一郎」の画像検索結果
小沢一郎氏


当時の社会党は野党外交を担っており、北朝鮮に捕らわれている漁民等の帰国のための交渉に強く尽力していた。

再発防止のための漁業協定の締結に努めたのも、当時の社会党である。

第十八富士山丸の船員らは全員帰国したが、紅粉氏と栗浦氏は日朝の友好を乱さぬよう政治的事由からその体験は公言しないよう北朝鮮側から宣誓させられたという。
実際に、2人とも帰国後にはマスコミの露出は避けていた節がある。

⁂その後2人の所属会社が国と福岡県を相手に民事訴訟を提起。
密航者が政治亡命を希望する軍人である事を、会社及び乗組員に明確に伝達していなかった事に対する責任を追及する。
しかし、北朝鮮がこれほど長期間によって抑留するとは予測不可能だったとして敗訴した。



【証言】
・紅粉氏と栗浦氏が、事件についてようやく重い口を開いたのは、金丸信氏が失脚した後である。
2人とも阪神・淡路大震災被災者であり、震災をきっかけに思うところがあったと思われる。

証言によると、北朝鮮当局からは執拗な自白強要・脅迫・泣き落とし工作などあらゆる圧力がかけられたという。
生命の危険を感じ、仕方なくスパイ容疑を認めざるを得ない状態に追い込まれた
この時の取り調べはほとんど拷問に近いものであり、精神的・肉体的に追い詰められた栗浦氏は自殺未遂までを起こしていた。
紅粉氏もまた限界であり「密航者を幇助した罪を認めれば、日本に帰れる」との言葉に、ついに捏造された偽の調書を認めてしまう。
だが当然、日本に帰れるとの言葉はであり、2人はそのまま投獄された。

2013年、NHKの報道番組内において2人のインタビュー映像が公開されている。
インタビューによれば、北朝鮮側は2人の家や間取り・家族構成などの個人情報を把握しており、家族の身の安全をもとに強迫されていたことを明らかにした。
また、社会党が訪朝した際にも面会時の会話は全て北朝鮮側が事前に台本を作成しており、台本意外の言葉は禁止されていたことも話している。



【密航者・閔洪九】
・ところで事件を起こした当事者である閔洪九だが、彼本人は密入国容疑で収容された後、福岡入管管理局から退去強制令が発せられている。
それについて、閔洪九は執行停止申し立てを訴えたが却下
しかし人道的配慮から北朝鮮へは送還されず、後には放免されている。

また、韓国籍を取得し、1988年には異例の特別在留許可を得た。
だが社会に馴染めず、何度も傷害事件・わいせつ事件等を起こしては留置場収監を繰り返していたらしい。

「閔洪九」の画像検索結果

2003年、女子高生に対するわいせつ罪で逮捕・起訴。
再び強制退去の可能性が高まり閔洪九は金網を素手で破り逃亡するものの、あえなく捕まっている。
翌2004年。
栃木県宇都宮中央警察署の留置場にて首を吊り自殺。40歳であった。



1953年2月4日。
福岡の漁船「第一大邦丸」と「第二大邦丸」の2隻の乗員である民間人が、韓国海軍により突然銃撃を受け拿捕されるという事件が起きた。

2つの漁船が銃撃を受けた場所は韓国領済州島の沖20マイルの公海であり、本来何ら問題のある場所ではない。
にも関わらず、一方的に韓国側が「済州島沖わずか9マイル」と主張、民間漁船に国家海軍が襲い掛かった
これは海賊行為以外の何物でもなく、その際に民間人の瀬戸重次郎氏が被弾して死亡している。

何の関係もない民間人を賤しくも国の軍隊が殺害・虐待したこの事件は後々まで尾を引き、現在まで残る日米韓軋轢の1つとして今だ完全に解決されたとは言い難い。

「第一大邦丸事件」の画像検索結果
赤い丸地点が拿捕地点。韓国領海というよりは日中の中間水域であることがわかる。


【事件の背景】
・当時は朝鮮戦争の膠着状態が続き、国連軍(米軍)が疲弊していた時期でもあった。
1945年の平洋戦争終了後、日本を占領統治していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、1950年の朝鮮戦争の勃発により、急遽半島の南部を軍事統治下においていた。
そのため、あくまで一時的なものとしてマッカーサー・ライン(日本漁船の活動可能海領域)が設けられていた。

⁂マッカーサー・ラインは本来の日本国領海域とは異なり、戦時下における便宜的・都合上のものでしかない。
事実当時の米国政府も「最終的なものではない(正式なものではない)」と認めている。
後の1951年のサンフランシスコ講和条約においては廃止が決定され、1952年には事実上廃止された。

しかし、韓国の当時の大統領李承晩はこの案には反対だったようだ。
1951年の7月には米国にマッカーサー・ラインの継続を要求するが、同年8月にはラスク書簡にてラインの有効性を否定されている。
(余談だが、ラスク書簡はサンフランシスコ講和条約において竹島が日本国有の領土である証拠資料の1つであるが、韓国側はラスク書簡を無効と主張

1952年4月、予定通りマッカーサー・ラインが廃止された。
韓国側が海洋主権宣言により李承晩ラインを一方的に宣言したのが直前の1月である。

当時は1951~1953年まで朝鮮戦争は休戦状態にあり、韓国vs北朝鮮というよりは米ソ対立(資本主義・共産主義対立)の代理対立に近い状態と化していた。
北朝鮮は中国・ソビエト連邦国や他の共産国家からに支援を受けており、国連軍(米軍)の疲労と混乱は相当に大きかったものと思われる。
現在も韓国内には米軍基地があるものの、国連軍(米軍)の面子をつぶした形での李承晩ライン宣言は、その後の国際関係にも大きく影を落としてゆく事になる。

