サイケデリック・奇譚

永遠の日常は非日常。

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怖い話&不思議な話の投稿掲示板 投稿者「匿名 ◆etpFl2/6」 2016/10/21

私が中学生だった頃、一人の友人から聞いた話だ。
彼がまだ十歳になる前のことだったそうだ。

季節は夏。
彼は当時、生まれ故郷の町から
山を一つ越えた海沿いの小さな集落、そこに住む親戚の家に世話になっていた。
友人と私は同じ町の生まれなのだが、
彼には小学校に上がってから数年間、各地の親戚の家を転々とした時期があった。
 
その日の午後、学校の授業を終えた彼はまっすぐ家には帰らず、
道の途中、集落のはずれにある浜辺に座り一人海を眺めていた。
ごつごつした岩山に囲まれた浜辺は狭く、辺りに人影はない。
足元には満潮時に打ち上げられた木くずやブイや発泡スチロールなどの
漂着ゴミが行儀よく一列に並んでいる。

そこは、地元の人間にも忘れられたような、静かな海岸だった。
学校が終わり日暮れまでの数時間。
彼はその海岸でよく、他に何をするでもなく海を見て過ごしていた。
彼がそれを見つけたのは太陽が幾分西に傾き、そろそろ夕方になろうかという頃だった。
白波が引いた波打ち際に、何かが転がっていた。
沖から運ばれて来たのだろうか。
陽の光を反射して、ちりちりと光っている。
ふと興味を覚えた彼は腰を上げて近寄り、次の波が来る前に拾い上げてみた。

その物体については最初、貝殻かと思ったそうだ。
それは、一対の皿を向い合せてぴたりと重ね合せたような、二枚の半球状のパーツからなっていた。
形はどら焼きに近く、大きさは手のひら大。色はミルク色。
表面にはエナメル質のような光沢に加え、縁の辺りに針で開けたような小さな穴がいくつも開いていた。
貝殻だと思って手に取ってみたものの、
そのような特徴を持つ貝類を彼は知らなかった。
それに、もしそれが二枚貝だとしたら、蝶番がどこにも見当たらないのも妙な点だ。
指先で叩いてみると、乾いた金属音がした。
中は空洞になっているようだが、軽く振ってみても音はしない。
果たしてこれは貝なのか、それともまた違う別のものだろうか。
いくら眺めてみても正体は分からず、
彼はそれをランドセルの中に仕舞い込み、持ち帰ってから改めて調べることにした。

当時世話になっていた親戚の家は、浜辺からそう遠くない海沿いの地にあった。
帰宅後、居間にいた叔母に帰ったことを告げてから、
彼は自分にあてがわれた二階の部屋と向かった。
机に腰を下ろし、鞄をひっくり返し中身を机の上に広げる。
そうして本棚から海の生き物に関する図鑑を取り出した。

貝類の項目を中心に調べてみたが、該当しそうな生物は見当たらなかった。
表面にあいた無数の穴は呼吸孔のように見えたが、
それは、アワビのような一枚貝に多くみられる特徴らしく。
やはり単純な二枚貝ではないのかもしれない。
その内、階下から夕食が出来たと呼ぶ声がした。
返事をして、開いた図鑑の上に貝殻を乗せたまま、部屋を後にする。
一階に降りると、居間にはやはり叔母だけが居た。
漁師という職業柄か、彼はまだ叔父と一緒に夕食をとったことが無かった。

叔母は彼に背を向け台所で何か用事をしており、電源の入ったTVだけが楽しげに喋っている。
食事の際、叔母は一度だけ彼の方を振り向き、「おかわりは?」 と訊いた。
彼が首を横に振ると、少しだけ笑みを浮かべ、「そう」 と言った。

夕食を終え、二階の自分の部屋へと戻る。
室内の明かりをつけ、彼はふと動きを止めた。
部屋の中、何かが違っている。
見ると、図鑑の上に置いたはずの貝殻が床に落ちていた。
風でも吹いたのかと思い、窓の方を見やる。
窓の外はとっくに暗くなっていた。
ガラスの向こうには、黄色い月がぽつりと浮かんでいる。
辺りはしんとしていて、外の虫たちの鳴き声が、やけにはっきりと聞こえた。
そのまましばらくの間、彼は閉じた窓の向こう側を眺めていた。
そうして机に座ると、拾い上げた貝殻を図鑑の脇に置き、調べ物を再開した。

その日の夜、彼は夢を見た。

彼は一人、緩やかな坂道を上っていた。
時刻の感覚は無かったが、辺りの暗さから見て、真夜中のようであった。
歩いているのは、見覚えのない道だった。
閑散とした林の中をまっすぐに伸びている。
路肩には所々等間隔に腰の曲がった古びた外灯が立っていて、舗装されてない道を照らしていた。
歩みながら振り返ると、はるか後方までずっと同じ景色。
違いはそれが上りか下りかだけだ。
彼は寝巻のままだった。
明かりの類は何も持っておらず、代わりに何故か今日海辺で拾ったあの貝殻を手にしていた。
背後から吹き上がって来た風に、辺りの木々たちが無言で身じろぎをする。
夢の中で、彼はそれが夢であることに気が付いていた。
とはいえ、明晰夢と呼べるほどはっきり意識できたわけではなく、
ただぼんやり、そうなんだろうな、と思ったのだった。
また彼は、全く知らない道であるにも関わらず、
この坂道がどこへ続いているのか、自分がどこへ向かっているのかを理解していた。
海だ。
この坂道を上りきれば、海が見える。
ただ同時に、漠然とした疑問もあった。
それは海へと向かう理由だった。
この道は海へと続いている。
それは分かる。
ではどうして、自分は海を目指して歩いているのだろう。
ぼんやりとした思考がそこに行きついた時だった。
足の裏に微かな痛みを感じた。
その瞬間に夢は覚め、気付けば彼は現実の中に佇んでいた。

あまりの唐突さに、まだ夢の中に居るのではと錯覚しかけたが、
道を照らしていたはずの外灯と月は消え、代わりに目の前には、見渡す限りの暗闇が広がっていた。
夜風が身体を撫でていく。
かすかに葉がすれる音と、夜鳥の鳴き声がした。
目が慣れてくるにつれ、彼は、そこが叔父の家から十数メートルほど離れた場所であることを知った。
彼が立っていた場所のすぐ後方に家があった。
玄関の戸が開いていて、明かりの消えた家の中は、周囲の闇よりさらに濃く暗い。

彼には、部屋の戸を開けた記憶も、階段を下りた記憶も、玄関をくぐった記憶もなかった。
無意識のうちに、ここまで歩いてきたのだろうか。
再び、足の裏に痛みを感じる。
見ると彼は靴を履いておらず、どうやらかかとに小石か何かが食い込んでいるようだった。
地面に座り込んで傷の確認をしようとした時、
乾いた音をたてて、彼の右手から何かが滑り落ちた。
何か手に持っていたらしい。
しゃがみ込み再び拾う。
暗闇の中、目を凝らす。
それは浜辺で拾った貝殻だった。
そういえば、夢の中でも彼はそれを手にしていた。
貝殻を持ったまま、彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。
しかし、考えたところで何かが分かるはずもなかった。

その内、小さく首を横に振ると、彼は足の裏の皮が破けていることを確認してから、家へと戻った。
寝ている者を起こさないよう、慎重に汚れた床と足を洗い、二階へと上がり、布団にもぐりこむ。
間もなく彼は二度目の眠りに落ちた。
今度は勝手に起き上がるようなことは無く、夢も見なかった。

次の日は学校が休みだった。
幾分朝早く起きた彼は、朝食を食べ終わると、
叔母に麦茶入りの水筒を用意してもらい、家から少し歩いたところにある小さな漁港へと向かった。
昨夜のことは、二人には話さなかった。
話したところで余計な心配をさせるだけと考えたからだ。

晴れやかな日だった。
朝の漁港はしんとしており、穏やかな波の上ではロープで繋がれた小型の漁船が何隻か、
舳先にとまる海鳥と共に揺れていた。
松林の脇を通り抜け、途中で、『く』 の字に折れた防波堤を進む。

防波堤の先端では、一人の老人が釣り糸を垂らしていた。
木で出来た釣り具箱を椅子にして、眼前の海をぼんやりと見つめている。
彼は老人に近づき、その隣に腰を降ろした。
老人が、ちらりと彼を見やった。
しかし言葉はなく、その視線はまた海へと向けられた。
そのまましばらく二人で海を眺めた。
彼らの背後、どこかで遠くの方で鳥が鳴いた。

「……また家を追ん出されて来たか」
老人が言った。
「違うよ」
彼が言った。
またしばらく、無言が続いた。
ささくれた麦わら帽子を頭に乗せ、身体は日に焼けて黒く、
対照的に伸び放題の髭や眉ははっきり白い。
老人は彼にとって、この集落にやって来てから出来た唯一の友人だった。

「釣れた?」
少し声を大きくして尋ねる。
「釣れん」
短く呟くように、老人は答えた。
確かに、すぐ足元に置いてある魚籠は空っぽだった。
老人は、その集落ではそれなりに有名な人物であり、またそれなりに避けられてもいた。
死体を釣る男。
老人はそう呼ばれていた。
この漁港で、老人が釣り上げた水死体は数十体にも上る。
その噂は、僅かに誇張された分を除けば、真実だった。

「ねえ、みちさん」
名前を呼ぶと、老人はゆっくりと彼を見やった。
「みちさんは、これ、何だと思う?」
彼はそう言うと、昨日拾った貝殻をポケットから取り出し、老人に見せた。
老人はゆっくりとその奇妙な物体を見やった。
帽子の下の目がすっと細まり、日に焼けた染みと皺だらけの手が伸びて来て、貝殻をつまみ上げた。
彼は老人に向かって、それを拾った経緯と、昨日の夜の出来事を短く話した。
老人は、貝殻を眼前にかざし、しげしげと見つめながら、
彼の話を聞いているようでもあり、全く聞いていないようでもあった。

「……中に、何かおるな」
ぼそりと、老人が言った。
「声がしよる」
老人の言葉に、彼は何度か目を瞬かせた。
貝殻を返してもらい、自分の耳に貝殻を当ててみる。
目を閉じ、耳をすます。
しかし何も聞こえなかった。
鼓膜に意識を集中させる。風に木の葉がこすれる音、コンクリートを叩く波の音、セミと海鳥の鳴き声。
やはり、貝殻からは何も聞こえてこない。
「僕には、聞こえない」
そう彼は呟いた。
しかし反応はない。
老人は少しだけ耳が悪かった。
「みちさんは、これを、何だと思う?」
声を大きくして、同じ質問をする。
老人は、先ほどからピクリともしない浮きを眺めながら、「……分からん」 とだけ言った。
それから昼になるまで、彼と老人は二人で海を眺めていた。
その間老人の竿は一度も反応せず、
魚一匹もしくは誰一人、釣り上げることはなかった。

それは、昨晩とまるで同じ夢だった。
彼は一人、夜の道を海へと向かって歩いていた。
どこまでもまっすぐな、代わり映えの無い緩やかな坂道。
点在する外灯。
道の両脇に生える雑草と木々。
寝巻のまま、手の中にはあの貝殻がある。
全てがまるで同じだった。
ただ彼は、自分が昨晩よりも目的地の海へと近づいていることに気が付いていた。
彼は歩いた。
相変わらず、何故自分が海へと向かっているのかは分からないまま、
それでも彼は、はっきりとした足取りで坂道を上り続けた。
前方、坂道が途切れているのが、うっすらと見えた。峠だ。
あと少しで海が見える。
 
不意に目が覚めた。
いきなり世界が切り替わる感覚に、彼は危うく転びかけた。
闇夜の中、彼は幾分時間をかけて辺りを見回し、自らが置かれた状況を理解した。
家から学校へと続く道の途中に、彼は居た。
家を出て昨晩よりもずっと長い距離を歩いてきたようだ。
自分の右手をそっと見やる。
彼は貝殻を握っていた。
それは、つい今まで見ていた夢がそうであったように、昨晩とまるで同じ状況だった。
夢遊病、という言葉が漠然と頭をよぎる。
その言葉が意味する症状も知識としてある。
自分は病気なのだろうか。
自覚はまるで無く、少なくとも今まで同じような経験をしたことは無いはずだった。
しかし現実に今こうしてここに立っている。
しばらく経って彼が出した答えは、そうなのかもしれない、というひどく曖昧なものだった。
 
その内、思い出したように足がひどく痛みだした。
外灯の下に行き照らしてみると、昨日けがをした場所が再び破けており、
さらにどこかにぶつけたのか、片足の小指の爪が割れて血がにじみ出していた。
小さな切り傷や擦り傷もいくつかある。
痛みをこらえながら戻ると、家には明かりが灯っていた。
玄関へと近づくと、叔母の声が聞こえた。
電話だろうか、誰かと話をしているらしい。
その声からして、彼女は明らかに気が動転しているようだった。
不意に、懐中電灯の光が彼を照らした。
見やると、山の方へと向かう道から、叔父がやって来ていた。
彼を見つけると、飛ぶように走ってきた。
一体何をしていたんだと怒鳴り、彼に向かって手を振り上げた。

しかし、その手が彼を叩くことはなかった。
叔父は振り上げた姿勢のまま、唖然とした表情で、彼の血だらけの素足を見やっていた。
家の中から叔母が出てきた。
彼女もまた、彼を見やると、言葉もなくただ呆然とその場に立ち尽くした。
「ごめんなさい」
二人に向かって、彼はそう言った。
先に我に返った叔父が上げていた手を降ろし、無言で家に入るよう促した。
どこに行っていたのか等は聞かれず、怪我の処置をしてもらった後、
その日は朝まで一階の居間で眠るように言われた。
居間に布団を敷き、ぎこちのないまどろみの中、部屋の外で二人が話している声がぼんやりと聞こえた。
「もし、こういうことが続いたら……」 叔母の声だった。
「声が大きい」 叔父が言った。
それ以上は何も聞こえなかった。
彼は、薄い掛布団の中に頭までもぐりこんで、眠った。

次の日、昼過ぎに家を出た彼は、
その日も漁港に居るはずの友人の元へと向かった。
朝、叔父と叔母は彼を病院へ連れて行くかどうかを話し合っていたが、
結局もう少し様子を見ることにしたようだった。

