サイケデリック・奇譚

永遠の日常は非日常。

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師匠シリーズ

407 :雲 後編◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:25:48.72 ID:kIaSDyGu0
外は雨だ。額に、顔に、大粒の雫がかかる。
雨脚はさほど強くないが、空を見上げようとしても、なかなか目を開けられない。
それ以前に、真っ暗な空にはどれほど目を凝らそうとも何も見えなかった。
目を細めていた師匠が「くそっ」と短く叫ぶと、家の中に取って返した。
一分と経たずに飛び出してきたその手には、車の鍵が握られていた。
「来い」
師匠は僕にそう言うと、駐車場へと駆け出す。
「こんな雨の中、どこ行くんです」
僕は追いかけながら叫ぶ。
心臓がドクドク言っている。
さっきまでの穏やかな時間はどこに行った?ていうか、返事は?

エンジンが掛かる音を聞きながら助手席に飛び乗る。
「傘も何も持って来てないですよ」
運転席の師匠に訴えるが、師匠は親指で後部座席の方を示し、
「合羽と傘は常備品だ」と言って車を急発進させた。
フロントを叩く雨粒を跳ね飛ばしながら、ボロ軽四は住宅街をありえない速度で走る。
急ハンドルを切っている間に電信柱が迫るのが見えて思わず仰け反った。
「な、ちょ、な……」
何か喋ろうとすると、舌を噛みそうになる。
これほど乱暴な運転は珍しい。どうして師匠はこんなに焦っているんだ?
幹線道路に出て、さらにスピードが上がる。
しかし右へ左へという横へのGがなくなったので、ようやく一息ついた僕は
「なんなんですか。どこに行くんです」と訊いた。
「通ったんだよ!」
師匠がハンドルにしがみつきながら叫ぶ。

ゾクリとした。
通った。そうだ。さっきの、室内が一瞬暗くなる現象。
あれは、何かが通ったのだ。
雨雲で覆われた上空を、巨大な何かが。まるで無いはずの光源を遮るかのように。
ぞわぞわと肌が浮き立つ。
何度も経験した小さな怪異とは、全く違う。
いつもの日常とほんの少しだけずれた不思議な出来事なら、これほど師匠が取り乱すことはない。
そんなものと比較にならない。人知の及ばない、何か。

僕は雨だれが車の屋根を打つ音に聞き耳を立てる。
「どこへ行くんです」
もう一度その問いを投げかけると、「山」という短い答え。
「なぜです」としつこく訊くと、うるさいな、という感じで
師匠は「ここに居たんじゃ、よく見えないからだ」と言った。





408 :雲 後編◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:28:16.09 ID:kIaSDyGu0
「山の方は、風下だ。降り始めてからまだたいして経ってない。雨雲がまだ到達してない可能性が高い」
雨雲が到達していなかったら、なんだと言うんだ。
重ねてそう訊ねようとして、その前に答えに思い当たった。
見たいのだ。師匠は。
一体何が上空で起こっているのか。あるいは、空の下の街で、今何が起こっているのか。
そして車線変更をした瞬間、数日前に登ったばかりの山に向かっていることに気づく。
師匠がせんせいと呼ぶ、雲消し名人のいる山にだ。

車が山道に入る手前で、雨脚が急に弱まりやがて完全に止んでしまった。
雨雲の先端を抜けたのだ。
水気を失ったワイパーが耳障りの悪い音を立てる。
くねくねと曲がりくねる山道をガードレールすれすれで登り続け、前回の登山口に差し掛かったが
止まらずに通り過ぎた。
道は悪くなったが、まだ車で先へ行けるようだ。

途中、師匠がふいに口を開いた。
「お前、気づかなかったか」
「何にです」
「雲だよ。雲。空に、変な雲が浮かんでたろ」
「変な雲?」
いつのことだろう。そう思って訊いてみると、師匠は「このところずっとだ」と吐き捨てるように言った。
「ドーナツみたいな形の雲だ」
何故かゾクッとした。
確かに見ている。最近、何度か。
しかしそんな食べ物に似た形の雲なんて、
お腹が空いていたら何でもそう見えるってだけのことじゃないのか。
「ずっと見たか」
「え?」
「そのドーナツ雲をずっと見てたか」
「ずっとは、見てないです」
そう答えた僕に、師匠は奇妙なことを言った。
「穴の位置が変わっていない」

見続けていたら分かることだ。
師匠は険しい顔のままで言う。
「楕円形に近い形の大きめの積雲が、風に流されている間に、急に先端が凹むんだよ。
その凹みが内側に入り込んで来て、先端がまた雲で塞がる。それで穴が出来るんだ。
雲はドーナツに似た形になる。
穴の位置はどんどん風上の方へ移動していく。雲が動いていくのに、穴の絶対位置が変わらないからだ」



409 :雲 後編◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:31:14.76 ID:kIaSDyGu0
穴の位置が変わらない?どういうことだ。
雲は風に乗って流れて行く。
空全体が流れて行く中で、絶対位置というものが意味するものを考える。

その時、頭の中に奇怪な想像が浮かんだ。
そんな、馬鹿な。ありえない。
思わず口に手を当てていた。
流れる空における絶対位置とは、地上の位置のことだ。
地上の同じ地点の上空に、雲の穴が出来ている。そこから導き出される絵が……

脳裏に瞬く前に、師匠が車を止めた。
「行くぞ」
「ちょっと待って下さい」
僕は後部座席にあるはずの傘と合羽を探したが、見つからなかった。常備品が聞いて呆れる。
師匠は平然とドアを開けて外に出た。
慌てて僕も飛び出して、追いかける。
雨は降っていないが、あたりは真っ暗だ。
車から持ち出した懐中電灯で前方を照らしながら師匠が早足に進む。
行き止まりに見えた舗装道から、奥の藪を抜けると前回歩いた覚えのある山道に出た。
かなりショートカット出来ている。
その道を二人で急ぐ。もちろん登る方へだ。
足元が良く見えない分、ガサガサという下生えの感触が気持ち悪い。
蛇の尻尾を踏んでしまっても分からないだろう。
そうして十分かそこらは歩いただろうか。
『ここから先、私有地』という立て札が懐中電灯の明かりに浮かび上がったが、
その枝道には入らず、僕らは先へ進んだ。

やがて道が開け、左側が崖になっている場所に出る。
街が一望できる絶景だ。
崖の側まで近づくと、遠くの地上に小さな星のような光が微かに輝いているのが見える。街の明かりだった。
崖の手前の平らな岩の上に、立っている人影がある。
「せんせい」
師匠が呼びかける。するとその修験者姿の老人が振り向いた。
「何をしに来た、わた雲」
声が嗄れていた。
口にした瞬間、ゴホゴホと咳き込む。
「あ……」
そんな老人が屈む姿にも目を向けず、師匠は真っ直ぐ前を見て絶句し、呆然と立ち尽くした。
空が。
真っ暗な空がある。



410 :雲 後編◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:32:57.75 ID:kIaSDyGu0
暗さに慣れた僕らの目には、そこに浮かぶ巨大な入道雲の姿がかろうじて捉えられる。
闇と同化する夜の雲の群の中に、その雄大な輪郭がわずかに浮かび上がっている。
山の上の雲の切れ間から覗く微かな月光のためだった。
入道雲の底は、明かりもまばらな街の上空を覆っている。巨大な蓋のように。
その雲の底から、異様なものが突き出ていた。

「手……手だ……」
思わず僕は呻くように呟いた。
声が震えた。目を細めてもっとよく見ようとする。
手だ。
巨人の手が、漆黒の入道雲の底から出ている。
いや、雲だ。あれも。
巨大な手のように見える形の奇怪な雲。
長い棒と、少し膨らんだ手のひら、指。肘から上の部分が下向きに伸びている。
この距離からでも分かる。
夜の暗さに混ざり合いながら、密度の違う黒が、そんな形をしているのが。

「じじい、あれはなんだ」
師匠が前方を見据えながら、前回のようなどこか柔らかい物腰を取り払って、鋭い口調で問い質した。
「……雲だ」
「本当に雲か」
老人は小刻みに震えながら小さく頷く。
「び……尾流雲だ……いや、違う。違う。形は近いが、あれは、あれは……馬鹿な。あんな形の……」
「おい、じじい。なんだ。はっきりしろ。あれはなんだ」
師匠が詰め寄って老人の方を揺する。
「ろうと」
「なに?」
「ろ……漏斗雲だ……!」
「漏斗雲って、竜巻になるやつか?」
師匠はそう言って崖の方を振り返った。
僕も岩の先に近づき、限界まで身を乗り出す。

全神経を集中して目を凝らすと、雲の底から伸びる手の先が少し見えた。
腕の部分は筒状になっている。
そしてその先は何本かに分かれていて、まるでそれが指のように見える。
何かを掴もうとしているみたいに広がって、地上に降下しようとしていた。
「漏斗雲って確か、積乱雲とかの底から降りてきて、地面に降りたら竜巻になるやつだな。
あんなでかいのか」



411 :雲 後編◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:35:20.00 ID:kIaSDyGu0
師匠が問い掛けると、老人はいきなり「ええええい」と叫んだ。
そして両腕をいっぱいに突き出し、「消えろ」と喚く。
雲消しだ。
だが前回見た時より、なにか違う。
腰を落とし、右手と左手を交互に突き出し。その両手が交差する瞬間に、なにかの印を結ぶ。
そして一定のリズムで両手の押し引きを繰り返し始めた。
「あんな、指みたいな形になることがあるのかって、聞いてるんだ」
師匠が怒鳴るが、全く耳に入っていない様子で、老人は雲消しの動きを繰り返している。
あんな巨大な雲が消せるのか。
師匠は種明かしをしていたじゃないか。
消せるのは、いや、正確に言うと、消えるのは消滅しかけの小さな積雲だけだと。

僕は立ち尽くし、呆然と目の前に広がる信じ難い光景を見ていた。
闇の中に異様な密度を持って浮かんでいる巨大な入道雲。
真っ黒なその姿は何とも言い難いような禍々しさを秘めていた。
中国の古い物語を読んでいると、
『不吉な雲気』が空にあるのをみて、凶兆だとする話がよくあったことを思い出した。
不吉な雲気とはどんなんだろうと思っていたが、
もしそんなものが本当にあるのなら、目の前のこれがそうだろうという確信に似た思いが浮かぶ。
「ふざけるな」
師匠が誰にともなく吼える。
頬を震わせ、両手を強く握り締めている。
「やめろ……やめろ!」
そしてその視線の先には恐ろしい巨人の手が。

巨人の手?
その時、僕の脳裏に光が走った。
この山上に登る途中で浮かび掛けたイメージが、再来したのだ。
ドーナツ型の雲。
その穴。
穴の位置は変わらない。風に流れる雲に逆らって、穴の位置だけが。
地上の同じ地点の上空に、必ず穴がある。
見えてくる。
見えてきた。
イメージが勝手に、透明なものの、ありえないはずの輪郭を絵取っている。
巨人だった。
目に見えない、巨大な人型のなにかが、じっとそこに立っている。
円筒のように雲を刳り貫いて。そして雲はドーナツの形になる。
見えない巨人は途方もなく大きい。
遥か上空にある雲を突き抜けている。一体どれほどの大きさなのか想像もつかない。



413 :雲 後編◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:39:42.77 ID:kIaSDyGu0
巨人。巨人……
僕は身体の芯が震えた。
そんなものが存在するはずがない。
師匠がこのあいだ巨人について調べていたことが、なにかの予兆のようなものだったのか。

「やめろ」
師匠が食い破ろうとするような目付きで、目の前のありえない光景に身を乗り出す。
真っ黒な雲の底から伸びる手が、
渦を巻きながら同時にその指先を幾本も地上に垂らそうとしている。
あれが地上に落ちたら、竜巻が発生するというのか。
鈍重な雲の下にいる人々は、その迫る危機に気づかず、眠っているのだろうか。
惨事の予感が身体を貫く。
恐怖が押し寄せてくる。
こんなことがあっていいのか。ガチガチと歯の根が合わない。
ただの自然現象ではないことは直感で分かる。
では、自然現象ではない自然現象とは、一体なんだ? 
一体なにものにこんなことが起こせるというのか。
その時、ハッと気づいた。
指の先にばかり目を奪われていたが、その上部にある腕の部分はなんなのだ。
もし。もし、あの指がすべて地上に落ち、竜巻を無差別に発生させたとしても、それで終わるのか?
指が地上に落ちた後、腕がそのまま降下したとしたら……
とてつもない大きさだ。
あれが、竜巻になるのか。
うそだろ。
想像しただけで、目の前が真っ暗になった。
師匠を振り返る。
しかし同じ格好のまま、立ち尽くしているだけだ。

どんな心霊現象にあっても、師匠ならなんとかしてくれる。そんな幻想を抱いていた。
でも、こんな、こんなものは。どうしようもないじゃないか!
目の前で起こる異常な現象をここで見ていることしかできない。
僕らは日常の隣にある不思議な世界を何度も見てきた。
それは日常のほんのちょっとしか隙間から覗くことができたし、時には日常に影響を及ぼすこともあった。
だがそれは僕たちに違和感を、恐怖を抱かせるだけの現象に過ぎなかった。
しかし、今目の前で起ころうとしていることは、
日常とそういう世界の間の境界線が破れてしまうことに他ならなかった。

「えええええい! ええええええええい!」
老人が一心不乱に雲を消そうとしている。



414 :雲 後編◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:40:56.18 ID:kIaSDyGu0
ぽつり、と僕の額に雨の粒が落ちた。雨雲が移動して来たのだ。
街なかを濡らしていた雨雲が、風に乗ってここまで。
ぽつ、ぽつ、と雨が岩の上に落ちる音が聞えてくる。
傍観者だった。
僕は無力で、見ていることしかできなかった。恐怖に身体を縛られながら。
思わずその場にへたり込んだ。
岩の冷たさが、尻のあたりに伝わってくる。

や…… め…… ろ……

師匠は押し殺した声でそう言うのを隣で僕は聞いていた。

その時だ。
僕の中に別の感情がふいに浮かんできた。
なんだこれは。
一瞬、周囲の音が消える。
真っ暗な描画の世界で、僕の中に浮かんだ感情の正体を見つめようとする。
しかし厚いベールの奥にあったのは、恐怖だった。
恐怖に支配された身体の中に、さらに恐怖が潜んでいた。





一音節ずつの言葉を聞きながら、別の種類の恐怖がだんだんと大きくなって行く。
それは目の前の異常現象に対するものよりも、大きくなりつつあった。
首の中に無数の鉄の欠片が混ざり込んだように、ギシギシと音を立てている気がする。
僕は、すぐ隣を振り向けなくなっていた。すぐ隣に立っているはずの人を。
雨が強くなり始めた。
髪に、額に、肩に雨粒が落ちてくる。
影の群。闇に浮かぶ顔。声だけの死者…… どんな心霊現象にも、対応してきた。
解決し、消滅させ、時に逃走し、けっして負けなかった。
しかし。
だめだ。
これだけはだめだ。
これだけは止めてはだめだ。



416 :雲 後編◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:43:50.40 ID:kIaSDyGu0
僕は自分の中に育ち始めたその別種の恐怖を抑えながら、声にならない声をあげる。
背後からは老人の掛け声がいやに空疎に響いてくる。
さっきまで目の前の異常な自然現象に、止まってくれという無力な念を送っていた僕の思考が、
完全に反転した。

止まるな。
止まるな!