⁂問題の李承晩ラインだが、韓国は日本併合以前の旧大韓帝国の図に基づいてラインを設定したとされる。
竹島においても主権を主張。


・朝鮮戦争の休戦協定は、GHQと中国人民軍、北朝鮮の金日成が調印したものの、肝心の韓国大統領の李承晩本人は参加していない。
そのため、韓国は正式には休戦には賛同しておらず、休戦状態なのは北朝鮮のみという不思議な構図が出来上がる。

また、韓国内にても疑心暗鬼になった自国民による大量虐殺事件が後を絶たない時期でもあった。

「李承晩ライン」の画像検索結果


【事件の勃発】
・「第一大邦丸」及び「第二大邦丸」が福岡港を出港したのは1953年1月22日。
朝7時頃に活動可能海域にて操業中、韓国の漁船2隻が近づき「魚は獲れますか」と日本語で話しかけてきたという。
韓国船は一旦はそのまま通り過ぎたものの、付近で操業を装って日本船を監視し始めた。

その後、「第一大邦丸」が揚網作業に取り掛かったところ、突然韓国船から自動小銃で銃撃が始まった。
その時の距離は船尾からわずか30メートル。
民間人でありごく普通の漁船でしかない2隻は逃走を始めたが、8時15分頃には「第二大邦丸」が拿捕
「第一大邦丸」も銃撃のあまりの激しさに逃走を断念。
この時操舵室内に坐っていた漁労長が後頭部左側より銃撃をうけ意識不明となった。
「第一大邦丸」が拿捕されたのは8時30分
韓国船の船員に「翰林に行け」と日本語で命令されたという。

・この時、韓国船側は明確な軍事行為目的を持っていたと思われる。
漁船を装ってはいたが、韓国船2隻には乗組員12名の他にも憲兵1名・特務隊員1名・情報隊員1名・警邏4~5名が乗船していた。
また、民間人に対する無警告攻撃行為など彼らを援護するべき要素はどこにもない。

・その他にも取り調べと称した漁師ら民間人に対する虐待行為も判明し、当時半島南部を軍事統治していた米国をも巻き込む国際的な混乱を招く。



【乗組員への虐待】
・2隻は同日の11時30分には済州島の翰林に入港した。
日本人船員は憲兵によって全員が警察に引き渡されたが、船内の物や私物、装備及び漁獲物は没収(略奪)されている。
船員らは意識不明の負傷者の存在を憲兵に伝え、彼らは翰林面の『高医院』に収容されたという。
しかし、そこには病室も設備も全く無い場所であり、医師は一目見ただけで漁労長の手当てを拒否


仕方なく船員たちは警察に赴き軍病院等への入院を依頼
しかし警察は軍の命令に従ったのみで「我々に責任はない」として入院依頼を拒絶
次に船員らは憲兵隊へ赴き再度依頼するが、憲兵隊長は再び拒否。

何度も交渉し、依頼し、ようやく軍病院への入院の許可が降りる。
「すぐに車が来る」との言葉に漁労長のもとへと戻るが、実際に搬送用の車が用意されることはなかった

だが、船員たちは搬送を信じ、彼の命をつなぎとめるために医師にリンゲル注射を求めた。

⁂リンゲル液・・・・おもに点滴などに使用される。

しかし、リンゲルは高価だと医師は躊躇
船員が私物を売り払って金を払う約束のもと、ようやく1本のリンゲル注射を得た。が、結局漁労長は2日後の6日23時にそのまま死亡。船員らになす術は無く、彼が見殺しにされるのを見守る他なかった。

ようやく韓国側が行動を起こしたのは、その翌日。
漁労長を撃った弾は軍のものなのか、それとも警察によるものなのか。
解剖により憲兵の銃撃によるものであると判明したが、それは遺体の所有権を確認するためだけのものだった。


残された船員たちは警察に火葬を頼むが事実上無視される。
そのため、やはり船員が私物を売って葬儀を揃え、足りない薪は付近の枝等で補い、翌日に自分達のみで火葬を行ったという。

・翌日から、船員たちは一ヶ所に集められ、監禁が始まった。
18人が監禁された詰所の広さは約4畳
食糧は一切支給されなかったため、船内食料で食いつないでいた。

・この時点の取り調べの内容は「済州島から9マイル」の位置に日本船が侵入、領海侵犯だというもの。
しかし、日本人船員が韓国船のコンパスの自差と速度の矛盾を指摘する。
その言葉を受けて、驚くことに韓国側は両者の主張の中間を取ろうと提案
13マイル付近を拿捕位置として捺印させられたという。

⁂同時期に取り調べを受けていた漁撈長の通信士の証言によれば、拿捕地点は済州島から30マイル

・同月12日、一行は済州島に移送されることが決定。
亡くなった漁労長の遺骨を取りに行きたいと要求するが拒否される。
その後、船員らは移送用の車に乗せられる事になるが、強硬に拒否したために1人だけ翌日に持ち越すことが認められ、残りの船員らは素直に車で移送されていった。

済州島に到着したのは、夜中の23時頃。
済州島警察に引き渡され、そのまま留置所に入れられている。
この留置場も4畳ほどの広さしかなく、他の韓国人とも一緒に入れられていたという。
だが、ここでは粗末ではあったが食事は与えられていた。


【各国の反応】
・韓国側の主張によれば、李承晩ラインを侵犯した日本側が悪い。
しかし前述したように、李承晩ラインは韓国側が一方的に設定、宣言したものであり当然国際法上無意味である。日本側の指摘に対し、韓国政府は米国公使より作戦妨害にならなければ良いと説明されたと反論。

また通常の場合、群島国家であれば島と島を結んだ線から領海が計測される。(群島基線)
(フィリピン・インドネシア・フィジー等。日本も含まれる)
李承晩ラインは群島基線によるものであり有効であると韓国側は主張したが、そもそも韓国は群島国家ではない。むしろ突然言い出した言いがかりに近い。

これらの事から、李承晩ラインは国際法的には全くの無効だが、韓国側は船員の領海侵犯をしたという嘘の調書をハングルで作成、捺印させた事から日本への正式通知と主張した。

