サイケデリック・奇譚

永遠の日常は非日常。

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69 :心霊写真1 ◆oJUBn2VTGE :2013/02/23(土) 23:46:00.85 ID:dTAVLjsO0
「優秀な兄に憧れるばかりだった弟は、自分の中でその死を乗り越えられず、一番安直な道を選んだ。
ようするに跡を継ごうと決意した。
努力は認めるよ。僕でもしり込みするようなトコロへ揚々と乗り込んでいく勇気も。
だけどそれだけだった。センスがないと言えばそれまでだが……
首根っこ引っつかんででも、別の道を進ませる甲斐性が僕にあれば、
今ごろはもっとまっとうな人間になっていただろうけど」
子どものことをさも知ったように語る保護者のような口ぶりだった。
なんだか掬われない気がして、僕は言ってやりたくなった。
『あの人は、ただ優秀な兄貴に憧れたんじゃなく、あなたと組んで輝いていた兄貴に憧れたんだ』と。

黙ったままじっと見ていると、
小川所長は灰を落として僕らの方に顔を向けた。
「田村がどんな危ないヤマに首を突っ込んだのか知らないけど、君たちはもう関わるな」
言われなくても。
「薄暗いな」
所長がそう言って初めて、僕は窓のブラインドを下ろしたままだったのに気づいた。
立ち上がろうとした時、電話が鳴った。

「はい、小川調査事務所」
所長が近くの受話器を取った。
朝から電話番をしていて、今日初めての電話を僕は取れなかったことになる。
師匠もそう言いたげに笑っている。
「あ、これはどうも。え?そうですよ。今帰ったところです。怖いなあ。見てたんですか」
口調は軽いが、所長の言葉が緊張を帯びている。
それに気づいて僕は、虫の知らせのようなものを感じてギクリとした。

「田村?知りませんねえ。ここしばらくは見てないですよ。あいつなにかやったんですか」
所長はそう言いながら、電話機を持ち上げてスルスルとケーブルを引きずりながら窓際に向かった。
「え?ですから見ませんって。本当です。匿うって、そんな、松浦さん」
所長はブラインドを上げて、窓をそっとすかせた。
気持ちのよい風が、アルコールや血の匂いの充満した室内に入り込んでくる。
竿竹売りの声が聞える。





70 :心霊写真1 ◆oJUBn2VTGE :2013/02/23(土) 23:47:22.59 ID:dTAVLjsO0
松浦。
僕はその名前に聞き覚えがあった。
ヤクザの名前だ。
小川調査事務所は『まっとうな』興信所だが、
こういう業界にはどうしても暴力団の影がちらついている。
単純に金主筋、というわけでなくても、多かれ少なかれそうした反社会的組織の影響はあるのだろう。
アンダーグランドな調査であればあるほど。

師匠の顔も強張っている。
師匠は異常なほどのヤクザ嫌いだ。
本人に面と向かってもそう断言するほど嫌いなので、僕は気が気ではなかった。
「すみませんね。お役に立てなくて。いえいえ。もし見かけたら、一報しますよ。それじゃ」
所長は電話を切るや否や、僕らに向かって「早く逃げろ」と言った。
「え?」と、うろたえる僕を師匠は小突いて、「行くぞ」と言う。
「電話口から竿竹屋の声がした。近くから掛けてる。くそ、田村の野郎やっかいごとを」

僕と師匠が連れ立って事務所のドアを出て、階段を駆け下りていると、
同じくらいの勢いで駆け上って来る一団があった。
「はいはい。ストップ」
見るからに堅気の人間ではございません、と主張するような服装をした数人の男たちだった。
「あがって、あがって」
長めの髪の毛を茶色に染め、ど派手な紫のジャケットを着た先頭の男が、身振りを交えてそう言う。
チンピラ風だが、後方の連中はもっと本格的な暴力団スタイルをしていた。
思わずその場で硬直していると、
「あがれって、言ってるでしょ」と茶髪の男が、
ニッコリとえびすのように目を細めて僕の腹に拳を置いた。
そっと、触れるか触れないか、という軽い拳だったが、僕は未知の暴力への恐怖に背筋が凍った。
「わかったかい。わかったら、もう一回わかれ」
どぶん。
腹に重いものが落ちてきた。一瞬で息が詰まる。
「さあさあ。後ろがつかえてるんだから。早くあがってあがって」
殴られた。殴られた。
僕の頭の中は混乱の嵐だった。



71 :心心霊写真1 ◆oJUBn2VTGE :2013/02/23(土) 23:50:11.36 ID:dTAVLjsO0
忌々しそうにしながらもしぶしぶ元きた階段を上り始める師匠を見て、何も考えずに付き従う。
戻ってきた僕らと、その後ろからゾロゾロと現れた男たちを見て、
小川さんは顔を覆った。
「ごめん」
謝る師匠に、「いや、ごめんはこっちだ」と小川さんは力なく返した。

ドアから次々と入ってくる男たちの最後に、一際地味な格好をした男が入ってきた。
黒いダブルのスーツだったが、他の男たちほど胸元を広げておらず、
下のシャツも白の無地で、ネックレスの類も身につけていなかった。
さすがにネクタイこそしていなかったが、
髪型もパンチなどではなく、控えめな長さのオールバックだった。
そして黒縁の眼鏡をしている。
この小川調査事務所がらみで、何度か見たことがある男だ。
確か『石田組』という名前の暴力団の男。
その中でも、普通に街で遊んでいるだけではそうそうお目にかかれない、
真に暗い場所に生息している人間だった。

「松浦さん、これはなんだ」
所長がその男に鋭い口調で言う。
「電話で言ったとおりだ。田村を探している」
「こちらも電話で言ったとおりだ。ここしばらく見ていない」
言い返した所長に、茶髪の男が喚き声を上げる。
アニキになんて口ききやがる。
そう言ったのだろうが、
あまりに頭の悪そうなドスの利かせ方をして、ほとんど何を言っているのか分からない。
「小川さん。あなたが知らなくてもこちらは一向に構わない。
この事務所は、田村と何の関係もない。それが分かればいいんです」
松浦というヤクザは顎をしゃくって見せた。
確か石田組の若頭補佐という役職だったはずだ。
男たちが室内に散る。台所やトイレ、ロッカー。
人間一人隠せる場所など限られている。
あっという間に男たちは手持ち無沙汰になった。

「いないのは間違いないようですね。では彼について知っていることをお訊きしましょうか」
そうして、松浦は僕と師匠とに交互に目をやった。



72 :心霊写真1 ◆oJUBn2VTGE :2013/02/23(土) 23:53:04.45 ID:dTAVLjsO0
「松浦さん、それはだめだ」
所長は今日一番の低い声を出した。そしてじっと相手の目を見つめる。
「だからてめえはだれにくちきいてんだっつってんだ」
茶髪が頭を上下に振りながら一歩前に出た。
そのそばにいたゴリラのような顔の背の高い黒服がそれを押しとどめる。

その時、僕にもう少し余裕があったなら、
よく聞く『良い警官と悪い警官』の話のように、
乱暴な若者と、それをなだめて穏やかに話を訊き出すベテランの、それぞれの役割を
この場でも演じていると感じたかも知れない。
それにしても、茶髪の若者は一番チャラい格好をしていて、本職というよりは街のチンピラのようで、
どちらかというと、あのゴリラ顔の男の方に『悪い警官』役をやられると、
僕の心臓はもっと縮み上がったに違いない。

「話をややこしくするな」
ゴリラ顔の男は茶髪の頭を小突いた。小突かれた方は恨めしそうにしている。
「そう。話はシンプルに行きましょう。田村は来たのか、来なかったのか」
松浦はそう言って、時計を見た。ゴツイ時計だ。
どうせオメガだかロレックスだとか言う名前で、無駄にダイアモンドを散りばめて、
精密時計並に値を吊り上げた不精密時計なのだろう。
「あまり長居もしてらないのでね。あと三分半くらいでお願いします」

それは、僕らが口を割るまでの時間なのか、それとも割らせるまでの時間なのか気になった。
あの田村という男にはなんの義理立てもないので、ゲロするのに全くやぶさかではなかったのだが、
一度「知らない」と答えている小川さんの立場がどうなるのか、
それだけが気になって僕はなにも言い出せないでいた。
師匠と目配せしようにも、その不自然な動きだけで
あっという間にとっつかまって拷問を受けそうな気がしてならない。

「来ましたよ。来ました」
小川さんは白旗、という風に両手を上げた。
茶髪の男がまたなにか喚いて、ゴリラ男に肩を押さえつけられている。
「話はシンプルにお願いします」
松浦は静かにそう言った。
「私が留守の時に、私を訪ねてきたようです。一時間半くらい前です」
そうして小川さんは淡々と事実の説明をした。
バイトの調査員をやっかいごとに巻き込ませたくない一心で『知らない』とウソをついたことまで。



73 :心霊写真1 ◆oJUBn2VTGE :2013/02/23(土) 23:55:32.36 ID:dTAVLjsO0
ほぼすべて事実だった。
だが事実のすべてではなかった。
野村看護師の出番は、師匠の見よう見まねの応急処置にとって代わられた。
一応は手伝っていたので、なまじウソでもない。
これ以上無関係の人間を関わらせたくないからだろう。

「なかなか、分かりやすい話でした」
松浦はカツカツと、顔が写りそうなほど磨かれた革靴の音を響かせながら、
窓際にある小川所長のデスクに腰を乗せた。
デスクの上には、本来のそのデスクの電話機とは別のものが、
ケーブルをずるずると延ばして乗っかっている。
松浦は事務所の主に断りも入れず、その受話器を持ち上げると電話を掛け始めた。
「私だ。情報は?」
そう言った後、じっと聞き役に回っていたかと思うと、
「頼むよ」と一言いって受話器を置いた。

最後の言葉は、字面からは想像もつかないほど寒気のするような響きだった。
頼まれた相手もきっとそう思っただろう。
他のヤクザたちは乱暴にさっきの所長の言葉の裏づけを取っている。
つまり、血をぬぐったガーゼや消毒液の染み込んだコットンをゴミ箱から見つけては、
無造作にそれを床に投げていくのだ。
他人の家の床が汚れることなんて屁とも思っていないらしい。
「彼の怪我はどうでしたか」
松浦が師匠に声を掛けた。
田村を介抱したことになっている師匠は、
今まで一言も発しなかったのが自らの戒めであったかのように、その禁を破って静かに言った。
「致命傷ではなかった。自分で立って歩いて帰れるくらいの怪我だ。
だけど疲労困憊って感じで、声もかすれ気味だった」
答え自体は簡潔なものだった。
しかしその口調は、デリケートな相手に対してするべきものではなかった。
案の定、茶髪が口の利き方がどうだとか言って吼えている。
そのころになると、ようやく僕もこのひと騒動が無事に終わりそうな気配を感じて、
浮き足立っていた足も地に着き、周囲を観察する余裕が出てきていた。