ガタガタと膝が震える。たった二メートル隣が振り向けない。
その僕の視界の端に、微かな光の粒子が見えた気がした。


どれくらい時間が経っただろうか。
全身を大きな雨粒が叩いている。周囲はますます暗くなり、視界が利かなくなった。空に稲光が走る。
その瞬間、老人が動きを止め、僕のすぐ横に顔を突き出した。
「消えおった」
そう言って絶句する。
驚いて僕も雨雲の彼方に目を凝らすが、もう何も見えない。
すべてが漆黒の海に沈んでしまったかのようだ。
「消えた」
師匠も僕のすぐ前に足を踏み出し、上気した声をあげる。
「風だ。雨雲が流されて、途切れたんだ」
目を見開いて僕を振り返る。
濡れた髪が額に張り付いているけれど、いつもの師匠だった。
僕も立ち上がった。

そうか。
今いる山の方角が風下だ。
雨雲がこちらへ到達して、街の方はあの巨大な入道雲、つまり積乱雲の下から逃れたんだ。
だが、あの奇怪な現象までがこちらにやって来るわけではない。
それが直感で分かる。
なぜなら、何度も見たドーナツ雲の穴は地上から見たその位置が固定されていたからだ。
『あれ』は多分、そこを動けない。
そして雲にしか影響を与えられない。
雲さえ途切れてしまえば、何も出来ない。
それも、普通の積雲ならその位置にいくらあっても無力だ。
元々竜巻を起こすポテンシャルを持った積乱雲があって、
初めて地上に破壊的な力を及ぼすことが出来るのだ。 なぜかそれが分かる。



417 :雲  後編 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2013/09/06(金) 22:44:40.24 ID:kIaSDyGu0
人知を超えた力で捻じ曲げられた気流が、雲が、その力から逃れたのだった。
「消したぞ。わた雲。どうだ」
老人が両手を振り回しながら喚く。
その時、稲妻が走り、光で空が切り裂かれた。直後に轟音が響く。
「まずいな。雷雨だ」
師匠はそう言って、老人の肩を抱えた。
「せんせい、山小屋に非難しましょう」
「わしが消したのだ!」
老人は上ずった声でそう繰り返した。
「行くぞ」
師匠は僕に目配せすると、口に懐中電灯を咥え、老人を半ば引きずるようにして山を降り始めた。

僕は岩を降りる時に足を滑らせてしまい、尻餅をついた。
師匠の持つ懐中電灯の光が遠ざかりつつあるのに焦り、慌てて立ち上がる。
ますます雨が強くなる山道を恐る恐る降りて行く。
僕は一度だけ背後を振り返った。
視界がなくなり、もう地上の光も何一つ見えない。
その上空にあった入道雲も。あの手のような形のものも。
ただ、僕の頭は想像している。
雨雲の彼方にそびえ立つ、とてつもなく巨大な人影を。
それは透明で、けっして目には見えない。

しかし、顔の位置にある、何もない空間がこちらを向いている。
それが今、僕らのことを見ている。
その凍るような視線を背中に感じながら、僕は縮こまりそうな足の筋肉を叱咤し、師匠の後を追い掛けた。


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師匠シリーズ

386 :雲 前編◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 22:56:46.20 ID:1HZDzmsI0
師匠から聞いた話だ。


大学二回生の夏だった。
ある時期、加奈子さんという僕のオカルト道の師匠が、空を見上げながら
ぼんやりとしていることが多くなった。
僕の運転する自転車の後輪に乗り、あっちに行けだのそっちに行けだのと、
王侯貴族のような振る舞いをしていたかと思うと、
ふいに喋らなくなったので、そうっと背後を窺うと、顔を上げて空をじっと見ていた。
「なにか面白いものがありますか」と訊くと、
「……うん」とは答えるが、うわの空というやつだった。
僕も自転車を止め、空を見上げてみたが、
雲がいくつか浮かんでいるだけで特に何の変哲もない良い天気だった。
その雲のうちの一つがドーナツのように見えたので、ふいに食べたくなり「ミスドに行きませんか」と訊くと、
やはり「……うん」とうわの空のままだった。
連れて行くとドーナツを三つ食べたが、やはりどこか様子がおかしかった気がする。


そんなことが続き、何か変だと思いながらも特に気にもしていなかったある日、
師匠が「面白い人に会わせてやろう」と言いだした。
この師匠は妙な人間に知り合いが多く、僕にもその交友関係の全貌は把握しきれていない。
大学教授や刑事、資産家など一部にまともな人もいるが、その多くが奇人変人のたぐいだった。
もちろん奇人の大学教授や変人の資産家もいたので、ようするに多種多様だったということだ。
その時会わせてもらった人は、その中でもトップクラスの人物と言える。
何しろ、プライベートで修験者の格好をしているのだ。
もちろん修験者ではないのに。
そのうえ頬と顎には何十年ものなのかというほどの髭を生やしたい放題に生やし、
日焼けした顔には皺が幾重にも深く刻まれている。
確実にレストランには入れないタイプの人だった。

とにかくその日、僕は師匠に連れられて山に登った。
わりと近く、高さもそれなりで頂上まで登ると市内を一望できる山だ。
普通なら市民の絶好のハイキングコースになりそうだが、
途中道が険しいところがあり、そのせいかあまり人気がないようだった。
頂上まであと少しというところで、師匠はふいに現れた枝道の方へ入った。
すぐ脇に『ここから先、私有地』という立て札が朽ち果てた姿を晒している。





387 :雲 前編◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 22:59:47.48 ID:1HZDzmsI0
私有地と言うからには植林でもしているのかと思えば、
杉やヒノキの類はろくに生えておらず、竹や名前も知らない潅木が鬱蒼としているばかりだった。
その道の先に小屋のようなものが見えてきた時には、
まさか、と思ったが、
師匠はその小屋に歩み寄ると、「せんせい、いるか」と声を掛けたのだ。
こんなところに住んでいる人がいるのか、と思って唖然とした。
生活用品を買おうと思ったら、そのたびにこの山を登り降りするのか?
その生活を思うと、まともな人ではないのは確かだった。
もっとも別荘なのかも知れない。こんなボロボロの山小屋を別荘にする人の気も知れないが。

「わたしがきたよ!せんせい」と師匠は大きな声で呼びかけたが返事はない。
玄関の扉にはドラム式の鍵が掛かっていた。
師匠は小屋の周囲をぐるぐると回り、
中の様子を伺っていたが、どうやら留守らしいと判断したのか、もときた道を戻り始めた。
下るのかと思ったが、
枝道の所まで戻ると、また頂上の方へ登り始める。
そうして少し歩くと、潅木の藪が開けた場所に出た。
とても見晴らしが良い。
頂上はまだ先だが、十分市内をパノラマで見下ろすことが出来る。
切り立った崖になっている場所の突端に
大きな平たい岩があり、その上に薄汚れた白っぽい服を着ている人物が座っているのが見えた。
「せんせい、やっぱりここか」
師匠は親しげに呼びかけながら近づいていく。
僕もくっついて行って、間近に見たその人物がくだんの修験者風の老人だった。

あ、別荘じゃなくて、住んでる人だ。
見た瞬間にそう思った。
「なんだ、わた雲か」
老人は落ち窪んだ目でうっそりとこちらを向いた。
鈴懸と呼ばれる上衣、袴に足元は脚絆。
これで法螺貝でも持てば完全に山伏なのだが、生憎手に持っているのはコップ酒だった。
「お前は実に可愛げのない弟子だ」
そう言って髭の奥の口をもぐもぐとさせる。
「なにか持って来たか」
「はい」
師匠は僕に向かって顎をしゃくってみせる。
慌てて背負っていたリュックサックからさっき買ったばかりのいいちこを取り出す。
それもパックの徳用のやつだ。



388 :雲 前編◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:03:09.87 ID:1HZDzmsI0
恐る恐る差し出した僕の手からひったくるようにして奪い取ると、
老人はその麦焼酎の蓋を開け、口をつけて飲み始めた。
ストレートか。
昼間からなにやってるんだこの人は。

あっけに取られて見ている僕に、老人はじっとりした視線をくれた。
「こいつはなんだ」
「わたしの弟子ですよ。先生の孫弟子です」
「ほう」
老人はいいちこをあおりながら髭に滴る液体を拭きもせず、僕を睨みつける。
「ならば、見せてやらねばならんの」
「是非お願いします」
孫弟子?
思わずうろたえたが、老人は酒臭い息を吐きながらのそりと腰を上げ、
いいちこのパックを置いてからこちらを振り向く。
「名前は」
「まだありません。是非付けて下さい」
師匠がそう言うと、「ふむ」と唸って髭をさすりながら、老人は僕に『肋骨』という名前を授けた。
なにがなんだか分からない。
「よし。よおく見ておれ」
老人は平らな岩の上で立ち上がったまま、空の一点を指差した。

雲?
その指の先には一片の小さな雲があった。
そして見ている僕らの前で老人は両手を空に突き出した。
そしてなにか目に見えない力でも飛ばそうとするかのように、その手を何度も突き出したり引いたりし始めた。
手のひらは開かれ、顔は下からねめつける様に雲を睨んでいる。
ええい。えええい。
髭の下の口から、凄みのある掛け声が響いてくる。
あ、これは。と、僕は思った。
どこかで見たことのある光景だ。
老人が気だか念力だかを送っている雲が、だんだんと小さくなり始めた。
雲消し名人か。
そんな人をテレビで見たことがある。まさか生で見られるとは。
笑ってはいけないと思いながらも、喉から鼻の奥にかけて自然に空気が噴き出しつつある。
えええええい。
余韻に浸るように両手がぶるぶると震え、その遥か彼方で雲は見事に消えた。



389 :雲 前編◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:05:46.32 ID:1HZDzmsI0
どんな編集をしているのか分からないテレビ番組とは違う。実際に目の前で雲は消えた。
笑いは引っ込まなかったが、驚いた気持ちも確かにあった。
「さすがですね、せんせい」
師匠が拍手をする。
さらに岩の上に上がり、老人の横に並ぶと、「わたしもやっていいですか」と言って腕まくりをした。
「じゃ、あれで」
そう言ってさっきと似たような雲を指さした。
老人はその雲と師匠を交互に見ながら、「お前は実に可愛げのない弟子だ」と言った。
けれど満足げに頷くと、自分は別の雲を指さし、えええい、と両手を前に突き出した。
師匠もその横で、目標に定めた雲に向かって両手を突き出す。
はたから見ていると、一体何の儀式か、と思うような動きを二人とも繰り返している。
表情は真剣なのだが、どこか楽しそうだ。

ええい。
えいやあ。
えええい。
なんの。
おおりゃあ。
ぼけおらあ。
どりゃあ。
ぼけこらあ。
なにがこらあ。
たここらあ。
……

掛け声もだんだんとエキサイトして来る。
そのエキサイトぶりに比例して雲は薄くなっていく。
そして両者の標的は、五分ほどもすると完全に空から消えてしまった。
「恐れ入りました」
師匠が頭を下げる。
わずかの差だったが、老人の雲の方が先に消えたようだ。
「やるのう、わた雲」
足元に置いてあったいいちこをひとあおりして、老人は僕の方を見た。
「肋骨もやれい」
こうだ。
老人は肩で息をしながら、また次の雲に狙いを定めて両手を空に伸ばした。



390 :雲 前編◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:09:39.11 ID:1HZDzmsI0
師匠も楽しそうに空を眺めながら、僕にも「さあ雲を選べ」と言う。
なんだか自分にも出来そうな気がして、輪郭のくっきりしたハンバーグに似た形の雲を選び、
「あれでやってみます」と言って念をこめた。
五分後、どれほど念を送っても僕の選んだ雲は小さくなるどころかむしろ大きくなっていた。
老人と師匠の雲はまたキレイさっぱり消えてしまったというのに。

「全然駄目だ」
老人は僕の姿勢を矯正し始める。
足の位置、手の形、そして目つき……
どれだけ教わっても、僕の雲は一向に消えなかった。
師匠が含み笑いをしている。
たっぷり一時間ほどそうして特訓をした後、なんとか一つの雲を消すことに成功した。
変な感動があり、胸が熱くなった。
「ありがとうございました」
「うむ」
老人は仙人のような髭をしごきながらひとしきり頷くと、
腰を下ろしていいちこを飲み始める。

それから三人で座り込み、山上から見える景色をぼんやりと眺めていた。
見上げれば空には様々な形の雲が浮かんでいる。
見下ろせば眼下に市街地の雑多な景観が遠く広がっている。
なんだか妙に穏やかな時間だった。
小一時間、大の大人が一生懸命雲を消して疲れ果てている。
お金は掛からないし、誰も傷つけない。
そして誰も得をしない。
いつの間にか胡坐をかいたまま老人は居眠りを始めている。
この奇人変人の鑑のような人物を横目で見ながら、
僕は改めて師匠の交友関係の意味不明さに感慨深い思いを抱いていた。


その師匠が欠伸をしながら立ち上がった。
少し遅れて船を漕いでいた老人が顔を上げる。
「せんせい、帰るよ」
「そうかね」
老人は少し残念そうに言った。
そして肋骨をちゃんと教えてやれと注文をつけた。師匠は分かりましたと頷く。
「あ、それから」と師匠が姿勢を正して老人の顔を見つめる。
そうしてしばらく何も言い出さなかった。
「なんだ」
痺れを切らして老人の方から訊ねる。



391 :雲 前編◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:13:15.54 ID:1HZDzmsI0
師匠はようやく口を開いた。
「せんせいは、この街で誰よりもたくさん空を見てますよね」
その問い掛けに、当然だと言わんばかりに老人は無言で大きく頷く。
「だったら」
師匠は軽い口調で続けた。
いや、軽い口調を装って、そして装い切れずにいた。
僕は何故かそれが分かり、前触れもなくゾクリと肌が粟立った。
「だったら、最近、空がどこかおかしいと思いませんか」

老人の目つきが変わった。
眉間に皺が寄り、眼の奥に火が灯ったかのようだった。
「言うな、わた雲」
「例えば、あの」
「言うな」
鋭い口調で老人は言い捨てた。
空の向こうを指差そうとしていた手を、師匠は静かに下ろす。
老人の身体が微かに震えている。
アルコールのためではない。その身体から漏れ出る怯えの色を僕は確かに感じていた。
「また来ます」
師匠はゆっくりとそう言うと、僕に『帰ろう』と合図をした。
しかし僕は得体の知れない畏怖に身体が貫かれている。
下ろしたばかりの師匠の指先が残像となって、脳裏に蘇る。
その先には空にゆったりと浮かぶ、大きな雲があった。
ドーナツの形に似ていた。


帰り道、師匠は種明かしをしてくれた。雲消しの種だ。
「消せるのは積雲なんだよ」
それも発達し切れなくて消滅しかかってるやつを選ぶんだ、と言う。
説明してくれたことによると、積雲というやつはもっともポピュラーな雲で、比較的低層に出来るのだそうだ。
大気中の水蒸気が凝結し、雲になる高度を凝結高度というらしいが、
上昇気流により、その高度を越えた雲粒たちが順に目視できる雲になっていく。
だから何もない空に急に雲が発生したように見える。
さらに上昇気流が続くと、下から押し出されるトコロテンのように
次々と凝結高度を越えていく水蒸気によって、積雲は上方へと成長していく。



392 :雲 前編◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:15:09.51 ID:1HZDzmsI0
成長が続くと雄大積雲や積乱雲という雲になっていくのだが、
多くは上昇して来る湿度の高い空気の塊が途絶えることで成長が止まり、
やがて水分が周囲の乾燥した空気に溶け込んで行くことで積雲は消滅する。
この発生から消滅までの過程は非常に短く、積雲はわずか数分で消えてしまうことがある。
「そういう消滅しかけてるやつを見つけたら、あとはどんなポーズ取ってようが勝手に消えてくれるからな」
そう言って師匠は笑った。
なんだ、やっぱりインチキじゃないか。
僕はさっきの老人の姿勢などに関する厳しい直接指導を思い出し、釈然としなかった。

「まあ、ああいう人なんだ。許してやれ」
「どういう人なんですか一体」
ああいう雲消しを気功術の修練だとか言って、
新興宗教にハマるような人たちを集めて『奥義』を伝授し、謝金をせしめてでもいるのだろうか。
胡散臭いことおびただしい人物だが、実際に目の前で雲が消えると妙に説得力がある。
そんな詐欺もありえなくはないと思った。
しかし師匠は笑って手を顔の前で振った。

「あのじいさんは元バイク屋のおやじだよ。なかなか手広くやっててな、
隠居して息子夫婦に店を譲ったあとは楽隠居の身で、好きなことをしてるってわけだ」
そして元々林業をしていたという先祖伝来の土地があの山にあったのをいいことに、
そこに小屋を建てて半ば住み込みながら、
日がな一日現世とは掛け離れたような生活を送っているのだとか。

「雲消しはただの趣味だよ。
何年か前に地元のテレビ局が取材に来て、消してるところが放送されたもんだから、
自分もやりたいっていう連中が弟子入り志願に結構やって来てな。
金も取らずに気軽に教えてくれるっていうんで、しばらくはちやほやされてたみたいだけど、
今じゃすっかり飽きられて、訪ねて来る弟子も私くらいだ」
「勝手に孫弟子にしないでくださいよ」

聞くと、肋骨、というのは雲の種類らしい。肋骨雲という雲だ。魚の骨のような形をしているやつらしい。
正直もっといい名前にして欲しかった。
「わた雲、は可愛らしい名前ですね」
師匠は頷く。



393 :雲 前編◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:18:36.62 ID:1HZDzmsI0
「私はテレビ放送される前からの弟子だからな。高校時代に押しかけたから。やっぱり可愛いんだろ。
後からの連中は『もつれ』だとか『扁平』だとか、変な名前ばっかりつけられてる。
傑作なのはハゲた中年のオッサンにつけた『無毛』だな。
本当は無毛雲って、れっきとした積乱雲の一種なんだけど……怒って帰ったらしい」
おかしそうに言う。
それから少しの間沈黙があった。
僕はおずおずと口を開く。
「最後の」
「ん。なんだ」
「最後に言ってた、空がおかしいってのは、なんですか」
師匠は山道を下りながら、つ、と足を止め、僕を振り返った。
「言うなって、言われたからな」
さっきまでの冗談めかした表情ではなかった。

また得体の知れない不安が腹の底から湧き出てくる。
空って、この空が何だって言うんだ?
僕は思わず天を仰ぐ。
夏らしい、冴え冴えとした青が頭上高く広がっている。なにもおかしなところなどない。
師匠もつられるように空を振り仰ぐ。
山道の両脇から伸びる高木の枝葉が陽光を遮り、僕らの目元にモザイク模様に似た影を落としていた。
師匠は目を細めながら空を指差し、
「あの一つだけ離れた雲を見てみろ。周囲が毛羽立ってるだろ。
ああいうのがこれから消える積雲だ。覚えとけ」
「はあ」
きっと生きて行く上で何の役にも立たないだろう。
そういう知識を僕は師匠からたくさん詰め込まれて、毎日を過ごしていた。


それから数日後のことだ。
僕はそのころ読唇術にハマッていた師匠の練習にしつこくつき合わされていた。
「おい、今日はエッチな言葉を言わせようとしたらだめだぞ」
「分かってますよ」
パクパクパク。
口だけを動かし、声には出さずに喋っている振りをする。
それだけで師匠はある程度は言葉を言い当てられるようにはなっていた。



395 :雲 前編◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:25:37.41 ID:1HZDzmsI0
深夜の十二時を回っていた。
蒸し暑い師匠の部屋で差し向かいになること二時間以上。
延々とパントマイムのように口だけを動かしているのも飽きてくる。
だから、多少のイタズラを混ぜるのだが、師匠にはその冗談がなかなか通じない。
パクパクパク。
パクパクパク。
「……お前、それは……」
師匠が難しい顔をして僕を睨んでいる。
外は雨が降り始めたようだ。
安アパートの屋根を叩く雨音が嫌に大きく聞える。
負けじと大きく口を開けた。
パクパクパク。
パクパクパク。
『上杉達也は、朝倉みなみを愛しています。世界中の誰よりも』
タッチという漫画の有名なセリフを模写しているのだが、名前の部分を多少変えてあった。
手近な二人に。