「第一大邦丸事件」の画像検索結果

しかし、海図の調査においても定規1本とタバコ、マッチを使って測定するという杜撰な方法を取っていた為に調書には矛盾が存在し、正式に公海上の事件であった事が判明する。
佐世保の朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊の司令官であったグリッチ少将が李承晩大統領に会見を求めたところ、大統領は遺憾の意を表し、ようやく船員らの釈放に応じる事になった。


⁂当時の李承晩大統領を始め、韓国政府が何を画策していたのか現在となっては不明。
朝鮮戦争の最中においても韓国政府内は混乱を極めており、米国軍への援軍要請とともに中国への接近があった可能性が高い。


【船員らの帰還】
・1953年2月15日。
10日以上を経てようやく「第一大邦丸」と「第二大邦丸」の船員らの帰国が実現する。
13時に船体の受け渡しが行われたが、船員らに領事館より帰国通告があったのはその日の朝だった。
2隻は同日済州島を出航、アメリカ海軍の軍艦「エバンズビル」に護衛されて日本に向かう

・2月17日。
17時30分頃に佐世保港に入港数日停泊した。

・2月21日。
佐世保を出航。
翌22日の朝7時に福岡港に帰港。ようやく船員らは故郷に帰る事ができた。

この事件の被害者である船員らには何らかの落ち度は全く無い
当初こそ強硬な態度を崩さなかった韓国だが、米国が介入した事により態度は一変する。
帰国の際には韓国政府側の人間から船員らは「挨拶」を受けていた。
その要旨は次の通り。

「死亡した人に対しては非常にすまないと思う。
だが今韓国は戦時下であるので、君たちに食糧をやりたくてもやれなかった。
(だから)あまり内地へ帰っても韓国のいわば官憲の悪口を言わないように

⁂1951年より、朝鮮戦争はほぼ休戦状態。


これらの事件は日米間にも大きな影響を与え、他にも似たような事件が頻発する。
李承晩ラインは国際法的には100%無効な設定であるにも関わらず現在も強く主張され続けているが、その根拠は「米国の許可を得た」という証言のみである。


2003年第一回百物語


75 : あなたのうしろに名無しさんが・・・[] 投稿日:03/06/20 21:15

十年以上前の連続幼女誘拐殺人事件覚えてる?犯人がみ○ざきつ○むのやつ。

 
学生時代、サークルで肝試しいったんだよ。
二人目の子(??)が発見された現場だったかな。
不謹慎だとは俺も思ったけど、文化祭の打ち上げで異様に皆盛り上がっててさ。
打ち上げの最後に肝試し行くのが恒例化していたから、その年はそこに行ったんだよ。
某県某山の、洞窟みたいなとこ。当然、真夜中な。

 
怖かったよ、ぶっちゃけさ。平気なふりしてたけどさ。
空気が重いんだよ。
人が死んだ現場なんて実際にはあちこちにあるんだから、気にすること無いとか
幽霊なんて居るわけないと思ってはみるんだけど怖いもんは怖い。
空気はじっとりしてるし。

あの事件は俺も実際に知ってるから、なんかリアルなんだよ。
 
江戸時代に惨殺事件がとかならあんま怖くないんだが。
ニュースは連日やってたのを子供だった俺でも覚えてるし、
親には毎日のように知らない人にはついていくんじゃないと言われてたもんだ。





76 : あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/20 21:16

二十人くらい居たんだけど、皆異様にはしゃいでたな。
内心怖かったのって俺だけじゃなかったのかもしれない。

 
車の通らない山奥の洞窟を抜けるとさ、道路から逸れた坂道があるわけ。
ぼろい廃屋が有ったりしてさ。もう、雰囲気満点。
「誰か居る!」「なんか聞こえる!」と他人をビビらそうとするヤツや、
後ろから脅かすやつ、来たものの本気で泣きそうになってる女の子、まあそんな当たり前の肝試しだわな。
そんな感じでぞろぞろ坂を上って行ったわけだ。
 
目的地はそこの奥にある、通行止めになっている洞窟てかトンネル。女の子の遺体発見現場だ。

トンネルの前に来ると、当たり前だが「入ってみよう」となった。 
閉鎖してあったけどさ、入ろうと思えば入れるんだな。
 
恥ずかしい話だが俺は入らなかった。不謹慎すぎると思ったのもあるがまあ、怖かったわけだ。
中に入るやつが何人か、後は外で待ってることになった。

その時、一緒に待ってる先輩の様子が変なのに気がついた。
 
「先輩どうしました?」と訊くと、物凄く不思議そうな顔をして
「ここに着てから身体が震えて止まらない」って言うんだよ。



78 : あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/06/20 21:16

断っておくが、その先輩は愉快な人ではあったが、そんな悪戯をするタイプじゃなかった。
幽霊とかにビビるタイプでもない。むしろ全く信じてなかった。
真夏で寒がりな俺ですら暑かったくらいだから寒かったわけでもない。

 
俺も先輩の身体を触ったけど、はっきりと震えてるんだよ、小刻みに。
先輩は怖がるでもなく、ただただ不思議そうだった。手だけじゃなく、身体全体が震えてた。


やがてトンネルに入った連中が戻ってきて、俺たちは道路に出るため坂を降りていった。
少し降りてトンネルから離れると先輩が「あ、止まった」て呟いた。

 
俺は幽霊なんて見てないし妙な声も聞いていない。
けど、あれは何だったんだと今でも思う。



長い前置きで申し訳なく思う。
だが、簡単にではあるが当時の日本・韓国・北朝鮮の3国の関係を説明してみた事で、ある種の緊張状態はご理解いただけたかと思う。

また李承晩の政治理念は不明だが、彼はあまりにも多くの失態をあまりにも多くの人々の前で晒しすぎた。
漢江人道橋爆破事件など、自国民を見殺し虐殺事件を繰りかえす韓国大統領の行動はさらにエスカレートしてゆく。