部屋にいるヤクザは全部で五人。
若頭補佐の松浦という男は三十台後半くらいで、
後は一人だけかなり年嵩の眠そうな顔の男がいたが、他はもっと若い。
中でも茶髪の男は二十代前半だろう。
そして全員の胸元を見てみたが、よく耳にするような金バッジはつけていなかった。



74 :心霊写真1 ◆oJUBn2VTGE :2013/02/23(土) 23:59:12.67 ID:dTAVLjsO0
だからといってこいつらがヤクザではないのかも知れない、などという希望的観測は
さらさら湧いてこなかったのであるが。
「あの怪我は、刃物の傷だ。どこでどうやってついたのやら」
師匠がさらに挑発するように言う。
松浦はずい、と上半身を乗り出した。
「ちょっとした勘違いがありましてね。
田村はうちの若いのと一瞬もみ合いの様な形になったらしくて、その時お互いが怪我をしたようなんです。
まあよくある間違いですよ。お互い様というやつです。
ビジネスの話が途中だったので、
そんなことは水に流してさあもう一度話し合いを、というところで彼の行方が分からなくなりましてね。
困ってるんです」
松浦がそう言った。
「お互いが怪我?」
師匠は眉をひそめて、宙に視線を漂わせる。

僕もその意図を悟って、師匠の視線の先に意識を集中した。
田村はあれだけの大怪我をしていて、なお追われている。
そのわざわざ口にしたもみ合いが本当なら、相手はただの怪我ではないのではないか。そう思ったのだ。
だが、僕がどれほど目を凝らしても、彼らの周囲に真新しい死の影は見当たらなかった。

「そのもみ合った若いのっては、死んではいないみたいだな」
師匠はぼそりと言う。
松浦は怪訝な顔をしたが、すぐになにか気づいた表情を浮かべて笑った。
「聞いたことがありましたよ。『オバケ』専門の探偵さん。あなたでしたか。いやいやこんなにお若いとは」
他のヤクザたちは狐につままれたような顔をしている。
「私は、こんな商売をしていると自然と敵が多くなりましてね。
そのせいか、努力が全く報われないことが多いんですよ。
同業者には占い師なんかに血道を上げて、
その努力が努力の通り報われるようなご助言をいただこう、という連中もいます。
しかし、私はどうもそういうのが嫌いでねえ」

松浦が目を細めた。
今までは、ただ自分の役割を演じていただけの男が、一瞬で脱皮し、
蛇のような冷たい本性を現したかのようだった。


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師匠シリーズ

63 :心霊写真1 ◆oJUBn2VTGE :2013/02/23(土) 23:28:22.68 ID:dTAVLjsO0
師匠から聞いた話だ。


大学二回生の春だった。
僕はその日、バイト先である興信所に朝から呼ばれ、掃除と電話番をしていた。
掃除は鼻歌をうたっている間に終わり、あとは電話番という不確かな仕事だけが残った。
窓の方に目をやると、『小川調査事務所』と書いてあるシールがガラスに張り付いている。
もちろん外から見てそう見えるように書いてあるので、
こちら側からは左右が反転している。

何度目かの欠伸をした。
ぽかぽかした陽気に、昼前の気だるい気分。待てども一向に鳴らない電話。
いったい自分がなにをしにここへ来ているのか、だんだんと分からなくなってくる。

デスクには僕の他に二人の人間が座っている。
一人はアルバイトの服部さんという二十代半ばの先輩で、この興信所では小川所長の右腕的な存在だ。
もう一人は同じくアルバイトの加奈子さんという、服部さんと同年輩の女性で、
僕をこの興信所でバイトさせている張本人だった。
オカルト全般に強く、霊視のようなことも出来るので、
この業界では『オバケ』と呼ばれる不可解な事案専門の調査員をしている。
僕のオカルト道の師匠でもあるところの彼女は、今日は非番だったはずだが、
なぜかふらりと事務所に顔を出して、 「暇で楽なバイトだろう」と僕をからかっていたかと思うと、
自分のデスクに腰を据えて、読みかけの雑誌をつぶさに読み始めていた。
服部さんの方は、朝から市内で調査が入っていたはずなのだが、
もう終わったのか、帰って来るなり無言で席に着き、
それからずっとカタカタとワープロのキーを一定のリズムで叩き続けている。

小川所長からは「留守電が壊れてるし、午前中誰もいなくなるから、頼むよ」と言われて
やって来たのに、これでは電話番など必要なかったではないか。
そもそも電話の一本も掛かってこないのだ。
実に街は今日も平和だ。いいことだ。
探偵家業にはつらいことだろうが、僕には何の関係もなかった。

服部さんは無口で、話しかけられない限り自分から口を開くことはないし、
いや、話しかけられても、なにもなかったかのように無視することさえあるし、
師匠の方は服部さんのことが嫌いらしく、一緒にいると同じように黙り込むことが多かった。





64 :心霊写真1 ◆oJUBn2VTGE :2013/02/23(土) 23:31:37.69 ID:dTAVLjsO0
平和だ。
実に。
暇つぶしに自分の名刺でトランプタワーのようなものを拵えようと
何度目かのチャレンジをしている時、何の前触れもなくドアが開いた。

「小川さん、いるか」
この陽気だというのに、季節はずれのコートを身に着けた
三十歳前後の男が、戸口に立って荒い息をしている。
その様子に僕は違和感を覚える。
格好のことではない。
確かにハンチング帽などかぶり、この部屋の誰よりも探偵じみた格好ではあったが、そのことではないのだ。
本当に何の前触れもなくドアは開いた。
つまり階段を上ってくる足音がしなかった。
この小川調査事務所の入る雑居ビルは、家賃相応の“たてつけ”をしているのに。
つまりそのたてつけを補って余りあるほど、完全に足音を殺していたということだ。
なのに、この目の前の男はまるで階段を二足飛ばしで駆け上がってきたばかりのように、
苦しそうに肩で息をしている。
この不一致が違和感の正体だった。

「所長は留守をしていますが」
僕がとっさにそう答えると、男は油断のない動きで室内に入り込み、
デスクの影や来客用のパーティションの向こうに誰もいないことを確認すると、
それまで小刻みだった息をようやくひとつにまとめて、「そうか、留守か」と言った。落胆した様子だった。
「所長の友だちか。それとも小川調査事務所への用か」
加奈子さんが雑誌を置きながらそう訊ねると、
男は「まぶしいな。ブラインドを閉めてくれ」と言って、顔をしかめて見せた。
いったいどこの地底から来た人間なのか分からないが、とりあえず言うとおりにすると、
少し薄暗くなった室内で男は苦しそうに顔を歪めながら、
「小川さんに、田村が、いや田村の弟が会いたがっていると伝えてくれ」と言った。
そうして、「他の誰にもこのことを言うな。分かったな」と付け加えた。
余裕のない口ぶりだった。

「所長はどこに行けばあんたに会えるんだ」と加奈子さんが訊くと、
男は顔を強張らせながら「いきつけのバーでもつくっておけばよかったな」と言ったあと、
もごもごと口ごもり、
「やっぱり忘れてくれ。さっき言ったことも、全部だ。俺はここに来なかった」と宣言した。
そうして入ってきたばかりのドアの方へ向かおうとする。
足を引きずっているように見えた。その靴の先が、赤い線を引いている。
血だ。



65 :心霊写真1 ◆oJUBn2VTGE :2013/02/23(土) 23:34:47.97 ID:dTAVLjsO0
そう思った瞬間、男はつんのめるようにして転がった。
そうなる可能性のある電気コードはまだその先だというのに。

どすん、という音がする。
「おい、大丈夫か」
師匠が駆け寄る。
抱き起こそうとすると、男はうめき声を上げた。
師匠はコートの裾をつかんで広げた。
シャツのわき腹のあたりに生地が切れた箇所があり、そこから血がにじみ出ていた。
「救急車」
師匠が端的に僕に指示を飛ばす。

すぐにデスクの上の電話に手を伸ばそうとしたが、「待て」という鋭い声に止められた。
「待ってくれ」
男はコートで傷口を隠しながら言う。
「救急車はだめだ」
「だめな救急車じゃないのを寄越すよう言ってやるよ」
「頼む」
血の気が失せて震えている唇で、男はそう懇願した。

師匠は返事の代わりに、「所長の友だちなのか、客なのか」とさっきと同じことを訊ねた。
「迷惑をかけてばかりだ。どっちでもない」
男は立ち上がろうとした。
「今、外へ出ると一階まで転がり落ちるぞ」
師匠はそう言って僕に目配せをし、
男をおしとどめる役をバトンタッチするや、デスクの受話器を取り上げた。
1・1・9
ではなかった。
もっと長い。市内局番から始まっている。
相手が電話に出た途端、師匠はいきなり声色を変えて喋り始めた。

「わたし。ごめん。ヘタうった。
腹のあたり、ナイフで刺された。抜けてる。うん。はやく来て。お願い。
救急車はだめ。絶対。友だちが間違って刺したから、事件にしたくない。ボストンの上の事務所」

受話器を置いた瞬間、
さっきまでの苦しそうな声とは打って変わってあっけらかんとした声で言う。
「去年、市内の救急車の平均到着時間は七分半だったってよ。さあどのぐらいで来るでしょうか」
男はその師匠の様子を見ながら、ほっとしたように力を抜いた。
その瞬間にまた痛みに襲われたのか、顔をしかめる。



66 :心霊写真1 ◆oJUBn2VTGE :2013/02/23(土) 23:38:58.75 ID:dTAVLjsO0
僕は来客用のソファに男の身体を横たえ、師匠の指示でそのまま湯を沸かしにかかる。
師匠の方は雑巾を片手にドアの外に出て、床を拭いている。
どうやら男の血を拭き取っているらしい。
そのまま下まで降りて、戻ってきた時、同時に階段を駆け上って来る足音が聞えてきた。
「ちょっと、大丈夫なの」
大きな救急箱を抱えた女性が事務所の中に飛び込んできた。
年齢は五十歳くらい。肩と言わず、全身で息をしている。
その横で師匠が、パン、と顔の前で手のひらを打ち、「ごめん」と謝った。
事務所の時計の針を見ると、電話を切ってから十分あまりが経っていた。


「ほんとごめん、って」
「話しかけないで。手元が狂うから」
女性は謝る、というより半ば邪魔している師匠をあしらいながら、
テキパキとした動きで男の傷口を処置していった。

後で聞いたところによると、野村さん、という名前の看護婦らしい。
以前ある病院に入院していた師匠の看護をして以来の腐れ縁で、今でも交流が続いているそうだ。
いつも無茶ばかりする、自分の娘のような年の師匠を心配して
あれこれと世話をやいてくれるのを、当の師匠の方は狡猾に利用しているようだった。
夜勤明けのところを叩き起こされたことに目をつぶるとしても、
今回の出来事はさすがに迷惑の度を越えていたのか、真っ青な顔をして、それでもするべきことはしてくれた。
男も無言でされるがままになっている。