防波堤の先、昨日と全く同じ場所に老人は居た。
その服装も、釣り糸を垂らす位置も前日と全く変わらず、
夜通し釣りをしていたと言われても信じることが出来そうだった。
隣に座ると、老人が彼を見やった。

「……また家を追ん出されて来たか」
いつものように、老人が言った。
「違うよ」
同じく、いつものように返事をする。
老人は、いつもよりほんの少し長く彼を見やってから、再び海に視線を向けた。
「釣れた?」
今度は彼が尋ねる。
老人は無言だった。
おそらく聞こえなかったのだろう。
彼はちらりと魚籠の方を見やった。
すると、いつも空っぽの魚籠の中に、青い色をした何かが入っている。
首を伸ばして魚籠を覗き込む。
妙な色形の魚かと思ったら、それはただの青いゴム手袋だった。
これが今日の釣果ということらしい。
彼はその手袋に触れようとした。

「……触らん方がええぞ」
唐突に、老人が言った。
「まだ、指が入っとる」
その言葉に、彼は魚籠の中に伸ばした手をそっと引っ込めた。
老人を見やる。
どうやら冗談では無いようだった。
再び視線を落とすと、その青いゴム手袋には確かに妙に膨らんでいる箇所があった。

彼は老人の異名を思い出していた。
死体を釣る男。
その噂が事実であることは知っていたが、実際に釣り上げたところを見るのは初めてだった。
ゴム手袋ということは、指の持ち主は漁師だったのだろうか。
溺れて亡くなり、バラバラになって海を漂っていたところを、老人に釣り上げられたのか。
老人はそれ以上何も言わず、指が答えるわけもない。

彼は老人の横に座り直した。欠けた人間の一部がすぐそばにある。
しかし、嫌悪感は無かった。
老人が居て、傍の魚籠に人の指がある。
それが当たり前であり、ごく自然なことのように思えた。
しばらく、二人とも無言でいた。
海面の浮きに反応はない。
空を飛ぶ海鳥の影がすぐ足元を一瞬で横切っていった。
昨日よりも照りつける日差しが強く、セミの鳴き声がうるさい。
座っているだけでじわりと汗が滲んでくる。
ふと、何かが彼の頭に乗せられた。
見やると、それは老人の麦わら帽子だった。
老人は何事もなかったかのように釣りをしている。
初めて見る老人の頭は、額が広く、髭と同じ色をした白髪があった。
老人の帽子は大きくつばも広かったので、
その陰の下に小さな彼の身体はほとんど隠れてしまった。
ありがとうとは言わなかった。
老人も何も言わなかった。
しばらくして、彼は持参してきた水筒の蓋にお茶を注ぎ、老人に差し出した。
老人はそれを受け取り、一口飲んで彼に返した。
やはり、言葉は何もなかった。
 
そのまま、数時間が経った。
辺りはまだ明るいが、陽は大分西の方に傾きかけている。
帰ろうと思い、彼は立ち上がった。
老人はまだ釣りを続けている。
帽子を脱いで老人の頭の上に戻し、そのまま立ち去ろうとした。

「……船かもしれんなぁ」
老人の言葉に振り返る。意味が分からず、彼は尋ね返した。
「船?」
「中に人がおって、海から来よったんなら、船じゃろう」
老人は、それ以上何も言わなかった。

彼はズボンのポケットに手を当てた。
あの貝殻は、今日も持ってきていた。
何故かは分からないが手放してはいけないような気がして、
捨てる決心もつかず、ポケット入れたまま持ち歩いていたのだった。
船。
形こそ彼が知っているものと違ったが、それが船であるという考えは、不思議なほどしっくりと来た。
あの夢のことを考える。
二日続けて見た、海へと向かう夢。
何か形の無いものが、ぴたりとはまる感覚があった。
自分は今日もあの夢を見るだろう。
根拠は何もなかったが、彼ははっきりとそう思った。
しかし、再び家の者に迷惑をかけることは避けたかった。
足の怪我だってひどくなるかもしれない。
彼は隣の友人を見やった。
老人は釣竿を手に、いつものようにじっと海を眺めていた。
どうしたらいいかと尋ねても、老人はきっと、「分からん」 と言うだけだろう。

彼は一人で考え、答えを出した。
着ていた上着を脱ぎ、防波堤の上に広げる。
そうして、再び老人の隣に腰を下ろし、広げた上着の上に寝転がった。
横向きに膝を丸めて目を閉じる。
昼間に比べれば、刺すような陽の光は幾分弱まったものの、
コンクリートの堤防にはまだ十分熱が残っており、広げた上着を通してそれが伝わってきた。
夜に家で眠るから問題になるのだ。
だったら、先にここでひと眠りし、夜は起きていればいい。
そうすれば少なくとも、家の者を悩ませたり、足の裏の怪我がひどくなることは無いだろう。
「ねえ……、みちさん」
寝転がったまま、目を閉じたまま、呟くように彼は尋ねた。
「……死んだ人って、どうやって釣るの?」
おそらく聞こえてなかったのだろう。老人は何も言わなかった。
答えを待っているうちに、いつの間にか彼は眠りに落ちていた。

あの道を、歩いていた。
二日間見た夢と同じ道。
右手にはあの貝殻。
ただし、その日の夢の内容はこれまでとは少しだけ違っていた。
まだ辺りが暗くなりきっておらず、夢の中の彼は寝巻ではなく靴も履いていた。
峠まであと少しの場所に彼は居た。
歩調を早める。
すぐ前方に見える、坂道の終点。
その先には、ほのかに暗くなり始めた空が広がっている。
三日間かけて、彼はようやくたどり着いた。
峠に立った彼の目に、海が映った。

意外にも、海はすぐ近くにあった。
今まで上ってきた緩やかな坂道とは真逆の急な下り坂が、曲がりくねりながら海へとつながっている。
下り坂の終点。
そこには、小高い岩山に囲まれた狭い浜辺があった。
見慣れた風景。
学校帰りにいつも寄る、あの貝殻を拾った場所だった。
とはいえ、近くにあるはずの民家や登下校路は見当たらず、
見覚えのない景色の中に突如現れたそれは、
一枚のジグソーパズルの絵の中に一つだけ全く別のピースがはめ込まれているかのような、
ひどくちぐはぐなものだった。

海岸には、大勢の何かがいた。
遠目にもそれが分かった。
それらは人の形をしていたが、人とも言い切れない、おぼろげな何かだった。
小さな浜辺にひしめき合い、ゆらゆらと揺れている。
彼は坂道を下り始めた。
海に近づくにつれ、彼はあの海岸にたたずむ全員が、こちらを見つめていることに気が付いた。
まるで、彼が来るのを待っているかのように。
唐突に、罪悪感にも似た感情が湧いてきた。
転ばないように注意しながら、小走りで坂を駆け下りる。
その間にも徐々に陽は傾いていく。
急な坂道を下りきり、海岸にたどり着いたころには、
山の向こうに落ちる夕日が、海をオレンジ色に染めていた。

海岸に居た大勢の何かは、彼が到着すると、一斉に左右によけ海までの道を開けた。
それらは、人の形をした靄のようでありながら、ちゃんと色がついていた。
はっきりとは見えずとも、大まかな服装や年齢、男女の違いくらいは見て取れた。
中には、一部体が欠損しているように見えるものもいれば、彼と同じくらいの背丈のものもいた。
それらは、声を発することはしなかった。
ただじっとその場に立ち尽くし、彼を見つめていた。
走ってきたせいで乱れた息を整えながら、彼はゆっくりと、彼のために作られた道を海岸まで歩いた。
夢の中で、彼は理解していた。
自分がしてしまったこと。
そうして、自分がこれからしなければならないこと。
寄せてくる波が、足先に当たった。
一瞬躊躇のような感覚を覚えるも、彼はそのまま海の中へと進んだ。
そうして太腿が浸かるくらいの場所で、一度後ろを振り返り、
彼を見つめる大勢の何かに向かって、頭を下げた。
同時に何か言ったはずなのだが、言葉にならなかった。
夢の世界には音がないのかもしれない。
そうして彼は、右手に持っていた貝殻を、海の中に離した。

その瞬間、一際大きな波が彼の背中にぶつかった。
水しぶきが跳ね、思わず浜の方へよろける。
再び見やった時にはもう、あの貝殻はどこにあるのか分からなくなってしまっていた。
ふと、浅瀬に立つ彼の横を、誰かが通り過ぎていった。
夕日に染まる沖へ。
段々と深くなる浜を、足、腰、肩、頭と水の中に消えていく。
一人、二人、それ以降は数えられなかった。
大きいものも小さいものも、男のようなものも女のようなものも、腕が無いものも足が無いものも。
皆、沖へと向かって進んでいく。
今度は彼がその様子をじっと見やる番だった。
どれほどの時間そうしていたのか。
随分と長い時間がかかったようにも感じた。
最後の一人が海中へと消え、気が付けば、彼はただ一人浜辺に取り残されていた。
空が赤からに紺色に移り始め、空よりも先に海が黒く沈んでいく。
彼は、腰まで海水に濡れながら、海と空の色が移り変わるさまを、ぼんやりと眺めていた。

「風邪をひくぞ」後ろで、声がした。
 
振り向くと、浜辺に老人が立っていた。
いつの間にか、彼が下ってきたはずの一本道はなくなっていて、
代わりに、そこには普段使う家から学校へとつながる道があった。
どのタイミングで夢から覚めたのか、彼には分からなかった。
すでに辺りは十分暗い。
老人は釣り道具と一緒に、彼が寝る前に敷布団にしていた上着を肩にかけていた。
海から上がると、今更ながら足の傷に海水がしみてちくちく痛んだ。

夢の中で彼が気づいたこと、
理解したこと、
人のような何かに頭を下げた時に発したはずの言葉。
すでにそれらは遠い過去の出来事のようで、
普段見る夢がそうであるように、はっきりと思い出すことはできなかった。
あれは本当に船だったのか。
だとしたら、誰が乗って来たのか、誰が乗って行ったのか。

老人から上着を受け取る。
手に取るとまだ温かく、太陽の匂いがした。
ただ少なくともこれで、家の者に心配をかけることもなくなるだろう。
それはやはり根拠のない確信だったが、実際その日以来、彼の夢遊病はぴたりと止んだ。
そうしてもう一つ、彼には確信していることがあった。
それは今までがそうであったように、ここでの生活もまた、長くは続かないだろうということだった。

老人が、彼を置いて一人帰ろうとしている。
上着のボタンを止めながら、彼はその背中に声をかけた。
「ねえ、みちさん」
老人は返事をしない。
それでも構わず、彼は言った。
「魚って、どうやって釣るの?」
それは彼にとって、死体を釣ることと同じくらい素朴な疑問だった。
老人が立ち止まり、振り返った。
聞こえたのか、聞こえていないのか、どちらでも良かった。
彼は小走りで老人に追いつくと、この耳の遠い友人に向かってはっきりと、
今度はちゃんと聞こえるように、同じ言葉を繰り返した。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9405/1401772436/

201:くらげシリーズ「緑北向きの墓」1:2014/07/12(土) 16:12:33 ID:7TU1mP.c0

私が中学一年生だった頃の話だ。
十月上旬。その日は土曜日だった。
昼食を食べた後、私は自転車の荷台に竹箒をくくりつけ、友人の家へと向かっていた。
自宅のある北地区から、町を東西に流れる地蔵川を越えて南地区へ。
思わず、快晴!と叫びたくなるほど真っ青な空の下、
箒をくくりつけた自転車は、何だか空すら飛びそうな気がした。
もちろん、気がしただけだったが。

友人の家は、南側の住宅地を抜けた先の山の中腹辺りに、街を見下ろす形で建っている。
家の周りをぐるりと囲む塀の脇に自転車を停め、箒を持って門の傍に行くと、
松葉杖をついた友人が門の外で待ってくれていた。
彼はくらげ。
もちろんあだ名だ。
彼の左足には白いギプスが巻かれていた。
確か何本か肋骨にもヒビが入っていたはずだ。
先月九月後半、台風がやってきた際の事故による怪我だった。
「別に家の中で待ってりゃいいのに」
私が言うと、くらげは自分で脇腹の折れた肋骨の辺りを軽くさすった。
「……そういうわけにもいかないよ。君は、お墓のある場所知らないでしょ」

今日私がここに来た理由は、彼の先祖の墓を掃除するためだ。
先月の、丁度秋彼岸の時期にやってきた台風により、墓の周辺が荒れてしまったのと、
いつも掃除をしているくらげの祖母の体調が芳しくないため、
急遽ピンチヒッターとして私が自ら名乗り出たのだった。
「そういえば、おばあちゃんまだ体調悪いのか?」
「そうだね……。自分では、『大分良くなってきた』って言っているけど、あまり良くないみたい」
くらげはそう言って、家の方を振り返った。

ちなみに、くらげは三人兄弟の末っ子で、長男は県外の大学に行っており、
現在家には、くらげと祖母、大学教授の父親、高校生である次男の四人が住んでいる。
ただ、父親と次男には先祖の墓掃除をする気は無いようだ。
理由を聞いたが、くらげは教えてくれなかった。

本来なら家の者が掃除するべきなのだろうが、
くらげと祖母は動けないし、あとの二人はそんな感じなので仕方がない。
他人の家の墓を掃除することが失礼に当たることは知っていたが、
家の者に許可を貰っているから大丈夫だろう。
そもそも、くらげが怪我をした事故には私も少なからず関わっているので、責任を感じている部分もあった。
「そっか……。じゃ後で、『お大事に』って伝えといて」
「うん。分かった」

それから二人で墓のある家の裏手へと向かった。
裏手には山の斜面に沿った細い道があり、この道を上っていくと墓があるそうだ。
道も分かったので、くらげはここで待ってた方が良いと言ったのだが、彼は自分も行くと譲らなかった。
「君は僕の家の人間じゃないんだから、勘違いされたら、困るでしょ?」
『誰が何を勘違いするんだ』と言いかけて、私はその言葉を飲み込んだ。
言い忘れていたが、彼は『自称、見えるヒト』である。
ちなみに、くらげの祖母も見える人で、その力は彼の比ではないとか。
他の兄弟と父親は見えないらしい。
くらげが転びやしないかと内心ひやひやしながら、緑に囲まれた細い道をしばらく登ると、
墓が三段に並んでいる開けた場所に出た。