「漢江人道橋爆破...」の画像検索結果
漢江人道橋爆破事件 爆破時橋周辺には大勢の民間人が押し寄せていた


【日本国内でのテロ計画】
・急速に接近しつつあった日本と北朝鮮との関係に危機感を募らせた韓国政府は、大量の工作員を日本に送り込む事を決定
1959年の9月には、在日義勇兵に対し工作員になるよう指導要請
(カルカッタにて日朝赤十字における帰還協定が決定したのは同年8月

⁂在日義勇兵とは、朝鮮戦争などで在日朝鮮人が韓国に入国し韓国軍へ志願した者達を指す。

工作員の目的は在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止すること。
そのために日本に潜入し妨害工作活動を行うためのチームであり、在日義勇兵韓国軍予備約将校及び韓国警察試験合格者らにより北韓送還阻止工作員が結成された。
さらに韓国政府の指示で、日本国内においても工作チームが組織され妨害活動を行うことが決定。

⁂前記事にも記載したが、この月の25日には日本赤十字本社が襲撃・乱入される事件が起きている。

・韓国政府の秘密工作員への対応は早かった。
9月の末には首都ソウルにて破壊班・説得班・要人拉致班の3班に分かれて訓練が開始された。

・1959年12月の初め。先発隊が船員に偽装し貿易船に乗り込み、海上でボートに乗り変えて日本に上陸したという。
小倉と関東で活動する部隊ごとに上陸した彼らの目的は潜入アジトを設けること。
テロ部隊の本部は新潟県に隣接する富山県に設置された。

部隊の主な目的は次の4つ。
・在日朝鮮人帰国事業を担当する日本人の要員を暗殺すること。
・日本赤十字社の破壊。
・新潟港に通じる鉄道線路の破壊。
・韓国民団にKCIAの工作員を偽装入会させ、日本側の警戒を受けずに政財界へ浸透すること。

⁂KCIA・・・大韓民国中央情報部の略。

・結果としては未遂に終わったテロ事件ではあるが、詳細を知るにつれ背筋が寒くなる。

指揮をとっていた人物のうち1人は韓国領事館の金永煥三等書記官であり、日本に潜入した韓国軍特務機関員ら5人(安斗煕・張斗権・韓九・柳日熙・李周浩)に韓国料理店で韓国人を通じて800万の小切手を渡している。
(12月4日 午後2時30分頃)

⁂この時金九(元大韓民国臨時政府主席)暗殺実行犯の安斗熙が入国できたのは、姜斗熙という偽名を使い、さらにアメリカ空軍立川基地を経由して潜入したため。

「大韓民国臨時政...」の画像検索結果

大韓民国臨時政府とは、1919年の日本統治時代の朝鮮で起こった三・一運動後、海外で朝鮮の独立運動を進めていた活動家李承晩・呂運亨・金九らによって、中華民国の上海市で結成された朝鮮(韓国)の独立運動組織。日中戦争が勃発すると拠点を重慶に移動させた。
李承晩は初代の首席(大統領)となるが数年で罷免され、金九とも数回主席を争う。
その後朝鮮半島において在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁により、大韓民国臨時政府は解体された。


また、韓国の工作活動は3つに分かれており、
1:新潟日赤センター爆破計画
2:輸送の爆破計画
3:もしすべてが失敗に終わった場合、朝鮮総連幹部と北朝鮮側の帰還責任者にテロを行い暗殺する

というものであった。

これらの内容は、同年12月8日の衆議院法務委員会にて社会党の猪俣浩三代議士事件発覚前に情報を得ていたとして明らかにしたものによる。
猪俣代議士は、新潟日赤センター爆破計画と工作員の情報を帰還促進団体から得ていた。
その際には「何がゆえに一体、北鮮に帰りたいという朝鮮人をせっかく日本政府が北鮮に帰すというのに対して、彼らが反対するのであろうか」とたずねたという。

余談ではあるが、2011年には朝鮮日報に元工作員を名乗る人物が2名実名を公表してテロの証言を行っている。その内容は猪俣代議士の証言を裏付けるものであり、このテロ計画が事実であったことが証明された。


【計画の発覚】
・1959年12月4日。
警視庁外事課の捜査員が新潟県新発田市のバーで密談をしていた男2人に任意同行を求めた。
新発田警察署で取り調べをうけた男達の鞄の中からはダイナマイトが12本発見され、爆発物取締罰則違反の現行犯で逮捕
男達は工作員であり、ダイマナイトは4本ずつ雷管が装填された状態で3束あった。

さらに新潟駅では、預かり荷物のウイスキー箱の中に4本のガソリン1リットル缶が隠されていたことが判明。
預けた男も工作員であり、ここで新潟日赤センター爆破テロが露呈した。

「新潟日赤センタ...」の画像検索結果

この時逮捕された工作員は日本国籍を取得した在日韓国人と、在日義勇兵として朝鮮戦争に参加した韓国治安局所属の在日朝鮮人の2人。
日本国籍を取得していた在日韓国人は、以前から新聞記者と名乗り日本赤十字社本部に入り浸っており、日本赤十字社から出入り禁止が申し渡されていた

この事件の発覚により、この後警察は次々と韓国の工作員を摘発することになる。



【計画発覚後日本国内の対応】
・この爆破テロ未遂事件の指揮を執っていた人物が韓国特務機関の幹部と、韓国領事館の人間だった事は日本国内に大きな衝撃が走った。
当然のように韓国政府及び在日大韓民国居留民団に対し、当時の日本世論は強い不信感を抱きだす。

1959年 12月7日
 釜山港から神戸港に上陸予定の大栄丸に工作員が乗船しているとの情報
 鳴門海峡で海上保安官に強制停泊させられた後、そのまま韓国に引き返す。
1959年 12月12日
 巨済島から出発した明星丸に工作員乗船の情報。下関近海で暴風により沈没。12名の死亡が確認。
1959年 12月13日
 明星丸と同じ巨済島から出航した工作船が広島県呉港に工作員の上陸を成功させる。(朝鮮日報)