師匠が黙ったままなので、もう一度繰り返そうとした時だ、ふいにあたりが暗くなった。
僕は最初、日が翳ったのだ、と思った。
夏の昼下がり、大きな雲が空を通り過ぎる時にあるような、あの感じ。まさにあれだ。
……
凍りついたように時間が止まる。僕と師匠の二人の時間が。
部屋の中を日の翳りがゆっくりと移動している。
その境目が分かる。
畳の上を、暗い部分が走っていく。
やがて暗くなった部屋にいきなり明るさが戻る。
暗い影が落ちているところが、僕らの上を通り過ぎ、部屋の隅まで行くと、同じゆったりしたスピードのまま
壁の向こうへと去って行った。

何ごともなく、部屋は元に戻った。
ドッドッドッドッドッ…………
心臓の音がとても大きく聞える。僕の身体は凍りついたように動かない。
唾を飲み込もうとして、喉が攣りそうになっている。
くは、という声が出た。
向かい合っていた師匠も、目を見開いて身体を硬直させている。
なんだ、今のは。
理性が答えを探すが、まったく見つからない。



396 :雲 前編 ラスト◆oJUBn2VTGE :2013/08/30(金) 23:28:38.43 ID:1HZDzmsI0
頭上を、分厚い雲が通り過ぎた。
それだけのはずだ。
一瞬、日が翳り、そして雲が通り過ぎて周囲に明るさが戻った。
ただそれだけの。
なんの変哲もない出来事だ。
今が、夜でさえなければ。

「うそだろ」
師匠が顔を強張らせたまま一言そうつぶやく。
ここは部屋の中なのだ。
そして深夜十二時を回っている。
当然部屋の明かりをつけている。天井にぶらさがる丸型の蛍光灯。明かりはそれだけだ。
その蛍光灯には全く異常は感じられない。
ずっと同じ光度を保っている。消える寸前の瞬きもしていない。

外は雨が降っている。
暗い夜空には厚い雲が掛かっているだろう。
その雲のはるか上空には月が出ているかも知れない。
けれど、人工の明かりに包まれたアパートの室内に一体どんな力が作用すれば、
ないはずの日が翳るなんてことが起こり得るのか。

じっと同じ姿勢のまま息を殺していた師匠が、ふいに動き出す。
「なんだ今のは」
焦ったような声でそう言うと、異常を探そうとするように窓に飛びつく。
カーテンを開け、窓の外を覗き込むが、ガラスを雨垂れが叩くばかりでなにも異変は見つからない。
師匠は窓から離れると、靴をつっかけて玄関から飛び出した。
僕も金縛りが解けたようにようやく動き出した身体でそれに続く。


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師匠シリーズ


369 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:49:46.48 ID:N/i40Div0
あの見下ろす視線の、正体が知りたい。
それは、途方もなく魅惑的な誘惑だった。
私はもうそのころには、自分のどうしようもない性癖に気づいていた。
抗いがたい、怪異への欲求。
それは私だけが求めるものではなく、怪異からも常に私は求められ、欲されていた。
振り向きたい。
いや、振り向いてはいけない。

塾の始まる時間は迫っていた。走って行かなくては間にあわない。
勉強は明日から頑張ればいいや。
一瞬、そんなことを考えもした。
でもそんな甘いことを言う人間が、日本の宇宙飛行士候補の一番になれるわけがない。
そのことも、子どもながらに悟っていた。一事が万事だ。
戻るか、進むか。
振り向くか、振り向かないか。
その相反する二つの選択の、尖った岐路に私は立っていた。

わずかに残っていた夕日が山の向こうに消えて、夜の闇が背中から迫って来ている。
人のいない道に、ただ一つ伸びていた私の影が見えなくなっていく。
塗装の剥がれたカーブミラーが道の隅にぽつんと一本立っていて、
その大きな瞳に灯っていた光がゆっくりと死んで行こうとしていた。
戻るか、進むか。
振り向くか、振り向かないか。
お化けを見るか、宇宙飛行士になるか。
自分の呼吸の音だけが身体の中に響いていた。

やがて私は、一つの選択をする。
暗い淵に呼ばれるように私は、戻ることを選んだ。
曲がり角で振り向いて、廃工場の方へ足を踏み出す。
でもその瞬間、すぐ後ろで遠ざかっていく人の気配を感じた。
足早に歩く靴の音まで聞こえる。

ああ。もう一人の自分だ。
身を焼かれるように宇宙飛行士に憧れた私は、進むことを選んだのだ。
戻った自分。
進んだ自分。
私は、その時二つに分かれた。
どちらも私だった。
二人の私がお互いに背を向けて、歩き出したんだ。





371 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:52:51.89 ID:N/i40Div0
戻った私は、廃工場でこの世のものではないものを見た。
とてもおぞましく、恐ろしく、美しかった。
それから、私は宇宙飛行士になりたいという夢を口にしなくなった。
それは、あの時、英語の塾へ行った方の自分が叶えるべきものだったからだ。


陸おじさんは、その後数年でNASAを退職した。スペースシャトル時代がやってくる前にだ。
何度かあったアメリカ政府の宇宙開発にかける予算削減のためだった。
様々な機器の外注が増え、
陸おじさんもそんな業務を扱う民間企業に再就職したけれど、
軍需産業にも多角的に経営の手を広げていったその企業の中にあっては、
やがて宇宙開発に関するプロジェクトから外れることが多くなった。

『もう僕は、地球以外の場所で走行するための車両開発に関わることはないだろう』
寂しそうにそう言った時の彫りの深い横顔が今も脳裏に焼き付いている。
その技術に全精力を費やした日々が、
遠い彼方へ去っていったことへの、諦めと無力感だけがそこにはあった。
月面という新たな大地から、人類はしばらくの間、いや、ひょっとすると、永遠に去ってしまったんだ。 


「時々、今でも思うんだ。あの塾へ向かう曲がり角で、進むことを選んだもう一人の自分のことを。
そいつは、多分死ぬほど勉強したに違いない。血ヘドを吐くくらい。
それだけのものを捨てて来たんだから。
そしてきっと日本で一番の宇宙飛行士候補になって、アストロノーツに選ばれ、宙(そら)に上がるんだ。
もう一人の私が選んだ世界は、
人が人のまま他の天体に足を踏み下ろすことの価値を、子どものように信じている。
私がそう信じたように。そんな世界なんだ。
そこでは有人月面着陸の計画が再び興され、私はそのクルーに選ばれる。
そしてこの役得だけは譲れないという自信家の船長に続いて、
二番目か、さらに控えめに三番目の、サーナンとシュミット以来となる月面歩行者になるんだ」

師匠は眠たげな声で、訥々と語る。隣にいる僕に聞かせるでもなく。
いつの間にか、虫の音が少し小さくなっていた。
どこかとても遠くから聞えてくるようだった。



372 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:55:11.91 ID:N/i40Div0
「月面での様々なミッションが与えられていて、仲間たちは大忙しだ。
私は陸おじさんがパーツの多くを開発した月面車(ルナビークル)で、そこら中を走り回るんだ。
定期的に着陸機の中で眠り、数日が過ぎる。
アポロ計画のころより、ずっと長い滞在期間だ。

その仕事に追われる日々の中、私は自由時間を与えられる。
もちろん定時通信はするし、遠くにも行けない。
それでも着陸機や、棒で広げられた風にたなびかない星条旗なんかが、視界に入らない場所まで行って、
そこで私は一人で寝転がるんだ。

そこはとても静かだ。
月の貧弱な重力では大気を繋ぎとめられなかったから、月面という地上にありながら、そこは真空の世界だ。
宇宙服の中を循環する空気や冷却水の音。それだけがその世界の音なんだ。
大気がないために、視界がクリアでどこまでも遠くが見渡せる。
それは寒気のする光景だ。
白い大地と、黒い空。
空と宇宙の境界線なんてありはしない。その大地のどこもすべて宇宙の底なんだ。
大地にも空にも、どんな生物も生きられない世界。
地球を詰め込んだ、宇宙服がなければ……
 
心細さに身体を震わせた私は、ふと誰かの視線を感じたような気がする。
周囲を見回すけれど、誰もいない。
小さな丘の向こうにいる仲間たちの他には、誰もいないんだ。
この三千八百万平方キロメートルという広大な大地の上に、誰一人。
それを知っている私は、子どものころに見た幽霊を思い出す。
しかし、その幽霊すら、ここにはいない。
いることができない。
歴史上、この月面で、いや宇宙空間で死んだ人間は誰もいないのだから。
 
幽霊のいない世界。
私は今までに感じたことのない恐怖を覚える。
孤独が、大気の代わりに私を押し包む。
感じていた視線は、いや視線の幻は、やがて消える。
私は、宇宙飛行士が感じるという、ある種の錯覚のことを真剣に考える」

師匠は夢を見るように、うつろな表情で語り続ける。
月光がその頬を青白く浮かび上がらせている。
僕はじっと師匠のことを見ていた。



374 :月と地球  ラスト◆oJUBn2VTGE :2013/08/17(土) 02:04:50.33 ID:MpcQHp2g0
「そうして私は、もう一人の自分のことを思い出す。
小学校五年生の夏休み初日、英語の塾に行かず、廃工場へ戻って行った、もう一人の自分を。
その自分は、宇宙空間ではない、別の暗い世界の中を彷徨っているだろう。
そうして普通の人間にはたどり着けない、恐ろしい光景を見たりしている。
その自分は、今どうしているだろうか。
ひょっとすると、月を見上げて、昔二つに分かれてしまったもう一人の自分に、想いをはせているだろうか。
こうして、月面に一人横たわり、
青い円盤(ブルー・マーブル)と呼ばれる、
宇宙の闇の中にぽつりと孤独に浮かぶ地球を、じっと見上げている自分のように」

月を見上げる自分と、地球を見上げる自分。
二人の自分が互いに、遠くて見えないもう一人の自分と視線を交し合っている。
その師匠の幻想を、僕はとても美しいと思った。
そしてそれは同時に、肌寒くなるほど恐ろしかった。何故かは分からなかった。

しかしその月光に青白く濡れた横顔を見ていると、ふと思うのだった。
師匠の語る幻の中では、月世界に一人でいる彼女だけではなく、
地球で今こうして藪と藪の間の斜面に寝転がっている彼女の方も、
まるで一人だけでいるように思えたのだ。
そこにはすぐ隣にいるはずの僕も、
いや、この日本、そして地球に存在するはずのあらゆる人間もいない。
ただこの惑星の夜の部分にたった一人でたたずむ、孤独な……

「出た」
ふいに、師匠が立ち上がった。
身体から離れていた精気が一瞬で戻ったようだった。
指さすその先に、儚げな光の筋がいくつも飛び交っているのが見えた。
ああ、人魂だ。
いや、蛍なのか。
光は尾を引いて、闇の中を音もなく舞っている。
僕は下草から漂う青い匂いを吸い込みながら、駆け出した師匠のお尻を追って立ち上がった。



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師匠シリーズ

362 :ウニ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:30:39.75 ID:N/i40Div0
師匠から聞いた話だ。


小高い丘のなだらかに続く斜面に、藪が途切れている場所があった。
下草の匂いが濃密な夜の空気と混ざりあい、鼻腔を満たしている。
その匂いの中に、自分の身体から発散させる化学物質の香りが数滴、嗅ぎ分けられた。
虫除けスプレーを頭からひっかぶるように全身に散布してきた効果が、まだ持続している証だった。
それは体温で少しずつ揮発し、
体中を目に見えないオーラのように包んで蚊やアブから僕らを守っているに違いない。
斜面を背に寝転がり、眼前の空には月。
そしてその神々しい輝きから離れるにつれ、
暗く冷たくなっていく宇宙の闇の中に、星ぼしが微かな呼吸をするように瞬いているのが見える。


ささのは さらさら
のきばに ゆれる
おほしさま きらきら
きんぎん すなご


虫の音に混ざって、歌が聞える。
とてもシンプルで優しいメロディだった。


ごしきのたんざく わたしがかいた
おほしさま きらきら
そらから みてる


歌が終わり、その余韻が藪の奥へ消えていく。
僕は目を閉じてそのメロディのもたらすイメージにしばし身を任せる。





363 :月と地球(タイトル抜かりorz) ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:33:51.06 ID:N/i40Div0
虫の音が大きくなる。
隣に、似たような格好で寝転がっている師匠の方を、片目を開けて覗き見る。
組んだ両手を枕にして、また右足を左足の膝の上で交差させ、ぶらぶらさせている。
そして夜空を見上げながら、さっきの歌を鼻歌にしてまた繰り返し始めた。

夏になると、師匠はふとした時、気づくとこの鼻歌を歌っていた。
機嫌がいい時や、手持ち無沙汰の時。ジグソーパズルをしている時や、野良猫にエサをやっている時。
しかしその歌を声にして歌っているのを聞いたのは初めてだった。

大学一回生の夏。
僕の夏は、たった二度しかなかった。
その最初の夏が、日々、目も眩むほど荒々しく、そして時にこんな夜には静かに過ぎて行った。
「出ないなあ」
師匠が鼻歌の区切りのところで、ぼそりと言った。
「出ませんねえ」
それきり鼻歌は止まってしまった。
僕は聞えてくる虫の音が一体何種類のそれで構成されているのか、ふと気になり、
数えようと耳を澄ませる。
草の中に隠れているその姿を想像しながら。
隣で師匠が欠伸を一つした。

僕たちは、ある心霊スポットに来ていた。
遠い昔の古戦場で、
この季節になると、まるで蛍のように人魂が舞っている幻想的な光景が見られると聞いて。
しかし、一向に人魂も蛍も姿を見せず、僕らはじりじりとただ腰を据えて待っているだけだった。

僕が二の腕に止まった蚊を叩いた時、師匠が口を開いた。
「いい月だなあ」
言われて見ると、ちょうど満月なのかも知れない。綺麗な円形をした月だった。
「いい月ですねえ」
と返すと、師匠は「知ってるか」と続けた。
「来年の一月にな。スーパームーンってやつが出るらしいぞ」
「知らないですね。満月の一種ですか。どの辺がスーパーなんですか」
「でかいらしい」
でかいって……月は月だろう。
「そのスーパーなやつなのか知りませんけど、
普段からなんかたまにやたらでかく見える時ありますけどね」



364 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:36:43.15 ID:N/i40Div0
「それは月が地平線の近くにある時だろう。あれは錯覚なんだぞ」
「錯覚ですか」
「そう。証拠に、目からの距離を固定した五円玉の穴から覗いてみな。
普段の月と大きさは一緒だから。
あれは、普段中天にある時は夜空の星を遮る存在で、つまり『手前側』にある月が、
地平線近くにある時には家とか山とか電信柱とか、
他のものに遮られて、つまり遥か『後ろ』、遥か遠くにある、と認識されるために生まれる錯覚なんだよ」
「そんなもんですかね」
夕方、まだ向こう側がほのかに赤い地平線から現れる巨大な月を頭に思い描く。

「でもそのスーパーなやつも結局は錯覚なんでしょう。本当の大きさは同じわけだから」
「いや、そうじゃない。本当に大きいんだ」
「そんなわけないでしょう。天体が簡単にでかくなったり縮んだりするわけがない」
「そういうことじゃなくて、単に地球と月の距離が近くなるんだよ。
それぞれ楕円軌道を描いている二つが、何年かに一度しかない、絶妙なタイミングで」

大きさが変わらないのにそう見える、というのだから、それも錯覚と言うべきである気がしたが、
良く分からなくなったので僕は黙っていた。

「だから、実際にでかく見えるんだ。それも今度のは、
スーパームーンの中でもさらに特別に最短距離になる、エクストリーム・スーパームーンってやつらしい」
聞いただけでも、なんだか凄そうだ。
「二十年に一度くらいしか来ない、えらいやつだってさ。15%くらいでかく見えるって」
そうか。そんなにえらいやつが来るなら見てみるか。
忘れないようにしよう。
そう思って、来年の一月、エクストリーム・スーパームーンという言葉を脳裏に刻み付けた。

それから師匠は訊きもしないのに、月にまつわる薀蓄を勝手に垂れ始め、
僕はそのたびに少し大袈裟に感心したりして、目的である人魂の群が現れるまでの時間を潰した。
師匠の話はどんどん胡散臭くなり始め、
最後には火星と木星の間に昔、地球などと兄弟分の惑星があり、
それが崩壊して出来た岩石が今のアステロイドベルトの元になっているという話をしたかと思うと、
地球には元々衛星はなく、その消滅した惑星の衛星が吹き飛ばされ、
地球の引力にキャッチされてその周囲を回り始めたのが今の月なのだと、興奮気味に語った。



365 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:39:03.86 ID:N/i40Div0
一体どこで吹き込まれたのか知らないが、
最近学研のムーとかいう雑誌が師匠の部屋に転がっていたのを見たので、きっとそのあたりなのだろう。
そう思ったところで、さっきのエクストリーム・スーパームーンの信憑性も疑わしくなったので、
とりあえず脳に消しゴムをかけておいた。

僕らがそんなやりとりをしている間にも、月はその角度をわずかずつ変え、
僕らの首の角度もそれにつれて少しずつ西へ、西へと向いていった。
何ごともなく夜は過ぎる。
虫の音はいつ果てるともなく続き、やがて話し疲れたのか師匠は無口になる。
だんだんと防虫スプレーの効き目が切れてきたらしく、
腕や足に止まる蚊が増え、その微かな感触を察知するたび、僕はパチリ、パチリと叩き続けた。
十分ほど沈黙が続いた後で、師匠はふいに口を開いた。