墓は確かにひどい有様だった。
折れた木の枝や葉がそこら中に散乱し、
花入れは何本か地面から引っこ抜かれていて、その内のいくつかが地面に無造作に転がっている。
その有様を眺めながら、私はふと、違和感を覚えた。
何かがおかしいような気がしたのだ。
けれども、これ程荒れているのだから、多少の違和感はあって当然なのかもしれない。
掃除して綺麗になれば、違和感も消えてなくなるだろう。と、その時は思った。

とりあえず、家から持ってきた箒で、目に付くゴミを片っ端から片付ける。
くらげも近くの雑草などを抜いて、出来る限り手伝おうとしてくれていた。

掃除をしている最中、ふと、一番新しそうな墓が目に留まった。
よくよく見てみると、側面に書かれている命日は、私の生まれた年だ。
墓石に刻まれた名前は女性のものだった。だとすれば、これはくらげの母親の墓なのだろう。
彼の母は、彼を生んですぐに亡くなったと聞いたことがあった。
生まれてすぐに母親を亡くす。
それが一体どういうことなのか、幸せな私には想像もつかない。
祖母が母親の代わりだったのだろうか。
余計な想像を、私は頭を振って振り落とした。




202 :くらげシリーズ「緑北向きの墓」2:2014/07/12(土) 16:13:14 ID:7TU1mP.c0

一時間ほど駆けずり回っただろうか。
もし私の母親が見ていたら、
『自分の部屋の掃除もこれくらい真剣にしてくれればねぇ……』などと愚痴ってそうだ。
頑張った甲斐もあり、墓の周辺は随分綺麗になっていた。
その間、くらげは一度家に戻っており、
ペットボトルのジュースやら水やら饅頭やらを家から持ってきていた。
「おつかれ様」
「おー、サンキュ」
一番上の段の草むらの上に腰を下ろし、くらげからジュースを一本と饅頭をひとつ貰う。
周りの木々が微かな風になびいてさわさわと音を立てた。
私の周りを、濃い緑の匂いと共に、何やらよく分からない小さな虫が飛び回っている。
ジュースを飲み、栗饅頭をかじりながら、私は今しがた自分が掃除した墓を見下ろした。

先程感じた違和感は消えてはいなかった。
どころかそれは、墓が綺麗になったことで逆に強まっていた。
何ともいえない、『何かが違う』という感覚。
いくら考えてもその正体は見えず、私は隣に座るくらげに尋ねてみた。
「なあ、くらげさ。……気ぃ悪くしたらごめんだけど」
「何?」
「ここのお墓ってさ、なんか変じゃないか。上手くはいえないけど、どこかおかしいっていうか……」
「ああ、うん」
私は彼を見やる。その表情は何ら変わらず、いつもの彼のものだった。

「全部、おばあちゃんに聞いた話だけど……」とくらげは言った。
「この辺りにはね。昔から、人は死ぬと、その魂は海に還るって言い伝えがあるんだ」
街から現在私たちがいる山を一つ越えれば、その先には太平洋が広がっている。
街の人間にとって、海は昔から身近な存在だった。
「だから魂がちゃんと海に還れるように、この辺りのお墓はみんな、南を向いてる」
そこで私はようやく、違和感の正体にも気がついた。
確かにそうだった。
私が今まで見てきた墓は、全部名が彫られた面を南向きにして建てられていた。
しかし、ここの墓は名前のある面が北に向いている。還るべき筈の海に背を向けているのだ。
おそらく無意識のうちに、『墓は南を向いている』という固定観念が私の中に出来ていたのだろう。
だから、初めて北を向いている墓を見て違和感を感じた。

「……村八分って言葉があるでしょ?」
くらげは淡々と話を続ける。
「あれって、死んだ後のことと、火事とか水害とか災害の時は助け合う、っていうのが二分で、
あとの八分は一切のけ者にする。それが、村八分の意味らしいんだけど。
……僕らの家は、八分じゃなくて、村九分にされてたんだ。
……だから、お墓も逆向きに建てさせられた。死んだ後も、同じ場所にはいけないように」
私は何も言えなかった。
彼はペットボトルのジュースをゆっくり口に含むと、ふう、と一息ついた。
彼の家が疎外されていた理由。
それは、彼や彼の祖母が『見えるヒト』であることと、何か関係があるのだろうか。

「……でも、そんなことがあったのはずっと昔のことだから。
今は、ご先祖様が皆あっち向いてるから、合わせなきゃいけない、っていう理由らしいけど」
そこまで言うと、くらげは饅頭と一緒に持ってきた袋と松葉杖を持って立ち上がった。
そして、一番端にある墓の前にしゃがみこむ。
袋に入っていたのは水と米だった。
墓の上から水を掛け、米を供え手を合わせ、瞑想する。
それが終われば、隣の墓に移る。上の段から順々に。
しばらくその様子をぼんやり眺めていたが、はっとした私は、慌てて彼の後についてお参りをする。
そうして、一段目、二段目と供養を続け、一番下の段まで来た。
「これは、ひいおじいちゃん」
水を掛けながら、くらげが呟いた。
「……これは、ひいおばあちゃん」
次々と、その名前を呼びながら手を合わせてゆく。
「これが、おじいちゃん……」
くらげの祖父の墓。
今まで一番長く手を合わせていた。

私はくらげの祖父に会ったことが無い。
けれども以前、彼の家で夕食をご馳走になったときのことだ。
死んだはずの祖父の席には料理と酒が置かれ、
祖母は誰もいない空間に向かって嬉しそうに話しかけていた。
もちろん、私には祖父の姿は見えず、まるでパントマイムを見ているかのようだった。
くらげにも祖父の姿は見えないらしい。


203 :くらげシリーズ「緑北向きの墓」3:2014/07/12(土) 16:14:23 ID:7TU1mP.c0

「……なあ、くらげのおじいちゃんって、どんな人だったんだ」
祈り終え、顔を上げたくらげに私は尋ねる。
「怖い人だった」
くらげはそう答えた。
「医者だったからかな。幽霊なんて、全然信じてなかった……。
だから、僕とかおばあちゃんがそういう話をするのが、すごく嫌だったみたい。
……殴られたこともあるよ。『正しい人になれ』って」
私はまた、あの夕食の席を思い出していた。
私にとってはただ一度きりだが、あの家では毎回、毎食、同じ光景が繰り返されているのだ。
もし、くらげの祖父が、生前自分が否定したモノになっていたとしたら、
彼は今どんな気持ちでいるのだろう。

くらげが最後の墓に向かう。それは彼の母親の墓だった。
残り全ての水を注ぎ、米を供える。
松葉杖を脇で支え、二拍手の後、くらげは目を閉じた。
私は想像してみる。
くらげの母のこと。
一体どんな人物だったのだろうか。
しばらくして目を開けたくらげが、ちらりと私の方を見やった。
そして何か感じ取ったのか、ゆっくりと首を横に振った。
「分からないよ。……何も、覚えていないから」
私はどうやら無言の質問をしていたらしい。対する彼の答えがそれだった。
私はその名前が刻まれた墓石を見やる。
母と過ごした記憶の無い彼に、目の前の石の塊はどう映っているのだろう。
「戻ろう」とくらげが言った。私は黙って頷いた。

墓を出ようとした時、一陣の強い風が吹いて、周りの木々をざわめかせた。
それはあまりに突然で、
墓を掃除した私に対するお礼だったのか、
それとも、よそ者が余計なことをするなという怒りの声だったのか、もしくはその両方か。

北向きの墓。
海に帰ることの出来なかった魂は、一体何処へ向かうのだろう。そんなことをふと思う。

「今日は、ごめんね。休みなのに」
山を下りている最中、くらげがぽつりと呟いた。
実際、彼は人に仕事をさせて自分が楽しようというタイプではないので、
今日私が作業している横で心苦しかったのかもしれない。
けれどもそれは、後からこうだったのかもしれないと考えたことだ。
その時の私は、彼の気持ちなどまるで思い至らなかった。

「ああ、それは別にいいんだけど……」一つ、先ほどからずっと気になっていたこと。
「まさか……、勘違いされてないよな」
せっかく苦労して掃除したのに、
当の墓の下で眠る方たちに、墓を荒らしに来たよそ者と思われたままでは、頑張った甲斐がない。
私の言葉に彼は何度か目を瞬かせた後、
不意に私から目を逸らし、何故か突然「くっ」と短く笑った。
笑ったことで肋骨に響いたらしく、身体を丸め、脇腹の辺りを押さえている。

「おい、何が可笑しいんだよ」
私が口を尖らすと、くらげはちらりとこちらを見やり、
「……されたかもしれないね。勘違い」
そう言って、また小さく笑い、「いたた……」と脇腹をさすっていた。



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197:くらげシリーズ「緑ヶ淵」1:2014/07/09(水) 09:27:34 ID:qlht/3vE0

街を南北に等分する川。その川を少し遡った、中流域と上流域の丁度境目あたり。
緩やかにカーブを描く流れの外側に一箇所、岸がえぐれて丸く窪んでいる場所がある。
そこは緑ヶ淵と呼ばれていた。
田舎の子供たちにとって、夏の間の川は市営プールと同義だが、
緑ヶ淵は入ると急に深くなる上に、
中では流れが渦を巻いているらしく、毎年淵の周辺は遊泳禁止区域に指定されていた。
しかし、川の外からでは渦は見えず、飛び込むのに丁度いい大岩もあってか、
緑ヶ淵はごく稀に、危機感の無い者や、
反抗心の使い方を間違えている若者たちの度胸試しの場にもなっていた。

地元の人間は緑ヶ淵で溺れて死ぬことを、『呑まれる』と表現する。
父が消防署に勤めていたので、私もじかに聞いたことがある。
――緑ヶ淵が、また人を呑んだ――


私が中学一年生だった頃の話だ。
九月中旬、暦の上ではとっくに秋だ。
もう夏休みボケは抜けたものの、日差しも気温もまだ十分に暑かった。
その日は学校が休みで、
部活も入っておらず勉強熱心でもない私は、
朝から一人の友人を誘って、緑ヶ淵に向かって自転車を漕いでいた。
小さな頃から海川野山を駆けずり回って育ってきた私にとって、片道一時間半なんて
ちょっとした散歩のようなものだ。
ただ付き合ってくれた友人には、「川に釣りに行こうぜ」としか言っておらず、
こんなに遠出するとは思っていなかったのだろう。
しかも、川沿いの道を上流に向かって遡っているので、ゆるい上り坂がずっと続く。
緑ヶ淵に到着したとき、友人は既に青色吐息だった。

彼はくらげ。
もちろん渾名だ。
何でも、彼の家の風呂にはくらげが沸くらしい。
『自称、見えるヒト』というわけだが、その中でも、見えるモノが一風変わっている。
加えて、見た目もくらげのように青白い。
私は逆に真っ黒だ。

先に対岸の川原でそこら辺の石をひっくり返し、ケラの幼虫やら餌に使う虫を集める。
ミミズも持ってきていたのだが、その土地で取れる餌が一番釣れるというのが私の持論だ。
くらげは先に緑ヶ淵の傍にある飛び込み台としても使われる大岩の上に座って、
川の流れをじっと眺めていた。
ちなみに、彼は釣りはやらない。
ただ、水のある風景は好きなようで、海だろうが川だろうが、何時間でも飽きずに眺め続けられるそうだ。
餌を集め終えた私は、くらげの上へと向かう。
自転車を止め、ガードレールを跨ぐ。
大岩の上。真上からのぞく緑ヶ淵は、名前の通り周りの流れよりも一層濃い色をしている。

「……飛び込まないでよ」
隣のくらげが小さく呟いた。




198 :くらげシリーズ「緑ヶ淵」2:2014/07/09(水) 09:28:09 ID:qlht/3vE0

『落ちないでよ』では無く、『飛び込まないでよ』である辺り、
彼とは小学校六年生からの付き合いだが、そろそろ私のことを分かってきた証拠だ。
「心配すんな。今日は水着持ってきてねぇから」
彼が私を見る。
彼は基本無表情だが、『そういう意味で言ったんじゃないんだけど』と、その目が言っている。
「冗談だって」と私が言うと、小さくため息のようなものを吐いた。
「……何だか、脳の血管に出来た、静脈瘤みたいだ」
緑ヶ淵について、くらげが何だかよく分かるようでよく分からない微妙な例え方をした。
「気をつけろよ。落ちたら、浮かんで来れないからな」

ちなみに、釣りをする際、私はあまり目的の魚を一匹に絞ることをしないのだが、
今回は少しだけ事情が違った。
くらげの隣に座り、つり道具を広げる。
大岩から水面までは三メートル強といったところだ。
針に餌をつけて、淵の真ん中を目掛けてのべ竿をふる。

『緑ヶ淵には、何かが潜んでいるのではないか』とは、私の父から聞いた話だ。
子供を怖がらせようとした作り話かもしれないが、それが私が今日ここに来ようと決めた理由でもあった。
「ここで溺れると、死体も上がらないんだってよ」
すると、くらげがちらりと私を見て、「ふーん」と言った。
ここまで来るのに相当疲れたのか、少し眠たそうな顔をしている。

『緑ヶ淵に呑まれる』という言葉はただの比喩ではなく、
実際に緑ヶ淵での死亡事故では、遺体が上がらないことが多いそうだ。
雨や台風で増水した場合は別にして、
川の水難事故で遺体が上がらないといった状況は、そうそうあることではない。
何度か捜索に駆り出されたことがあるうちの父親は、
『巨大人喰いナマズでも居るんじゃないか』と冗談半分に言っていた。
くらげが空に向かって欠伸をしている。
まさか、『今日は人喰いナマズを釣りに来たのだ』とは、さすがの私でも口に出来ない。

アタリの感触はまだ無い。
深緑色をした水面は、円状の淵の中で緩やかに時計回りの渦を描いていた。
流れ着いた枝の切れ端や木の葉などの小さなごみが中心に集まり、ゆっくり回転している。
こうして見ると、ここが人を呑む淵と呼ばれているなどとは到底思えなかった。
北の空には縦に厚い雲が一つ、山を越えてゆっくりとこちらに向かってきていた。
ぼんやりと時間が過ぎる。
そよ風が吹き、草木が揺れ、魚は釣れず、隣の彼は船を漕ぎ出していた。