1959年 12月下旬
 かつて在日義勇兵として戦い、再び日本に渡航しその後大阪府に居住していた男性がいる。
 男性のもとへ韓国に残った在日義勇兵の友人が8人の男を連れて訪れ、居座りだした。
 夜には韓国から送られてくる暗号を受信し、工作活動を開始し始めたという。
 また、工作資金も送付されてきたと証言
1960年 4月
 韓国内で四月革命が起こり、李承晩が大統領から失脚
 工作活動は下火になったというが、中断されることはなかった
1960年 5月
 山口県下関にて、鮮魚運搬船で韓国に密出国しようとしていた韓国工作員24名が逮捕される。
 彼らはそれぞれ神戸・長崎・下関から日本に密入国した工作員たちだった。
 警視庁外事課が工作員らを出国管理法違反で逮捕。
 工作員らは李承晩直属の部隊出身者で、在日同胞帰国阻止決死隊の隊員であった。
 彼らの任務は再び日赤センターや列車・船の破壊などのテロを起こすことだった。

⁂四月革命・・・・李承晩の大統領選への不正糾弾デモ。
デモ隊と警官隊の衝突で186人の死者が出る。
李承晩は5月にはハワイへ亡命したものの、5年後の1965年、ハワイの養老院で90歳で死亡した。


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【韓国国内の反応】
1959年 12月8日
 駐日領事館の柳泰夏大使は、新亜通信のインタビューで事件への関係性を否定
2002年
 韓国BBSにて、インタビュー番組「忘れられた秘密工作員ー在日同胞北送阻止隊71名」報道。
2009年 
 韓国内戦没者等が祀られている国立ソウル顕忠院にて、「在日同胞北送國家任務随行殉職者」として、活動中に死亡した工作員12名が顕彰される。
 (日本国内のTBSで「闇の部隊ー北送阻止隊」で工作員のインタビュー番組報道前記事動画

2011年 
 韓国国会本会議にて、「在日朝鮮人の北送を阻止する警察特殊任務遂行者の補償に関する法律案」の承認。
 工作員と、その子孫たちに慰労金等として100億以上のウォンの給付を決定
 翌日、元テロ工作員のキム・ホンユン、チョ・スンベが朝鮮日報にて実名公表テロ作戦の証言を行った
 (前述の猪俣代議士の証言とも一致

最後となってしまったが、何故新潟の日赤センターが爆破テロのターゲットとされたのか

当時の岸信介政権の指示により日本赤十字社は在日朝鮮人北朝鮮帰還援助を行っていたが、実質的に帰国事業の中心となったのが新潟支部に新たに開設された新潟日赤センターだった。
そのため帰国船が入港する新潟港へ通じる鉄道線路の破壊も必要だったと思われる。

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正直なところ、自国民を虐殺し続けた李承晩政権は何がしたかったのか理解に苦しむ。
蛇足ながら、センターは帰国を待つ在日朝鮮人達のための宿泊施設でもあり多くの在日朝鮮人らが集結していた場所でもあった事もここに記載しておく。


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【事件・テロ】新潟日赤センター爆破未遂事件 1
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かつて日本国内の新潟の施設が、韓国政府により爆破テロのターゲットにされたことをご存知だろうか。
1959年、12月4日。
幸いにも計画は露呈し、ターゲットの暗殺及び新潟日赤センターの爆破は阻止された。

「新潟日赤センター爆破未遂事件」と称されるこの事件は、韓国領事館の人間が密入国した韓国工作員と結託して計画したテロ事件であるが、日本国内でのメディア報道はあまり多くない。

政治的な要素も多く絡んでいるため、事件の詳細を理解するためにはやや時代背景を振りかえる必要があるが、非常に興味深い事件でもある。



【朝鮮戦争】
・意外に思われるかもしれないが、朝鮮における日本国という立場を理解しやすくするためにここで朝鮮戦争の内容に触れておく。

第二時世界大戦後、米国を中心とする西側諸国(資本・民主主義)とソビエト連邦(現ロシア)を中心とする東側諸国(社会・共産主義)との対立構造が生まれた。
冷たい戦争(冷戦)はその後も長く続き、ソビエト連邦が崩壊するまで続いたがここでは割愛する。

1945年の日本の降伏とともに、朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作氏は治安維持のために、朝鮮人への行政権の速やかな委譲を決定、朝鮮独立運動家の呂運亨に接触を図った。
呂運亨は即座に安在鴻らとともに朝鮮建国準備委員会を結成し、朝鮮人民共和国の建国を宣言
その混乱に乗じ、半島にソ連が軍事侵攻。
慌てた朝鮮総督府は米国に朝鮮半島の統治を委譲し朝鮮人民共和国の後ろ盾を得ようとした。

しかし独立の方針を巡り右派(民族主義)と左派(共産主義)が対立し混乱。
当時は中国国内で活動していた「大韓民国臨時政府」党も「朝鮮の正当な政府」であると強く主張し表舞台に躍り出た。
それぞれが米国、ソ連・中国などの後ろ盾を得る事により、さらに対立は深まってゆく。

⁂後述するが、大韓民国臨時政府の初代党首は李承晩である。

実は、朝鮮半島の38度における南北の分割占領状態は、当初は一時的なものと考えられていた節がある。
だが米ソ対立(冷戦)は激化の一途をたどり、半島の分断地域も互いに「統一」を叫びながらも関係は悪化する。

1948年、大韓民国(韓国)設立。
しかし、わずか2年後の1950年には中国とソビエト連邦の協力を得、金日成率いる朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)が国境線の38度線を超えて南下侵略朝鮮戦争が勃発した。
開戦にあたり韓国軍は逃走米国(国連)軍に助けを求めたために更に状況は混乱を極めることになる。