応急処置を終え、肩をいからせながら野村さんは立ち上がった。
なにか説明をしようとする師匠の口をふさぐようにして捲くし立てる。
「なにも聞きたくない。どうせろくでもないことに決まってるから!
傷は深くない。血管をそれてて出血も多くない。
この程度で貧血になるなんて、普段から栄養が足りてない証拠!
あと寝不足ならちゃんと寝なさい。以上!」
救急箱を乱暴に持ち上げて、野村さんはあっという間もなくドアの方へ向かった。
そしてくるりと振り返ると、
「その傷は縫合がいるから、なるべく早く正規の手順で医者に掛かりなさい。
あと、私はここに来なかった!いいわね」
と言ってから、出て行った。



67 :心霊写真1 ◆oJUBn2VTGE :2013/02/23(土) 23:40:44.97 ID:dTAVLjsO0
野村看護婦が去って行った事務所のドアを見つめながら、師匠は苦笑して言った。
「やたらと人がここに来なかったことになるな」
そうして腹に包帯を巻かれた男を見る。

男の顔はうっすらと無精ひげが生え、目元にはクマがあった。
腹の傷がなくても倒れそうなほど疲労しているように見えた。
それでも顔を上げ、僕らの方を見ながら口を開いた。
「小川さんのところの調査員か」
「バイトだよ。こいつはその助手」
「そうか」
ソファに身体を横たえたまま、男は天井を仰いだ。
「金じゃなく、人を使えるやつは、いい探偵だ」ぼそりとそう言うのを無視して、師匠は男を詰問する。
「あんた所長の情報屋か」
それを聞いて、くっくっく、と男は笑う。
「ルポライターだ。売文屋と言ってもらってもいい」
「ようするに情報屋だろう。所長に用なら、出直したらどうだ。とっとと病院へ行け」
「小川さんには世話になったよ。いや、迷惑のかけどおしだった」
「迷惑だと思ってるなら、もう出てってくれないか」
「あの人は凄い探偵だ。あの人と、兄貴のコンビには誰もかなわかった。本当に。
いつだってかっこよかった。高谷さんのお嬢さんが、あんなことになるまでは……」
男の言葉は途中からうわ言のようになり、だんだんと何を言っているのか分からなくなった。

ギシリ。
僕がデスクの椅子に腰掛けた瞬間、男の目が開いた。
「もう一人は?」
そう言いながら身を起こす。一瞬、痛そうなそぶり。
「もう一人の男は?」
繰り返して訊かれ、師匠は服部さんのいなくなったデスクに目をやる。
「面倒ごとの匂いを嗅ぎつけて、さっさと帰ったよ」
デスクの上には、完成した報告書の束があった。
「タレ込む気か」
男は唸るような声を出してソファから立ち上がった。
「おい。落ち着けよ。そんなわけないから」と言う師匠の声にも耳を貸さずに、男は喚く。



68 :心霊写真1 ◆oJUBn2VTGE :2013/02/23(土) 23:42:40.74 ID:dTAVLjsO0
「看護婦はいい。だが、あの男はだめだ」
「救急車の次くらいにか」
師匠の軽口に舌打ちをして、男は壁にかけておいたコートに手を伸ばす。
「興信所の人間は信用できん」
「こちら、良く分かってらっしゃる」
おほほ、と口元に手をやって笑う師匠を睨みつけると、
男は手早くコートを身につけ、ハンチング帽を目深にかぶった。
「おっと、本当に礼も言わずに帰る気か」
師匠が行く手に立ちふさがる。
男はドン、と肩で師匠にぶつかりながら言った。
「ありがとよ、バイトのお嬢さん」
そうしてその脇をすり抜けながら、ふらつく足元のままドアの向こうへ消えて行った。


そんなことがあった以外は、じつに平和に時間は過ぎた。
僕と師匠はさっきの出来事をぽつぽつと話題にしながら、お茶などを飲んでいた。
やがて時計の針が正午を過ぎるころ、小川所長が帰ってきた。
「あれ、なにかあった?」
ネクタイを首から外しながら、ひくひくと鼻を動かしている。
そう言われて僕も真似をすると、消毒に使ったアルコールの匂いが部屋に残っていることが分かった。
「血の匂いがするよ」
それは気づかなかった。
知っていたはずの僕でさえ。

師匠がさっきの出来事をかいつまんで説明する。
所長は難しい顔をして聞いていた。
「田村か」
聞き終わったあと、ぼそりと言った。深い溜め息までついている。
「情報屋なのか」
師匠がそう訊くと、所長はあいまいに頷いた。
「七つ上の兄がいてな。その兄は優秀な情報屋だった。僕も色々と助けてもらったよ。
だけど四年前に死んだんだ」
デスクの上に腰掛けながら、灰皿を引き寄せて煙草に火をつける。
「自動車事故だったな。確か。早すぎる。惜しい人を亡くした」
煙がわっかになって飛んでいく。


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81 :テレビ ◆oJUBn2VTGE :2013/01/26(土) 22:38:34.86 ID:Zc2Cu2zX0
テレビはニュースのあと視聴率の低そうな情報番組に変わり、僕らはそれを惰性で見ていた。
主婦の体験談を再現したVTRがだらだらと流れていて、
その中で夫の浮気現場を目撃してしまったというシーンが映し出された時に、
師匠が「あ」と言った。
自宅の一室の襖を主婦が開けようとする場面だ。
その中では夫と浮気相手が大変なことになっていた、という話だが、
師匠はその襖を開けるところに反応していた。

「最近考えたんだけど、襖ってさ、両開きだとこう両手の指をさし入れて左右に引くよな」
師匠は起き上がって目の前に両手を出し、それを動きで示す。
両肘を張って、丁度目の高さに手のひらが鉤を作っている。

「普通はもっと低い位置でしょ。膝のあたりで開かないですか。
そんな力の入った位置だとまるでホラーですよ」
「そのホラーの話をしてるんだよ」
ああ。それならよくそんなシーンを見る気がする。
閉じていた襖が少し開いて、その奥からギョロリとした目が覗く、というやつだ。
ベタだが、日本家屋の持つ独特の暗さと雰囲気を再現できていれば、なかなか怖くなる場面だ。
「それをもっと怖くできないかと思ってな。色々考えたんだ。まずこれ」
師匠はさっきと同じ両肘を張ったポーズをとる。
「襖を左右に開こうと指を入れた場合、当然親指は下を向いている」
その通りだ。片方の襖を開ける場合は、右手で左側の襖を左に開くこともあるので
親指は上を向いていることもあるが、両方を同時に開く場合は必ず下向きだ。

「そこで、部屋の外、襖の裏側の左右に、さらに二人の人間をそれぞれ配置する。 
そして襖に腹をつける形で、 
部屋の外から見て右側の人間が左手を、左側の人間が右手を伸ばして襖の隙間に指を入れる。 
部屋の中から見たら、襖が左右にゆっくりと開いていき、その奥からは目玉がギョロリ、というシーンだけど、 指の形がおかしい。  
親指が上を向いているんだから、左右の手がまるで入れ替わっているような錯覚に陥るんだ。  
もちろん手を胸の前でクロスさせて襖を開ければ、一人でも同じことができるけど、 
もちろんゆっくりと開いていく襖の間には、そんな腕の交差は見えない。……こわっ」
師匠はそんな一人芝居をしていたが、
親指の向きがおかしいなんて、よほど気をつけていないと気がつかないんじゃないだろうか。
そんなことを指摘すると、
「じゃあその二だ」と言って、また最初の両肘を張ったポーズを取った。




 82 :テレビ ◆oJUBn2VTGE :2013/01/26(土) 22:41:33.52 ID:Zc2Cu2zX0
「今度はこの形を三人で再現する。 
さっきと同じように、部屋の中からは見えない位置の襖の裏側に、二人の人間を配置する。 
で、今度は背中を襖につけた状態で腕を伸ばす。  
すると逆手(さかて)で襖に指をさし入れることになる。
真ん中に立っている人間が襖を開けようとするのと同じ指の形だ。 
でも目玉を覗かせる役と、手の持ち主が別だから、気持ちの悪いことができる」

師匠は僕を立たせて「ギョロ目役だ」と言ったあと、
自分は僕の方を向いたまま右横に立って片手を伸ばす。
ちょうど僕の胸のあたりに右手の指が来ている。
「すー」と言いながらその指を自分の方に引き、「そら、開いたぞ、目だ」と合図した。
僕はカッと目を見開いて、小島だか中島だか大島だかという名前の隣人の方を睨みつけた。
心なしかびくりとしたようだった。
すると次の瞬間、師匠はその格好のままストンとその場にしゃがみ込んだ。
腕は伸び、指は鉤を作ったまま床の上に落ちている。
「部屋の中からはどう見える」
「顔が同じ位置で目を見開いたまま、腕だけが下に落ちています」
襖がそこにあるという前提の元に隣人が答えた。
なるほど、開ききっていない襖の裏側でそんなトリックを使われているとは思いもしない人なら、
相当驚くだろう。 人体の構造上、ありえない動きだからだ。
もちろん襖から覗く顔と手が同じ人物のものだとしてだ。

「三人じゃなく、二人でもできるな。 
片方の手だけが他人のものだとしても、色々脅かすバリエーションができそうだ。両方右手とかな」
そう言ってニヤニヤしている。
こういう悪だくみをさせたら本当に生き生きしてくるので、面白い人だ。
そんな微笑ましい気持ちでいると、師匠はこちらを向いてまた両肘を張ったポーズを取った。
「おい。タネを知ったからって安心してるなよ。 
わたしが死んだら、これを逆手に取って、
トリックと思わせておいて実はホンモノ、っていう出方をしてやるからな」
覚悟しとけ。
底意地の悪そうな顔で僕らの顔を順に見る。

「ちょっと待って下さい。手が落ちるとかそれ以前に、死んでるんですよね?
襖から顔が出た時点で幽霊なんですけど」
僕の指摘に、腕組みをして唸り始める。
「出た時点で幽霊か」
「幽霊です」
「なんの工夫もないのに、幽霊だというだけで驚くかな」
「驚きますね」


83 :テレビ ラスト◆oJUBn2VTGE :2013/01/26(土) 22:43:20.00 ID:Zc2Cu2zX0
僕らの会話を隣人が面白そうに聞いている。
「ていうか死なないでください」
最後に僕がそう突っ込むと、師匠はふっ、と息を吐いてぽつりと言った。
「死んだあとの方が面白そうだ」

その言葉を聞いた瞬間、僕の足元から頭の先へ、とても嫌なものが走り抜けた。
後悔であり、悲しみであり、自分がただの石ころになったような無力さでもあった。
僕はその場に座り込んでしまいそうな脱力感と闘いながら、
この人と初めて会った時のことを思い出していた。
喧噪の残る夜の街を、無数の霊をつれてただ歩いていた。
寒気のするような、そしてどこか幻想的な光景。
その時の彼女の目には、周囲のすべてがまったく映っていなかった。
いや、少し違う。
映っているものすべてに等しく価値がない。
そういう目をしていた。
時おり現れる、彼女のそういう眼差しを見るたび、僕はどうしようもなくつらい気持ちになる。
彼女がふと我に返ったかのようにその表情を無くす時、
彼女と僕らのいる世界が、とてもか細い繋がりしか持たなくなるような気がするのだ。