199 :くらげシリーズ「緑ヶ淵」3:2014/07/09(水) 09:29:08 ID:qlht/3vE0

何投目か。
しばらくして、あまりにもアタリが無いので上げてみると、
針に刺さっている部分は残して餌の半分だけ食べられていた。
魚が居ないわけではないらしい。
「……いてっ」
新しい餌に換えようとして、針が人差し指に刺さった。
思ったよりも血が出ていたが、面倒くさいのでそのまま餌をつけて、再び竿を振る。
絆創膏も無いので、一度指を舐めて、あとは放っておく。
隣のくらげが、眠たげな目で私の指をじっと見つめている。
「何?」と訊くと、彼は餌の虫が入ったケースに目を落として、「……何でも無い」と言った。
おかしな奴だなと思う。

その時だった。
竿が下に引っ張られた。
合わせる暇も無いほど、それは一瞬の出来事だった。
もしも咄嗟にくらげが服を掴んでくれなかったら、私は川に落ちていたかもしれない。
それほど突然で、強いアタリだった。
ギチ、と竿が悲鳴を上げる。
くらげも危ないと思ったのか、私の服を掴んだ手を離そうとはしなかった。
本当に巨大ナマズでもかかったのだろうか。
踏ん張りながら、糸の先にいる生き物が何なのか私は考える。
これほど強い引きの川魚とは出会ったことが無い。
しかもそいつは前後左右に暴れることを一切せず、ただ下へ、下へと引っ張っている。
まるで私を川へ引き込もうとするかのように。

これでは、釣りではなく綱引きだ。その不自然な引きに、一瞬背筋が震えた。
けれども、竿から手を離すことはしなかった。
この先に何が喰らいついているのか知りたいと思った。
しかし、結末はあっけなく訪れた。糸が切れたのだ。
引き込まれないよう力をこめていた私は、その瞬間後ろに尻餅をつく。
糸の先にはウキだけが残り、あとの仕掛けは全部持っていかれてしまっていた。

「大丈夫?」
くらげの問いに、私はひっくり返った体制のまま頷く。
ゆっくりと身体を起こして、半ば呆然としながら千切れた糸の先を見やる。
最初は本当に人喰いナマズでも掛かったのかと思った。
けれども私の直感は、あれは魚ではないと告げていた。
じゃあ何なのかと問われると、答えようが無いのだが。
「……釣れなくて、良かったのかもね」
川のほうを見ながら、くらげがぽつりと呟いた。
再び覗き込むと、緑ヶ淵はまるで何事も無かったかのように静かに佇んでいた。


200 :くらげシリーズ「緑ヶ淵」4:2014/07/09(水) 09:30:02 ID:qlht/3vE0

それから、仕掛けを付け替え、めげずに釣りを続けていた私だが、
二度とあの強いアタリが来ることはなかった。
代わりにうぐいが二匹釣れたので、
うろこと内臓を取って川原で焚き火を起こし、塩焼きにして食べた。
内臓を取っている際、横で見ていたくらげがぽつりと一言、
「……君って、やっぱり変わってるよね」と呟いた。
「お前にだけは言われたくねぇ」と返すと、「そうかもね」と言って、ほんの少し笑っていた。

緑ヶ淵でまた水難事故が起きたのは、その次の年の夏のことだった。
街に住む男子高校生三名が、度胸試しという名目で同時に大岩の上から飛び込んだらしい。
一人だけ撮影係として岩の上に残っていた者の証言によると、
三人が水に飛び込んだ後、
誰一人浮かんでくる者はおらず、影も見えず、水面には波一つ立たなかったという。
そのまま三人は帰らぬ人となった。

証言者が嘘をついているのではないかという話も上がったそうだが、
彼の持っていたビデオカメラには、
三人が岩の上から飛び込む瞬間と、飛び込んだ後の静かな水面の様子が映っていたらしい。
――緑ヶ淵が、また人を呑んだ――
とは言うものの、それが一体具体的にどういうことなのか、説明できる人間はいない。
非科学的だといって頑なに否定する者も居るそうだが、
それでも緑ヶ淵は確かに存在し、今日も静かに佇んでいる。


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191 :くらげシリーズ「転校生と杉の木」1:2014/06/26(木) 16:38:19 ID:TrdgkZJA0

これは、私が小学校六年生だった頃の話だ。

四月中旬。
私はその日の放課後、一人居残って教室の掃除をしていた。
不注意で花瓶を割ってしまったのだ。
ガラスは担任が片付けてくれたが、濡れた床の掃除を命じられ、
おかげで校門を出た時間は、他の『まっすぐ帰る組』よりも数十分遅れていた。

昨夜はひどい雨だった。
校庭に植えられた桜はほとんど散っている。
道には花弁が散らばり、足元にある水溜りは桃色をしていた。
いつもなら水溜りなど気にせず踏み越えて行くのだが、その日ばかりはチョロチョロと避けて歩く。

帰宅途中、私が昔通っていた保育園の前を過ぎようとした時だった。
道路の端で、誰かが園内に生えている大きな杉の木を見上げていた。
同じ学校の生徒だろう。黒いランドセルを背負っている。
見覚えある横顔。
彼は始業式の日に、私のクラスに転校してきた生徒だ。

彼は一風変わった転校生だった。
転校初日の全ての休み時間、彼は一度も教室に留まることをしなかった。
休み時間が始まると、一人教室を抜け出して、いつの間にかいなくなっているのだ。
次の日からもそうだった。
転校生にとって、転校初日は友人を作る上で最も重要な日だろう。
その重要な日の休み時間に自ら教室を出ていく。
つまりは、そういうことだ。
人嫌いの変わり者。それが周りの彼に対する評価だった。

その転校生が私の目の前で、じっと杉の木を見上げている。
園内には、サイズの小さな遊具で遊ぶ子供たちと、それを見守る保育士の先生の姿があった。
私も昔、同じようにここで遊んだ。
私は保育園が大好きな子供で、休みの日でも
「やだー。保育園行くー!」と泣きわめいて親を困らせたらしい。
杉の木は園内の隅に生えている。きっと街が出来る以前からそこにあったのだろう。
幹は太く、高さは周りの家々の三倍はある。
建材用のまっすぐ伸びた杉ではなく、見ようによっては身をよじった人のようにも見え、
根元には『みまもりすぎ』と名札が掛けられてある。
私が園児だったころからすでに、その杉の木は『みまもりすぎ』だった。

転校生の横を過ぎざまに、私はちらりと杉の木を見上げてみた。
彼は何を見ているのだろうか。
漠然と、枝にとまった鳥でも見ているのだろうと思っていたが、違った。
白い靴が二足、空中に浮かんでいた。不思議な光景だった。
足はそのまま歩きながら、首だけがその靴を追う。
可動域の限界まできたところで私は立ち止まった。
杉の木の方に身体も向けて、もう一度見やる。

一組の白い運動靴が、つま先を下にして、私の頭より高い場所で浮かんでいた。
その一,二メートルほど上には太い枝が真横に張りだしていて、そこから細い糸で吊るしているのだろうか。
しかし、一体どういう理由で。

ふと気がつくと、先に杉の木を見上げていた彼が、いつの間にか歩きだしていた。
何事も無かったかのように平然と、私の横を通り過ぎる。
私は振り返り、その背中に声を掛けようとした。
けれど、何と言えば良いのか分からない。
まごまごしている内に、彼は角を曲がり、その姿は見えなくなった。

一人取り残された私は、もう一度杉の木を見上げた。
何もない。
白い靴は消えて無くなっていた。
その場に立ちつくし、茫然と杉の木を見上げる。
幻覚、錯覚、見間違い。
しかし、私の見たものが見間違いなら、彼は見ていたものは何なのだろう。

その日、家に帰ってから、私は母に今日あったことを報告した。
二足の白い靴が、保育園の大きな杉の木の下に浮かんでいたと。
丁度夕飯の買い物に行こうとしていた母は、
玄関へと向かいがてら、私の頭をわしゃわしゃと撫でて、一言「アホなこと言いなさんな」と言った。




192:くらげシリーズ「転校生と杉の木」2:2014/06/26(木) 16:38:53 ID:TrdgkZJA0

日付は変わり、次の日のこと。
学校に行く途中、保育園の前を通り過ぎる際に、私はあの杉の木を見上げてみた。
白い靴など影も形も見当たらない。
角度を変えたり目を細めたりしたが、やはり何も見えない。
ふと、柵の向こう、園内から一人の赤い頬をした小さな男の子が、私のことを不思議そうに見つめていた。
私は取り繕うように笑って、そそくさとその場を後にした。

やっぱり、見間違いだ。
母の言う通り。アホなことだったんだろう。
幾分ホッとした私は、以降しばらくの期間、白い靴のことを思い出すことはなかった。

そうして、それからしばらく経った日のこと。
四月が終わりを迎え、五月。端午の節句がすぐそこまで近づいていた。
その日も前日は雨だった。
学校が終わり、一人での帰り道。道路には水溜りという置き土産がいくつも残っていた。
わざと水溜りを蹴飛ばしながら歩く。
靴下まで水に濡れて、一歩歩くごとにガッポガッポ音が鳴るのが楽しい。
母には不注意で溝に落ちたとでも言い訳するつもりだった。

そうやって、私は保育園の横の道までやって来た。
歩くのを止めて立ち止まる。
何か聞こえたのだろうか。虫の知らせだろうか。理由は忘れてしまった。
とにかく私は立ち止まった。
保育園では数人の子供が遊んでいるようだった。はしゃぐ声がする。
園内を見やると、丁度私の視界を遮る様にあの杉の木があった。
ふと、あの白い靴のことを思い出した私は、なんとなく、木の幹を辿って、視線を空へと向けてみた。

頭上にあの白い靴が浮かんでいた。
瞬きすら忘れて私はそれを見つめていた。
誰かが白い靴を履いている。
その時見えたのは靴だけではなかった。前は見えていなかった人の足首。
靴を履いている。人間の足だ。
足は脛のところで途切れていて、それ以上は見えない。
色や輪郭は、まるで霧がかかったようにぼんやりとしている。
しかし、白い運動靴を履いた足が二本、確かに空中に浮かんでいた。

誰かが私の背後を通り過ぎる。
はっとして横を見やると、黒いランドセルが向こうの角を曲がろうとしていた。
見覚えのある背中。
「ちょっと待てよ!」
私は咄嗟にその背中を呼びとめていた。

彼は立ち止まり、ゆっくりとこちらを向いた。
その顔は無表情で、相変わらず何を考えているかわからない。
転校してきて一カ月。その頃、彼はすでに教室の置き物扱いだった。
休み時間に教室に居ないのは変わらず。
最初の方こそ、寡黙な転校生を面白がっていた周りも、慣れてくるにつれ
次第に相手をする者もいなくなっていた。

彼は黙って私の方を見ていた。
言葉で説明出来なかった私は、無言で、杉の木の下に浮かぶ誰かの白い靴を指差した。
彼が私の指差した方向を見やる。
長い沈黙があった。
「……見えるの?」
杉の木を見上げたまま彼が口を開いた。
そんなことはないはずなのだが、私はその時、初めて彼の声を聞いたような気がした。
「白い靴と、足首」
私は見えたままを答える。
どうやら、彼にも同じものが見えているようだった。しらばっくれる気はないらしい。
「そう。でも、それ以上は見ない方がいいよ」
そして彼はゆっくりとこちらを見やった。

「あの人、君の方見てるから」
それだけ言い残し、彼は背を向けて歩きだした。

再び呼びとめることも出来ず、私はただその背を見送っていた。
その姿が曲がり角の先に消えてしまってから、私は杉の木を見上げる。
白い靴と人間の足首は、忽然と消えて見えなくなっていた。
一体全体、何だというのだ。


193 :くらげシリーズ「転校生と杉の木」3:2014/06/26(木) 16:39:26 ID:TrdgkZJA0

その日も家に帰って親に報告したが、やはり母も父もまともに取り合ってはくれなかった。
見間違いではない。
自分の目に見えたものが何なのか。私は知りたいと思った。
彼が何か知っているに違いない。
その考えは確信に近かった。
私は二度、白い靴を見た。
一度目、二度目も、私の傍には彼の姿がある。
しかも、最初にあの杉の木を見上げていたのは彼なのだ。無関係とは思えない。

次の日、学校での給食の時間が終わり、昼休み。私は誰よりも早く教室を出て、廊下にて待機していた。
いつものように彼が教室から出てくる。
私はその肩を捕まえた。
「ちょっと話をしないか」
彼は無言のまま私を見やった。
相変わらず表情は乏しい。迷惑と思っているのだろうか。
いずれにせよ、中々返答しようとしない彼に、私は自分の中で一番優しげな笑顔を作ってみせた。
「いいよ、って言うまで付きまとうから」
彼は俯き、小さく息を吐いた。
「……いいよ」

人気の少ない中庭に場所を移す。
二人で階段を下り、上履きから靴に履き替え外に出た。
睡蓮の葉が浮かぶ丸い池のふちに腰かけ、単刀直入に、前置きも何も入れず、私は切り出した。
「あの白い靴と足は、何なんだよ」
「分からないよ」
対する彼の答えもシンプルだった。
そうして彼は、「僕は、あの人のことを知らないから」と続けた。
『あの人』。
先日もだ。彼は確かにそう言った。『それ以上は、見ない方がいい』とも。
きっと足だけでは無いのだ。
その上がある。
そして、彼にはそれが見えている。
「あの人って……。人があんなとこで、何してるんだよ」
私の問いには答えず、彼は池の中心にある噴水の方を見やった。
「もう、僕に近づかない方が良いよ。君は特に」
意味がわからない。
私は口を開きかけたが、彼の言葉の方が早かった。

「僕は病気だから」
それはまるで、原稿を読み上げるニュースキャスターのように。彼の口調はあくまで淡々としていた。
「……病気?」
「君は、家のお風呂に、くらげが浮いているのを見たことある?」
一瞬、質問の意味が分からなかった。
じっくりと考えた末に、私は黙ってかぶりを振った。
風呂に浸かるくらげ。そんなもの、見たことあるわけがない。
「僕は、そういうのが見える病気だから。君が見た白い靴や足とかもそう」
『自称、見えるヒト』というわけだ。しかし彼は、その原因を自ら告白した。