ややこしい上に複雑な背景が入り乱れる。
朝鮮戦争勃発が6月25日
連合国軍最高司令官であったダグラス・マッカーサー氏が韓国に降りたったのが同月29日
当時は日本国内も混乱の最中であったため、マッカーサー氏はその日の内に東京へ帰り、その後も韓国と日本との間のとんぼ返りを繰り返さざるを得ない状況下となる。

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やがて韓国内で複数の自国民大虐殺事件が繰り返され始めた。
北朝鮮軍には中国からの軍事的協力もあり、国連軍には疲弊の色が目立ち始めた。
(この時ソビエト連邦は公式には静観の立場であったが、実際には不明)

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朝鮮戦争時における国境線の推移。
赤が北朝鮮領、青は韓国領。

北朝鮮の背後に中国の影がはっきりと見え始めた頃、敗色に焦ったのかマッカーサー氏は「中華人民共和国を叩きのめす」と発言
このままでは第三次世界大戦の怖れありとして、当時のトルーマン大統領はマッカーサー氏を解任した。

その後、1951年にソ連の国連大使が休戦協定の締結を提案。
しかし、交渉は難航する。
ようやく休戦協定は結ばれたのは1953年。米国・ソ連とも最高指導者が交代した後であった。

休戦協定に調印したのは国際連合軍司令部総司令官と中国人民志願軍司令官と、金日成司令官。
しかし、当時の韓国の大統領李承晩は停戦協定を不服として参加しなかった


【日本へのテロ事件の背景】

・前述したように李承晩大統領は停戦協定には反対だったが、実質的には1951年の協定提案から極地的な戦闘はあったものの、ほぼ休戦状態となったと言える。

だが、信じ難いことに休戦協議中の1952年に李承晩大統領は一方的に李承晩ラインを宣言
日本国領土である竹島を不法占拠し、対馬に侵攻漁師等数千人を人質として「対馬返還」を要求し始めた。
当然、対馬も竹島も国連承認の日本国領土である。

「李承晩 韓国」の画像検索結果
⁂マッカーサーライン
軍事的混乱の最中に日本漁船の活動可能海の保証領域として暫定的に定められたもの。
国際法的には何ら意味がなく、後のサンフランシスコ講和条約にて破棄された。
またこの図では省略されているが、実際には対馬・竹島周辺海域はともに軍事的必要性から連合軍指揮下の特例海域扱いだった。

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国連軍の力が弱まっていた時期をついた不意打ちだったが、そもそも国連が疲弊した原因と韓国は無関係ではない。
理解しにくい部分ではあるが、どうやら李承晩は「国連軍に守られる立場である」ことを最大限に利用しようとしたのではないかと思われる。
(あくまで1説ではあるが、李承晩は中国に取り入るつもりだったのではないかという説もある)
日本人の殺害事件も(第一大邦丸事件)発生し、人質の命を盾に「敗戦国」日本に大きく難問を突き付け始めた。

休戦協定の締結は翌年の1953年であり、国連の機能が正常化する前に武力・実力行使で領土を盗んだ形になるが、朝鮮戦争中にも虚偽の報告が相次ぐなど情報が錯綜しており、国連の混乱に乗じてうやむやとした印象が強い。

当時の韓国は国土や経済が荒廃しきっており、国内においても政府軍が共産主義の可能性ありとした自国民を次々と虐殺してゆくなど(保導連盟事件・居昌事件)人道的にもかなり荒んた状態であった。
当時の世界情勢からみても、最貧国の1つだったといえる。

・一方、北朝鮮は共産諸国からの支援を受けそれなりに復興を遂げつつあった
日本国内の在日朝鮮人のための在日朝鮮学校への支援を行うなど、積極的に国としての存在アピールを行った。

⁂朝鮮連盟の前身は「在日本朝鮮人連盟」であるが、日本国内の裁判所・検察庁などへの襲撃など大規模な武力闘争を繰りかえしたために解散を命じられている。


ここで太平洋戦争後の在日朝鮮人の流れをざっと記載する。
1945~1952年
 マッカーサー氏の指令により、密入国者・犯罪者の在日朝鮮人らが韓国へ強制送還
       大村収容所だけで3600人を超したという。
 在日朝鮮人のうち、帰還志願者は140万人。志願者は日本政府が手配して帰還させた

1952年
 サンフランシスコ講和条約により、日本国主権が回復する。
       以後、韓国政府は在日朝鮮人の引き取りを拒否
1955年
 北朝鮮側が日本国内の朝鮮連盟と緊密にコンタクトを取り始める。
1956年
 北朝鮮の金日成主席は在日朝鮮人学生を衣食住・学費の全てを無償で北朝鮮へ受け入れると発表。
      「地上の楽園」と称して在日朝鮮人の帰国を呼びかける。
      朝鮮総連も帰国促進運動を開始
1959年
 石橋内閣の閣議了解
      「在日朝鮮人の北朝鮮帰還問題は基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」
1959年8月
 韓国の李承晩大統領が、予定されていた日韓会談をキャンセル。理由は以下。
             「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」
同月 
 インドのカルカッタで日朝赤十字社間で帰還協定が締結される。
     この事態を受けて韓国政府の指示より在日本大韓民国居留民団北送反対闘争委員会を結成
同月25日
 在日本大韓民国居留民団員らが日本赤十字本社を襲撃
1959年 12月
 「新潟日赤センター爆破未遂事件」発生。

時系列には前後するが、未遂事件の10日後の12月14日には、北朝鮮への帰国船の第一陣が出航している。北朝鮮へ「帰国」する人々の中には韓国政府による虐殺事件済州島四・三事件、麗水・順天事件等)を逃れ、密かに日本へ密入国した韓国人も含まれていた。