「昔な、宇宙飛行士になりたかったんだ」
へえ。初耳だった。
「女性宇宙飛行士ですか」
「アポロ11号で、アームストロングとオルドリンが月面に人類で始めて降り立った時、
私はまだ二歳だか三歳だか、そのくらいの子どもだったけど、
周囲の人間たちがテレビを見て大騒ぎをしていたのを、なんとなく覚えてるんだ」
アポロ11号か。
僕などまだ生まれていないころだ。
「最後の月面有人着陸のアポロ17号は、はっきり覚えてるぞ。
船長のジーン・サーナンがえらく男前でな。
そいつとハリソン・シュミットって科学者がさ、月面……『晴れの海』で月面車に乗ってドライブをするのさ。
そうして人類最後の足跡を残す、って言って去るんだよ。計画のラストミッションだったから。
でもそれから本当に人類は、ただの一度も月に足を踏み入れてないんだ」

僕はさっきからずっと見上げていた月を、今初めて見たような気持ちで見つめた。
そうか。あそこに、僕と同じ人間が行ったことがあるんだ。

改めてそう思うと、なにか恐ろしい気持ちになった。
月は暗い虚空に浮かんでいて、あそこまで行く、なんの頼るべきすべもないのだ。
空気もなく、重力もなく、途方もなく寒く……
どうして人類はあんなところに行こうと思ったのだろう。
そしてどうしてあんなところに行けると信じられたのだろう。
もう人類は、その夢から覚めてしまったのかも知れない。
宇宙飛行になりたかったはずの師匠も、今はこうして地面に寝転がっている
「いつ諦めたんですか」



367 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:40:24.16 ID:N/i40Div0
「そうだな。小学校五年生の時だ」
「早いですね」
もう少し夢を見てもいいのに。
現実を見ないことにかけては定評のあるこの師匠が、実に殊勝なことだ。

「笑ったな。でも今でも覚えている。あれは小学校五年生の夏休みが始まった日の夜だ。
私は英語の塾に行くことになってたんだよ」
「小学生が英語ですか」
「当然だ。宇宙飛行士になりたいなら、英語力は絶対に必要だった。
だから親に頼んで、近所の英語を教える塾に通わせてもらうことにした」

祖父さんの弟で、アメリカに渡った人がいたんだ。
師匠は月を見上げたまま語る。
「亀に司って書いて、亀司(ひさし)って読む人だ。
バイタリティ溢れる人だった。アメリカ人の女性と結婚して、向こうに渡ってな。
最初はニューヨークで蕎麦屋をやろうとしたんだけど、失敗して、しばらくタクシーの運転手をやってたんだ。
それでまた溜めた金で今度はスシバーを始めたら、これが流行った。大儲けさ。
今もまだその店やってるんだけど、四つか五つ、支店もあるんだ。
自分はグリーンカードのままで、帰化申請もしてないんだけど、
向こうで生まれた子どもたちはアメリカ国籍を持ってる。
日系二世ってやつだな。
その長男がリックって名前で、工業系の大学へ進んだ後、NASAに入ったんだ」
「え。本当ですか」
「ああ。車両開発のエンジニアだった。
亀司さんは毎年正月には家族をみんな連れて、うちの実家へ顔を見せに来るんだ。
NASAの職員だったリック……
日本名は大陸の『陸』って漢字を当ててたから、
私は陸おじさんって呼んでたけど、その陸おじさんが私にはヒーローでな。
日本にいる間、私はいつも宇宙ロケットとか、宇宙飛行士の話をせがんで、ずっとくっついてた」
心なしか、懐かしそうに顔がほころんでいる。


368 :月と地球 ◆oJUBn2VTGE :2013/08/16(金) 23:46:41.22 ID:N/i40Div0
「私も宇宙飛行士になって、月に行きたいって言うと、陸おじさんはこう諭すんだ。
そのためには勉強を死ぬ気で頑張らないとな、って。
これからの宇宙開発は、アメリカ単独ではなく、多国間で協力して進めていくようになる。
宇宙飛行士も、いろんな国から優秀な人材を選抜するようになるだろうから、
その時、日本で一番の宇宙飛行士として選ばれるように、今から頑張らないといけないってさ。
私もアメリカ人になって、NASAに入って宇宙に行くんだって言い張ったけど、
今から加奈ちゃんがNASAに入るのは難しいなあ、と言われたよ。
それに、今の宇宙飛行士はNASAの職員じゃなくて、アメリカの軍人ばかりさ、って」

「それで諦めたんですか」
「いや、頑張ろうと思ったさ。勉強を。日本人の一番になるために。
特に、語学は早いうちに始めた方がいいって言われたから、まず英語を習おうと思ったんだ。
夏休みの前にも、手紙でもそんなやりとりをしてて、思い立ったんだ。
夏休みに入ったら、すぐに行くことにしたよ。
でも、その最初の日のことだ」

そこは日中に別の仕事をしている先生が、夜間に開いている塾だった。
私は日の暮れかけた道を歩いて、そこへ向かっていた。
途中で筆箱を忘れたことに気づいて取りに帰ったりしたせいで、
初日だというのに遅刻しそうになって少し焦っていた。
今みたいには舗装もちゃんとされていない道を早足で歩いてると、大きな廃工場の前を通りがかったんだ。
普段はあんまり通らない道だったから、何気なく
その人気(ひとけ)のない不気味な建物の中を覗き込みながら通り過ぎようとしたら……
錆び付いてところどころ剥がれたスレートの波板の外壁、その二階部分に窓があって、そこに誰かがいた。
すうっと、消えていったけど、確かに私のことを見下ろしていた。
人間じゃないことはすぐに分かった。
そう感じたんだ。
怖くなって走った。走って、先へ進んだ。
だけど、遠ざかっていく廃工場が完全に見えなくなる曲がり角に来たとき、私は立ち止まった。
まず、自分が立ち止まったことに驚いた私は、その理由を考えた。
廃工場に戻りたいんだ。
そう考えた時、ゾクゾクした感触が背中を走り抜けたよ。


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師匠シリーズ

187 :死滅回遊◆oJUBn2VTGE :2013/03/17(日) 03:56:14.44 ID:YaDNqfZs0
師匠から聞いた話だ。


大学二回生の春のことだった。
僕はオカルト道の師匠から頼まれて、現像された写真を受け取りに行った。
店舗にではない。
普通のマンションの一室にだ。
表札もないその部屋のドアをノックすると、しばらくして中から返答があった。
「なんだ」
わずかに開いたドアの隙間からチェーン越しに、陰気な肥満男の目が覗く。
『写真屋』と呼ばれる男だった。

師匠からのことづてを告げると、めんどくさそうに一度ドアを閉め、
また開いた時には紙袋を持っていた。
「ん」と言うので、受け取る。
実に冷たい態度だった。
師匠と一緒に訊ねて来た時とは随分違う。
いつも師匠に対して憎まれ口を叩いているが、訊ねて来てくれたこと自体は嬉しそうだった。
結局のところ師匠が好きなのだろう。
どういう歪んだ『好き』なのかは知りたくもないが。
「カネ」と言って伸ばされた、栄養過剰な芋虫のような指を見つめて、僕は用意してあったセリフを吐く。
「払わなくていいと聞いてます」
すると『写真屋』は無言で腕を伸ばし、紙袋を奪い返そうとする。
僕は紙袋を背中側に回して、それを防ぐ。
チェーンを外そうとした『写真屋』に、ポケットから取り出したティシュペーパーを突きつける。
「なんだこれは」
ティッシュペーパーからはお菓子の粉がパラパラと落ちている。
「スコーンだそうです。加奈子さんの手作りの」
それを聞くと、『写真屋』は「ふん」と言ってティッシュペーパーに包まれたものを受け取り、
何も言わずにドアを閉めた。

僕はその紙袋を持って、師匠のアパートへ向かう。
師匠はこのところ、写真に凝っているのだ。
撮影に良く付き合わされる僕は、何が写っているのか知っているのだが、
わざわざあのアングラ社会ご用達の『写真屋』に
現像させたという事実との間のギャップに、変な気分になるのだった。
もっとも、師匠はただあの『写真屋』をタダで写真を現像してくれる便利な人、程度にしか
思っていないのに違いないのだが。





188 :死滅回遊◆oJUBn2VTGE :2013/03/17(日) 03:59:03.39 ID:YaDNqfZs0
師匠の部屋の前に着くと、師匠は玄関の前に屈んで、野良猫の喉を撫でていた。
「喉が鳴ってはいくさはできぬ。喉が鳴ってはいくさはできぬ」
そんなことを言いながら。

「お、ご苦労」
師匠は顔を上げ、部屋の中に入る。
それから紙袋から大量の写真を取り出し、二人で部屋中に広げた。

「これいいな」
師匠が指さしたのは、
交差点の歩行者用の白線の上にハンバーガーが置かれていて、
そこに向かいのビルの屋上越しの夕日が差し込んでいる写真だった。
「はあ」
反応の薄い僕を尻目に、師匠は嬉しそうにその写真を手に取り、頷きながらじっくりと見つめている。
「こっちも捨てがたい」
次に手にした写真も、やはりハンバーガーがフィーチャーされた写真だった。
散髪屋(美容院ではなく)で髪を切る師匠の横、
ドライヤーがいくつか置いてある台の上にハンバーガーが一つ混ざっている。
全部こんな調子なのだ。
『バーガーのある風景』
師匠はこのコンセプトで、ひたすらハンバーガーが日常生活の一部に溶け込んでいる写真を撮りまくっていた。
正直いったいどこが良いのか分からない。
確かにぱっと見、面白い写真ではあるが、しょせん一発ネタであり、
それを繰り返し撮り続けるというのは、よほど本人が気に入っているのだろう。

撮影に時間が掛かり、はみ出たレタスがしなびてくると、
次のバーガーに替えるのだが、もちろん古い方を廃棄処分などするわけはない。
土や埃を払って食べるのだ。手分けして。
あんまりハンバーガーばかり食べさせられるのに閉口して、
「テリヤキとか、チーズバーガーとか、バリエーションを入れませんか」と提案してみたが、
「ハンバーガーだから意味があるんだ。馬鹿じゃないの」と罵られた。
「すみません」と言うしかない。
そんな苦労して撮った写真たちを一つ一つ、じっくりと見ていく。
スコーンを食べながらだ。



189 :死滅回遊◆oJUBn2VTGE :2013/03/17(日) 04:01:16.56 ID:YaDNqfZs0
師匠が何故か大量に作ってしまったという、スコーンと紅茶をひたすら食べて食べて啜って啜って……
なんだか変なテンションになっていた。
夜も更けてきたが、カフェインのせいなのか、全然眠くならない。

「あー、やっぱり、高速道路のガソスタで撮っとけば良かったー!」
師匠が畳を叩いて悔しがっている。
高速道路のパーキングエリアに寄った時、
敷地内にあったガソリンスタンドになにかインスピレーションを感じたらしく、
その高い屋根の上のはじっこにハンバーガーが乗ってたら最高じゃないか、と言い出したのだ。
裏のタイヤの山を足場にしてなんとか屋根によじ登り、こっそり置いて来いと、そういう命令を下され、
僕は全力で拒否したのだった。
「こっちもいいなあ。これはちょっと構図がまずかったな」
師匠は飽きもせず、写真を見続ける。
もう無理。
これ以上スコーンは食えないし、紅茶も飲めないし、ハンバーガーの写真も見たくない。
僕がそう宣言しようとした時だった。

ふいに、ひんやりした空気が頬を撫でた。
窓が開いていたのかと思って、そちらを見るが、しっかり閉まったままだった。
次の瞬間、皮膚の表面を小さな虫が這いまわるような悪寒が全身に走った。
なんだ。
いったい。
部屋の中に異変はない。
バーガーのある風景の写真たちも、床に散らばったままだ。
なにかが起こった。
いや、起ころうとしているのか。しかし、それがなんなのか分からない。

思わず腰を浮かしかける。
僕のその動きを、師匠がわずかな仕草で制する。
師匠は険しい表情をして、油断なく周囲を見回している。
やがて目を閉じ、しばらく息を止めていたかと思うと、ふいに立ち上がり、「なにか来る」と言った。
師匠は上着を無造作に羽織り、テーブルに転がっていた車の鍵を手に取る。
「行くぞ」
「はい」



190 :死滅回遊◆oJUBn2VTGE :2013/03/17(日) 04:02:49.89 ID:YaDNqfZs0
僕は師匠に続いて部屋の外へ出た。そしてボロ軽四の助手席に滑り込む。
外は暗かった。
月明かりが雲に半分遮られている。
車を発進させながら、師匠は言った。
「感じたのか」
「はい」

「これは霊感じゃないぞ」
霊感じゃない?
そう言われて、腑に落ちるものがあった。
確かに霊感とは少し違う気がする。霊の気配をどこかに感じたわけではなかった。
ではなんだと言われると、説明し辛い。
だがとてつもなくおぞましい感じがするのだ。
「こいつは……」
師匠は前を見据えながら言った。
「嫌な予感ってやつだ」


車は東へ向かい、やがて川沿いの道に出た。
土手に沿って北へ向かっていると、今度はざわざわと皮膚が粟立つような感覚がやってきた。
師匠もそれに気づいた様子で、すぐさま車を止めた。
堤防のすぐそばだ。
僕たちは車を降り、堤防に張り付いた。
それほど高くない。胸元から上が出るくらいの高さだ。
目の前に流れるのは市内の東を流れる大きな川だ。昔は国分川とも呼ばれたらしい。
ムラとムラとを分ける、境となっていた川だ。
その川の向こう岸に、師匠は目を凝らしている。
堤防に沿って等間隔に街灯が据えられているが、その間隔はかなり広く、あたりはとても暗かった。
ようやく暗さに慣れ始めた目に、川の黒い水面が音もなくたゆたっている。

師匠はさっき、これは霊感じゃないと言ったが、今自分が感じているものは間違いなく霊感だった。
だが、それはか細く、取るに足りない気配に過ぎなかった。
そのことが逆に薄気味の悪さを増している。
川を越えた向こう岸の方から、何かが近づいてきている。霊的ななにかが。
それは分かる。
しかしこんな弱い気配しか感じ取れないものが、
川から遠く離れた師匠の部屋にまで、その威圧感を届けた、ということに
得体の知れない齟齬があるのだった。

師匠の言うように、僕らが部屋で感じたあのおぞましい感じが、
嫌な予感、つまり虫の知らせのようなものだとするならば、これから一体なにが起こるというのか。
僕は不安と、迫ってくる霊的な存在の弱々しさに対する安堵とが
入り混じったような気持ちを抱え、じっと暗闇の向こうの景色を見つめている。



191 :死滅回遊◆oJUBn2VTGE :2013/03/17(日) 04:05:36.32 ID:YaDNqfZs0
「死滅回遊」
そんな呟きが聞えた。僕の隣にいる師匠の口から。
「え」と訊きかえすと、師匠は続ける。

「回遊魚って聞いたことあるだろ。
同じ海域にずっと生息してる魚と違って、クジラとかマグロとかさ、
夏は北へ、冬は南へ移動したりしながら暮してる魚のことだ。
餌になるプランクトンの発生域の移動を追っていったり、
水温の適した場所を季節ごとに追っていったり。
そうとうな距離を泳いで、繁殖もそんな移動の合間にする。そういうやつらだ」
淡々とした口調だったが、その目はじっと対岸を見据えたまま身じろぎもしない。
僕は師匠の言葉に耳をすませる。

「そんな回遊魚でもないのに、
海流に乗って本来の生息域から大きく離れた場所までやって来る魚がいる。スズメダイの仲間とかな。
そういうやつらは、南方の海から黒潮に乗ってやって来るんだけど、
元々熱帯・亜熱帯の海域の魚だから、
日本海沖のあたりで冬場になると、水温の低下に耐え切れずに死んでしまうんだ。
回遊性もなく、南の海へ戻ることも出来ず、繁殖することも出来ない。
本来、生物の持つ目体は、第一に種(しゅ)を残すことで、
第二がそのために自らが生きることだ。
そのどちらも出来ず、まるで自殺するように死んでいくそんな現象のことを、
『死滅回遊』とか『無効分散』って言うんだ」
「しめつ、かいゆう」
僕はその言葉になにか不吉なものを感じ、唾を飲み込んだ。

「霊道を辿るやつらも、そんな『死滅回遊』のようなことを繰り返している」
師匠はそう言って、腕を目の前に伸ばし、
指先を上下に揺らしながら右から左へ波打つような仕草を見せた。
そうして奇怪な秘密を静かな口調で告げるのだった。
「霊道は輪になっていない」と。

「同じ道を戻ることもなければ、ぐるりと円環を回ってくることもない。
地縛されず、霊道を行くやつらは、無限に続く道のどこかで力尽き、消滅する。
山や谷、潮溜まりとか、地域地域に、そういう霊魂が吸われる様にして消えていくポイントがあったりもする。
やつらはなにも成さず、ただひたすら歩いて、もう一度死んでいくんだ」



192 :死滅回遊◆oJUBn2VTGE :2013/03/17(日) 04:07:27.07 ID:YaDNqfZs0
ぞくぞくした。
師匠の話に。死滅回遊、という言葉に。

その時、背後を何かが通った。
思わず振り向くと、暗がりに自転車のライトが頼りなく浮かんで通り過ぎていくところだった。
背広が見えた気がした。
残業帰りのサラリーマンのようだった。
その誰かは僕らの左手側十数メートル先で自転車を止めると、同じように堤防に張り付いたようだった。
川を見ている。 そう思った瞬間、右手側の方にも暗がりに誰かいるのに気づいた。
堤防から川の方を見つめている人影が、確かにあった。
いつの間に。

不思議な感覚だった。
僕らが感じたあのおぞましい気配、予感を、同じように感じてやって来た人間が他にもいたのか。
だがそのことに、頼もしさや力づけられる感じは一切なかった。
互いに不干渉で、言葉を発することもない。
ひたすら個々に予感の正体を観察している。