病気。
それは私の体験した全てを説明できなくとも、何かしらの説得力を持っていた。
少なくとも、たまにTVに出てくるナントカ霊能力者。
彼らの様に、何の説明もなく、幽霊やその他が見えると言われるよりも、はるかにずっと。
「君は、僕の病気が伝染ったんだよ。たまにそういう人いるらしいから。
……君は前から見えてたわけじゃないんでしょ?」
伝染病。
あの白い靴が見えたのは、彼の病気が私に伝染ったからだと彼は言った。
私は彼と同じ病気に罹ったのだろうか。

傍から見ても狼狽していたのだろう。
私を安心させるためなのか、彼は辛うじてそうしたと分かる程度に小さく笑った。
「でも大丈夫だよ。その病気は、僕に近づかないようにすれば、自然と治るから」
私は何も言うことができなかった。


194 :くらげシリーズ「転校生と杉の木」4:2014/06/26(木) 16:40:01 ID:TrdgkZJA0

彼が中庭を去った後も、私は一人、噴水に腰かけていた。
それ以降の午後の授業も、
私は心ここにあらずという状態で、先生の話も聞かず、黒板も見ていなかった。
何か考えていたはずなのだが、内容は覚えていない。

その日は五時間授業で学校が早く終わった。
放課後。
一緒に帰ろうという友達の誘いを断り、皆から少しおくれて、一人で帰路につく。
ゆっくりと歩き、あの杉の木がある保育園までやって来た。
園児たちの姿は無い。
お昼寝の時間だろうか。
私は立ち止まり、樹齢は何年だろう、その大きな杉の木を見上げた。
今のところ不可解なものは何も見えない。
見えるのは、空へと伸びる杉の木と、その先の青く広い空だけだ。
このまま家に帰れば、今まで通り何事もなく過ごせるだろう。
私はそれをちゃんと理解していた。
しかし、私は歩き出せなかった。
いや、歩き出さなかった。

その内、黒いランドセルを背負った彼がやって来た。
私の姿を見とめたのか、はた、と歩くのを止める。
相変わらずの無表情で、何を考えているかわからない。
しかし立ち止まったということは、私の存在が意外だったのだろう。
「や。こっち来いよ」
手を上げて私はそう言った。
幾分時間を掛けて、彼が私の傍へやってくる。
「……どうかしたの?」

私はその言葉を無視して一人、杉の木を見上げた。
先程までは決して見えなかった、白い運動靴、足首、さらにその上のつるりとした膝と、ズボンの裾。
間違いない。
彼の傍に居るから見えるのだ。
そうして、見える範囲が昨日よりも広がっている。

「どうやったら、もっとよく見えるんだ?」
上を見上げたまま私は尋ねる。
「……見ない方がいいよ」
彼は昨日と同じ言葉を繰り返す。
私は返事をしなかった。
しばらくお互いに無言のままだったが、
彼はやがて諦めたように、ふう、と小さく息をはくと、私と同じように杉の木を見上げた。
「昨日は、靴と足首だけだったんだよね。今は?」
「今は、膝らへんまで」
「ズボンは?」
「少し、見える」
「そう……」
次の瞬間。
彼の右手が、私の左手首を掴んだ。
それは思い掛けなく、唐突な出来事だった。
驚いて彼を見やる。
その表情は変わっていない。
視線も杉の木に固定されたまま、彼は残った手で上空を指差した。
「あの人の手は見える?ズボンの腰辺りで、ぶらぶらしてる、白い手」
戸惑いながらも、私は再び上を見やった。

手が見えた。
手首から先だけだったが、はっきりと。彼の言う通り、それは白い手だった。
彼に腕を掴まれたからか。ズボンも裾まででなく、腰の辺りまで見えるようになっていた。
「シマウマみたいな、長袖のシャツを着てるね」
隣で彼がそう言った瞬間、私の目はぼんやりと白と黒のボーダー柄のシャツを捉えていた。
それは徐々に鮮明になってゆき、しわまではっきりと分かるまでになった。
細かく説明されるごとに、『彼女』の見える部分が増えてゆく。
「首に、ロープが食い込んでる」
縄が見えた。
張り出した枝から垂れたロープが、白く細い首に絡まっている。
「女の人だね。ショートヘアで、舌がちょっと出てて、目は……君の方を見てる」
そう言ったのを最後に、彼は私の手首を掴んでいた手を離した。
顔が見えた。
私にはもう何もかも見えていた。


195 :くらげシリーズ「転校生と杉の木」5:2014/06/26(木) 16:40:33 ID:TrdgkZJA0

その足も、その手も、その身体も、その顔も、口から少し飛び出た舌も、
瞬きもせずじっと私を捉える、その虚ろな目も。
「……あ」
思わず声が出ていた。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
私はその人を知っていた。
彼女は、私がここの保育園で年中組と年長組だった時に、世話になった先生だった。

私は幼い頃。母が入退院を繰り返していて、小さな私は寂しい思いをしていた。
だから、十分に母に甘えられない分を、私は保育士だった彼女に求めたのかもしれない。
私はよく先生の足に縋りつくのが癖だった。まるで猿やコアラの赤子のように。
彼女は私を足にくっつけたまま、「よいしょよいしょ」と歩くのだ。
そのまま他の用事をすることもあった。
優しい人だった。

その先生が首を吊って死んでいる。
私はそっと手を伸ばして、その白い運動靴に触れようとした。
指の先が少し触れたが、感触はどこにも無く、私の指は空を掻いた。
触れられない。
「大丈夫?」
気遣ってくれているのだろうか。
「……知ってる先生なんだ」
私は答える。
それは自分でも驚くほど冷静な声だった。
おかしなことに、先生の死体を前にしても、実感はまるで湧かなかった。
それは、テレビの向こう側で行われる有名人のお葬式のようだった。
ロープで木にぶら下がった彼女は、ずっと私の方を見ている。
もしかしたら、私と彼女が知り合いであることに、彼は最初から気付いていたのかもしれない。
「『見守り杉』っていうんだねぇ、……この木」
隣で彼が小さく呟いた。

それから、どこで彼と別れて、どうやって家で帰ったのかは、記憶にない。
家に帰ってから、私は母に事情を聞いた。
先生の名前を出すと、母は観念したようで、色々と話してくれた。
黙っていたのは、忘れているのならそのままの方がいい、と思ったからだという。
先生は自ら命をたった。失恋の果ての自殺。
時期は、私が保育園を卒園してすぐのこと。
恋人は、当時同じ保育園に勤めていた人で、私の記憶にもある人物だった。
破局の理由は喧嘩でも浮気でも無く、先生の生まれ育った場所にあった。
周りから忌み嫌われる土地。
知識としてはあったが、そんなものはずっと昔の話だと思っていたし、何より理不尽で、やりきれなかった。
母は「あんた一時期、あの先生のことを、『お母さん』って呼んでたんよ」と言って、懐かしそうに笑った。
記憶の中の先生の姿が、目の前の母と重なる。
私の目から涙がぽろぽろと勝手にこぼれ落ちた。
先生は死んだのだという実感がようやく沸いてきたのだ。
私は小さな子供のように泣いた。
そんな私の頭を母はわしゃわしゃと撫でてくれた。


196 :くらげシリーズ「転校生と杉の木」6:2014/06/26(木) 16:41:06 ID:TrdgkZJA0

翌日。
私は登校中に、保育園に立ち寄った。
門の傍には一人の保育士がいた。
私はその人に、前日に母に用意してもらった小さな花束を渡す。
杉の木の下に供えてくれるようお願いすると、
その年配の保育士は心得ているのだろう、一瞬嬉しそうな、それでいて寂しそうな表情をした。
「ありがとうね」
彼女は私に向かってそう言った。
私は一度だけ杉の木の方を見やったが、先生の姿はどこにも見えなかった。
保育園に背を向けて、私は歩き出す。
涙は出ない。
先生のための分は、どうやら昨日の内に出しつくしてしまったようだ。

学校までの道、小学校の校門の前で、私は見覚えのある黒いランドセルを見つけた。
彼だ。その背に声を掛けようと口を開く。しかし言葉が出てこなかった。
足が止まり、私はその場で立ち止まる。
彼が抱える病気。
『近づかない方がいい』という彼の言葉。
私を見下ろしていた先生の目。
見える、ということ。
様々な言葉や事柄が頭の中を駆け巡り、その背を追いかけることを躊躇わせた。
覚悟。そう言ってもいいかもしれない。
当時の私は、まだそれを持ってはいなかった。
だから、私が彼のことを『くらげ』と呼ぶ様になるのは、もう少しだけ先の話になる。

後ろから肩を叩かれた。
「ねえ、何ぼーっと突っ立ってんの?」
振り向くと、そこにはクラスメイトの女の子が、疑問符を頭の上に出して私を見やっていた。
若干慌てつつ、「何でもないって」と答えると、彼女はより不思議そうな顔をして。
「何かへんなものでも見たのー?」
そう言って屈託なく笑った。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9405/1401772436/

186:くらげシリーズ「みずがみさま」1:2014/06/26(木) 16:35:04 ID:TrdgkZJA0

中学時代の話だ。
その年の夏、私と、私の両親と、友人一人の計四人で、一泊二日のキャンプをしたことがあった。
場所は街を流れる川の上流。景観の良い湖のほとりにテントを立てた。
水神湖(みずがみこ)という少し変わった名前の湖。
観光パンフレットにも載っていないので、周りに人は私たちだけだった。

事前の予定では、両親はいないはずだった。
普段は放任主義なのだが、さすがに子供二人だけでのキャンプは危険だと思ったのだろう。
いきなり自分たちも参加させろと言いだして、計画にもあれこれ勝手に手を加え始めた。
今ならその心配も十分に分かるのだが、
当時は普通にウゼーと思っていたし、実際口にもした。

もっとも私よりも、まず友人に申し訳ないと思っていたのだが、
彼は表向きはまるで気にしていないようで、私が親がついて来ると告げた時も、
「うん。分かった」の一言だったし、行きの車の中でも、
私の両親とえらく普通に会話をしており、私一人だけがいつまでもブーたれていた。

「やっぱりくらげちゃんは、誰かと違って礼儀正しくてしっかりしてるねぇ」
移動中の車内。
母が声を大きくしたのはわざとだろう。
くらげとは友人のあだ名だ。
私がそう呼んでいるのを聞いて、親も真似をしてそう呼ぶ様になったのだった。

しかし、何が『くらげちゃんはしっかりしてるねぇ』だ。
いっそのこと、そのあだ名の由来を教えてやろうかとも思った。
友人は所謂『自称、見えるヒト』であり、
幽霊の他にも、自宅の風呂に居るはずの無いくらげの姿が見えたりする。だからあだ名がくらげなのだが。
口に出したい気持ちを、ぐっと呑みこむ。

くらげはその日、長袖のシャツに黒いジャージという出で立ちだった。
彼はあまり親しくない人の前で肌を見せるのを嫌う。つまりは、そういうことだった。
「まあ何ねこの子は、さっきからぶすーっとして」
うっせー。
誰のせいだ。

細い山道を幾分上り、目的地に着いたのは午前十時頃だった。
人の手が入ってないからか、湖の水は隅々まで透き通っていた。
所々白い雲の浮かぶ空は青く、周りの緑がそよ風になびいてサラサラと音を立てている。
荷物を下ろし、今日のために休暇を取ったという父親が、はりきってテントを組み立てにかかった。
くらげがそれを手伝い、私は落ちてある石を集めて積み上げ簡素な竈を作った。
口は強いが身体の弱い母は
木陰でクーラーボックスに腰かけ、皆の作業の様子を眺めていた。

テントが完成した後、母が私の作成した竈で昼食をこしらえた。
野菜と一緒に煮込んで醤油とマヨネーズで味付けした、ぞんざいなスパゲッティ。
鰹節をふりかけて食べる。
見た目と同様に味もぞんざいだったが、美味かった。

「そう言えば、前にも一度ここに来たことがあってな」
食事中、ふとした拍子だった。
パスタと共に昼間から酒に手を付け始めた父が、しみじみとした口調で言った。
「あの時は、こんなにゆっくりとは出来んかった」

私たちが生まれる前のことだという。
麓の街に住む一人の男が、山に入ったまま行方が分からなくなった。
次の日、家族の通報により捜索隊が組まれ、何日もかけて山中を探しまわったそうだ。
消防署に勤めている私の父も捜索に加わっていた。
そうして二日程たった頃。行方不明だった男はこの湖の近くで、見るも無残な姿で発見された。
「たった二日なのにミイラみたいになっててな、驚いた。
腕は一本千切れて無かったし、動物の爪のあとやら、
しかも腹にはどでかい穴が空いててな、内臓があらかた食われてた。
熊じゃないかってことになって、そこからは皆大騒ぎだよ。猟友会も呼んで男の次は熊の捜索だ」

私とくらげは無言のまま顔を見合わせた。
隣の母が露骨に止めてくれというような顔をしていたが、私は構わず父に尋ねた。
「で?その熊は見つかったん」
「いや。見つからなかった。そもそも熊じゃないって話もあったな。
猟友会の奴らが、これは絶対熊じゃないって言うんだ。
傷がでかすぎるってな。
まあ、確かにここらの山に熊が出るなんて、その頃でも聞かない話だったが。
でも熊じゃないとしたら、じゃあ何なんだって話だよ」
「……そんなのが出るかもしれん山に、私らを連れてきたん?」
そう言って母が父を睨んだ。
父はどこ吹く風で缶ビールを口に運ぶ。
「もう十何年も前の話だから心配ない。それに、どこの山だって死亡事故の一つや二つ起きてるもんだ。




187:くらげシリーズ「みずがみさま」2:2014/06/26(木) 16:35:36 ID:TrdgkZJA0

いちいちビクビクしてたら何も出来んだろ」
「それにしても、食事中にする話じゃなかろーが」
それでも美味そうにビールを飲む父に、母は「この酔っぱらいめ」と悪態をつく。
そんな夫婦のやり取りを見ながら、私の口の悪さは母譲りだなと改めて思う。
「ああそう、思い出した……。死体を見た専門家も、こいつは熊じゃないって言ってたな」
一本目の缶ビールを飲みほした父が、
そのまま顎を上げ空を見上げた状態で、どこか独り言のようにそう言った。
「腹の傷辺りの内臓が、すっかり溶けてるとかなんとか」
「やめんと刺すぞ」
母が父に菜箸をつきつけ、この話は終わった。