なにか面白いことを言わなくてはならない。
楽しいことを言わなくてはならない。怖いことを言わなくてはならない。 早く。
そうして僕は、強張った口を開く。

何と言ったのか、もう覚えていない。きっとくだらないことだったのだろう。
師匠はそんな僕ににこりと笑って、「ユタって知ってるか」と言った。
知っている。現代に残る、シャーマンの一種だ。
「殯(もがり)の島でな、ユタのばあさんに言われたんだ。ちょうど島を出る時に。
たった一言。知らない言葉だった。 
ただ、ののしられていた、ということだけは分かった。  
忌まわしいものを見るような、落ち窪んだ目の奥の光を今でも覚えている」
「なんて、言われたんですか」
師匠はふふん、という表情で「ぐそうむどい」と言った。


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77 :テレビ ◆oJUBn2VTGE :2013/01/26(土) 22:28:13.32 ID:Zc2Cu2zX0
「分からない。ただ昔から、その島じゃあ時々そんなことが起きるんだと。 
石垣はその島のいたるところにあるんだけど、それが崩れる時には必ず前兆があって、 
石積みの一部がその、わたしたちが見たような顔に変わってしまってるんだ。 
顔はもろくて、すぐに潰れてしまう。そこから石垣が崩れるんだ」
これには二通りの意味が考えられる。
師匠はそう言って指を二本立てた。
「雨の影響で石垣が崩れる時、予兆としてその顔が現れるのか、 
それとも、石垣の一部が人間の顔に変わってしまうから崩れるのか。 
どちらだろうか」

台風が通り過ぎて、わたしがその島を出る時、村長さんに訊いてみたんだ……
『あれは、五年前に死んだ、わしの弟の顔だった』
そう答えたという。
『癌で苦しんで苦しんで死んだのに、どうしてまたあんな風に苦しまないといけないのか』
「答えにはなっていなかった。結局、この島の人たちにも分からないんだ。 
ただ、石垣に現れる顔は、決まって死者の顔なんだと」

ずるずるずる。
グロテスクな話をしながら、師匠はまたそうめんを啜り始めた。よく食べられるものだ。

「死が、色濃い島だった。生活の中に、人の死があまりに入り込み過ぎている。 
そう思ったから、わたしは最後にもう一つだけ訊いたんだ」
口の中のものを咀嚼して、麦茶で流し込んでからゆっくりと続ける。
『あなたがたがしているのは、本当に殯(もがり)なんですか?』
師匠は僕を見てニヤリと笑みを浮かべた。
「村長は答えなかったよ」

台風が来るたびに、このことを思い出す。
師匠はそう言いながらまたそうめんに箸を伸ばす。
気持ちの悪い話だった。少し食欲が減退した気がした。
胃袋の容量の関係ですでに十分に減退していたが、さらにだ。

テレビのニュースでは台風情報が終わり、全国版からローカル放送に切り替わった。
公務員の飲酒事故の話題と、市内で開かれたチャリティコンサートに関する話題が続いた。
そしてその後で、先日起こったJR線の死亡事故についての続報もあった。
「これ、私の友人が見てしまったそうです」
口元を拭きながら、師匠の隣人がぼそりと言う。
師匠がそれに返答する。
「フレンド・オブ・フレンドか?中島」




78 :テレビ ◆oJUBn2VTGE :2013/01/26(土) 22:30:07.72 ID:Zc2Cu2zX0
「大島です。本当に見たそうですよ。血がドバーッと出て、骨も出ていたそうです」
小島だか中島だか大島だかという名前の
そのいい加減な隣人は、顔を上げて自分の細い目を両手の指で見開いてみせた。
「ま、いいけど」と師匠はニコリともせず、
寝転がったヨガのようなポーズをわずかに変えて箸を動かす。

「そう言えば、何年か前に、凄い事故があったな。あれもJRか。覚えてるか?」
僕はここが地元ではないので知らない。
隣人だけが頷いている。
「首が飛んだって話ですよね」
「そうそう」
その事故は、帰宅ラッシュが終わったあとの市内の駅で起こったのだそうだ。
構内を通過する貨物列車に男性がいきなり飛び込み、跳ねられて死亡したという事故だ。
自殺だったそうだが、その時構内には次の便を待つ客が数人おり、
その人たちに決定的瞬間が目撃されたのだという。
そしてその、人間が跳ねられて死亡する瞬間を見た人の話が、気味の悪い噂話となって
この街を駆け巡ったらしい。

「男の首がな。激突の衝撃で根元からぶっ千切れて、ぽーんと宙を飛んだんだって。 
それがホームのキオスクのあたりに落ちて、近くにいた人がパニックになって腰を抜かした。  
ここまでは新聞報道もされた本当の話」
な?と師匠は隣人に問い掛ける。
「ええ。確かそうでした。自殺の原因は、職にあぶれて自暴自棄になっての咄嗟的行動だったとか」
「ああ。そこまではただのショッキングな死亡事故の話だ。でもここからが怪談じみてくるんだ。 
その飛んだ生首だけど、目撃した人の話だと、目が合ったって言うんだよ」
男の首は目を見開き、恐怖が張り付いたような表情をして、
何ごとか訴えるようだったという。
その口は叫び声のために開かれていたが、なんの言葉も発していなかった。
肺から供給される空気の道が断たれたからだった。

「目が合ったって人の話では、まだその時点で男は死んでなかったんじゃないかって言うんだ。 
たしかに、首が飛んでもほんの数秒なら脳は生きているだろう。  
瞬間に失神していない限り、意識もあるかも知れない。 
その胴体から離れた頭部が、最後の瞬間に自分と目が合い、
そしてその目が合ったことを認識していたのかも知れない。  
声にならない叫びは、自分に向けられたのかも知れない。
いったいなにを叫ぼうとしていたのか……
と、こういう話だ」


79 :テレビ ◆oJUBn2VTGE :2013/01/26(土) 22:32:44.62 ID:Zc2Cu2zX0
「私が知り合いから聞いた話では、 
その事故に遭遇した夜に一人で寝ていると、物凄い叫び声が部屋の中に響いて、
驚いて飛び起きても周りに誰もいない。  
怖くてその夜は家族と同じ部屋で寝たんですが、次の日に一人で寝ていると、また叫び声で目が覚める。  
いったい、自分が叫んでいるのか、それともここにはいないはずのだれかが叫んでいるのか…… 
そして何を叫んでいるのかも最後まで分からない。 
それでノイローゼになってしまった、ということでした」
「それは知り合いが体験した話?」
「いえ、友だちから聞いたと言っていました」

「フレンド・オブ・フレンドだな。典型的な怪談話だ。 
当時めちゃくちゃこの噂が流行ってて、猫も杓子もみんな『知り合いから聞いた話だけど』
って言って広めてたな。  
わたしも気になって、この話を片っ端から蒐集したんだよ。 
この生首と目が合った後のパターンは決まってて、さっきの叫び声で目が覚めるってのがテンプレートだ。  
他にも、ゴミ箱みたいな人間が入り込めないくらい狭い場所から誰かに呼びかけられるってパターンとか、 
直接その男の生首が部屋の窓の外に現れて、パクパク口を動かしてるんだけど、
ガラス越しだから聞こえないって話も、ごく少数だけどあった。バリエーションだな。 
いずれにしても、みんな実際にあったその事故を目撃してから怪現象に襲われるっていう筋だ」

なるほど。
そう言えば、大学に入ってからもどこかでこの話を聞いたことがあるような気がする。

「まあ、生首と目が合うっていうインパクトありきで生まれる噂話なんだろうが、 
当然『友だちから聞いた』、『知り合いから聞いた』っていう話の元を辿っていっても、  
その友だちも実は別の友だちから聞いたって言いだして、結局実際の体験者には辿り着けない。
……ところがだ」
師匠はそこで言葉を切り、空になったそうめんの器をチンチンと箸で叩いた。
「仮に、その知り合いの話、友だちの話がすべて本当だったとして考えてみると、こういうことになる」
師匠は部屋にあった目玉のオヤジのぬいぐるみを手に持って、空中に浮かばせる。
「事故が起こったのは、帰宅ラッシュも終わり、ホームに客が少なくなった時間帯だった。 
その乗車口近くにいたのは数人だったと思われる。  
そこでその中の一人が線路内に飛び出し、通過する貨物列車に跳ね飛ばされる。 
千切れ飛んだ生首の視線を再現すると、こうだ」


80 :テレビ ◆oJUBn2VTGE :2013/01/26(土) 22:36:06.79 ID:Zc2Cu2zX0
目玉のオヤジの目の上に鉛筆を立てて空中を横切らせる。
「視界自体は傘のように広がってるけど、目が合うという状況は視界の正面でなくてはならない。
つまり線だ。  
この線の上にたまたま他の人の目があったわけだが、 
人もまばらなホームで、
首が宙を飛んだ一瞬に視線と視線が合うという偶然自体がなかなか起こりえないことだ。 
いて一人だね。  
ホームで横にずらっと客が並んでたら別だが、もちろんそんなことはない。
ということは、どういうことだ?」

話を振られて、僕と隣人は顔を見合わせる。
「だから、その運の悪い一人と目が合ったんでしょ」
「そうだ。そして生首と目が合った人は、その夜に怪奇現象に襲われる。
それが続くストレスでノイローゼになってしまう。  
だけど、その怪奇現象自体が、 
そもそも人身事故を目撃するというショキングな体験をしてしまったことによる、
ストレスが引き起こしたとも考えられる。 
ありえる話だろう。おかしなことじゃない。  
おかしいのは、その生首と目が合ってしまった人物が、 
大島の知り合いの友だちであり、大学生の川村君の友だちであり、小学生のみゆきちゃんの友だちであり、 
主婦の麻子さんの友だちであり、ゲートボール愛好会の政吉じいさんの友だちであり、 
アフリカからの留学生のバラク君の友だちであるということだ」

なぜか、ぞくりとした。
今出た名前はすべて師匠が蒐集した噂話の話し手なのだろう。
なんだかほのぼのとした顔ばかり浮かぶが、その分余計に気味が悪いような気がした。

「年齢や、属している社会にもまったく接点のない不特定多数の人々と、 
共通の友人であるその誰かは、自分自身には名前がない。  
ただ彼らの知り合い、友だちである、というパーソナリティしかない。 
そして貨物車に跳ねられ、即死したはずの人の生首と、目が合ったという。 
その誰かの方が、よほど妖怪的ななにかだと思うね」
師匠は鍋からそうめんのおかわりを器に取り分けながら、そう言った。

「気持ちが悪いですね」
僕がそう言うと、隣人も頷いている。
それからさらに師匠は人身事故にまつわる怪談話をいくつか披露して、
そのあい間あい間にそうめんを食べ続けた。


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師匠シリーズ

73 :テレビ ◆oJUBn2VTGE :2013/01/26(土) 22:15:25.10 ID:Zc2Cu2zX0
師匠から聞いた話だ。


大学二年の夏だった。
オカルト道の師匠であるところの加奈子さんが、
人からもらったという大量のそうめんを処分しようと、「第一回大そうめん祭り」と称して僕を呼びつけた。
痛むようなものでもないし、そんなに焦って食べなくてもいいのに、と思っていたのだが、
実際に山と積まれたその袋の量を見て「あ、無理だ」と思った。