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2008年に一応の解決を見せた「光市母子殺害事件」だが、事件に直接の関係はなくとも様々な影響を社会に与え、話題を集めた。
比較的話題となった点を2点のみ取り上げる。
(それ以外は数が多すぎ、また複雑なので興味のある方は調べてみる事をお薦めする。
有名人や著名人、社会体制にも大きく関わっており非常に驚かされる)


【父親のインタビュー】
・事件を受けて、福田の父親は積極的にメディアの取材を受けている。
正直、この父親にしてこの子ありの感は否めない。

「報道ステーション」などのインタビュー映像も残っているが、加害者の親であるという自覚よりは、むしろ息子の事件に巻き込まれた被害者だという被害妄想の感じが強い。

⁂福田被告の家庭はDV家庭であり、父親の暴力に耐えきれず母親は自宅で自殺
福田日本人も暴力を受けて育った。
母親亡きあと別の女性が家庭に出入りしており、祖母と弟2人がいたが、福田の犯行後の祖母は急死。
弟も家出し、父親も転職を繰り返している。


「はっきりいってオレは関係ない」 

「たまたま息子が犯罪を犯しただけ」 

「こっちもたまったモンじゃない」 

「息子がしたことだから、息子が責任取るのが当たり前。
親は責任取ってやりようがない。僕はそういう主義ですから」 

罪を憎んで、人を憎まず

本村氏への謝罪がない事に関しては「僕にどうせいちゅうんですか」

(さらに責任を追及されると)
「できることは頭を下げることしかない。下げるチャンスがなかったです。
謝罪する機会は作ればあったと思いますけど」

(責任の放棄では?と聞かれ)
「しなかったというより僕が避けとったと言った方が正しいかも。悪いなという気持ちがありますから、
心を逆撫ですると言ったらおかしいんですが、
あまり刺激を与えるような行動っていうのは出来なかったですね、自分からは」

息子への暴力・虐待は「しつけ」

事件当日の夜、息子にお前が犯人ではないかと訊ねている。

拘留中の息子の面会に行かない事について
事件を起こさなければこんなことにはならない。最終的にはそこにいくんですよね。
だから会いに行くことも足も遠のいていましたし」 
 
僕が被害者のことを考える必要はない。自分の息子のことで精一杯だから」
 
「命があれば、できるだけのことを自分の身をもってしてもらいたい。
息子を生かしてくれたら、僕もそれに対して助けることがあれば、できる範囲でやらせてもらいます

・その態度は、2008年の死刑判決後にもほぼ変わらず。
息子に対しまるで他人事のようなその態度には、初期こそ福田被告への同情論も多かった。
が、繰り返される法廷内での被告の態度・主張の酷さは、「所詮は似た者親子」との認識に変化する。

死刑傾倒論に傾いて行った世論は、本村氏への同情論だけではなく間違いなく「少年だから死刑にはならない(いずれ出所する)」少年法を前提とした、福田被告及びその父親の態度の開き直りへの怒りの部分が大きかったと思われる。
現在「少年法」は大きく改定されている。




【橋本徹弁護士のテレビ発言】

・思わぬところで、思わぬ社現象が起きた代表的な例の1つ。
2007年5月放映の「たかじんのそこまで言って委員会」という番組内で、当時タレント弁護士として登場していた橋本徹氏(後に政治家に転身)が弁護団を糾弾、懲戒請求を行うように一般視聴者に呼びかけるという出来事があった。

以下、その番組の様子。



すると、テレビを見たと思われる一般人らから7000通を超える安田弁護士らの懲戒請求書が弁護士会に一気に殺到。これはテレビを見て思いついたというより、それだけ世論の怒りが激しかった事を示すと思われる。

番組内で懲戒請求を求めた橋本氏だったが、実際には弁護団らの懲戒請求は行われていない

にも関わらず、4ヶ月後の9月には光市母子殺害事件弁護団の4人が橋本氏を相手取って広島地裁に損害賠償を起訴するというj奇妙な事態が発生した。

この裁判では、一審の広島地裁では橋本氏の不法行為は認定され、損害賠償を命じられた。
が、その後2011年には最高裁判所において不法行為とは認められないとして逆転勝訴、原告の訴えは棄却される。




現在福田被告は養子縁組により名前を変えて服役中。大月被告として、再び再審請求を行っている


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23歳の母親を殺害し死体を屍姦し、母親の異変に泣く11か月の乳児をも殺害した福田被告の弁護団は何がしたかったのだろうか。
正直、理解に苦しむ。


差し戻し審における安田好弘弁護士ら弁護団の主張】
・福田には母親を亡くしたトラウマがあり、優しくしてもらいたいと思って甘えて抱きついたが、大声を出されたので口をふさごうとした。
が、手がずれてしまい首が絞まってしまった。なので、殺人ではなく傷害致死。
配管工の恰好をしていたのは、ままごと遊びをしていたから。

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・被害者を屍姦したのは、小説「魔界転生」の中で復活の儀式のシーンがあったから。
福田は被害者が生き返る魔術だと思っていたと主張。
また、被害者は既に死亡していたので、屍姦は強姦罪には該当しない

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・11ヵ月の乳児を床に叩きつけたのは、泣き止ませる為
あやすために首に紐を蝶々結びにしたところ、きつく絞まりすぎてしまい死んでしまった。
ので、これも傷害致死。

・遺体を押し入れに入れたのは「ドラえもん」に何とかしてもらうため。

・福田被告は実年齢は18歳であるが、母親の自殺や父親の虐待のため精神年齢は12歳程度なので、少年法適用は合法。

一貫して殺害も強姦も意図したものではない事は明らかであると主張。

⁂ちなみに一・二審では福田はこのような供述は全くしていない
その理由について福田は「馬鹿にされる」「笑われる」と思ったから言わなかったと述べている。
また、余談ながら山田風太郎の小説「魔界転生」の復活シーンは、瀕死の男性が女性の中で胎児として生まれ変わる(転生)するシーンであり、状況も意味も全く異なる