昼食後は、日が暮れるまでそれぞれ好き勝手なことをして過ごした。
母は読書をしたり、傍に居たくらげを捕まえて話の相手をさせていた。
酔っぱらいは、わざわざ家から持ってきたハンモックを手ごろな木に吊るして、昼寝をしていた。
私はというと、もっぱら釣りをしていた。
餌はその辺の岩の下に居た小さな虫で、この湖で何が釣れるのかも知らなかったが、
湖の景観は眺めていて飽きなかったし、ついでに何か釣れればいいな、くらいの心持ちだった。

小さな折りたたみ椅子に座りぼんやりしていると、
ようやく母に解放されたらしいくらげがやって来て、私の隣に腰を下ろした。
しばらく二人共無言で湖を眺めた。
どこかで、ピィ、という鳥の鳴き声と一緒に、木々の擦れ合う音がして、
小さなこげ茶色の影が数羽、私たちの頭の上を西から東へと横切っていった。

「さっきの親父の話さ、あれ本当だと思うか」
鳥の影が見えなくなった後、私は何となく尋ねてみた。
欠伸の最中だったらしいくらげは、両手首で涙をぬぐいながら、そのまま「んー」と伸びをした。
「僕は当事者でも何でもないし」
「まあ、そうだよな」
そして、くらげは地面に生えていた草を数本引きぬくと、湖に向かって投げた。
「……あのさ。これ、随分昔におばあちゃんに聞いた話なんだけど」
くらげが言った。
「この辺の山には、神さまが住んでるって」
「神さま?」
「そう。みずがみさま、っていうんだけどね」
くらげは湖を見つめながらそう言った。
みずがみさま。
その名前は私に、今自分が釣り糸を垂らしている湖の名前を否応なく思い出させた。
「そのみずがみさまがどうかしたのか?それとも事件は、そいつのせいだって言うのかよ」
くらげは首を横に振った。
「かもしれないねって話。でも、この湖のそばで見つかったんでしょ?」
確かに男の死体はこの水神湖周辺で見つかったそうだが、
だからといって、湖の神さまが犯人は突拍子過ぎるのではないか。
そんな私の考えを知らないくらげは、淡々と続ける。

「ふつう、神さまが見える人なんて滅多にいないし。
見えない何かに危害を加えられたり、なんてことはあり得ないんだけど」
そして、くらげは右腕を前に伸ばすと、シャツの裾を少しめくって見せた。
白くて細い腕の中に、赤い斑点が数ヶ所浮き出ている。
「見えない人には居ないも同然だけど。
もしも『それ』が見える人なら、刺されたり噛まれたり、殺されることもあるんだよ」

それは、彼が自宅の風呂に出たくらげに刺されたという跡だった。
最初に見たのは小学校の頃の体育の授業だったが、
それから数年経っても消えないで、未だ彼の身体に残っている。
ファントム・ペイン――幻肢痛。
そんな、どこかで聞いたような単語が頭に浮かぶ。
しかしあれは、すでに失った、あるはずの無い手足の痛みを感じる、というものだったはず。
この場合、幻傷と言った方がいいのかもしれない。

「……でもなあ。最近の神さまは、人を襲って内臓食うのかよ」
私が言うと、くらげは前を見たまま「どうだろうね」と少し首を傾げた。
「神さまなんて、善いとか悪いとか関係なしに、人が崇める対象のことだし。
もしかしたら、生贄だと思ったんじゃないかな。僕らの街も昔は水害が多かったそうだから」
さらりと言って、くらげは再び欠伸をした。
それから後ろを振り向き、父が寝ているハンモックをどことなく羨ましそうに見やった。
その後、私は夕暮れまで粘ったが、結局一匹も釣れなかった。


188:くらげシリーズ「みずがみさま」3:2014/06/26(木) 16:36:11 ID:TrdgkZJA0

夕飯はカレーだった。
但し、ここで作ったものでは無い。母が家から鍋ごと持ってきたのである。
しかも飯盒も米も無いので、別の鍋でうどんを茹でて、カレーうどんという体たらく。
何故キャンプに来て、昨日の残りのカレーを食べなければいけないのだ。何故白米が無いのだ。
ここでも結局、私のみがブーたれていた。

食事の後は、焚き火の光を目印に集まってきた虫達と一緒に、夜の景色を眺めたり、
誰かと適当に話をしたり、父のウィスキーを少しなめさせてもらい、母に怒られたりした。
時間は驚くほどゆっくり流れ、
夜空にはどこも欠けることのない満月と共に、
今にも落ちてきそうな、もしくは逆にこちらが吸い込まれそうな、満天の星空が輝いていた。
酒のせいか、いつテントに入ったのかは覚えていない。
気がつけば、私は寝袋を敷布団にして仰向けに寝転がっていた。
右を見ると父と母が、
左にはくらげが少し離れたテントの隅で、まるでカブトムシの幼虫の様に身体を丸めて眠っていた。

どうして目が覚めたんだろう。
外の焚き火は消えている様だった。
辺りはしんと静まり返り、虫の鳴き声が唯一、静寂を一層際立てていた。
私は上半身を起こした。
寝起きだというのに、何故か自分でも驚くほど目が冴えていた。
目だけじゃない。五感がこれ以上ない程にはっきりとしている。

何か居る。
ほとんど直感で、私はその存在を認識していた。
テントの外に蠢く何かが居る。
直感に次いで、這いずる音が聞こえた。
その内、不意にテントの壁に大きな影が映った。
私の背よりは大きくないが、横にかなりの幅がある。
そいつはテントの周りをのそのそと、入口の方まで移動してきた。
私は無意識の内に、テントの入り口に近寄っていた。
二重のチャックは二つとも閉じている。薄い布二枚隔てた向こうに何かが居る。
不思議と、熊かも知れないとは思わなかった。
そいつの足か、もしくは手がテントに触れた。
でかい身体の割には随分と細い手足という印象だった。細くて、先が鋭い。

みずがみさま。
ガジガジガジガジ、とまるで錆びた金属同士をこすり合わせたような、そんな音がした。
鳴き声だろうか。
そうだとしたら、そいつは熊ではあり得無い。

私は手探りでテントの中に転がっていた懐中電灯を見つけ出した。
片手に握りしめ、もう一方の手でゆっくりと出入り口のジッパーに手をかけた。
じりじりとジッパーを下ろしてゆく。
片手が入る程の隙間。その隙間に、私は光のついていない懐中電灯を向けた。
スイッチを入れようとした。
その瞬間、突然後ろから肩を掴まれた。驚く間もなく口を塞がれる。
「……静かに」
耳元でもようやく聞こえる程の小さな声。くらげの声だった。
いつの間に起きていたのだろうか。
後頭部から彼の心臓の鼓動がはっきりと聞こえていた。
自分の心臓の音も聞こえる。


189:くらげシリーズ「みずがみさま」4:2014/06/26(木) 16:36:49 ID:TrdgkZJA0

いつの間にか懐中電灯が取り上げられていた。
「今は駄目だ。相手にもこっちが見えるから」
外の気配は相変わらず、すぐそこにあった。
「見えるってことを、知られちゃいけない。見えないふりをしないと」
小さく囁くその声が、僅かに震えているのが分かった。

そこでようやく、私の頭の芯が冷えてきた。
私は鼻で大きく深呼吸を二回すると、くらげの膝を軽く二度叩いた。
くらげが私の口から手を離した。
星明かり月明かりのおかげで、テントの中でもそれ程暗くない。
テントに映る影。
改めて見ると、影の高さは、膝を立てて座った時の私の目線とほぼ同じだった。
私が開いたジッパーの隙間から、その姿の一部分が見え隠れしている。
但し、夜中だったせいか黒くしか見えない。

ガジガジガジガジ。
あの音がする。
不快な音だ。
どうして両親は起きないんだろうと思った。
もしかしたら、彼らには聞こえていないのかもしれない。
私とくらげ、二人だけに聞こえている。

くらげと一緒に居ると、私にも常人には見えないものが見える時がある。
それをくらげは、『病気がうつる』と表現していた。
見えてしまう病気。
それは時には、見えてしまうがゆえに様々な症状を誘発する。
くらげから離れさえすればこの病気は治る。
それでも私はくらげと友人でいた。
一度覗いてしまった非日常の世界を、簡単に手放すことは出来なかった。
しかし、この病気は悪化もするのだ。

どのくらい動かずに居ただろう。
不意に、外に居るそいつが背を向けたのが分かった。
気配がテントから離れていく。
暗闇の中、私とくらげは目を合わせた。
「……ライトは駄目だよ」と、くらげが小声で言う。私は頷いた。
二人でそっとテントの出入り口に近づく。
手が一つ入る程だったジッパーの隙間を、もう少しだけ広げた。
二人で片目ずつ、外を覗く。
息を飲んだ。

虫だ。
四本の足で這いながら、湖の方へと近づいて行く。
そいつはとてつもなく大きな、
まるで私たちが小指大まで縮小してしまったのかと思う程大きな、昆虫だった。
枯れた水草のような色。その畳二畳分はあるだろう背中。
頭から横にはみ出した、車すら挟み潰してしまいそうな巨大な鎌状の前足が二本。
「……タガメだ」
くらげが小さく呟いた。

湖の傍まで来ると、そいつは突然立ち止まり、動かなくなった。
その背中がもぞもぞと動く。同時に、ガジガジガジ、とあの音がした。
あれは虫が身体をこすり合わせる音だったのだ。
そう思った途端。
いきなりその背中が二つに裂けた。
身体の大きさが横方向に突如膨れ上がった様にも見えた。
羽を広げたのだ。
その四枚の羽根が目に見えない速さで振動する。ざあ、と風が吹いて、テントが揺れた。
飛ぶ。
その大きな体がふわりと、地面から少しだけ浮いた。
水面に波紋が立つ。
飛び上がるというよりは、水面を滑る様に。
徐々に上昇していって、あっという間に木々の向こうへと飛び去ってしまった。

湖はまた静かになった。
私はしばらくの間、動くことも声を発することも出来なかった。
くらげがジッパーを開いて外に出た。
湖の方へと歩いて行き、先程あの巨大な虫が飛び立った場所で立ち止まった。
「やっぱり、みずがみさまは、タガメだった。おばあちゃんに聞いた通りだ……」
夜空に向かって、くらげは呟く様にそう言った。
その声は、どこか嬉しそうにも聞こえた。
私も外に出てみる。
見ると、焚き火をした後の灰の中に、未だ赤くくすぶっている薪があった。
あの虫は、この僅かな光につられてやってきたのだろうか。


190 :くらげシリーズ「みずがみさま」5:2014/06/26(木) 16:37:27 ID:TrdgkZJA0

ぶるり、と私は一つ震えた。
「……もし捕まってたら。どうなってたんだろな」
タガメに関する知識で、
蜘蛛のように獲物の内臓溶かしながら少しずつ吸う性質がある、ということを私は思い出していた。
「もし捕まったら、僕らお供え物になってたね。きっと今年、このあたりで水害は起きなかったはずだよ」
私の傍に来てくらげがそう言った。
お供え物。私はくらげを見やって、思わず笑ってしまった。
すると、くらげは不思議そうな顔をした。
どうやら冗談で言ったのではないらしい。
今年水害が起こったら、それは私たちのせいでもあるということか。

「あら……、二人共早起きやねぇ」
声のした方を向くと、母がテントから顔だけ出していた。私の笑い声で起こしてしまったようだ。
見ると、辺りが段々青白く明るんで来ていた。
朝はもう、すぐ近くまで来ている。
「何しゆうんよ。二人で」
母の言葉に、私たちは顔を見合わせた。
どう説明したらいいものかと一瞬悩んだが、私は本当のことを話すことにした。
「いや、あのさ、テントの外にでっかいタガメが居るの見つけて、ちょっと観察してたんだけど……」
嘘は何も言っていない。
母は目をぱちくりさせた後、小さく溜息を吐いた。

「ねぇくらげちゃん」
その時の母の笑顔は、私が今まで見たこともないようなものだった。
「ウチの子こんなに馬鹿なんだけど。これからもお願いね?」
するとくらげは、珍しく少し戸惑ったような表情をしてから、こう言った。
「あの、僕、ずっとは無理ですけど……、出来る限り、そうしたいと思ってます」

数秒の間を置いて母が笑った。
当のくらげはやっぱり不思議そうな顔をしていて、どうやらこれも冗談ではないようだ。
くらげの言葉。
きっと母と私では、違う受け取り方をしただろう。
正直、おいおいおい、と思ったが、私は笑って流すことにした。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9405/1401772436/

182:くらげシリーズ「くらげ星」1:2014/06/26(木) 16:31:10 ID:TrdgkZJA0

私が子供だった頃、『自称見えるヒト』である友人の家に、初めて遊びに行った時のことだ。
当時私は小学六年生で、友人はその年に私と同じクラスに転校してきた。
最初の印象は『暗くて面白みのないヤツ』で、あまり話もしなかった。
とある出来事をきっかけに仲良くなるのだが、
それはまた別の話。

季節は秋口。
学校が終わった後一端家に鞄を置いてから、
私は待ち合わせ場所である、街の中心に掛かる橋へと自転車を漕いだ。
地蔵橋と呼ばれるその橋では、先に着いていた友人が私を待っていた。
欄干に手をかけて川の流れをぼーっと見ている。
私のことに気付いていないようなので、そっと自転車を止め、足音を殺して近づいた。

「わっ」
後ろからその肩を掴んで揺する。
しかし、期待していた反応はなかった。
声を上げたり、びくりと震えもしない。
彼はゆっくりと振り返って、私を見やった。
「びっくりした」
「してねぇだろ」

彼はくらげ。
もちろんあだ名である。
何でも幼少の頃、自宅の風呂にくらげが浮いているのを見た時から、
常人では見えないものが見えるようになったのだとか。
私は今日の訪問のついでに、それを確かめてみようと思っていた。
すなわち、彼の家の風呂にくらげは居るのか居ないのか。
私には見えるのか見えないのか、だ。

橋を渡って南へと、並んで自転車を漕いだ。
私たちが住んでいた街には、街全体を丁度半分南北に分ける形で川が流れており、
私は北地区、くらげは南地区の住人だった。
住宅街から少し離れた山の中腹に彼の家はあった。