師匠の住むボロアパートの一室で、次々と茹でられていくそうめん。
最初は「うまいうまい」と喜んで食べていたのが、
「一日中食べまくろうぜ」という楽しいコンセプトには意外な欠陥があり、
二十分も経ったころにはギブアップ宣言が出かかっていた。
「腹が張りました」
一応言ってみたが、祭りの実行委員の判断は続行だった。
それからはテレビを見ながら食べては休み、食べては休みという行為をだらだらと繰り返していた。

「小島、もっと食え」
「中島です」
いつも師匠に食べ物をたかりに来ている隣の部屋の住人も呼ばれていたのだが、
さすがにそうめんばかり食べ続けるのにはげんなりしてきたようで、箸が止まりがちになっている。
「固いものが食いたい」
僕がぼそりと口にした言葉に、二人とも無反応だった。
みなまで言うな、というやつだ。

部屋は停滞した雰囲気に包まれ、師匠などはいつの間にかテレビの前に横になって、
立てた腕を枕にヨガのようなポーズで、床に置いた器からずるずるとそうめんを啜っていた。
年頃の女性のする格好ではないが、なんだか似合うので不思議だった。

最初につけていたチャンネルでは海外のドラマの再放送をやっていた。
途中から見たので話はよく分からなかったが、
どうやら牧場主である主人公の幼い息子が流行り病で死んでしまう、という悲劇的な回のようだった。
『神はいないのか!』
息子の亡骸を抱えて空に吠える主人公が迫真の演技で、
物語の背景も分からないのに思わず涙ぐんでしまいそうになった。
しかし師匠は床に頬杖をついた格好のまま、音を立ててそうめんを啜り上げ、
咀嚼のあい間にそのシーンについてのコメントを口にした。





74 :テレビ ◆oJUBn2VTGE :2013/01/26(土) 22:19:12.28 ID:Zc2Cu2zX0
「慈悲深い神の不在を嘆くやつらは、どうして無慈悲な神の実在を畏れないのかね」
楽天的なことだ。
師匠は鼻で笑うように呟いた。
その言葉に小島だか中島だかという名前の隣人も、
その何を考えているのか分からない卵のようなのっぺりした顔で小さく頷いている。


そのドラマが終わると、今度は台風のニュースが始まった。
わりと大型で、今は石垣島のあたりにいるらしい。
映像では横殴りの雨の向こうに荒れた海が映っていた。
「おお~」という声を上げて、師匠が楽しそうに手に持った箸でテレビ画面を指した。
「台風と言えばさあ。何年か前、沖縄の方のもっと小さい島に滞在してた時に遭遇してさあ、
死ぬかと思ったことがあるよ」
「滞在って、なにしてたんですか」
「その島では殯(もがり)の習慣が受け継がれているって噂を聞いてな。一度見てみたかったんだ」
「殯って言うと、あれですか。残された家族が死体と一緒に過ごす儀式ですよね」
その死体を安置する建物を喪屋(もや)というらしい。

「でもダメだった。よそ者には見せてくんないんだ。
それでも船着場の近くでテント生活して居座ってたら、知らない間に大型台風が近づいててさ。
さすがにそれは教えてくれて、村長さんの家に避難させてもらったんだ」
「別に死ぬような目にあってないじゃないですか」
「その後だよ。客間を貸してもらって、久しぶりの布団で思い切り足を伸ばして寝てたら、
家の外がなんかワイワイうるさいんだ。
夜の十二時を回って、雨も風もかなり強くなってきてたけど、
その吹き付ける音とは別に、複数の人間が大声で怒鳴ってるのが聞えてくる。
なんだろうと思って自分も外へ出てみたら、村長さんの家の裏手に家族とか近所の人が集まってた」
「裏山が土砂崩れしかかってたとかですか」
「ああ、ようするにそういうことなんだけど、ちょっと様子が変なんだ」
師匠は目の前に右手を広げて、宙を撫でるような仕草をする。



76 :テレビ ◆oJUBn2VTGE :2013/01/26(土) 22:26:26.30 ID:Zc2Cu2zX0
「村長さんの家の裏山は石垣で覆われていて、ちょっとした砦みたいになってるんだ。
元々本当に土地の領主の砦があった場所らしい。その痕跡だな。
で、その石垣が今で言う擁壁、つまり土止めの代わりになってるんだけど、
さすがにコンクリート製のような頑丈さはないから、こういう台風の時には崩れる危険性があるってんで、
みんな心配して、レインコートを着込んで見に来たらしい。
そこまではすぐに分かったんだけど、何故かみんな石垣の方を見たままぼうっと突っ立ってるんだ」
「なにをしてたんですか」
「ただ立ってるだけ。ガタガタ震えながら」
震えていた?今にも石垣が崩れそうだったからだろうか。
でもそれなら早くその場から逃げないといけないだろう。

「わたしもそう思って、村長さんのレインコートの端を引っ張って、逃げましょうって言ったんだけど、
動かないんだ。じっと、石垣の一点を見つめてる。
その視線の先を追いかけた時、ぞくっとしたね」
師匠は首を捻り、顔を地面に平行になるように傾けた。

「顔がね。石垣の中にあるんだ。人間の顔だ。
みっしりと組まれた石積みの中に、こんな風に横になった顔が嵌っている。
まるで始めから、そこにあったみたいに。
その顔が、苦痛に歪んで、なにか呻いてるんだ。
その悲鳴みたいな声が、風雨の中に混ざって聴こえてくる」

痛い……
痛い……
そう言ってたんだ。

「次の瞬間、その顔が潰れた。上の石に押し潰されて。目が飛び出したところまで見えたよ。はっきりと。
潰された顔がぐしゃぐしゃになって、石垣の間から流れ出した。
すぐにその歯抜けみたいになった石垣の間から、噴水みたいに土の混ざった水が噴き出してきて、
身の危険を感じたんだ。
『走れ』って叫んだら、やっとみんな我に返ったみたいに反応して、逃げ始めた。
間一髪だったよ。
走って逃げるすぐ後ろから石垣が崩れる物凄い音がして、それが近づいてくるんだ。
生きた心地がしなかった」
淡々と語る師匠だったが、恐ろしすぎる体験だ。

結局、村長さんの家までは土砂はやって来ず、全員そこまでなんとか逃げ延びて、ことなきを得たらしい。
「その顔はなんだったんですか」
恐る恐る訊くと、師匠は難しい顔をする。


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師匠シリーズ

28 :祖母のこと◆oJUBn2VTGE :2013/01/19(土) 23:11:03.32 ID:ClDTjW9z0
師匠から聞いた話だ。


その女性は五十代の半ばに見えた。
カーキ色の上着にスカート。特にアクセサリーの類は身につけておらず、質素な装いと言っていい。
「こんなお話、していいのか…… ごめんなさいね。でも聞いていただきたいんです」
癖なのか、女性は短くまとめた髪を右手で押さえ、話しにくそうに口を開く。
大学一回生の冬。
バイト先である、小川調査事務所でのことだ。

僕と、そのオカルト道の師匠であるところの加奈子さんは二人並んで依頼人の話を聞いていた。
だいたい、うちの事務所に相談に来る依頼人は、興信所の中では電話帳で割と前の方に出てくるという理由でとりあえず電話したという場合か、
あるいは他の興信所で相手をしてくれなかった変な依頼ごとを持っているか、そのどちらかだった。
今回はその後者のようだ。 




「あのう…… 実は私の祖母のことなんです」
来客用のテーブルを挟んで僕らと向かい合ったその女性は、出されたお茶も目に入らない様子で、うつむき加減におずおずと話し始めた。



女性は名前を川添頼子といった。
頼子さんは昔、小学校に上がる少し前に今の川添の家に養女としてもらわれて来たという。
実の両親のうち母親が亡くなってから、残された父親は小さな女の子の養育を放棄し、
かつての学友の遠い縁をたよって養女に出したのだった。

実の父や母の記憶はほとんどない。
ただ自分がいつも泣いていたような、おぼろげな記憶があるばかりだった。
川添家の養父と養母には子どもがなく、まるで自分たちの子どものように可愛がってくれた。
けして裕福な家ではなかったが、学校や習いごとなどは他の子と同じように行かせてくれた。
初めて人並みの人生を歩むことを許されたのだった。



29 :祖母のこと◆oJUBn2VTGE :2013/01/19(土) 23:14:00.16 ID:ClDTjW9z0
その養父と養母がこの一年の間に相次いで亡くなり、
一どきは深い悲しみに包まれたが、やがて落ち着いてその二人に育てられた日々を思い返し、
頼子さんはたとえようもない感謝の気持ちを胸一杯に抱いた。
そうして、このごろは昔のことを思い返すことが増えたという。
特に養女としてもらわれて来る前の生活のことを。

年を取った証だと夫はからかったが、
次第に大きくなっていく過去への慕情を押さえられなくなっていった。
ある日思い立ち、自分の実の父のことを調べ始めた。
しかしやはり父はもう他界していた。
もし生きていれば九十に届こうかという年齢だったので仕方のないことだった。
自分の五十数年の人生を思い、それだけの年月が過ぎていることが今さらながらに身に染みた。
そして顔もおぼろげなその父のことよりも強い輝きを持って思い出されるのが、
祖母のことだった。

父方の祖母だったのか、母方の祖母だったのかそれさえはっきりしないのだったが、
優しげな顔や、膝の上に抱いてもらった時の服の匂い。
そして皺だらけの手で頭を撫でてもらったその感触が、懐かしく思い出された。
両親にかまってもらえなかった頼子さんは、よく歩いて祖母の家に遊びに行ったという。
どういう道をたどって行ったのか、今ではそれも忘れてしまったが、
ただ覚えているのは、祖母の家の小さな縁側に両手をかけて祖母の名を呼んだこと。
そしてしばらく待っていると、ゆっくりと板戸が開き、
祖母がにっこり笑って顔を覗かせたあの柔らかな時間だった。

祖母はその小さな家に一人で住んでいた。
祖母もまた孤独だったのか、その来訪をとても喜んでくれたものだった。
祖母との記憶は断片断片ではあったが、なにげない日常のふとした瞬間に前触れもなく蘇った。
例えば夜中に寝付けず、布団の中でふと目を開けた時に。
例えば雑踏の中、信号機が赤から青に変わる瞬間に。
そんな時、自分がとても幸せな気持ちになるのが分かった。
そしてどんなに懐かしく思っても、もう会えないのだということを思い出し、少し悲しくなったりするのだった。



30 :祖母のこと◆oJUBn2VTGE :2013/01/19(土) 23:19:44.34 ID:ClDTjW9z0
ある日、そんな祖母との思い出の中に、
一つの恐ろしい記憶が混ざっていることに気がついた。
ずっと忘れていた記憶。
養女に出され、全く変わってしまった生活の中で少しずつ忘れていった他の記憶とは異なる。
自分から進んで頭の中の硬い殻に閉じ込めた、
その気味の悪い出来事……