師匠も二つの人影を無視をするように淡々とした言葉を続けた。
「しかし、自然淘汰を繰り返してきた生物のメカニズムに無駄はない。
一見無駄に見えるものは、無駄であることそれ自体に意味がある。
死滅回遊は、海流という道を辿る葬列だ。
だけど、その道行きは絶滅することが目的ではない。
何千年、何万年というスパンで環境が一定しないこの星では、
生物は生存し種(しゅ)を次代へ繋いでいく過程で、いかなる犠牲を払ってでも多様性を担保してきた。
それを担ったのが突然変異だ。
ある植物が一斉に枯死した時、本来食に適さなかった別の植物を食べる個体が生き延び、
変化をしながら種(しゅ)を繋ぐ。
 
死滅回遊も、一見するとレミングの行進のように映るかも知れないが、
長い地球規模の時間の中では、海域の水温の変化や海流の変化によって、
南方の海が生存に適さないその種(しゅ)にとっての、
死の海になる可能性もある。
その時、北方に散らばった種(たね)が、
環境の変化に適合し、そこで新たな生息域を作り上げることだってあるんだ。
今もそんな魚たちは種(しゅ)としての絶滅を避けるために、実らない種(たね)をばら撒き続けている。
そしてそのことによって……」



193 :死滅回遊◆oJUBn2VTGE :2013/03/17(日) 04:10:50.36 ID:YaDNqfZs0
師匠はそこで、言葉を止めた。
まだなにか続けたかったようだが、川の向こうの気配に身体を緊張させた。

ひた、ひた

暗い川面を、なにかが歩いて来る。
かつてはムラとムラを、クニとクニを分けていた広い川だ。
歩いて渡れるような水深ではない。
まして、まったく平然とまるで歩道を歩くように水面を渡ってくるなんて。
得体の知れない気配が、ゆっくりとこちらに向かって来る。
それも、さっきまでのか細い存在感ではなく、じわじわとこちらを圧迫するような、にじり寄って来るような……

「霊道も同じだ。死滅回遊と」
師匠が、目の前の気配から目を逸らさず、押し殺した声で続ける。
「見たことがあるんだ。
ほんのさっきまで、取るに足りない、消滅を待つだけだった霊が、急に膨張するところを。
やつらは種(たね)だ。
いつか、まったく関係のない土地で、恐ろしい適合を果たすこともある」

ひた、ひた

人だ。
人影だ。真っ暗な水の流れる川の上を人影が歩いて来る。
男か女かも分からない。
ただ、僕の心臓を押しのけようとするような圧力を、前方から感じる。
そしてそれは刻一刻と強くなっていく。

「ひっ」
サラリーマンが呻くような声を上げ、自転車に飛び乗ったかと思うとすぐさま逃げ出した。
僕らの後ろを、来た時の倍のスピードで風が駆け抜けていった。

「川ってのは、境だ。サトとサトの。ムラとムラの。境の向こうは異界だ。
そこからやって来るものは、変化と多様性と
そして幸いとをもたらすまれびとか、あるいは魔か。
鬼は外、福は内ってな。
こういうサトとサトの境には、得体の知れない異物の侵入を防ぐための、守り神があるものだがな。
一昨年だったか、護岸工事の時、古い塚を壊しちまったんだよ。
かわりに、そっちの土手の隅に方に小さい地蔵を据えたみたいだけどな。
役割が違うんだよ。役割が。
だからこういうことになってしまう」



194 :死滅回遊 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2013/03/17(日) 04:13:04.70 ID:YaDNqfZs0
師匠の声がかすかに震えている。
僕はどうしようもなく恐ろしくなり、師匠の手を握った。
「行きましょう」
この場を離れなくてはならない。早く。すぐに。
人影はもう川の半分を越えて近づいて来ている。

しかし師匠は熱に浮かされたように続ける。
「境を越えてやって来る招かれざる魔、異物のうち、
災いをもたらすヒトの霊のことを何て言うか知ってるか」
そう言って師匠は僕の方を見た。
その顔には薄っすらと汗がにじんでいるように見えた。
「悪霊だ」

師匠がそう言った瞬間、堤防の右手側にいたもう一つの人影が、動いた。
なにかその手元に、遠くの街灯の明かりがギラリと反射したように見えた。
その動きに気づいた師匠がすぐさま振り向き、「やめろ」と短く叫んだ。
「一体じゃない」
堤防の人影は、ピタリと動きを止めた。

僕も思わず川の方を見る。
全身に硬直が走った。
川を渡って来るそのなにかの後ろに、同じような影がいるのに気づいたのだ。
それも一つではない。二つ、三つ、四つ、五つ……
「逃げましょう」
僕は必死に、師匠の腕をつかんだ。
六つ、七つ、八つ、九つ……
無理やり師匠の手を引っ張り、堤防から引き剥がした。
そして止めてあった車の方へ足を踏み出す。

師匠もようやく我に返ったように、「分かった」と言ったが、
それでもまた立ち止まり、水面を歩く悪霊の群を呆然とした目で眺めた。
「いったい、なにが起こってんだ。この街で」
そう呟いて。



238 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 23:18:27.76 ID:En49cf2N0
「あいつは若いころ、日ごろからいがみ合ってた親戚筋の若い衆と、本格的にやりあったことがあった。
攫って監禁してぶちのめしたらしいんだが、最終的に殺しはしなかったんだ。
腕を一本もぎとっただけだった。
だけど、そのもぎとるまでに腕の付け根を縛ってな。血を止めて腐らせたんだ。
その腕に蛆の卵を埋めたらしい。
孵化しなかったら、殺すって宣言して。
その相手の男は、自分の腕の肉を喰い破って蛆の幼虫が顔を出すのを、ひたすら願っていた。
まるで薬物中毒者が見るような悪夢を」
「男はどうなったんです」
「助けられた時にはおかしくなっていたらしい。残ったもう一本も、もぎ取ってくれと喚いていたそうだ」
蛆が出てくるからだ。そう思ったに違いない。

松浦の蛇のような冷たい顔を思い出して、背中におぞ気が走る。
そんな人間に。そんな人間と分かっていながら、師匠は怯みながらも決して引かなかった。
どうすればそんな師匠のようになれるのか。
僕はそのことを考えながら歩いた。

繁華街を離れ、住宅街へと進む。路上に明かりは少ない。
時々ぽつりと立っている街灯が、リュックサックを背負った背中を浮かび上がらせる。
やがて古びたアパートの前で止まる。

見覚えのないアパートだ。
師匠は一階の右端の部屋のドアをノックした。返答はない。
しかし格子の嵌った小さな窓からは明かりが漏れている。
少し強く叩く。
時間が過ぎる。
ドアがほんの少し開く。師匠はすぐに半歩分離れる。
「誰だ」
見たことのない男の顔が半分だけ覗いた。警戒した表情。
師匠はにこりと笑って言った。
「松浦に電話してくれ。探偵が、田村と話をしたがっていると」
男はギョッとした顔をした。
そこへ間髪入れず畳み込む。
「小川調査事務所の浦井だ。松浦と田村から聞いているんじゃないか。
心配するな。石田組の人間じゃないよ。もちろん他の組でもない。
こんなかわいいヤクザがいるか?」
師匠の軽口に、男は慌てたように「待て、少し待て」と言ってドアを閉めた。
混乱している様子だった。





239 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 23:22:26.25 ID:En49cf2N0
それは僕も同じだ。一体どういうことだ。
ここに田村がいるのか。逃げているはずの田村が。
この男は誰だ?松浦との関係は?そもそもなぜ師匠が田村の居場所を知っているんだ。
唖然としていると、やがてドアが開く。
さっきより大きくだ。
「入れ。二人だけだな」
男が警戒した表情のままそう言った。
「ああ」
師匠は顎をしゃくって僕を促す。
そうして後に続いてアパートの部屋の中に入った。

玄関には靴が一足だけ転がっていたが、師匠はそれを踏み越えて土足のまま部屋に上がる。
僕もわけのわからないままそれに続いた。
台所の奥にあった居間は狭く、三人の男が壁際にいた。
ドアを開けた男と、もう一人見知らぬ男。
そして田村。田村以外は靴を履いたままだった。
「よう。元気そうだな」
「ああ」
田村は後ろ手に縛られてしゃがんでいた。しかし不敵な表情をして口唇の端を上げてみせる。
「写真は渡したぞ」
「ああ、聞いた」
「悪かったな」
「仕方ねえよ」
田村はくくく、と笑った。
「俺もヤクザは嫌いだが、こうなっちまえば背に腹は代えられない」
「あんたらもヤクザか」
師匠は壁際に立つ二人の男に訊いた。どちらも油断なくこちらの一挙手一投足を見つめている。
「……」
男たちは曖昧に首を振るだけで答えなかった。

「松浦の子飼か。田村のことは石田組のやつらにも秘密ってことだな。
心配しないでくれ。誰にも喋らないよ。あの男の怖さは知っている」
師匠は一方的にそう言って、田村に向き直る。
「このヤサが見つかったのはいつだ。
今日の午前中、わたしに電話して来た時にはもうこいつらがいたんだな。電話は松浦の指示か」
「よけいなことは訊くな」
田村が口を開こうとすると男たちが鋭く制した。



240 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 23:26:18.21 ID:En49cf2N0
師匠は男たちを睨みつけてから、別のことを訊ねる。
「あの写真はどこで手に入れた」
今度は止められる前に、すぐ答えた。
「取材源は明かせない」
「なるほどな。守秘義務か。でもそれが通用していたら、こんなのん気な面会なんてできてないだろ。
今ごろどこか誰も知らない場所で、腕に蛆虫の卵でもうえつけられてるはずじゃないか」
田村の顔から血の気が引いたのが分かった。
「やめろ」
壁際から男たちが一歩前に出る。
僕も師匠の前に立ち塞がるように足を踏み出した。
まだ体中が痛いが、そんなことは一瞬頭から飛んでいた。

「ああもう、やめやめ。暑苦しい。おまえ、松浦に口を割ったな。でもそれで正解だ。
投げちまえ、こんなヤバいネタ。
多分おまえが思ってる以上に、この件は危険だ。化け物と蛇の喰い合いに巻き込まれるようなもんだ。
おっと、分かった分かった。もう帰るよ」
詰め寄ろうとする男たちに師匠は両手を上げる。

「なあ、最後に一つだけ訊かせてくれ」
「なんだ」
田村は精一杯の虚勢を張って、後ろ手のまま挑発的に返事をする。
「おまえの死んだ兄貴なら、このネタ最後まで追ったのか」
驚いた顔をした後、田村はゆっくりと考え、そして素直にこう答えた。
「いや。手を引いただろう」
師匠は満足そうに頷いた。
「小川さんもだ。絶対に途中でケツまくってるよ。
で、二人で肩を落として夜のボストンに行くんだ。ヤケ酒だよ。ツケで」
ははは。田村が笑った。
「そうだ。たぶんそうだ」
師匠も笑っている。
「解放されたら、今度飲みに行こうぜ」
「ああ」
田村は頷いた後、少し胸を張って「またな、バイトのお嬢さん」と言った。



243 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 23:35:30.35 ID:En49cf2N0
そうして僕と師匠はその部屋を後にする。
無事に出られるような気がしなかったが、思いのほか二人の男は立ち塞がろうとしなかった。
代わりに師匠を呼び止めて、「あの人から伝言だ」と言った。仏頂面をしたままで。
「丸山警部によろしく、と。それからもう一つ、
『素人やらせとくには惜しい。だが、こっちの世界に来るのはもっと惜しい。
お互いに、いつの間にか背負っていたくだらないものを、いつかすっかり下ろしてしまったら、また話をしよう』」
師匠はその言葉に「ケッ」と顔をしかめて、踵を返した。
「待って下さい」
僕は後を追った。

なんの変哲もないアパートが遠ざかり、住宅街を元来たとおり歩いて行く。
民家の屋根が暗いシルエットを不揃いに並べているその向こうに、繁華街の明かりが薄っすらと見える。
僕は身体に響くのを我慢して足を速め、師匠の隣に並んだ。
「田村はどうしてあそこにいたんですか。松浦たちはずっと探してたんじゃないんですか」
師匠は足を止めずにボソリと答える。
「田村のとっておきの隠れ家だったんだろ。すぐにばれたみたいだけど。
多分、石田組はこのことを知らないよ。
松浦だけだ。知っていたのは」
「なんで松浦は、知ってて知らないふりしてたんですか」
「決まってるだろ。田村を見つけてしまったら、小川調査事務所に来る口実がなくなるからだ」
「は?どういうことですか」
「だから、松浦はわたしに、あの母親と子どもの写真を見せるためだけに、すべてを動かしてたんだよ」
唖然とした。
信じられない。僕は空気が抜けたように笑った。

「仲間へのエクスキューズ。わたしへのエクスキューズ。そして恐らく自分自身へのエクスキューズ。
馬鹿だなあ。馬鹿。ああいう勘違いした完璧主義者は、いつか大ポカをやらかすぞ」
「ちょっと待って下さい。
今日の昼間に松浦たちが帰った後に、掛かってきた田村からの電話も、松浦の指示だったんですか」



244 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 23:39:24.88 ID:En49cf2N0
「多分な。
石田組のやつらから逃げてた田村が、
うちの事務所でわたしに写真を押し付けたとこまでは、仕込みじゃないだろう。
で、その日の夜だかに、隠れ家が松浦の個人的な網に掛かってしまって、とっつかまったんだ。
わけも分からないまま写真を持っているわたしは、田村から連絡がない限りあそこを動けない。
だから、松浦はあの電話を掛けさせた。
怯えてる。もうしばらくは連絡もないだろう。
わたしにそう思わせて、依頼の方に取り掛からせたんだ」
「でもなんで、そんなことが分かったんです」
「なんでだと思う?」
分かるわけがない。さっぱり分からない。

「松浦が、わたしに『老人』の顔が潰れているとは言え、
角南家の別邸だと分かる写真のコピーを預けた時点で、
写真自体が偽造で無価値なものだと断定できているって話はしたろ。
もちろん実際は、それが心霊写真だろうがなんだろうが、だ。
でもそれだと、まだ論理に瑕疵がある」
「瑕疵、ですか」
こんな無茶苦茶な話にそんなもの一つや二つあったところで、という気がしたが、
「それはなんです」と訊ねた。
「写真が一枚とは限らないってことだ」
「え?」
驚いた。全く考えてなかった。

「あの一枚だけなら、死んでいるはずの正岡大尉が写っているという事実で、偽造を主張できるけど、
もし他に、正岡大尉が写っていない写真が現存していれば、話が変わってくる。
そしてそれを田村が持っていたとしたら、写真の持つ毒性は復活するんだ。
次の衆議院議員選挙に出るっていう、
角南家の秘蔵っ子の命取りになりかねない、スキャンダルの元がな。
角南家を強請るにしても強請らないにしても、
写真自体は握りつぶす腹の石田組が、
そんな危険な写真を、わたしなんかに預けて出歩かせると思うか。
どこからどういう噂が立つか分からない。
わたしが持っているコピーのオリジナルが偽造だとしても、
偽造ではない、少なくともそう断定できない別の証拠写真がどこかにあるんなら、
そんな噂ごときでも危険性が跳ね上がるんだよ」



245 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 23:44:11.28 ID:En49cf2N0
それに、わたしならこうする。と言って、師匠は何かを破るジェスチャーをする。
僕はハッと気づいた。
というか、なぜ今まで気づかなかったんだ。
正岡大尉がいる左端を破れば、偽造問題の根拠がなくなるじゃないか。
一部が破損していたとしても、後のフィクサー、角南大悟が
消えた大逆事件に関わっていたという、揺るがし難い証拠写真になってしまう。
「松浦が、そんなことに気づかない男とは思えない。
そんなやつがわたしにコピーを預けたんだ。田村はすでに手の中に落ちてると考えていい。
あの時点でもう、スキャンダル写真の問題は解決していたんだよ。
後はすべて松浦の手のひらの上だ。わたしも含めてな」
忌々しそうに師匠は吐き捨てる。

そうか。
田村を捕らえて、写真の入手先のことを吐かせた上で、
他の写真の存在などの問題をクリアできると判断したのなら、残る不確定要素は
師匠の持つコピーと、そしてオリジナル写真だけだ。

「今日の午前中に、松浦がうちの事務所にやって来る前に、すでに田村は吐かされてるんだから、
当然、わたしがオリジナル写真を持っていることは知っていた。
知っていて泳がせていたことになる。
もちろん監視つきだ。尾行していたのがあの茶髪のチンピラだけとは限らない」
「なんのために」
答えは最初から出ていた。そこに戻るのか。馬鹿な。
「あの母親と子どもの写真を鑑定させるためだ。松浦とわたしにとって、自然な形でだ」

なんなんだ、あのヤクザは。
いや、ヤクザの範疇を逸脱しているとしか思えない。
かけている天秤が全く釣り合っていないことに気づいていないのだろうか。
いや、釣り合っているのか。やつにとっては。
異常だ。どこか故障しているとしか思えない異常さだった。
こっちの頭がおかしくなりそうだ。

最後に残っていた疑問をようやく口にする。
「どうして田村の隠れ家が分かったんです」
日中、僕とずっと行動していたのだから、
おそらく寺から戻って来て二手に分かれた後に、どこかで情報を入手したのだろうが、
石田組にも知られていないあの場所をどうして知ることが出来たのか、不思議でならなかった。