大きな家だった。
家の周りを白い塀がぐるりと取り囲んでいて、
木の門をくぐると、砂利が敷き詰められた広い庭が現れた。
その先のくらげの家は、お屋敷と呼んでも何ら差し支えない、縦より横に伸びた日本家屋だった。
木造の外観は、長い年月の果てにそうなったのだろう。木の色と言うよりは、黒ずんで墨の様に見えた。
異様と言えば、異様に黒い家だった。
私が一瞬だけ中に入ることに躊躇いを覚えたのは、その外観のせいだったのだろうか。
「入らないの?」
見ると、くらげが玄関の戸を開いたまま私の方を見ていた。
私は彼に促されて家の中に入った。
中は綺麗に掃除されていて、外観から感じた不気味さは影をひそめていた。

くらげが言うには、現在この広い家に住んでいるのはたったの四人だという。
祖母と、父親、くらげの兄にあたる次男。そして、くらげ。くらげは三兄弟の末っ子。
母親が居ないことは知っていた。
くらげを生んだ直後に亡くなったのだそうだが、詳しい話は聞いていない。
長男は県外の大学生。次男は高校で、父親は仕事。
家には祖母が居るはずだとのことだったが、その姿はどこにも見えなかった。気配もない。
どこにいるのかと尋ねると、「この家のどこかにはいるよ」と返ってきた。

玄関から見て左側が、家族の皆が食事をする大広間で、
右に行くと、各個人の部屋に加えて風呂やトイレがある、と説明される。
二階へ続く階段を上ってすぐが、彼にあてがわれた部屋だった。
くらげの部屋は、私の部屋の二倍は軽くあった。
西の壁が丸々本棚になっていて、部屋の隅に子供が使うには少し大きな勉強机がひとつ置かれている。

「元々は、おじいちゃんの書斎だったそうだけど」とくらげは言った。
確かに子供部屋には見えない。
本棚を覗くと、地域の歴史に触れた書物や、和歌集などが並んでいた。
医学書らしきものもあった。マンガ本の類は見当たらない。
「くらげさ。ここでいっつも何してんの?」
「本を読んでるか、寝てる」
シンプルな答えだ。
確かにくらげの部屋にいても、面白いことはあまり無さそうだ。
そう思った私は、彼に家の中を案内してもらうことにした。



 

183 :くらげシリーズ「くらげ星」2:2014/06/26(木) 16:32:00 ID:TrdgkZJA0

二階は総じて子供部屋らしい。
階段を上って三つある部屋の内の一番奥が長男、真ん中が次男、手前がくらげ。
兄貴たちの部屋を見せてくれと頼んだら、「僕はただでさえ嫌われているから駄目だよ」 と言われた。
「そう言えばさ、その二人の兄貴も、見える人?」
くらげは首を横に振った。
「この家では、僕とおばあちゃんだけだよ」

一階に下りて、二人で各部屋を見て回る。
掛け軸や置物ばかりの部屋があったり、雑巾がけが大変そうな長い廊下があったり、
意外にもトイレが洋式だったり。
くらげはどことなくつまらなそうだったが、
私にとっては、古くて広い屋敷内の探検は、何だか心ときめくものがあった。
「ここがお風呂」
そうこうしている内に、今日のメインイベントがやって来た。
脱衣場から浴室を覗くと、大人二人は入れそうなステンレス製の浴槽があった。
トイレの時と同じように、五右衛門風呂なんかを想像していた私は、
その点では若干拍子抜けだった。
中にくらげが浮いているかと思えば、そんなこともない。
そもそも水が入っていなかった。
まだ午後五時くらいだったので、それも当然なのだが。

「何しゆうかね」
しわがれた声に、私はその場で軽く飛び上がった。
驚いて振り向くと、廊下にざるを抱えた腰の曲がった白髪の老婆が居た。
「おばあちゃん」とくらげが言う。
どうやらこの人がくらげの祖母らしい。
「どこ行ってたの?」
「そこらで、いつもの人と話をしよったんよ」
老婆はそう言って、視線を私の方に向けた。

「ああ。言ったでしょ。今日は友達連れて来るって。この人が、その友達」
「どうも」と頭を下げると、老婆は曲がった腰の先にある顔を、私の顔の傍まで近づけてきた。
目を細めると、周りにある無数のしわと区別がつかなくなってしまう。
その内、顔中のしわが一気に歪んだ。
笑ったのだった。そうは見えなかったが、「うふ、うふ」と嬉しそうな笑い声が聞こえた。
「風呂の中には、何かおったかえ?」
いきなり問われて、私は返答に詰まった。
何も答えられないでいると、老婆はまた「うふ、うふ」と笑った。

「夕飯はここで食べていきんさい。さっき山でフキを採ってきたけぇ」
「いや、あの……」
遠慮しますと言いかけると、
老婆は天井を指差して、「夕雨が降ろうが。止むまで、ここにおりんさい」と言った。
夕雨。夕立のことだろうか。
朝に天気予報は見たが、今日は一日中晴れだったはずだ。
「さっきからくらげ共が沸いて出てきゆうけぇ。じき、雨が降る」

思わず私はくらげの方を見た。
無言で『本当か?』と問いかけると、
くらげは無表情のまま首を横に傾げた。『分からない』と言いたかったのだろう。


184 :くらげシリーズ「くらげ星」3:2014/06/26(木) 16:33:13 ID:TrdgkZJA0

数分後。私はくらげの部屋から、窓越しに空を見上げていた。
雨が降っている。
くらげの祖母の言った通りだった。
長くは降らないということだったが、土砂降りと言っても良い程、雨脚は強かった。
家に電話をして、止むまでくらげの家にいることを伝えると、
『そう。迷惑にならんようにね』とだけ返って来た。
私の親は放任主義なので、子供が何をしていようがあまり気にしない。

「雨の日になると、街中がくらげで溢れるそうだよ。
プカプカ浮いて、空に向かって上って行くんだって。まるで鯉が滝を登るみたいに」
イスに座って本を読んでいたくらげが、そう呟くように言った。
「……マジで。そんなの見えてるのか?」
すると、くらげは首を横に振った。
「僕には見えないよ。僕に見えるのは、お風呂に水がある時だけだから」

私は窓の向こうの雨を見つめながら、前から気になっていたことを訊いてみた。
「なあ、そもそもさ。お前が風呂で見るくらげって、どんな形をしてんだ?」
「普通のくらげだよ。白くて、丸くて、尾っぽがあって。……あ、でも少し光ってるかも」
私は目を瞑り想像してみた。
無数のくらげが雨に逆らい空に登ってゆく様を。
その一つ一つが淡く発光している。
それは幻想的な光景だった。
再び目を開くと、
そこには暗くなった家の庭に雨が降っている、当たり前の景色があるだけだった

その内、くらげの父親が仕事から帰ってきた。
大学で研究をしているというその人は、くらげとは似つかない厳つい顔つきをしていた。
くらげが私のことを話すと、こちらをじろりと一瞥し、一言「分かった」とだけ言った。
口数が少ないところは似ているかもしれない。
次男はまだ帰って来ていない。
但しそれはいつものことらしく、彼抜きで夕食を取ることになった。

大広間に集まり、一つのテーブルを囲むように座る。
大勢での食事会にも使えそうな部屋で四人だけというのは、いかにもさびしかった。
フキの煮つけと、白ご飯。味噌汁。ポテトサラダ。肉と野菜の炒め物。
いつも祖母が作るという夕食はそんな感じだった。
最後にその祖母がテーブルにつき、まず父親が「いただきます」と言って食べ始めた。
私も習って、家では滅多にしない両手を合わせての「いただきます」を言う。

テーブルには酒も置いてあった。
一升瓶で、銘柄は読めないが焼酎の様だ。但し、父親はその酒に手をつけようとしない。
その内にふと気がついた。
テーブルには五人分の料理が置かれていた。
私は当初、それは帰って来ていない次男の分だと思っていたが、そうでは無かった。
祖母が一升瓶を持って、一つ空のコップに注いだ。
その席には誰も座っていない。
「なあ聞いてぇな、おじいさん。今日はこの子が、友達を連れてきよったんよ」
祖母は誰もいないはずの空間に向かって話しかけていた。
まるでそこに誰かいるかのように。
おじいさんとは、後ろの壁に掛かっている白黒写真の内の誰かだろうか。
見えない誰かと楽しそうに喋る。
たまに相槌を打ったり、笑ったり、まるでパントマイムを見ているかのようだった。


185:くらげシリーズ「くらげ星」4:2014/06/26(木) 16:33:56 ID:TrdgkZJA0

呆気に取られていると、私の向かいに座っていた父親が、呟く様にこう言った。
「……すまない。気にしなくていい。あれは、狂ってるんだ」

「うふ、うふ」と老婆が笑っている。
隣のくらげは黙々と箸と口を動かしていた。
私は何を言うことも出来ず、白飯をわざと音を立ててかきこんだ。

夕食を食べ終わったのが七時半ごろだった。その頃には土砂降りだった雨は嘘のように止んでいた。
外に出ると、ひやりとした風が吹いた。
車で送って行くという父親の申し出を断って、私は一人自転車で家路につく。

「お爺ちゃんも、雨の日に浮かぶくらげも、おばあちゃんがよくお喋りするいつもの人も、僕には見えない。
だから僕は、『おばあちゃんは狂ってないよ』って言えないんだ」
それは、私を見送るために一人門のところまで来ていたくらげの、別れ際の言葉だった。
「……もしかしたら、本当に狂ってるのかもしれないから」
くらげはそう言った。
――でも、お前も同じくらげが見えるんだろ――。
のどまで出かかった言葉を、私は辛うじて呑みこんだ。

『僕は病気だから』と以前彼自身が言っていたことを思い出す。
あの時、『あれは、狂ってるんだ』と父親が言った時、一体くらげはどう思ったのだろう。
家に向かって自転車を漕ぎながら、私はそんなことばかりを考えていた。

地蔵橋を通り過ぎ、北地区に入った時、私は思わず自転車を止めて振り返った。
一瞬、何か見えた気がしたのだ。
振り向いた時にはもう消えていた。
私はしばらくその場に立ちつくしていた。
それは光っていた。白く。淡く。尻尾のようなひも状の何かがついていたような。
あれは空に帰り損ねた、くらげだろうか。
もしもそうだったとしたら、私も少し狂ってきているのかもしれない。
しかし、それは思う程嫌な考えでは無かった。
くらげは良い奴だし、雰囲気は最悪だったがおばあちゃんの夕飯自体はとても美味しかった。

私は再び自転車を漕ぎだす。
空を見上げると雲の切れ間から星が顔をのぞかせていた。
空に上ったくらげ達は、それからどうするのだろうか。
私は想像してみる。
星になるんだったらいいな。くらげ星。くらげ座とか、くらげ星雲とか。
その内の一つが本当にあると知ったのは、私がもう少し成長してからのことだが、
それはまた別の話だ。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9405/1401772436/

175 :くらげシリーズ「死体を釣る男」1:2014/06/26(木) 16:22:26 ID:TrdgkZJA0

中学時代のある日のことだ。
その日、私は朝から友人一人を誘って、海へと釣りに出かけた。

当時住んでいた街から山一つ越えると太平洋だったので、
子供の頃は自転車で片道一時間半かけ良く遊びに行った。
小学生の頃はもっぱら泳ぐだけだったが、中学生になって釣りを覚えた。
待ち合わせ場所である街の中心に架かる地蔵橋に行くと、友人はすでに橋のたもとで待っていた。
彼はくらげ。
もちろん、正真正銘あの海に浮かぶ刺胞動物というわけでは無いし、本名でもない。
くらげというのは彼につけられたあだ名だ。
私は中学の頃オカルトにはまっていたのだが、そのきっかけがくらげだった。

くらげは所謂『自称、見えるヒト』だ。
なんでも、自宅の風呂にくらげがプカプカ浮いてるのを見た日から、
彼は常人には決して見えないものが見えるようになったらしい。
「僕は病気だから」と彼はいつもそう言っていた。
しかし、くらげと一緒にそういう『いわく』 のある場所に行くと、たまに
微かだが、私にも彼と同じモノが見える時があった。
くらげが言う病気は、他人に感染するのだ。

「わりぃ、待たせた。んじゃ行くか」
私が言うと、くらげは黙って自転車に跨った。
釣竿は持っていない。
彼は釣りをやらないのだ。理由は聞いたことは無かった。
「見てるだけでも良いから来いよ」 と言ったのは私だ。

くらげを誘ったのにはわけがある。
それは、これから行こうとしている場所には、とある妙な噂話があったからだ。
曰く、近くの漁村に、死体を釣る男が居るという。
いわゆる都市伝説だ。

自転車での山道。
私は意地で地面に足をつけずに砂利道を上った。
くらげは自転車を押しながら、後ろからゆっくりとついて来ていた。
峠を越えると突然、眼前眼下に青い海と空が広がる。
純白の雲が浮かぶ空はうららかに晴れていて、風は無い。
辺りに潮の匂いがまぎれている。
上りで汗をかいた分、猛スピードで下り降り、向風で身体を冷やした。

小さな港から海に突き出ている防波堤。
近くの松林の脇に自転車を置き、私たちはコンクリートの一本道を、歩いて先端まで向かった。
防波堤は全長五~六十メートルといったところだろうか。
途中で、『く』 の字に折れている。
防波堤の行き止まりに到着した私は、その場に座って仕掛けを作り始めた。
波は穏やかで、耳を澄ませば、ちゃぷちゃぷと小波が防波堤を叩く音が聞こえる。
ふと隣を見やれば、くらげは防波堤の縁に座り、海の上に足を投げ出していた。
ぼんやりと遠くの方を眺めている。
何を見てんだ。
そう訊こうとして、やめた。きっと何も見てやしない。
「おーいくらげ。お前、死体を釣る男の話って、聞いたことあるか?」
くらげは海の方を見たまま首を傾げた。




176 :くらげシリーズ「死体を釣る男」2:2014/06/26(木) 16:23:41 ID:TrdgkZJA0

「……鯛を釣る男の話?」
「違う。死体を釣る男の話」
「ああ。死体……。うん、知ってるよ。ここの港にいたおじいさんのことでしょ」
私は舌打ちをした。
知っていたのか。面白くない。

針の先に餌をつけ、撒き餌も撒かずにそのまま放り投げる。
座ったまま適当に投げたので、あまり飛ばなかった。
赤い浮きが、すぐそこの海面に頭を出している。
死体を釣る男も防波堤の先端で、
木製の釣り具箱をイス代わりに、日がな一日中釣り糸を垂らしていたという。
しかし釣りが下手だったのか、そもそも釣る気が無かったのか。
噂では男はいつもボウズだった。