頼子さんはそのことを思い出してから、毎日悩んだ。
祖母のことを懐かしく思い出していても、いつの間にか場面はその恐ろしい出来事に変わっている。
そんな時、心臓に小さな針を落とされたような、なんともいえない嫌な気持ちになるのだった。

それは祖母の通夜のことだ。
いつも一人で歩いた道を、父と母に連れられて行く。
二人の顔を見上げている自分。暗い表情。とても嫌な感じ。なにか話しかけたような。
答えがあったのか、それも忘れてしまった。
そして祖母の部屋に座っている自分。狭い部屋にたくさんの人。黒い服を着た大人たち。
確かに祖母の部屋なのに、見慣れたちゃぶ台が、衣装掛けが、見えない。
その代わり、見たこともない祭壇があり、艶やかな灯篭があり、大きな花があり、棺おけがある。
母が言う。
「お祖母ちゃんは死んだのよ」

通夜だった。初めての。初めての、人の死。怖かった。
よく分からない死というものがではなく、
黒い服を着た大人たちがぼそぼそと喋るその小さな声が。伏し目がちな顔が。その部屋の息苦しさが。
畳の目に沿って爪を差し入れ、引く。俯いてそのことを繰り返していた。
やがて父と母に手を引かれ、棺おけのそばににじり寄る。
箱から変な匂いのする粉を摘んで、別の箱に入れる。
煙が立ち、匂いが強くなる。
棺おけの蓋は開いていて、両親とともにその中を見る。
白い花がたくさん入っている。その中に埋もれて、同じくらい白い顔がある。
見たことのない顔だった。
「お祖母ちゃんにお別れを言うのよ」
母がそう言う。

お別れ?
どうして。
首を傾げる。
お祖母ちゃんはどこにいるのだろう。
横を見ると、父が薄っすらと涙を浮かべている。



31 :祖母のこと◆oJUBn2VTGE :2013/01/19(土) 23:21:42.19 ID:ClDTjW9z0
なんだか怖くなった。
そう思うと膝が震え始める。
怖い。怖くてたまらない。
この人は誰だろう。花に囲まれたこの人は。
大人たちが入れ替わり立ち替わり粉を落とし、こうべを垂れ、花を入れ、小さな言葉を掛けていくこの人は。

怖くて後ずさりをする。
涙を浮かべながら、みんな誰に挨拶をしているのだろう。
座っていた誰かの膝につまずき、仰向けに転がる。
見上げる先に、染みのような木目が長く伸びた天井があった。祖母の部屋の天井だ。
その隅に白い紙が貼られている。
そこに気持ちの悪い文字が書かれていた。
漢字だ。その絡まりあった黒い線の一本一本が、ぐにゃぐにゃと動いているような気がした。
怖かった。
どうしようもなく怖かった。
なにもかも忘れてしまいたくなるくらいに。




依頼人は俯いてそっと息を吐いた。まるで凍えているような口元の動きだった。
話が終わったことを確認するためか、師匠はたっぷり時間を開けてから口を開いた。
「お祖母ちゃんではなかったと?」
「はい」
声が震えている。
「棺おけの中にいたのは、祖母ではありませんでした」
「そんな」
僕は絶句してしまった。
それでは、一体誰の通夜だったのだ。

「お祖母ちゃんではなかったというのは、確かですか。
つまり、その、死んだ人を見たのは初めてだったのでしょう。
死因にもよりますが、死後には生前の顔と全く違って見えることもあります。
死化粧というものもあります。そのため、まるで別人に見えてしまったのではないですか」
そういう師匠の言葉に、頼子さんは頭を振った。

「いえ。同じくらいの年齢のお年寄りではありましたが、確かに祖母ではありませんでした。
今でも白い花に囲まれた顔が瞼の裏に浮かびます」



32 :祖母のこと◆oJUBn2VTGE:2013/01/19(土) 23:23:37.79 ID:ClDTjW9z0
「しかし、あなたは大好きだったお祖母ちゃんの死を認めることが出来ず、
別人だと思い込んだのではないですか。
そうした思い込みは小さな子どもならありうることでしょう。
まして、ずっと忘れていたような遠い記憶なら……」
なおも慎重に訊ねる師匠に、頼子さんはまた頭を振るのだった。

「祖母の右の眉の付け根には、大きなイボがありました。
私はそれが気になって、何度も触らせてもらった記憶があります。
しかしその日、棺おけの中にいた人の顔にはそれがありませんでした。
もちろんそのことだけではありません。
本当に全くの別人だったのです」
きっぱりとしたそう言いながら胸を張る。
しかし次の瞬間には目が頼りなく泳ぎ、怯えた表情が一面に広がった。

それでは一体どういうことになるのだ。
親戚がお祖母ちゃんの家に集まり、お祖母ちゃんの通夜と偽って全くの別人を弔っていたというのか。
その状況を想像し、僕は薄気味悪くなる。
いや、そんな生易しい感覚ではなかった。
はっきりと、忌まわしい、とすら思った。

「……」
師匠は首を傾げながら、なにごとか考え込んでいる。
「それでは、ご依頼の内容というのは?」
代わりに僕はそう訊ねる。
「ええ」と頼子さんは顔を上げた。
「その時起きたことを調べて欲しいのです。
その出来事のあと、私は祖母と会った記憶がありません。
いったい祖母はどうしてしまったのか?
それから、その通夜の日、祖母の代わりに棺おけに入っていた死人が誰なのか」

祖母の家はもうずっと以前に取り壊され、そのあたりは道路になってしまっていた。
そして頼子さんはついこの間、当時のことを知っている親戚をようやく探し当てたという。
しかし耳も遠くなっていたその親戚は、せつ子さんの通夜におかしなことはなかったと繰り返すだけだった。

「私がお祖母ちゃんと呼んでいたその人が、父の祖母にあたる人だったと、今ごろ知ったんです。
つまり正しくは私の曾祖母ですね。
そう言えば、せつ子という名前さえ知らなかったのですよ。いつもただお祖母ちゃんとだけ、
そればかり……」
また視線を落とし、頬を強張らせる。



33 :祖母のこと◆oJUBn2VTGE:2013/01/19(土) 23:25:21.64 ID:ClDTjW9z0
事務所の中に沈黙がしばし訪れた。遠くで廃品回収のスピーカーの音が聞える。
師匠が口を開く。
「その、天井に貼ってあったという紙ですが、なんという文字が書かれていたのですか」
「はい。ええ。それが、はっきりとはしないんですが。
私はなにしろまだそのころ小学校にも上がっていない年でしたので。ただ……」
口ごもった頼子さんを師匠が促す。
「ただ、なんです」
「ええ。それが、その、霊という文字だったと」
「霊?」
「はい。幽霊とか、霊魂とかの、霊です」
少し恥ずかしそうにそう言った。
しかしその顔には得体の知れないものに対する畏怖の感情も同時に張り付いている。

「霊?」
師匠は眉をひそめた。
僕もまた、なんだか気味の悪い感覚に襲われる。
霊とは。その場に相応しいようで、またずれているようで。
いったいなんなのだろうか、その天井に貼られた文字は。

「その文字ですが、もしかしてその日だけではなく、いつも貼られていたのではないですか」
師匠が不思議なことを訊く。
いつも?いつも天井にそんな霊などという文字が貼られていたというのか。
「いえ。どうでしょうか。そう言われてみると」
頼子さんは驚いた顔をしながら記憶を辿るように視線を彷徨わせる。
そしてハッと目を見開き、「あった、かも知れません」と言った。
「どうしたのかしら、私。そうだわ。祖母に尋ねたことがあった。この紙はなに?
この紙は。この紙はね。この紙は」
頼子さんは独り言のようにその言葉を繰り返す。

「川添さん。もう一つ確認したいことがあります。
その通夜のあった部屋は、確かにお祖母ちゃんの部屋でしたか」
「ええ。それは間違いないと思います」
「お祖母ちゃんは小さな家に一人で住んでいたとおっしゃっていましたが、
その家は平屋でしたか。それとも二階建てでしたか」
「ええと、それは」
頼子さんは自信のなさそうな顔になる。はっきり思い出せないようだ。



34 :祖母のこと◆oJUBn2VTGE:2013/01/19(土) 23:28:15.85 ID:ClDTjW9z0
「あなたがいつも縁側から訪ねていったという部屋ですが、そこで通夜が行われたのですよね。
その部屋の他に、どんな部屋がありましたか」
「あの、ええと」
不安げな表情のまま、頼子さんは必死に記憶を辿ろうとしている。
「他の部屋は……覚えがありません。いつも祖母はその部屋にいました。私もそこにしか行ったことが……」
そうしてまた口ごもる。

その様子をじっと見つめながら、師匠はふっ、と小さく息をついた。
「川添さん。
あなたのご依頼である、その奇妙な通夜のあと姿が見えなくなったというお祖母ちゃんが
いったいどうしてしまったのか、という点についてはお答えできる材料がありません。
ですが、お祖母ちゃんの代わりに棺おけに入っていた死者が誰なのか、ということについては
お答えできると思います」
「え」
僕と頼子さんは同じように驚いた声を上げる。
そして師匠の顔を見る。

「その前に、天井に貼ってあったという紙の文字について見解を述べます。
それは『霊』という文字ではありません。
小さな子どもには見分けられなくても仕方がないでしょう。
『霊』と良く似た漢字。『雲』です」

くも?
どうしてそんなことが断言できるのか。意味が分からず、狐につままれたような気分だった。

「その部屋には神棚があったはずです。
ご存知かと思いますが、神棚は一番高いところに設置されるものです。出来るだけ天井近くに。
そしてそれだけではなく、その建物の最上階に設置されるべきものなのです。
もし最上階に設置できない場合、
そこが天に近いということを表すため、『雲板』と呼ばれる板を神棚の上部に飾ります。
雲をかたどった意匠を施してある板です。
あるいは、『雲文字』と呼ばれる文字を天井に貼るのです。
『天』や『雲』などと書いた紙を天井に貼ることで、その部屋が天に近い場所であるということを表すのです。
これらは古い習慣ですが、今でもまれに見ることができます。
その通夜があったのは、五十年近くも前のことです。まだそうした習慣が色濃く残っていた時期でしょう」



35 :祖母のこと◆oJUBn2VTGE:2013/01/19(土) 23:33:37.54 ID:ClDTjW9z0
師匠が言葉を切って依頼人の方を見る。
頼子さんは「雲」と呟いて、どこか遠くを見るような顔をしている。

「そしてそれは、お祖母ちゃんの部屋がその家の最上階にはなかったことを示しています。
小さいころの川添さんが縁側から訪ねたという部屋は、一階にあったことは疑いありません。
しかし、その家は平屋ではありませんでした。
なぜなら、『雲文字』を天井に貼らなくてはならなかったからです。つまり二階部分があったのです。
なのに神棚は一階の部屋に設置されていた。 家の、もっとも高い場所に置くべきものが、です。
ここから想像できることは、こうです。『お祖母ちゃんはその家の間借り人だった』。
だから、神棚を一番高い場所に置きたくても、
家の人間ではなかったお祖母ちゃんは、一階の間借りしている部屋に置くしかなかった」
師匠は淡々とそう語った。