246 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 23:47:00.78 ID:En49cf2N0
ところが師匠は、驚くようなことを言った。
「知ったのは今日の朝だよ。お前もいた時だ」
今日の朝だって?
それは小川調査事務所で朝から用もなくデスクに肘をついていた時のことか。
一体その時どうやって?
「服部だよ。あの根暗野郎。
昨日田村が腹を刺されてうちに転がり込んで来た時、いつの間にかいなくなってたろ。
あいつ、田村が出て行った時、どこかに隠れててそのまま尾行したんだよ。
大した理由もなく。なんとなく、とかで。
変態だ、変態。所長に尾行のテクを褒められていい気になってんだ。
多分、事務所に『田村が見つかった』って電話したのは、服部だ。
ヤクザどもが田村を追ってるのに気づいて。うちの事務所もやばい状態になってると考えたんだろ。
助け舟のつもりかあの野郎」
師匠が日ごろ本人に面と向かって言わない辛らつな言葉を吐きまくる。

「で、追っ手から逃げ切った田村が、隠れ家に入ったところまで見てたんだよ。
それであいつどうしたと思う?
今朝、所長から電話があっただろう。
田村が捕まってなかったから、石田組のやつらが来る前に帰れって。
それであの根暗、ワープロ立ち上げたまま帰ったろ。
消そうとして画面見たら、田村の名前と住所が書いてあったよ。
クソったれ。所長に報告せずに、わたしに投げたんだ。おかげで振り回されて散々な目に合ったよ」
散々な目にあったのは僕もだ。
だったら今日、最初から師匠は田村の居所を知っていたんじゃないか。
もうなにがなんだか分からない。
「田村が松浦の網に掛かった後、別の場所に移された可能性も高かった。
でもこの隠れ家が、石田組の網からは完全に外れているとしたら、
そのままそこに監禁している可能性もあった。
五分五分といったところか。無駄足にならなくて良かったよ」
あいつも多分、腕の一本も落とさずに済むんじゃないか。
師匠は無責任にそう言う。

僕は足元に転がっていた空き缶を蹴飛ばした。
勝手にしろ、という気分だった。
一歩進むたびに、身体のどこかが痛かった。
そのたびに、苛立ちが募っていく。隣の師匠の方を見たくなかった。



247 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 23:49:19.36 ID:En49cf2N0
そして一歩進むたびに、その苛立ちが、
師匠と夏雄が一緒にいるところを見るたびに感じているものと同質のものではないか、という気がしてきて、
余計に僕の心はかき乱される。
師匠は多分、松浦の冷酷な瞳の後ろに広がる虚無に、ひかれている。
ヤクザであるあいつが嫌いだという事実と同じくらいの確かさで。
そのことが、どうしようもなく僕を苛立たせるのだった。
『私が見ている世界は、あなたの見ている世界と似ているだろうか』
頭の中で、松浦の去り際の言葉が繰り返し再生される。
繰り返されるたび、その言葉の音色は希薄になり、やがて意味だけが残される。

僕は行く手に伸びる暗い夜道をじっと見据える。
僕らのほか、歩く人の姿はない。
だがその光景も、師匠の目には全く別の様相を見せているのかも知れない。
無数のうつろな人影が闇に漂う不確かな光景が……
アキちゃんの見る世界。
師匠の見る世界。
松浦の見る世界。
そしてこの僕の見る世界。
どれが正しいなんてことは、きっとないのだろう。
ただどれも少し似ていて、そして違っているのだ。
『お互いに、いつの間にか背負っていたくだらないものを、いつかすっかり下ろしてしまったら、また話をしよう』
去り際の言葉が消えていった後で、入れ替わりに松浦の最後の伝言が脳裏をよぎった。
馴れ馴れしい言葉だ。素面でよくこんなセリフを吐けるものだ。
苛立ちが再び湧き上がる。

しかし僕は、その言葉の中に微妙な違和感を覚えていた。
なんだ。なにが気になるんだろう。
なにかがぴたりと嵌った感じ。あまりに状況を射抜いているような……

そこまで考えた瞬間、僕は立ち止まって師匠の背中を指さしていた。
師匠は怪訝な顔をしていたが、すぐにハッと気づいたように背中のリュックサックを下ろした。
焦ったのか、ジッパーを開けるのに手間取る。
そしてようやく差し入れた手が中を探り、また出てきた時には白い封筒が握られていた。
封筒はかなり厚い。簡単には折れないくらいに。
師匠は歯軋りをして、複雑な表情を浮かべたまま呟いた。
「下請けの下請けをやってるような零細興信所の規定料金、買いかぶりすぎだ」

いつの間に入れたんだ!
僕は驚愕する。



249 :心霊写真5 ラスト◆oJUBn2VTGE :2013/03/23(土) 00:01:26.00 ID:En49cf2N0
さっき事務所でテーブルに写真を並べて話し合っていた時だ。それしか考えられない。
リュックサックも確かに口を開けたまま近くに置いていた。
しかし僕も師匠も全く気づかなかった。そんなそぶりさえ。
ぶつかりざま、写真を師匠の服に滑り込ませた田村とは全くレベルの違う技だ。

師匠は抑え切れない怒りを全身に漲らせ、リュックサックを背負いなおす。
「化け物に、喰い殺されろ」
押し殺した声でそう吐き捨てると、足を強く踏み鳴らしながら歩き出した。
後を追う僕の目の前に、一万円札がひらひらと舞いながら落ちて来る。
宙に放り投げられた、くだらないものたちが。
何枚あるのか、数え切れない。
そんなものが舞う、街の明かりが遠く幻のように見える暗い道を、僕らは振り返らずに歩いた。


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232 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 22:25:53.14 ID:En49cf2N0
「写真を」
師匠にそう請われて、松浦は一度仕舞った写真を取り出そうとする。
しかし師匠は「そっちじゃない。『老人』の方の写真だ」と言った。
そうして、テーブルの上に写真と、その複写が並んだ。
複写の方は中央部分が黒く潰れていて、『老人』の顔が見えない。
「これがなにか」

師匠は考えを整理するようにしばし視線を落とし、慎重に口を開いた。
「わたしの知り合いに、ある霊能者がいてな」
そうして名前や詳細を出さずに、アキちゃんのことを話し始めた。
僕らの目の前で起きた、写真の人物の目が閉じるという、
あの集団催眠なのか集団幻覚なのか分からない不思議な力のことも。
そうして、写真の原本の方を使って、そのシーンを再現する。
写真の上に手をかざし、手のひらをくるくると回しているのだが、
蝋燭の明かりもないこんな明るい場所ではやけに滑稽に見えた。
松浦の口元に冷笑が浮かんだのを見て、
「笑わず聞いてくれ」と師匠は言う。

「『閉じない』『どうして』そう言ったんだ、その霊能者は。
確かに正岡大尉の目は閉じていなかった。
だからわたしは、それが生きている人間ではないからではないかと思ったんだ。
でもよくよく考えるとおかしいんだ。
他の写真でも、目を閉じた人間と、閉じていない人間がいる。
飲み会の写真なら、一人のおっさんは目を閉じていたけど、他は閉じていない。
それ自体には、なにもおかしいことはないはずだ。
『老人』たちの写真なら、一人は目を開いていて、他は閉じている。
今はもう死んでいる人もいるし、生きている人もいる。それだけのことだ。
目を閉じない、なんて言って怯える必要はない。
確かに古い写真だが、
いつごろのものだとか、大逆事件に関わる写真だなんていう背景は一切話していない。
ましてこの後彼らは処刑されたなんて話は。
なのになぜ、一人でも目を閉じない人間がいると、おかしいんだ?
現に青年将校たちの年齢を考えると、今生きていたら八十歳くらいだ。
一人くらい目を開けていてもなにもおかしくない」

師匠はそこで言葉を切り、
『閉じない』『どうして』と繰り返した。





233 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 22:34:18.74 ID:En49cf2N0
なにが言いたいのか分からず、僕は困惑していた。
やっと松浦たちヤクザとの縁も切れ、この写真にまつわるやっかいごとが終わりかけていたのに、
なにを師匠は言おうとしてるのだろう。
スッ、と師匠の指が写真に向かう。そしてそれは『老人』の顔の上で止まった。
「閉じなかったのは、こいつだ」

ゾクリとした。
なぜか分からないけれど、この二日間で、最大の寒気が前触れもなくふいにやって来た。
心臓が、今初めて動き出したかのようにバクバクと音を立て始める。

「正岡にばかり目をやっていて、わたしも気づかなかった。
だけどその霊能者だけは見ていた。
写真の上から手を離した時、この『老人』だけは、一度閉じた目をもう一度薄っすらと開いたんだ」
寺から帰りかけたところで、いきなり引き返してアキちゃんのところへ走ったのは、そのためか。
『閉じない』『どうして』という、アキちゃんのもらした言葉の齟齬に気づき、
その真意の確認のためだった。
そして、アキちゃんが見たものとは……
「半眼だ。言われなくては分からないくらい、薄っすらと。
それが何度手順を繰り返しても、その度に閉じた目をわずかに開けたそうだ。
まるで薄目を開けて、写真の中からこちらを覗いているみたいに……」
そんな現象は初めてだったから、怖くなったそうだ。
師匠はそう言って右の拳を縦にして口元に当て、睨みつけるように写真を見下ろす。

「死んだ人間は目を閉じる。生きている人間は目を開けたまま。
では、一度閉じて、薄目を開けるやつは?」
ぶつぶつと言いながら、師匠はリュックサックを手元に引き寄せ、中身を探る。
「そっちのコピー。複写してる時に、途中で田村に写真を奪われたから、真ん中が黒く潰れてるってやつ」
テーブルの方を見ないで師匠は続ける。
「本当に、そうなのかな」
「なんのことです。なにが言いたい」
松浦が怪訝な顔で問い掛ける。
「どうして写真を渡さなかったのかと訊いたな。
田村から無理やり押し付けられた写真なのに、あんたたちがやって来た時にどうして渡さなかったのか、と。
正直言うと、昨日、一度目は迷ってた。
小川所長に迷惑が掛かるなら、渡してしまおうかとも思った。
けど、なにか第六感みたいなのが働いてな。黙ってたんだ。
そして次の日、二度目にあんたらが来た時には、もう渡すつもりはなかった。
一度目と、二度目の違いがどうして生まれたのか」



234 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 22:38:22.09 ID:En49cf2N0
ごそごそとやっていた手の動きが止まる。
ゆっくりとリュックサックから半透明なクリアファイルが出てくる。中になにか入っている。
「初日、つまり昨日の夜、コピーをな。取ってみたんだ。
持ち歩くにも、あんたたちとやりとりするにも、あった方が便利だと思って。そしたら、こうだ」
クリアファイルから、写真のコピーが出て来た。
だがそれを見た瞬間、僕の身体には鳥肌が立った。

コピー用紙の中央が真っ黒に潰れている。
『老人』の顔を中心に。まるで同じだった。松浦が持って来たものと。
「まさかそれが」
松浦の目がクリアファイルに注がれる。
クリアファイルの中にはまだ用紙が入っていた。
「なんだこれは、と思ってな。いろんな所でコピーをとったよ。コンビニを回ったり、文具屋を回ったり。
そのすべてがこれだ」
テーブルの上に、コピー用紙がばら撒かれる。
目を疑った。
すべてだ。すべてまったく同様に、『老人』の顔を中心にして真っ黒く潰れている。
いや、よく見るとその黒い部分は、すべて微妙に形が違う。
生物に、個体ごとの差異があるように。
「複写を途中で止められたから起きた焼きミスなんかじゃないんだ。これは。
まともじゃない。もっと恐ろしいものだ」

松浦も食い入るようにコピー用紙を次々手に取っている。
オリジナルからコピーされた写真のすべてから、『老人』の顔が消されている。
「消された大逆事件とやらでお縄になった青年将校たちが、
どうして北一輝の名前を、つまり『老人』角南大悟の名前を割らなかったか、考えたことがあるか」
松浦がコピーから目を離さず、答えなかったので師匠は続ける。

「どういう思想を植えつけられたのか知らないが、
首謀者の名を明かさなかったのには、二つの理由が考えられる。
一つは、首謀者への畏敬から、罪が及ぶのを防ぐため。
そしてもう一つが、彼らの計画が、そして思想が、まだ生きる望みがあったためだ。
首謀者が無事で、かつそのまま軍に知られなければ、自分たちの失敗の後でもまだ思想は達成できる。
その捨石になるためだ」
だがこいつは。と師匠は、原本の方の『老人』の顔を見つめる。



235 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 22:42:12.51 ID:En49cf2N0
「こいつは、そんな大逆事件などなにもなかったかのように、戦後は商売を広げ、角南家を大きくする。
政財界にも手を伸ばし、フィクサーとも呼ばれる存在になる。
思想はどこにいった?青年将校たちを決起させたイデオロギーは?
論理は?そんなものが本当にあったのか?
青年将校を駆り立てた言葉は、もう誰も知らない。こいつは…………」
化け物だ。
師匠は吐き捨てるように言った。
あの団子鼻のヤクザに言った言葉と同じだったが、その重さは全く違っていた。

「わたしが念写だと思ったのには、そういうわけもあった。
こいつにとっては、ただあるべき姿に修正しただけだ。自分の描いた地図の通りにだ。
岩川大尉が死んでいれば岩川が。
もう一人のなんとかって大尉が死んでいれば、そいつがここに現れていただろう。亡霊のように。
そう思えばなぜかしっくり来るんだ」
写真の中の『老人』は、当時まだ五十代だと言うのに、
眉間と頬には深い皺が刻まれ、すべてを知り尽くした賢人のような威厳が備わっていた。
だがその威厳は、尊大さを併せ持ち、
わずかに上げた顎が目に映るすべてを見下しているかのように見えた。

「腹を刺された田村。その揉み合いになった時に怪我をしたという、あんたのところの若い衆。
歯抜けの茶髪野郎にボコボコにされたこいつ。
お返しにボコボコにされた茶髪野郎……
この写真に関わった人間が、昨日今日の二日間でかなりの怪我を負っている。
他にもいるんじゃないか」
そう振られ、松浦はハッと気づいたような顔をして、「弁護士が」と言いかけた。
そのまま口をつぐむ。
「なんだ、弁護士先生もどうにかなったのか。
面白いな。深く関わった人間で無事なのは、わたしとあんたくらいじゃないか。
こいつはよっぽど強い守護霊を持ってないと、対抗できないらしい」
ははは、と師匠は笑ったが、
松浦はその冗談を笑いもせず、射るようにスッと目を細めた。

師匠はばつが悪そうに視線を逸らすと、
テーブルの上に散乱したコピー用紙を片付け始める。
「こいつは燃やすよ。
あんたも、そのオリジナルをどうするつもりか知らないが、手放した方がいい。
今は握りつぶすつもりだと言っても、あんたらの稼業は、明日はどっちに向くか分からないんだろう。
だからと言って、ずっと持っているのはまずい」



236 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 23:10:58.74 ID:En49cf2N0
実にまずい。
師匠はそう繰り返したが、忠告は聞かれる様子はなかった。
松浦は写真を懐に仕舞い、今度こそ腰を浮かせる。
「無視かよ。幽霊やら怨霊やらという生易しいものじゃないぞ。こいつは」
「では、なんですか」
師匠は言葉に詰まった。
「分からない。死んでいるのに、死んでいない。
死してなお、その思想が生きている、とかそういう抽象的な話じゃない。
なんらかの存在として、この世にある。そんな気がする。
半眼に薄っすら開かれた目。今も死の淵の向こうから、この世を覗いている」

御霊(ごりょう)……
ふと、その言葉が頭に浮かび、僕はぼそりと口にする。
師匠と松浦がこちらに顔を向けたので、「いや、その」と手を振った。

師匠の言う怨霊という言葉から、歴史上の凄まじい祟り神であった、
菅原道真や崇徳上皇、そして平将門などのことがふいに連想されたのだ。
世に怨念を撒き散らした彼らはまた、諡号をされ、神として祀り上げられることで鎮められた。
だがその鎮魂は、恐怖に蓋をしたものであり、
彼らの怨念がいつまた世に溢れ出すか分からないという畏怖の上に成り立っている。

「御霊か」
師匠はそう呟いて考え込んだ。
松浦は、ふ、と笑い、スーツのズボンに出来たわずかな皺を手で払った。
「お嬢さん、お話が出来て楽しかった。
約束の報酬は、この事務所の正規の料金分でも、受け取ってくれないのでしょうね」
「わたしが欲しいのは、ヤクザのいない日常だ。もう二度と顔を見せないでくれ」
最後まで師匠は口調を改めなかった。
松浦は顔色を変えることもなく、ただ「さようなら」と言って僕らに背を向けた。

ドアノブに手を触れかけた時、じっと見ていた師匠が声を上げる。
「なあ、一つだけ教えてくれ」
「……なんです」
松浦は上半身を捻って顔を半分こちらに向けた。
「本家立光会の先代の落し種だって噂。わざわざ広めてるのは、あんたか?」
挑発的なその言葉に、松浦はなにも答えなかった。
ただじっと師匠の方を見た後で、全く別のことを言った。



237 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 23:14:08.30 ID:En49cf2N0
「私が見ている世界は、あなたの見ている世界と似ているだろうか」
また、どこかで。
独り言のようにそう口にしてドアを開けた。
その後ろ姿が消えて行くのを、僕と師匠は静かに見送った。


松浦が去った後、夜九時半になる前に僕らは小川調査事務所を出た。
なんだか疲れ果てていて、
今所長が帰って来てしまったら逐一何があったか説明するような元気はなかったのだ。
何ごともなかったかのように事務所を片付け、慌しく雑居ビルを出ると、
一階の喫茶店ボストンの入り口に、カクテルグラスの絵のプレートが掛けられているのが見えた。
髭のマスターが脱サラして始めたこの店は、昼間は喫茶店で、夜はバーになる。
そのガラス戸から漏れる淡い光を見ていると、なんだか飲みたい気分になったので、
そっと師匠にジェスチャーを送る。
さすがにこのボストンでは小川所長に見つかる可能性があったので、
別の店に行くつもりだったが、師匠は背負ったリュックサックの肩口の捩れを直しながら、
「用があるから」とそっけなく言った。