「みちさんっていう名前なんだけどね」
くらげが口を開き。私は彼を見やった。
「みちさん?あー、それが死体を釣る男の名前か」
「そう。昔、この辺りの親戚の家に預けられてたことがあって、その時みさちさんと仲良くなったんだ。
色々話したよ。釣りも教えてもらった」
私は内心驚いた。知り合いかよ。
でもそれはそれで面白い。

「僕がここに居たのは三ヶ月くらいだったけど、その間にも、一人釣ったよ」
潮の流れのせいか、ここの港や近辺の浜辺には多くの漂流物が流れ着く。
大体はただのゴミなのだが、中には沖で溺れて死んだ人が、潮流に乗って帰って来ることもある。
死体を釣る男ことみちさんは、どざえもんを何十人も釣りあげた。
人間が海で遭難して死亡した場合は、五体満足で帰ってくる方が稀だ。
小さな魚介類につつかれて顔の判別もままならない遺体も多く、
さらに多くの場合、体内に腐敗ガスが溜まって膨らみ、体表は白く、触れただけで崩れるようになる。

「……でも。みちさんに釣りあげられた人たちは、顔も綺麗なまま、手も足もちゃんと残ってる人が多かった」
そしてくらげは私の方を向いて、「不思議だよね」と言った。
私もそこまでは噂話の範疇だったので知っていたのだが、そこから先は聞いた覚えのない話だった。
「みちさんの最後は知ってる?」
くらげに訊かれ、私は首を横に振った。

死体を釣る男に関する噂話は、ここの港にいる老人がよく死体を釣りあげるという部分だけだった。
男の結末までは噂になっていないし、私は男が死んでいることすら知らなかった。
「みちさん。海に落ちたんだ。釣りの途中で……」
良く出来た話だ。
幾つもの水死体を釣って来た男の最後が溺死だったとは。

「でも、そんな面白い話が、なんで噂の中に入って無いんだろうな。いや、面白いって言っちゃ悪いか」
「夕方で暗くなってたせいじゃないかな。周りに誰も居なかったし」
私はくらげを見やった。
たぶん不思議そうな顔をしてたんだろう。
「ああ、ごめん」
くらげは何故か謝った。
「僕だから。みちさんを釣ったのは」
しばらく何も反応ができなかった。

その日の夕食前、くらげはふと防波堤の先端に行ってみた。
しかしみちさんはおらず、たてかけられた竿だけが置いてあった。
忘れて帰ったのだろうと思い、
くらげがそれを何気なく持ち上げてみたら、糸の先にはみちさんが引っかかっていたのだそうだ。
想像してみたら、それは不気味を簡単に通り越してシュールだった。

「……あ、ひいてるよ」
くらげの声に我に返る。手ごたえは弱いが確かにひいている。アタリだ。
しかしその時、私はふと思った。
果たしてこの糸の先に居るのは、本当に魚なのだろうか。
ゆっくりと巻き上げると、そこには綺麗に針だけが残されていた。
ただの魚だったようだ。
ホッとすると同時に、そんなことに怯えた自分が何だか無性に馬鹿らしくなった。

「僕は、釣りはやらない」
隣でくらげが呟いた。
「だって僕に釣りを教えてくれたのは、みちさんだからね」
私は口笛を吹いて聞いてないふりをした。
そして立ち上がり、再び餌をつけた二投目を水平線めがけて放り投げた。



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172:くらげシリーズ「五つ角」1:2014/06/26(木) 16:18:53 ID:TrdgkZJA0

梅雨時になると、たまに思い出すことがある。
今から十年程前の話だ。当時、私は中学一年生だった。

四方を山に囲まれた盆地に、私の住んでいた街はあった。
といっても標高はそれほど高くもなく、南側の山一つ越えれば太平洋を見ることができる。
コンクリートで固められた一本の川が街を南北に等分していて、
その北側の住宅街に私と家族の家はあった。
対して南側の住宅街。
その片隅に『五つ角』と呼ばれる場所があった。

そこは、一見すれば単なる十字路である。
では何故四つ角ではなく五つ角なのかというと、二本の道が交錯する丁度中心に
一メートル程の大きなマンホールがあり、それが五つ目の角だというのだ。

五つ角という名は正式な名称では無い。
誰が名付けたのかは知らないが、もちろんそう呼ばれるには理由があった。
『雨の日の夕刻、五つ角のマンホールに近づいてはいけない』
街では有名な都市伝説だった。
何でも、男の幽霊が手招きしていて、
近づいてきた者をマンホールの中、つまり五つ目の角の奥へと引きずり込むのだそうだ。
世の都市伝説に洩れず、えらく恐ろしげでたっぷり胡散臭く、
それでいていたく子供心をくすぐる噂話だった。

私と同じクラスに『くらげ』というあだ名の人物がいた。
私がオカルトに興味を持つきっかけになったのが、彼だと言ってもいい。
彼はいわゆる、『自称、見えるヒト』だった。
何でも幼少の頃、自宅の風呂に何匹ものくらげがプカプカ浮いているのを見たその日から、
彼は常人では決して見ることのできないモノを見るようになったのだとか。
当然、最初はなんじゃそりゃと思っていたが、
彼と一緒に居るうちに、私はその話を信じるようになっていった。

「僕は病気だからだね」と彼はよく言っていた。
病気という言葉には何かしらの説得力があった。
ちなみに、私は当時、どちらかというと科学っコだったのだが、だからこそ彼の存在は面白かった。

「五つ角の幽霊の真相を暴きに行かないか?」
六月半ばを過ぎた、ある雨の日のことだった。
HRが終わり下校の時間。
私は帰ろうとしていたくらげにそう切り出した。
ちなみに、二人共帰宅部だった。
くらげは私を見て、窓の向こうの雨空を見て、少しだけ面倒くさそうな顔をした。
彼はあまり積極的なノリのいいタイプでは無かった。
普段も一人ぼんやりしていることが多く、表情も乏しい。その点でも、海に漂うくらげのような人物だった。
「いいよ。って言うまで、帰らしてくれないんでしょ」
外を見つめたまま彼は言った。
私は肯定の意味でにっと笑って見せた。
くらげとは小学六年からの付き合いだが、お互いのことはもう大体分かっている。

一端荷物を置きに自宅に帰り、制服のまま傘だけ持って家を出た。
集合場所は、街を北と南を分ける仏と名のつく川に架かった、地蔵と名のつく赤い橋。
くらげは南側の山の方に住んでいた。
五つ角も南の住宅街にあるのだから、くらげが橋まで来る必要はなかったのだが、
私たちが一緒に行動する時、待ち合わせはいつもここだった。

私が行くと、くらげは先に橋で待っていた。彼は私服に着替えていた。
連日の雨で川の水は茶色く濁り増水していた。
「くらげは、五つ角の幽霊、見たことあったりする?」
「あるけど」
私が尋ねると、くらげは平然と答えた。
彼が見たことがあるということは、少なくともガセではなく、男の霊は存在するということだ。
私たちは並んで、目的の五つ角に向かって歩きだしていた。
「どんなんだった?」
「人だった。手招きしてた」
「それは知ってる」と私が言うと、
「後は分からないよ。近くで見たわけじゃないから」とのこと。
「それなら、普通の人間かも知れないじゃないか」
疑問を口にすると、くらげは『それは違う』と首を横に振った。
「水死体って、見たことある?」
今度は私が首を横に振る番だった。
実際に見たことは無いが、水難事故で死んだ人間がどうなるか、その知識はあった。
「そんな感じだった」
くらげはそう言った後、軽く欠伸をした。
私はぶくぶくに膨れた人間が手招きしている姿を想像して、唾を呑みこんだ。





173:くらげシリーズ「五つ角」2:2014/06/26(木) 16:19:48 ID:TrdgkZJA0

五つ角は、南地区の簡素な住宅街の外れにあった。
車一台がやっと通れるほどの細い道で、
周りの塀が異様に高く、こちらに倒れて来そうな圧迫感があった。
前方数メートル先に、四方に伸びる曲がり角と、マンホールのふたがあった。
時刻は四時半頃だっただろうか。
私の見たところ、マンホールの付近には誰も居なかった。

「……夕刻って何時だろうな」
「日暮れ時じゃない?」
「今日は太陽出てないぞ」
「じゃあ暗くなったらだよ。きっと」
地面は水浸しで座ることも出来ないので、私たちは立ったまま五つ角の幽霊の出現を待った。

くらげと一緒に居ると、私も時々妙なモノを見ることがあった。
それは薄っすら人の形をしていたり、浮遊する青白い光の筋だったりしたが、
くらげにはもっとはっきり見えている様だった。
「この病気は感染するんだって」
くらげの説明によると、私は感染したらしい。
「治したかったら、僕に近づかないこと。そしたら自然に治るから」とも言った。

見てはいけないものを見る。
背筋がぞくぞくするその体験は、非常に怖くもあり、芯から楽しくもあった。

くらげと他愛もない話をしながら、三十分程たった時だった。急に雨脚が強まった。
雲が厚くなったのか、辺りは少し暗くなっていた。
ばたばたばた、と雨粒が音を立てて傘を揺する。
私は地蔵橋の下の水位を思い出した。まだまだ大丈夫だろうが、早めに帰った方がいいかもしれない。
そんなことをふと思う。
服の上からでも分かるひやりと冷たい手が、私の肩を掴んだ。
あまりの冷たさにびっくりしながら横を見ると、くらげが人差し指でゆっくりとある方向を指し示した。
つられるようにそちらを見やる。
軽く息を呑みこむ。

土砂降りのカーテンの向こうに何かが居た。
ピントのずれた映像のようにその姿はぼんやりとしていて、はっきりと見ることができない。
ただ、人だった。
頭があり、二本ずつの手足がある。
その右手と思われる部分が、ユラユラと上下に動いていた。
噂通りだ。
「手招きしてるね。……もっと近づいてみようか?」
くらげが私に尋ねた。
私はくらげを見返した。彼の表情はまるで読めない。

そろそろ門限だから。
これ以上川が増水して橋が渡れなくなったら困るから。
もし噂の通りだとすれば危険だから。
怖いから。
断る理由はいくらでもあった。

しかし、私は頷いた。
二人でそいつの方に近づいた。
一歩ごとに、今まではぼんやりとしていた輪郭が、少しずつではあるが鮮明になってくる。
やはり人間だった。
ぶくぶくと太った人間。背が高い。正直、男か女かは分からなかった。
手招きしている。
その手の届く三~四歩前で私は止まった。
横でくらげが何か呟いたが、雨の音で聞こえなかった。

くらげは止まらなかった。
止める暇もなかった。彼はそいつの目の前まで歩み寄った。
雨の音が消えたような気がした。
代わりに自分の心臓の音がやけにはっきり聞こえた。
マンホールがずるずると開いて、くらげが中に吸い込まれる。
一瞬そんな想像をしたが、重さ数十キロはあるだろう鉄製の蓋はピクリとも動かなかった。
何も起きなかった。
そんな中くらげは、自分の左手に持っていた傘をそいつの頭上に掲げた。
傘をさしてあげているのだ。
途端にくらげは雨に打たれて水浸しになった。
しかし、そんなことはまるでお構いなしに、彼はそいつをじっと見つめていた。
それだけだった。後は何も起こらなかった。

「ああ。それはすみません」
唐突にくらげが言った。
そうして傘を自分の頭上にさし直すと、くるりと私の方に向き直った。
「帰ろう」
そう一言。
返事も待たずに彼は歩きだした。私の前を通り越してどんどん進んで行く。
「……おい待てよ」
はっとした私は、慌ててその背中を追いかけた。
その際、一度振り返ったが、そいつは跡かたもなく消えていて、あるのは雨にぬれるマンホールだけだった。
私たちは黙って歩いた。
頭の芯が熱くて、心臓の音がまだ微かに聞こえていたが、しばらく歩くとそれらは収まった。


174:くらげシリーズ「五つ角」3:2014/06/26(木) 16:21:04 ID:TrdgkZJA0

くらげは地蔵橋までついてきた。見送りのつもりなのだ。
心配していた水嵩も大して変わっていなかった。
私たちはいつもここで待ち合わせし、いつもここでさよならする。
私は橋の入り口で立ち止まった。
くらげも同じように立ち止まったのを見て、私は口を開いた。
「……結局、うそっぱちだったな」
私の自己満足の言葉に、くらげは首を傾げた。

私は事前に調べていたのだ。
あのマンホールに落ちて死んだ人間は確かにいた。
それは、十年ほど前に下水の改修工事をしていた作業員だった。
突然の雨に流され、発見されたのは幾日か経った後、数キロ先の海だった。
それ以来、あのマンホールに落ちて死んだ者はいない。
事故もない。
つまり噂の後半、『近寄ったら下水に引きずり込まれる』はデタラメなのだ。
だから近づけた。
危険じゃないと知っていたから。

「で。あいつ、何て言ってたんだ?」
私はくらげに気になっていたことを聞いてみた。
すると彼は、胸の前でしっしとハエを払うような動作をした。
一瞬馬鹿にされているのかと思ったが、そうではなかった。
「『帰れ』 だと思うよ。口の動きだけだったから、分かりにくかったけど」
くらげは、あいつの口の動きをよく見るために傘をさしてあげたのだ。
そしてなるほど。手招きじゃなくて、あっちへ行け、か。
やはり、都市伝説なんてばからしいものだ。
可笑しくなった私が「ははは」と笑うと、彼が不思議そうにこちらを見た。
雨が少し弱くなっていた。
空を見上げて、明日は晴れるといいなと思う。

「じゃあ、また明日な」
私がそう言うと、くらげは黙って頷き、背を向けて山の方へと歩きだした。
私はふと、彼の服が未だびしょ濡れなことに気がつく。
「おーいくらげ。風邪をひくなよ。シャワーだけじゃなくて風呂につかれよ」
くらげが振り返った。
滅多に動かない彼の眉毛が、困った様に八の字になっている。
「……そうするよ」
しぶしぶと言った声だった。
「風呂は嫌いなんだけどなぁ……。あいつら、刺すからさ」
そう言い残して、彼はまた背を向け歩きだした。
私も帰ることにした。
彼とは反対方向に歩きながら、体育の時間で見たあの発疹だらけの身体を思い出し、改めて思う。
やっぱり、変わったやつだよなぁ。
そして私はまた笑った。


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