「その家にはお祖母ちゃん以外に、他の住人がいたのです。あなたが記憶していなくても。
お祖母ちゃんの代わりに棺おけに入っていた死者が誰なのか、もうお分かりですね。
いえ、正確にはあなたが『おばあちゃん』と呼んでいた人物の代わりに、棺おけに入っていた人のことです。
せつ子さん、とおっしゃいましたか。
お父さんの祖母、あなたにとっては曾祖母にあたる女性。
棺おけに横たわり、残された親類や親しかった人々に死に顔を見てもらっていたのは、その人です」
頼子さんは目を見開いた。
そして口が利けないかのように喉元が震えている。

「あなたがただ、おばあちゃん、と呼んでいた、名前も知らなかった女性は、
もちろん曾祖母のせつ子さんではありません。
また、あなたの祖母にあたる人でもなかった可能性が高いと思います。
ひょっとすると、全くの他人だったかも知れません。
ただ本当の曾祖母の家の一部屋を間借りしていたというだけの……
先に断ったとおり、そのおばあさんがどこに行ったのかは分かりません。
せつ子さんの通夜の日、間借りしていた部屋がすっかり片付けられ、
たくさんの弔問客を受け入れていたことを考えると、
おばあさんはその時すでに、もう家から引っ越したあとだったのかも知れません。
病院か、別の借家か。あるいは……」
そう言って師匠は、そっと指を天に向けた。



36 :祖母のこと ラスト ◆oJUBn2VTGE :2013/01/19(土) 23:36:15.74 ID:ClDTjW9z0
「古い話ですし、全くの他人であった場合、どこに行かれたのかを調べるのは難しいでしょう。
満足の行く調査結果を出すことはできないかも知れません。
それでも、私に依頼をされますか」
静かにそう告げる師匠に、頼子さんは戸惑いながら膝の上に置いたハンドバックを触っていた。

その手のひらがやがてしっかりと握られ、ハンドバックの上で静止する。
かすかに上ずった声が唇からこぼれた。
「私にとって、祖母はその人です。
縁側の戸を開けて、いつも私に微笑みかけてくれた、優しいおばあさん。
例え名前も知らない、赤の他人だったとしても」
そこで言葉を切り、ゆっくりと口の中で咀嚼してから頼子さんが発したのは、とても穏やかな声だった。
「私たちは、ひとりぼっちを持ち寄って、それでもひとときの幸せを共有していたのだと思います」

そうして依頼人は、「お願いします」と頭を下げた。



師匠シリーズ


862 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:17.00 ID:/4sM9Swo0
大学四回生の冬だった。
そのころの俺は、卒業に要する単位が全く足りないために早々と留年が決まっており、
就職活動もひと段落してまったりしている同級生たちと同じように、悠々とした日々を送っていた。
とは言っても、それは外面上のことであり、
実際はぼんやりとした将来への不安のために、真綿でじわじわ締め付けられるような日々でもあった。
親しい仲間と気の早い卒業旅行を終え、あとは卒論を頑張るだけだ、と言って
分かれていく彼らを見送った後、俺の心にはぽっかりと穴のようなものが空いていた。

変化しないことへの焦燥と苛立ち。
そしてその旅の途中で知ることになった、かつて好きだった人に子どもが出来ていたという事実に対する、
なんだか自分でも説明し難い感情。
そのころの俺をはたから見ていれば、「無気力」という言葉がぴったりくる状態だっただろう。
しかし、この身体の中にはさまざまな葛藤や思いが渦を巻き、
それが外へ噴き出すこともなく、ただひたすら体内で循環しつつ
二酸化炭素濃度を増しているのだった。
『デートしよう』
というメールを見ても、その無気力状態からは脱せず、
やれやれという感じで敷きっぱなしの座布団から腰を上げた、というのが実際のところだった。

指定されたカレー屋に向かうと、メールの送り主がめずらしく先に来ていて、
奥まった席に一人でちょこんと座っていた。
その少女は黒で固めたゴシックな服装をしている。今日はなにやら頭に黒い飾りもつけているようだ。
店内の不特定多数の視線がそわそわと彼女に向いているのが雰囲気で分かる。
格好の珍しさだけではなく、それが良く似合っていて可愛らしい風貌をしていることが原因だろう。
そんな子が一人で座っているのだから、仕方のないことだった。
そういう視線が集まっているところへ、
こんな冬の間ずっと着ていてヨレヨレになっているジャケットの眼鏡男が無精ヒゲを生やして、
のっそりと歩いて行くのはさすがに気が引ける思いがした。

「おっす」
黒い子がこちらを見て軽く手を挙げた。相変わらず軽い感じだ。
彼女の『デートしよう』というのは、『こんにちわ』と訳せるのを知っている俺は、
「うす」とだけ言って向かいに腰掛けた。
一瞬背中に集まった視線が、また徐々に霧散していくのを感じながら、「今日はなんだ」と訊いた。





863 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:18.00 ID:/4sM9Swo0
その子は音響というハンドルネームで、ネット上のオカルト関係のフォーラムに出入りしている変な子だった。
かく言う俺も、かつてその手の場所には良く出入りしていたが、
もう興味も気力も絶えて久しく、ほとんど足を踏み入れなくなっていた。

「瑠璃ちゃんが帰ったよ」
音響がカレーの注文を終えてから口を開いた。
「帰ったって、ニューヨークへか」
「うん」
そうか。あの子はもうこの街からいなくなったのか。
俺は音響と双子の姉妹のような格好をしていた少女のことを思い出す。

あの不思議な瞳をした少女は一年半前にふいにこの街にやって来て、
それを待ち構えていた恐ろしい災厄を、はからずも自ら招き寄せたのだった。
それも様々なものを巻き込んで。
その時のことを思い出して、ゾッと鳥肌が立つ。
この街にじっと潜んでいた、見えざる悪意のことをだ。
今でも現実感がない。
それと関わったがために去って行った人たち。そして死んでいった人たち。
頭の中で指折り数えても、どこか夢の中の出来事のようだ。
確かに人となりは浮かぶ。伝え聞いたとおりに。そして会ったことがある人は、その顔も。
しかし、どれもまるでぶ厚いガラスの向こう側にある景色のようだ。

怪物の生まれた夜に集った人たちはもう全員いなくなってしまった。
それだけではない。ヤクザも。通り魔も。あの吸血鬼でさえ。
一人、一人と、順番に。
時に、まったく無関係であるかのように、ひっそりと。
だが、確実にその見えざる悪意は、敵対したすべての存在をこの街から消していった。
その誰もが俺なんかよりずっと凄い人たちだった。なのに。
なのにだ。

思わず怖気(おぞけ)で身体が震える。
そんな恐ろしい相手から、最後の標的である瑠璃という名前のその少女を、
俺と音響の二人だけで死守する羽目になったのだ。
今にして思っても考えられない事態だ。
頼みの綱である俺の師匠さえ、その時点ですでに使い物にならない状態だったのだから。
じっとりと手のひらが汗ばんでいる。思い出すだけでこれだ。

「卒業って、どうなったの」
音響がスプーンを置いて突然そう訊いて来た。
急に現実に引き戻される。
そう。どこにでもいる、留年組の大学生の自分に。



864 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:19.00 ID:/4sM9Swo0
「あと二年はかかるな」と答えると、「ダッサ」と言われた。
お返しに「お前はどうなんだ」と訊いた。
「今年受験だろ。こんなところで油売ってる暇があるのか」
「いいの。余裕だから」
「どこ受けるんだ」
「師匠んとこの大学」
「師匠って言うな」
この小娘は、このところ嫌がらせで俺のことを師匠と呼ぶのだ。
もちろん全部知った上でのことなので、始末に悪い。
明らかにニュアンス的に尊敬の成分はゼロだ。俺がそう呼んでいた時以上に酷い。

「ていうか、うちの大学が余裕かよ。腐っても国立だぞ」
それにそんなに余裕ならもっと上の大学を受ければいいじゃないか。
そう言おうとしたら、先回りされた。
「お母さんが、地元にしなさいって」
あっそ。

地元民の国立大生の女は学力的にワンランク上の法則ってやつか。
アホそうな見た目に忘れてしまいそうになるが、こいつは帰国子女で英語ペラペラだったな。
住んだことのある国の言語を読み書きできるという、ただそれだけで、
点数配分の多い課目で大きなアドバンテージになるというのは、ずるい気がする。

「そう言えば、あの角南さんは卒業?」
「ああ」
不貞腐れて頷く。
普通の大学生は四年経ったら卒業するの!
そう言って、きつめのスパイスに痛めつけられた喉に水を流し込む。

「で、用件はなんだ。このあとデートでもしようってか」
この小娘に呼び出される時は、その九割が妙なことに首を突っ込んだ挙句の尻拭いのお願いだった。
「それなんだけどね」
音響はそう言って平らげたカレーの皿をテーブルの隅に押しやる。
そして黒いふわふわしたバッグから一冊の本を取り出して目の前に置いた。
やはり残りの一割ではないらしい。
しかし出されたその本を見て、おや、と思った。見覚えがあるのだ。



866 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:21.00 ID:/4sM9Swo0
「『ソレマンの空間艇』じゃないか」
子どものころに読んだジュブナイルのSF小説だ。
タイトルが印象的だったから覚えていたが、内容はすぐには浮かんでこなかった。
日本人の子どもが宇宙船に乗り込んで大冒険をする話だったような……
「へえ、そうなんだ」
なんとか思い出そうとしている俺を、全く興味なさげに音響は切って捨てた。
「自分で持って来たんだろ」
ムカッとしたのでそう言い返すと、音響は不思議なことを口にした。
「この本の内容のことなんだけど、この本のことじゃないの」
一瞬、うん?と目を上の方にやってしまった。
なにか禅問答のような言葉だ。
「私の友だちから相談を受けたんだ。その子の弟のことで」
音響はそうしてその禅問答の説明を始めた。





そのクラスメイトの女子生徒には小学生の弟がいた。
それがなんだか最近弟の様子が変だったのだそうだ。よそよそしかったり、話しかけると怒ったり。
単に反抗期だと思っていたが、
ある日弟の部屋に入ろうとすると、急になにかを隠して「出てってよ」と怒った。
背中に隠したのは本のようだった。
どこからかいやらしい本を手に入れて見ていたのだろう。
なるほどそういうことか、と思ってその時はそれ以上深く詮索しないであげた。
ところが、その数日後、夜中にふと目が覚めてしまった彼女は自分の部屋から出てトイレに行った。
その途中、弟の部屋の前を通ったのだが、ドアが少し開いていた。
いつもなら閉めてやりもせず、そのまま通り過ぎるところだが、
中からなにかの気配を感じて彼女は立ち止まった。

弟が起きているのだろうか。
そう思ったが、電気は消えている。部屋は真っ暗だ。
そっとドアに近づき、隙間から中を伺おうとする。
しかし、廊下側の明かりのせいで自分がドアの前に立つと、
中からはきっと人が来たことが分かってしまうだろう。
そう思い、ドアのすぐ横に身体を貼り付けるようにして聞き耳を立てたのだった。



867 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:22.00 ID:/4sM9Swo0
その時、彼女の耳は奇妙な音を拾い上げた。

シャリ……
シャリ……

聞き馴染みのある音。
けれど今この状況では聞えるはずのない音。
彼女は妙な悪寒に襲われた。

シャリ……
シャリ……

紙の捲れる音。
紙の表面が指と擦れ合う音。

シャリ……
シャリ……

――――本を読んでいる時の音だった。
部屋の中は真っ暗なのに?