「僕も行きます」
嫌な予感がした。この人はまだなにかする気なのか。そんな予感が。
いや、正直に言う。黒谷に、夏雄に会わせたくなかった。
少なくとも二人きりでは。今はだめだ。
「勝手にしろ」
歩き出した師匠を追う。
打撲を受けた場所がきしみ、痛みが走る。だから今はだめだ。
深入りするな、と言われた。だから今はだめだ。
なのに助けられた。だから今はだめだ。
無力感が込み上げて来た。
だから今は。

「結構歩くぞ」
振り返って言う師匠に、「大丈夫です」と痛みを隠す。
歩きながら師匠は松浦のことを少し話した。西署の刑事に聞いたことを。


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227 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 22:08:41.86 ID:En49cf2N0
嫌だ。絶対にここにいる。
テコでも動かない気だったが、師匠が「怪我人だ。いいだろう?」と言うと、
ふ、と空気が抜けるような笑いを浮かべ、松浦は何も言わずソファに腰掛けた。

「あの歯の抜けた茶髪の男はどうなった?」
師匠がデスクから椅子をソファの方へ回して、そう訊いた。
「あなた方には関係がない」
松浦はそのことについて話す気はない、というようにそっけなく言った。
僕はその様子から、茶髪の独善的行動が松浦の逆鱗に触れたのではないかと想像した。
恐らく当たっているだろう。
だとするならば、今ここにいないあの男が、
夏雄にやられた以上の重症を、仲間からの制裁によって負っている可能性さえあった。

「関係ないのだったら、そいつの怪我についても不問だな」
師匠は夏雄の暴行について踏み込んだが、松浦はそれについてもそっけなかった。
「関係がないと言ったはずです」
そうして胸の内ポケットから黒革の財布を取り出して、数枚の一万円札を僕に突きつけた。
一瞬なんのことか分からなかったが、自分の頬に当てられた包帯を手で触り、そう言うことかと気づく。
「やめろ」
師匠は強い口調で言った。
言われなくても受け取る気などなかった。
なにしろ僕はあの診療所でお金を払っていない。どこにツケられたのか分からないが。
「嫌われたものだ」
松浦は一人ごちて財布を仕舞う。
「では、聞かせてもらいましょう」
ギシリ、とソファがきしんだ。

「まず、依頼の方からだ」
師匠はそう言ってから、机の上に置いてあった自分のリュックサックを持って来て、
中から封筒を取り出した。
それから僕に目配せをして、来客用のテーブルを持って来させる。
ソファと机の間に置かれたテーブルに、五枚の写真が並べられた。
いや、うち一枚はその複写だ。
あえて師匠は、現物の方ではなく、複写の方で話を進めた。

「そちらの依頼は、
この横浜にある角南家の別邸で撮られた、1938年か39年の写真に写っている、
死んだはずの正岡大尉の正体を調べろ、というものだった」





228 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 22:13:06.90 ID:En49cf2N0
「そうです」
「心霊写真なのか、それとも他のなにかなのか……」
師匠はゆっくりと写真のコピーを指の腹で撫でた。
「ここに写っている、この正岡大尉に良く似た人物は、今現在も死んでいない」
松浦は、ほう、という顔をした。
「生きていないものは、死なない。このテーブルが死なないように」
コツコツと中指の第一関節で叩く。
「わたしの結論としては、念写だ。こいつは、ここにいる仲間たちの思念によって写し込まれた、
命なき存在なんだ」

ね・ん・しゃ。
松浦は馬鹿にするでもなく、なんの先入観もないようにその言葉を吟味しているように見えた。

「だが、ただの精巧な人形がここに置かれていただけなのかも知れない。
あるいは、ただの心霊写真なのかも知れない」
師匠はただの、を強調して言った。
「でもそれも大した問題じゃない。なぜならこれは偽造写真だからだ。
真実がどうあれ、最初からそう決められている。
角南一族にダメージを与える致死的な毒にはなりえない」
そうだろう?
師匠は松浦の目を真正面から見る。松浦はなにも答えない。
「あんたの真意は別にあった。本当の依頼はこっちさ!」
師匠はテーブルを叩いた。
いや、その上に並べられている他の四枚の写真をだ。

「海辺の家族連れ。男の子の両膝から先がないのは、ただのシャッター速度の問題だ」
写真はピン、と弾かれテーブルの外に落とされた。
「アイスを食べているカップル。この肩の手はよくあるイタズラだ」
ピン、と弾かれる。
「飲み会の写真。煙草の煙がストロボに照らされ、偶然顔のように見えただけだ」
ピン。
「母親と男の子の写真」
師匠はそう言って写真を手に取った。
「この男の子は、あんただ」
驚いて目を疑った。なぜそうなるんだ?
松浦も驚いているかと思ったが、その表情は逆に冷え切ったように緊張感を湛えている。



229 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 22:17:04.39 ID:En49cf2N0
「そして母親は、立光会の先代の愛人だった女。
あんたを産み、中学校卒業まで私生児として育てていた女だ」
師匠の頬にも緊張があり、こわばっているように見えた。
テーブルを真ん中にして向かい合い、お互いしばし押し黙った。

口を開いたのは松浦だった。
「なぜ分かった」
その言葉には、脅しというよりも純粋な興味が混ざっているようだった。
「わたしは、霊を見ることが出来る。
それは人の思念、怨念、執念を、五感ではないなにか別の知覚で捉えることが出来るからだ。
心霊写真にはほとんどそれがない。
確かに撮影されるまではそういう思念が影響している。
だけどネガからプリントされるのは薬品による化学反応だ。
写真として手元に来た時点で、残念ながらわたしに感知できるような霊ではなくなっている。
ただの視覚的なものに過ぎない」
心霊写真は苦手だ。
寺に向かう車の中で、僕にしてくれたような説明を師匠は繰り返した。
松浦はじっと聞いている。

「しかしこの母子の写真は違った。
見た瞬間からビンビン来たよ。念だ。念。強烈な思念、怨念、執念。
わたしにも感じることが出来るやつだ。
それがこびり付いて離れない。
あんたのだよ。その写真を他の写真に混ぜて持って来た、あんたの念だ」
松浦はなにも言わない。
「この、窓のところに薄っすらと写っている男。あんたは、この男のことを知りたかったんだ。
家の前で写真を撮る母子。
カメラを構えているのは、近所の人か?
そして窓辺で薄ら笑いを浮かべてそれを見ている男……
目元なんかはよく見えないのに、その口元は分かる。薄ら笑い。
それがその男の本質であるかのように、だ。
あんたはこの男がこの時、家の中にいたのか、それとも霊体として写っているのか、
それを知りたかったんだ」

違うか?
刃物を前にしてなお喉を突き出すような、緊張した声だった。
松浦はまだなにも言わない。
その顔から表情が完全に消えている。
写真の中の男の子は、はにかんだようにほんの少し笑みを見せていた。
目の前の男にその面影はない。



231 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 22:22:03.08 ID:En49cf2N0
「それにこだわる理由も分かる。この男が、あんたの父親だからだ。
だけどくだんの立光会の先代じゃない。顔つきがまるで違う。
あんたは立光会の先代の愛人の息子だが、
先代の実の子ではなかった。
そうだろう。あんたの実の父は、薄ら笑いを浮かべているこの男だ。
言ってやるよ。こいつは霊じゃない。ここにいたんだ。
あんたら母子と一緒のフレームに入ろうとせず、ただ離れた場所から薄ら笑いを浮かべている。
そういう男だ」
師匠は自棄を起こしたように捲くし立てると、
さあ矢でも鉄砲でも持って来い、とばかりに開き直って、腕組みをしながら
椅子の背もたれにふんぞり返った。
生きた心地がしない状態で僕は手に汗を握っていた。

松浦はまだなにも口にせず、写真をじっと見ている。
男の上半身が薄っすらと見えている窓のあたりを。
「そうか……」
ようやく開いた口からは、そんな静かな言葉だけがこぼれた。
そうしてそっと写真を仕舞う。

師匠はばつが悪そうに頭を掻いている。
立光会の先代の顔つきなんて、昨日の今日まで知らなかったはずだ。
西署の刑事に会いに行ったのはそのためか。
ヤクザ嫌いの師匠が、ヤクザの世界の事情を調べようとすれば、警察しかないのだろう。
松浦はなんの詮索もせず、この件を終わりにした。
『あんたの後ろにあるのは虚無だ』
僕はこの男の持つ虚ろな冷たさが、師匠の言う虚無が、どこから来るのか、
おぼろげながら分かった気がした。

松浦が腰を浮かしかけた時、師匠が声を掛けた。
「待てよ。まだ話は終わってない」
「もうなにも話すことはない」
そう言えば、最初に師匠は青年将校たちの写真を指して、この写真には秘密があると言っていた。
思わせぶりだったが、そのことなのだろうか。
しかし、僕にももう、そっちの写真にはあまり価値がないとしか思えなかった。

「聞け。聞いてくれ。重要な話だ」
師匠が身を乗り出す。
「頼む」
その懇願に、松浦は一瞬逡巡したように見えたが、
やがてソファーに座りなおした


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219 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 21:43:07.66 ID:En49cf2N0
ふいに茶髪は煙草を踏みつけ、腰を上げる。
ドアの上部はすりガラスになっていて、その向こうに人影らしきものが現れている。
茶髪の左手にナイフが握られ、慎重に歩を進めていく。
僕は動くことも、声を上げることもできない。

茶髪が、ドアの前に立った瞬間だった。
凄い音が耳に飛び込んで来た。
すりガラスが砕け散り、ドアの外から突き出された長い腕が、茶髪の顔面を捉えていた。
後ろに吹き飛ぼうかという勢いが、ガクンという不自然な動きに止められる。
腕はそのままさらに伸ばされ、茶髪の胸倉を掴んでいた。
そして間髪入れず、力任せにドアの方へ茶髪は身体ごと引っ張られる。
ガシャン、という音がして残ったすりガラスが割れる。
ドアに引き寄せられて上半身を叩きつけられた茶髪は、獣のようなうめき声を上げた。
ドアが蹴破られ、茶髪は今度こそ吹き飛ばされる。

耳が片方折れた兎が、身を屈めるようにしてドアをくぐって入って来た。
正しくは、首から上に兎の頭の着ぐるみを被っている男だった。
兎はにこやかに笑っている。
しかし不気味に目は見開かれ、記号的で空疎な笑いだった。
兎は拘束されている僕の方に一瞥をくれると、起き上がろうとした茶髪に駆け寄って右手を突き出す。
茶髪は不十分な体勢のままそれをかわし、後方にステップして距離を取る。
怒鳴ったり、脅し文句を吐いたり、という無駄なことはしなかった。
ただ、「誰だ」とだけ短く言って、拳を構えた。

その直前、瞬時に、茶髪は兎と、部屋の隅に転がったナイフを見比べている。
拾う隙はないと判断したのか。兎は無造作に近づいていく。
耳を除いてもかなり背が高い。それほどタッパのない茶髪との体格差は相当あった。
自然、茶髪は兎を見上げる形になる。

茶髪の足が動いた。
リーチの不利を消すために懐へ飛び込もうとしたのだ。
しかし、次の瞬間、その出足を兎の右足が止めていた。
ローキックだ。
ドシンという肉が叩かれる鈍い音がして、茶髪の身体が膝の辺りから前のめりに沈んだ。
ついで、左のストレートが茶髪の右頬を捉える。
その手が髪の毛を掴み、兎の額の部分が茶髪の鼻柱に叩きつけられる。
振り下ろすような頭突きだった。
着ぐるみの柔らかい材質のせいか、ゴスンという控えめな音がした。
そして離れ際、兎の右のパンチがフック気味にボディへと吸い込まれる。





220 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 21:46:43.35 ID:En49cf2N0
茶髪は苦悶の表情を浮かべて身体をくの字に折った。
そのままうずくまり、動かなくなった。
兎はそれを見下ろした後、僕に近づいて後ろ手にパイプと結んであったロープを解いた。
「逃げるぞ」
と、うずくまる茶髪をそのままにして、兎は部屋から出ようとする。
僕は口に貼られたガムテープを自分で剥がしながら、
図書館で借りた本の袋とスーパーの袋を手に取って後を追う。
「ドアの前に立ってたのが僕だったら、どうするつもりだったんですか」
「…………」
兎は答えず、雑居ビルから脱出した。

茶髪に強制されて師匠の家に電話を掛けた時、夏雄がなぜ出たのか。さっぱり分からなかった。
夏雄は寺に残り、僕らは市内へ帰ってきたばかりなのだ。
しかし困惑しながらも、ただ与えられた言葉を吐くしかなかった。
そしてそのことが、僕の置かれた状況が危機的であるということを伝えるすべとなった。
電話に出たのが夏雄だと分かっていながら、なお相手を師匠として語り続けたからだ。
それが得体の知れない雑居ビルへの呼び出しであり、
この件にヤクザが絡んでいることと合わせて考えると、あの暴力馬鹿ならずとも
状況はある程度読めたはずだった。
まさか兎がやって来るとは思わなかったが。

脇道の角を曲がると、道端に黒い車が止まっていた。夏雄のスープラだ。
「あの、」
なにか言おうとして、僕は突然眩暈に襲われた。
力が抜けて吐き気が胃の奥から湧いてくる。
道の端に身を折って、少し吐く。
体中が痛い。殴られたり蹴られたりした場所が熱を持って存在を主張している。
座り込んでしまいたい衝動に駈られていると、
兎が僕を小脇に抱えるようにして力ずくでスープラまで連れて行き、
後部座席に放り込んだ。
煙草の匂いが染み付いているシートに顔から突っ込み、身体を起こす元気もないまま呻く。
兎が運転席に乗り込み、その着ぐるみを脱いだ。
夏雄が前髪から汗を滴らせながら、ダッシュボードのボックスティッシュをこちらに投げて来た。
僕はそれで吐瀉物のついた口元を拭く。
血がついているのに気づいて、顔を触ると、頬の皮膚が少し裂けていた。
踏みつけられた時の傷だ。鼻血も出ている。



221 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 21:50:56.60 ID:En49cf2N0
夏雄は行き先も告げずにスープラを発車させた。
「加奈子さんは」
もう一枚ティッシュを抜きながらそう訊く。
「家にはいなかった」
寺で分かれた後にすぐ僕らを追って来て、そのまま師匠の家に行ったのか。
そこに僕が電話を掛けたわけだ。

「加奈子さんは!」
僕は大きな声を出した。蹴られた胸に響いて痛みが走る。
「うるせえな。置手紙があったんだよ。人に会って来るって」
松浦の顔が浮かんだ。
やっぱり会いに行ったのか。一人でかっこつけやがって。何をされるか分かったものじゃないのに!
焦りが脳の回線を焼く。
「誰に会いにいったんです」
「落ち着け、ボケ。自分が帰るまでになにかあったら、西署に電話しろって書いてあった」
「なにかあったら警察に電話しろって、やばい状態に決まってるでしょう!」
「こっちになにかあったら、だ。しかも110番じゃねえよ。二課のデスクだ。刑事に会ってんだよ」
刑事に?
知り合いがいるのは知っていたが、なぜ今?
「知らん」


車はしばらく走ってから止まった。
古ぼけた看板が掛かった小さな診療所の前だった。
僕は乗った時と同じように、力づくで後部座席から引っ張り出され、診療所の中へ連れ込まれる。
ギシギシきしむ板張りの薄暗い廊下を通って、診察室らしい一室に入ると、
剥げ上がってでっぷりと太った初老の男が、白衣を着て椅子に腰掛けていた。
「よう、夏っちゃん。右手を怪我した時以来か」
夏雄は黙って僕を差し出した。

その医者は松崎と言った。
小川調査事務所の面々ご用達の『あまりうるさいことを言わない』医者らしい。
喧嘩の怪我くらいではなにも訊かずに治療してくれるとのことだった。
尻に銃創がある怪我人がやって来ても、と聞かされたが、聞き間違いだっただろうか。



222 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 21:53:16.30 ID:En49cf2N0
「はあん。だいぶやられたな」
上着を脱がされて、アザになっている箇所を強く抑えられ、呻いた。
看護婦はいない。松崎医師一人でやっているらしい。
夏雄はそのまま僕を医者に押し付け、帰ろうとした。
「待てよ」
立ち上がろうとしたが、医者に肩を押さえられる。
ただの肥満体かと思ったが、凄い力だ。
「とにかく怪我を見てもらえ。浦井のことは心配するな。会えたら連絡してやる」
夏雄はそう言い置いてさっさと行ってしまった。

僕は湿布やら包帯やらを巻かれ、あまり清潔には思えないベッドに寝かされた。
「吐き気さえ治まったらもう大丈夫だよ」と言われたが、
まだふらつきがあり、帰る足もない僕はその診療所で夏雄の連絡を待つしかなかった。

人に言えない怪我を負った連中を相手に商売をしているこの医者なら、
もしかして腹を刺された田村も、あの応急処置の後でやって来た可能性もあると思い、
訊いてみたが「知らない」というそっけない答えだった。
仮に来ていたとしても、そんなことを喋るはずもなかった。


診療所に、他の客がやって来る気配はなかった。
医者はなにをするということもなく、ずっとテレビを見ている。
横になったまま僕はうとうとしていた。

はるか頭上のあたりに、五枚の写真が浮かんでは消え、浮かんでは消え……
ゆらめく蝋燭の明かり。
閉じない。
どうして。
誰の声だったか。
ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とお……
正岡大尉。
老人。
とっとと出るぞ、こんな水虫屋敷。
あいつは、見えてるよ。
よもつひらさか。あしはらのなかつくに。
人を見かけで判断してはいけないと、教わらなかったか。
師匠。
加奈子さん。
どんな写真なんだ。けしからん。
実に。
見てみたい。