・しかしその一方、福田本人は以前から父親と被害者女性の容姿について「いい女だ」と話していたという。
精神鑑定時には、分析医に向かって「被害者と来世で夫婦になる」、「(本村氏の怒りについて、妻である被害者は)喜んでいないと思う」と堂々と発言。
妄想が暴走して、現実が見えなくなっていたのだろうか。

・「ドラえもん」論法は失笑を得たのみだったが、実際に公式記録に大真面目に記録されている。
だが、検察側の用意した証拠の手紙により、これらの主張は全くのデタラメであることが判明する。


【手紙の流失】
・一審で無期懲役判決が出た後、福田は拘置所から友人宛に手紙を出していた。その数23通。
その内容の一部は以下。

「気づけばここは刑務所、壁の中。俺、何のために産まれてきたか不明。
どっかの樹海にさまよっていたいなあ」

「まず殺しについてだが、俺2人絞殺した。惨殺とか、刀で斬るとかスッキリだけど・・・」

「誰が許し、誰が私を裁くの?そんな人物この世にいないよね
神に成り代わりし、法廷の守護者たち?裁判官?サツ?弁護士?検事たち?
私をさばける者はこの世にはいない。2人は帰ってこないんだから。
この世に霊がいるんだったら、法廷に出てきてほしいなあ。
何が神だろ?
サタン?ミカエル?ベリアル?ガブリエル?ただの馬鹿の集まりじゃねえか」

選ばれし人間は人類のため社会道徳を踏み外し、悪さをする権利がある
(ドストエフスキーの小説「罪と罰」からの引用。但し、小説では主人公は自責の念で自滅してゆく)

「二週間後に検事のほうが控訴しなければ終わるよ

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福田被告の肉筆手紙

「(被害者の夫が犯罪被害者の権利運動を始めた事について)
知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。
私よりかしこい。だが、もう勝った
終始笑うは悪なのが今の世だ。終始笑うは悪なのが今の世だ。
ヤクザはツラで逃げ、馬鹿は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、明智君」
(江戸川乱歩の小説の登場人物、明智小五郎探偵の事と思われる)

「犬がさあ、ある日、かわいい犬と出会った。そのままやっちゃった。これ、罪でしょうか?

「(出所後を見据えて)オレの野望は小説家。へへ」


・2000年、事件を起こした翌年に書かれた手紙である。
これらは「反省の色が見られない証拠」として検察庁が提出したものであり、提供した友人もあまりの内容に引いたという。


死刑確定への道】
・福田の手紙の内容は週刊誌・新聞・テレビ・ラジオとあらゆるメディアに連日報道され続けた。
23人もの弁護団に守られた福田被告だが、もはや死刑は逃れられないと薄々感じはじめたらしい。
情けないほど支離滅裂な言い訳を繰り返し、効果がないとわかると、9年の年月を経て、自分は更生し別人に生まれ変わったと盛んにアピールし始めた。

安田弁護士ら弁護団チームは、法律解釈・交渉テクニックを必死に駆使して死刑回避を図ったが、流失した手紙の内容により、完全に八方塞がりとなった。
「ドラえもん」弁護はほぼネタ扱いとなり、異なる手法で裁判に挑むようになるが、同時にそれは遺族である本村氏の傷口を大きくえぐり出すようなやり方となる。

・2006~2008年まで続いたこの審議は、異様な雰囲気になる事が多かったという。
常識を疑うような発言も、福田被告の精神的幼稚さ・責任能力の有無の証拠として弁護団は強く主張。
裁判の進行は遺族には苛烈すぎる内容が続き、「歯を食いしばって」本村氏は絶え続けた。

法廷戦略を変えた弁護団と福田被告は、人間的成長と完全更生を強調したが、肝心の福田被告が裁判中にアッサリと馬脚を現す。
検察側にイチャモンをつけられていると感じた福田被告は法廷内でキレて絶叫する。
「謝れ!」「(検察側に対し)なめないでいただきたい!」
全く成長していない人間性が露呈した。

・2008年。最終的に福田の死刑判決が決定。
各テレビ局も裁判所前にてライブ中継を行うなど日本中が注目していたと言って良い。

⁂裁判長が読み上げる文章は判決文と主文とがある。
主文は判決内容を記した文であり、判決文とは罪状を記した文となる。
通常は主文がに読み上げられ、その後に判決文が続くのが通例だが、死刑判決時のみ主文は後回しにされる。死刑判決を受けた被告がショックを起こし、その後の混乱を引き起こす恐れがあるからであるが、各メディアも主文が先か判決文が先か、固唾を飲んで見守っていた。

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判決理由は、例え更生の余地ありとしても、「事情を十分考慮しても刑事責任はあまりにも重大」であり、「死刑を是認せざるをえない」とした死刑回避「不可能」である為である。

「決して嬉しいとか、喜びの感情はない。
罪はきっちりと償わなければならない。判決を受け止めてほしい。
自分の人生を絶たれてしまうような被害者がいなくなることを切に願います」
とは、死刑判決後の本村氏のコメント。

それに対し、弁護団の声明は「極めて不当」であり、殺意も強姦の意志も無かった事は明白であると「客観的証拠や鑑定で明らかになったにも関わらず無視された」と反発。
「(犯行当時の年齢的は18歳だが)精神的には18歳未満であり死刑は憲法違反」「少年法に反する」と発表。

⁂繰り返すが、犯行当時福田被告は18歳1ヵ月であり、そもそも少年法適用外
2008年には27歳。
死刑判決が宣言された直後に、初めても本村氏に無言で頭を下げたが、「パフォーマンス以外の何物でもない」とバッサリ切り捨てられている。


死刑確定後も騒動は続き、死刑賛否論も巻き起こったが、概ね「死刑判決やむなし」の世論の中、根強い反対派も多かった。
弁護団の上訴は続いたが、福田の死刑は確定したまま。

最終的に正式に死刑判決が確定するのはさらに数年後の2012年。
現在も弁護団は再審議請求を行っている。



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