223 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 21:57:00.82 ID:En49cf2N0
「おい」
「はい」
返事をしてから目を覚ました。
ああ。寝てしまっていたらしい。診療所の窓の外は暗く、もう日が落ちてしまっている。
師匠が僕の横たわるベッドのそばの丸椅子に腰掛けている。
「大丈夫か」
本物の師匠だ。
ついさっき別れたばかりなのに、ずっと会えなかったような気がした。
「はい」
身体を起こす。部屋の柱時計を見ると、夜の八時になろうとしていた。
「決着をつけに行くぞ」
パンを買いに行くぞ、とでも言うような
あっさりしたその言葉に、僕はどんな怪我だろうが立ち上がれるような気がした。
「はい」
そう答えると、師匠はニッ、と笑った。


師匠のボロ軽四で小川調査事務所に到着した僕らは、松浦を待っていた。
師匠が八時半にここで会う約束を電話で取り付けたという。
ホワイトボードを確認すると、小川所長が帰ってくる時間が今日の夜九時となっている。
しかし九時といえば飛行機の到着の時間のはずなので、
実際はまだ一時間程度は猶予がある。
師匠は小川所長が戻って来る前にこの件のカタをつけるつもりなのだ。
無断でヤクザの依頼を引き受けた手前、そうせざるを得ないのだろう。

カタをつけるといっても、依頼部分については半ば出来レースだ。
預かった写真のうち、四枚は心霊写真じゃありません。
もう一枚はたぶん念写によるものです。
そう説明したところで、結局は偽造写真として扱われるだけだ。
田村がまだ見つかっていないとしても、躍起になって探し出すモチベーションにはならない。
松浦の真意は別のところにある、というようなことを師匠は言っていたが、
それもどうということはないだろう。
問題なのは、田村が持って逃げているはずの写真の現物を師匠が持っていたということだ。



224 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 22:01:16.48 ID:En49cf2N0
そしてそれを松浦に伝えたであろう茶髪を、本職のヤクザを、
夏雄がボコボコにしてしまったということ。
これがまずかった。
兎の着ぐるみを被っていたが、僕を助けに来たのだ。こちらサイドの人間に決まっている。
単独行動を取っていた茶髪が、このことを松浦に、あるいは石田組に報告していないのではないか、
という甘い希望はこの際持たなかった。
タダで済むとは思えない。

「黒谷さんは」
師匠に訊くと、「帰した」という答え。
「あいつがいると話がこじれる」
この件は暴力抜きで決着できると判断したのだという。
話がこじれるのは想像できるが、なんだそれは、と僕は思った。
寺から帰る時に、「ヒマか」と訊いたのは師匠の方だ。
関わりたくないのか、夏雄はついて来ることを拒否したのに、結局師匠を心配してやって来ている。
そして身体を張って僕を助けてくれたのに、邪魔になったから帰れ、というのは……

僕は嬉しかったのだ。
あの兎が現れた時。
あの、僕がボコボコにされていた時に。

痛ッ。
怪我のことを思い出した途端、傷口が痛み出した。
切った頬などより、打ち身のところがキツイ。
特に腹は茶髪、夏雄、茶髪と同じ場所ばかり殴られているから。
なんだかムカムカして来た。夏雄の野郎。
しかしまた、これから石田組とどうケリをつけるのか心配になり、落ち込む。


生きた心地がしない状態で事務所の椅子に座っていたが、心の準備が整わないうちに
事務所のドアが開いた。
そして四人の男たちが入って来る。
松浦がいる。
そして最初の時にいた年嵩の男と、ゴリラのような顔の男。
あと初めて見る体格の良い男がいた。
背は夏雄と同じくらい高く、黒いスーツを窮屈そうに着ている。
ひしゃげたような団子鼻で、人相も相当に凶悪だった。
耳が潰れていて、いわゆるギョーザ耳になっている。
かつては柔道の重量級全国大会出場者、というところか。

その男を見て、僕は茶髪が兎にやられた一件が完全に石田組にも伝わっていることを悟った。
しかし彼らが警戒しているその兎は今ここにはいない。最悪の状況だ。
「その化け物に用はない。帰せ」
師匠が自分のデスクから立ち上がり、はっきりそう言い放った。



226 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 22:05:59.90 ID:En49cf2N0
化け物と言われても、団子鼻の男は顔色一つ変えない。
師匠の物言いを咎める喚き声も聞えてこなかった。その役割をしていた茶髪がいないからだった。
「それはそちらの態度次第だ」
松浦が静かに口を開いた。
「写真は渡す。本来、これは田村のものだ。
お前たちに渡す義理はないが、この騒動を収めるためにそうしよう」
師匠は懐から写真を取り出し、その場で腕を伸ばして差し出した。
年嵩の男がスッと近づき、写真を受け取る。
手元にやって来た写真を松浦がちらりと一瞥する。
「いいだろう」
室内の緊張感が少し和らいだ気がした。

「だが、田村の居場所はどこだ」
「知らん。写真はやつがお前らに腹を刺されて事務所に転がり込んで来た時に、押し付けられただけだ。
その後は会っていない。一度電話があったが、居場所を聞く前に切られた」
こっちだって迷惑なんだ!
師匠はそう言ったが、写真を最初に松浦に渡さなかった理由にはなっていない。

「なぜ渡さなかった」
やはりそこを訊かれた。
『ヤクザが嫌いだろう』田村にはそう言われたのだったか。
しかし師匠は、松浦に向かって平然として言った。
「この写真には秘密がある」
「なに?」
松浦が眉根を寄せた。
「あんたにだけ話したい」
師匠は真っ向から松浦を見ている。
「依頼のこともある」
そう続けた師匠に、ようやく松浦は頷いた。

「下で待て」
男たちはその指示を受けて、整然とドアから去って行く。あらかじめ心得ていたようだった。
化け物と呼ばれた男も、全く表情を変えず、ドアの向こうへ消えた。
「そちらは」
松浦は僕を見た。


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師匠シリーズ

214 :心霊写真5◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 21:26:28.50 ID:En49cf2N0
市内に戻って来ると、もう夕方の五時を過ぎていた。陽も翳ってきている。
「二手に分かれよう」
師匠はそう言って、街なかで僕を車から下ろした。
「わたしはちょっと調べることがあるから、先に家に帰ってる。
お前は図書館で資料を借りて来てくれ。 
あと、スーパーに寄ってなにか買って来い。飯作ってやるから。 
おにぎりとパンしか食ってないから、腹が減ってかなわん」
「事務所じゃなくて、家の方ですね」

資料って、なにを借りて来たらいいのかと訊くと、
角南家のことが分かる郷土史の類を借りられるだけ借りて来い、と言われた。
それから、もしあれば『消えた大逆事件』のことが出ている本も。
頷いたが、僕は気がかりだった。
もうタイムリミットまであまり時間がない。
これ以上なにを調べる気なのかが分からない。
ひょっとして、師匠はお荷物の僕を捨てて、一人でなにかをしようとしているのではないか。
そのことを心配したのだ。
「一人で松浦と会ったりしないで下さいよ」
いくら師匠でも女性なのだ。ヤクザと一人で対面するなんて、危なすぎる。
「分かってる、分かってる」
師匠はうるさそうに手を振ると、僕を捨て置いてさっさと車を出発させた。

雑踏に残された僕は、仕方がないので図書館まで歩いて行き、
郷土史のコーナーに陣取って、角南家の名前が出てくる本を片っ端から借りて行った。
消えた大逆事件に関する書籍は、マイナー過ぎたのか、
あるいは胡散臭い本という扱いのためなのか分からないが、とにかく図書館には置いていないようだった。
図書館を出ると、近くのスーパーに寄る。
師匠は魚が好きなので、魚を適当に見繕って、あとビールを数本買い込んだ。

荷物が増えたので、少し気だるい思いをしながら
師匠の家の方へえっちらおっちら一人で歩いて向かっていると、急に誰かに肩を叩かれた。
まだ市街地だったが、一本裏の道を通っていたので、あまり人影もないような通りだった。
振り向くと、茶髪で派手な服装をした男がにっこりと笑って立っている。
その口に、前歯が一本欠けているのが見えた。
「よう」
気さくにそう声を掛けられた瞬間、
うなじの毛が逆立つような危機感が背骨に沿って脳天まで走り抜けた。
ズシリ。




215 :心霊写真5◆oJUBn2VTGE:2013/03/22(金) 21:28:55.03 ID:En49cf2N0
男の顔が僕の顔のそばまで近づき、その下では右の拳が僕の腹にめり込んでいた。
一瞬、吐瀉物が喉を逆流する、焼けるような感触があった。
身を守ろうと、図書館で借りた袋とスーパーのビニール袋を路上に落として
両手で男を押しのけるような動作を取る。
しかし茶髪の男はするりと僕の手をかわすと、さらに近づいて腹の同じ場所を殴った。
それも寸分たがわずだ。
今日夏雄に殴られたばかりの場所だった。
いや、少し外れている。昨日殴られた場所だ。この、同じ茶髪の男に。
僕はたまらず、身を折って吐いた。鼻に沁みるような痛さがある。

茶髪は、抵抗力を失った僕を引きずるようにして、
近くにあった雑居ビルの一階のドアを開けて、中に入った。
空き店舗なのか、片付けられたなにもない殺風景な部屋に、ダンボール箱がいくつか転がっている。
その中で唯一、二段に積まれているダンボール箱に、僕は思い切り叩きつけられた。
背中に硬い物が衝突する。
缶詰かなにかが箱の中にギッシリと入っているらしい。
二段重ねのダンボールは崩れ、僕はその上に倒れ込む。
起き上がろうとした時、蹴りが来た。
胸の辺りに当たる。
体重を乗せた横蹴りだったので、また吹き飛ばされる。
仰向けに倒れた僕の上に、茶髪が跨るようにして仁王立ちする。
「写真、出せよ」
見下ろしながら、ヘラヘラと笑う。
返答をする間もなく、顔を斜めから蹴られる。いや、それはほとんど踏みつけに近かった。
頬に走る、皮膚と骨がずれるような痛み。

次の蹴りが来る前に、顔を庇おうと両手を持って行きかけて、
しかし咄嗟の判断で茶髪の足を払った。
ぐらりとバランスを崩したところへ、頭突きをするように強引に立ち上がる。
全身で敵を押し込み、その反動を使ってすぐに身体を離す。
一瞬、間が出来たので状況を確認すると、
空き部屋の中には自分と茶髪の男の二人しかいないことはすぐに分かる。
次いで武器になりそうなものを探すが、本当にダンボール箱くらいしか見当たらなかった。

こいつは、喧嘩のプロだ。
二人きりで対峙して初めて、皮膚感覚でそれを悟る。
「写真て、なんの、ことだ」
息を整えながらようやくそう言ったが、
茶髪は歯の欠けた間抜け面でニヤケたまま馬鹿にしたように首を上下に振った。


216 :心霊写真5◆oJUBn2VTGE:2013/03/22(金) 21:31:44.44 ID:En49cf2N0
唯一の出入り口は、入ってきたドアだけ。それは茶髪の背後にあった。
逃げられない。
そう悟った僕は、思い切り体当たりをしようと突進を敢行する。
しかし、そのスピードが乗り切る前に間合いを詰められ、鼻先にパンチを喰らった。
それも、一発の後、二発、三発と立て続けに。
ジャブだ。左肩を前に出しながら、腰を入れずに左の拳を突き出して来る。
早い。とても避けられない。
この男はボクサー崩れなのか。
痛みに思わず目をつぶるやいなや、腹にまた鉛のような重いパンチを叩き込まれた。
今度は右の拳だった。

「ぶえ」
無様な声が出て、吐瀉物がまた口からこぼれる。
茶髪は、身を屈めた僕の髪の毛を掴み、
まるで吊り下げるように腕を持ち上げながら顔を近づけて言った。
「変態ども御用達の写真屋の次は、写真供養の寺か。分かりやすいなあ、お前ら。 
あのデブに訊いたぜ。お前らがコピーじゃなく、オリジナルの方を持ってるってことはな」

それを聞いて愕然とする。
すべてばれてる。なぜだ。まさか、尾行されていたと言うのか。この男に?
「やっぱり田村の野郎とつるんでやがったのか。 
いや、違うな。俺たちが見失っている田村が、わざわざお前らに写真を預けるわけがない。
そんな危険を冒すわけが…… 
どうせ押し付けられたんだろう。逃げている間に。事務所に押しかけて来たって時だ」
 
茶髪はもう一発腹にパンチを入れて来た。
息が出来なくなる。下げかけた頭を、無理やり髪の毛を掴まれて起こされる。
「おいおい、なんだっつの。その目はよお。探偵の事務所で俺を睨んでた威勢の良さはどこ行った」
そう言った瞬間、男のニヤついていた顔の表情が、筋肉ごと作り変えられたように変貌し、
元から細い目がこちらの心中を見透かすかのごとく、冷笑をたたえていた。
「人を見かけで判断してはいけないと、教わらなかったか」
茶髪は唇をあまり動かさず、静かにそう言った。
松浦に感じたのと同質の寒気が、僕の身体を襲った。
チャッ、という音がして、空いていた左手にいつの間にかナイフが握られていた。


217 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 21:35:41.98 ID:En49cf2N0
「今写真を持っているのは、あの女の方か。惜しかったな。
まあいい、お前を囮にして呼び出すとしよう」
脇腹に、刃物の切っ先が突きつけられる。少し。ほんの少し、先端が皮膚を突く程度に。
ナイフを奪おうと動いた瞬間に、それは僕の内臓に深く突き刺さる。そのことがリアルに想像できる。
頭の奥がジーンとして、とても空気が苦い。
「来い」
茶髪は僕を無理やり立たせる。
その立ち上がる動きの間、僕の脇腹に当てられたナイフと、
その先端の当たっている皮膚との位置関係に全く変化がなく、
滑らかに水平移動していたことに気づいた瞬間、抵抗する気力が失なわれていった。
この男はナイフの扱いに長けている。
街なかでチンケなゴロを巻くチンピラなんかとは一線を画す、プロなのだ。

男が背後から僕の脇腹にナイフを突きつけたまま、空き店舗のドアから出て行く。
指示されるままに雑居ビルの奥へ進むと、エレベーターがあった。
そのそばに緑色の公衆電話が据えられている。
「あの女のところに掛けろ」
そう口にしたタイミングでナイフの先端が初めて前に進み、脇腹にブツリと痛みが走る。
ほとんど思考停止状態で、僕は受話器のフックを上げた。
やけに重い。硬貨は男が入れた。
プッシュ式の番号を押しながら、わずかに残った理性が、別の誰かのところへ掛けるべきではないかと囁く。
誰だ。誰のところへ。
しかし、そのわずかな僕の躊躇いを見透かしたように、
茶髪が背後から手を伸ばして来て、残りの番号を押してしまった。
師匠の家の電話番号だ。
なぜこの男が知っている? 頭が痺れる。
『写真屋』が教えたのか。それとも小川調査事務所を家捜ししていた時に、どこかで番号を見たのか。
きっと後者だろう。その程度のことは抜け目なくやっていそうな気がした。

耳の奥で、呼び出し音が鳴る。もはや止めようがない。
電話が繋がる。
一瞬の間の後、僕は茶髪に指示された通りの言葉を一方的に喋った。
田村の隠れ家を見つけたこと。その場所。
可及的速やかに来て欲しいということ。


218 :心霊写真5 ◆oJUBn2VTGE :2013/03/22(金) 21:40:31.65 ID:En49cf2N0
その場所とは、もちろんこのビルの一階の最初のドアの向こうだ。
僕の声は普通ではなかったはずだった。
しかしその震えも、田村を見つけてしまったのならば不自然ではない。
茶髪がフックを叩いた。
なにか他のことを言う前に電話を切られてしまった。
「ご苦労」
そうしてまた僕は空き店舗へ戻された。

茶髪はポケットから細いロープを取り出して、部屋の隅の壁から出ていた
パイプのようなものに、僕を後ろ手にして縛り付けた。
ロープは細いが、金属製の綱が織り込んであってとても千切れそうにはなかった。
茶髪はようやく僕から離れ、一度ドアの外に出た後、本の入った袋とスーパーの袋を提げて戻って来た。
僕が路上に落としたものだ。
そのまましておくと目立つので回収して来たらしい。
袋を地面に置き、ダンボール箱の上に腰掛けて煙草を吸い始めた。
その横顔にはニヤニヤとした頬の弛緩など跡形もなかった。
横目で僕を油断なく監視しながら、時おり天井に向けて煙を吐いていた。

「僕たちは、松浦さんの依頼を受けて動いていたんだ」
自分でも驚くような弱々しい声だった。
「知ってるさ。心霊写真だって?」
ククク、と茶髪は冷たく笑った。
僕はそこに、ヤクザという徹底した上下関係の世界にあるはずの畏敬の欠片もないことに気づく。
チンピラ上がりから抜け出せず、ただわめき散らすだけの頭の足りない男……
松浦や他の若い衆と一緒にいた時のその印象が、
ただ必要に応じて演じていただけの役割であったということが今はっきりと分かった。

男は、兄貴分の松浦など内心では認めていない。
己の力、欲望をひたすら隠し、静かに牙を研いでいる。そんなイメージがひしひしと伝わって来るのだった。
こいつは、一人で動いている。
独断専行で、つまり松浦に抜け駆けをして写真を手に入れ、一体なにをしようと言うのか。
誰にも気づかれずに研ぎ上がった牙を、使う時が来たとでも言うのだろうか。
ふと気づいたように茶髪は僕に近寄り、ガムテープを口に貼りつけた。
ポケットに入れていた板切れのようなものに、少量を巻きつけてあるのが見えた。
驚くような用意周到さだ。
一本だけ欠けた前歯。離れていく時、そこに目が吸い寄せられた。
わざと抜いているのかも知れない。
ふとそう思った時、僕はただの人間を恐ろしいと思う感覚を味わった。とても嫌なものだった。


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