彼女は背筋を走る痺れに身を震わせる。
弟が布団を被ってその中で懐中電灯をつけているわけでもない。
光も全く漏れないように布団を被っているなら、そんな繊細な音も部屋の外へ漏れ出ては来ないだろう。
弟は、暗闇の中で本を読んでいるのだ。
心臓がドキドキしている。
彼女は思い出していた。弟の通う小学校で密かに語られている噂話のことを。
『夜の書』と呼ばれる本のことだ。学校の七不思議の一つだった。

図書館に一冊の本がある。
それは昼間にはただの普通の本なのだが、
夜みんなが寝静まってから一人で部屋を暗くしてページを捲ると、まったく違う本になるのだ。
真っ暗で何も見えなくてもその本は読めるのである。
その本の中には、とても恐ろしくて、そしてゾクゾクするほど楽しい遊びの仕方が書いてある。



868 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:23.00 ID:/4sM9Swo0
最後まで読むと、信じられないようなことが起こるらしい。その先は色々な噂があってはっきりしない。
悪魔が出てくるとか、死神が出てくるとかいう話もあれば、
本の言う通りのことをすると、窓の外にUFOが現れる、という話もあった。
未来や過去の世界に行った子どもの噂も聞いたことがある。
いかにも子どもっぽい噂話だ。

けれど彼女自身その小学校の卒業生だった。
そしてその本を読んでしまったせいで頭が変になり、
二階の教室の窓から飛び出して大怪我をした同級生が実際にいたのだ。
もっともその本を読んだせいだということ自体がただの噂話と言えば噂話だ。
しかし先生たちがそんな流言飛語を封じ込めようとすればするほど、みんなその噂を信じた。
結局その同級生が持っていた『夜の書』は大人に焼かれてしまった。

けれど、もとからそんな本はないのだ。
焼かれても別の本が暗闇の中でしか読めない『夜の書』になり、
また誰かの手に取られるのを図書館の隅でじっと待っている……

彼女はドキドキしている胸を押さえ、ドアの横で必死に息を整えた。
そうして「なにしてるの」と言いながら、ドアを開けた。




店員がコップの水を入れに来たので、音響がそこで話を止めた。
俺はテーブルに置かれた『ソレマンの空間艇』をまじまじと見つめる。
「で、そのお前の同級生の弟くんは、真っ暗な部屋でこれを読んでたってわけか」
「そう」
「どんな様子だったんだ」
「明かりをつけたら目が血走ってて、なんか訳の分かんないことを言ってたらしいよ。
とにかく取り上げたら落ち着いたらしいけど」
「ふうん」
俺はテーブルの上の本に手を伸ばした。手に取ってパラパラと捲る。

かなり古い本なのか、表紙や小口は色が褪せてしまっているが、あまり読まれてはいないようだ。
中はわりに綺麗だった。
音響が少し驚いた顔で俺を見ている。
それに気づいて「なに」と訊くと、「ホントの話なんだけど」と言う。
「別に嘘だなんて言ってないぞ」



870 :本◆oJUBn2VTGE :2012/12/23(日) 04:36:25.00 ID:/4sM9Swo0
だいたい、どんな信じ難い話でもそれなりに耐性はついている。
それに音響が持ってくるやっかいごとは、これまですべて実体を伴っていた。
それが良いことなのかどうかは置いておくとしても。

「よくそんなあっさり触れるね」
呆れたように言われてようやく、ああ、そういうことか、と気づく。
普通の人の感覚ならば、そんな話を聞かされた後では気持ちが悪くて触れないのだろう。
いくら昼間は普通の本だと聞かされていてもだ。
オカルトにどっぷりと浸かっていた日々が、意識しなくとも
この善良な小市民たる俺の脳みそをやはり非常識側にシフトしてしまっているということか。
しかしこいつに言われると何故かショックだ。
「それで、どうしたいんだ」
本を置き、表紙をトントンと指先で叩く。
「どうせ、その話聞かされて、なんとかするからって安請け合いしたんだろ」

『夜の書』というやつはある意味、夜の闇の中でしか実体がない存在だ。
今のこの『ソレマンの空間艇』にしたところで仮の宿主に過ぎず、
燃やすなり破り捨てるなりしたって、図書館の別の本に寄生し直すだけということだろう。
少なくとも噂の構造がそうなっている。
「その話を聞かされて、なんとかするからって言っちゃったの」
あ、そう。
「で?」
「なんとかして」
「自分ですれば」
「お願い師匠」
わざとらしいお願いポーズを無視して、もう一度俺は本のページを開く。
「真っ暗なのに読めるって、どういう現象なんだ」
音響に向かって、「お前、読んだか」と訊く。
すると両手の指を胸の前で組んだまま、首を左右に振った。
「だって怖いの」
「嘘つけ」
「だって受験生だから」
「受験生だから?」
俺がそう問い返すと、音響は口の端だけで笑った。
「……面白かったら、やばいじゃん」
こいつも筋金入りだ。
あらためてそう思う。


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676 :空を歩く男◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:23:22.41 ID:itFWmvQ50
その通りに張り付いて二日目。
僕は少し作戦を変えて、飲み屋街のバーに客として入った。
そこで店を出している人たちならば、この空を歩く男の噂をもっとよく知っているかも知れないと思ったのだ。
仕送りをしてもらっている学生の身分だったので、あまり高い店には行けない。
女の子がつくような店ではなく、
カウンターがあって、そこに座りながらカクテルなどを注文し、
飲んでいるあいだカウンター越しにマスターと世間話が出来る。そんな店がいい。
このあたりでは居酒屋にしか入ったことがなかったので、行き当たりばったりだ。
とにかくそれっぽい店構えのドアを開けて中に入った。

薄暗い店内には古臭い横文字のポスターがそこかしこに張られていて、
気取った感じもなくなかなか居心地が良さそうだった。
控えめの音量でオールディーズと思しき曲がかかっている。
お気に入りのコロナビールがあったのでそれを注文し、
気さくそうな初老のマスターにこのあたりで起こる怪談話について水を向けてみた。
聞いたことはあるという返事だったが、実際に見たことはないという。
入店したときにはいたもう一人の客もいつの間にかいなくなっていたので、
仕方なくビール一杯でその店を出る。

それから何軒かの店をハシゴした。
マスターやママ自身が見たことがあるという店はなかったが、従業員の中に一人だけ目撃者がいた。
そしてそれとなく店内の常連客に話を振ってくれて、
「そう言えば、昔見たことがあるなあ」と言う客も一人見つけることができた。

しかし話を聞いても、どれも似たり寄ったりの話で、
結局その空を歩く男の正体もなにも分からないままだった。
せめて、どういう条件下で現れるのか推測する材料になれば良かったが、
話を聞いた二人とも日付や天気の状況などの記憶が曖昧で、
見た場所も人影が進んだ方角もはっきりとしなかった。
ただ、夜中に足場もなにもない非常に高い上空を歩く人影を見た、ということだけが一致していた。
そして特にその後、事故などには遭わなかったということも。

一軒一軒ではそれほど量を飲まずに話だけ聞いて退散したのだが、
聞き込みの結果が思わしくなく、ハシゴを重ねるごとに酔いが回り始めた。
何軒目の店だったか、それも分からなくなり、
かなり酩酊した僕がその地下にあったロカビリーな店を出た頃にはもう日付が変わっていた。




678 :空を歩く男◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:24:58.38 ID:itFWmvQ50
「ちくしょう」という、酔っ払いが良く口にする言葉を誰にともなく吐き出しながら、
ふらふらと狭い階段を上り、地上に出る。
空を見上げても暗闇がどこまでも広がっているだけで、何の影も見当たらなかった。
そのときだった。

「にいさん、にいさん」
そう後ろから声を掛けられた。
振り返ると、よれよれのジャケットを着た赤ら顔の男が手のひらでこちらを招く仕草をしている。
「なんです」
このあたりでは尺屋という、民家の一室を使った非合法の水商売があるのだが、
一瞬、その客引きではないかと思ったが、しかしこう酔っ払っていては仕事になるまい。
「さっき、中であの怪談の話をしてたろう」
ああ、なんださっきの店にいた客か。しかしどうしてわざわざ店を出てから声をかけてくるんだ?
そんなことを考えたが、それ以上頭が回らなかった。
「だったら、なんれす」
ろれつも回っていない。
「知りてえか」
「なにお」
「空の、歩きかた」
男は酒焼けしたような赤い顔を近づけてきて、確かにそう言った。
「いいですねえ。歩きましょう!」
「そうか。じゃあついてきな」
ふらふらとしながら男は、まだ酔客の引かない通りを先導して歩き出した。

五十歳くらい、いやもう少し上だろうか。
変なおっさんだ。
さっきロカビリーな髪型のマスターが他の客に声をかけても、誰もそんな怪談話を知らなかったのに。
なんであのとき黙ってたんだ。
あれ?そもそもあんなオッサン、店にいたかな。
そんなことを考えていると、おっさんが急に立ち止まり、また顔を近づけてきてこう言った。
「あそこにはな、道があるんだ。目に見えない道が。
でも普通の人じゃあ、まずたどり着けないのさあ」


679 :空を歩く男◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:26:43.71 ID:itFWmvQ50
おや?
おっさんの言葉ではなく、なにか別の、違和感があった気がした。
正面から顔を見ると、頬は肉がタブついていて、はみ出した鼻毛と相まってだらしない印象だった。
しかしどこか愛嬌のある顔立ちだ。
そのどこに違和感があったのだろう。
まあ、いいや。
アルコールがいい感じに脳みそを痺れさせている。

「周りのビルより高い場所だ。そんなところに道なんてあるわけがない。そう思うだろ。
でもなあ、そうじゃあないんだ。あの道はな……」
「北の通りの、高層ビルからでしょう」
おっさんは驚いた顔をした。
「おおよぅ。わかってんじゃねえか兄ちゃん」

そうなのだ。
この東西の通りに面したビルは高くとも四,五階だ。しかし離れた通りのビルにはもっと高いものがある。
その北の通りに面した高層ビルから伸びているのだ。その空の道は。
酔いにかき回された頭が、ようやくそんな単純な答えにたどり着いていた。
そしてもっと南の通りにも高いビルがある。
そこまで伸びているのか。
あるいは、そのまま人の世界ではない、虚空へと伸びていく道なのか。

「霊道なんでしょう」
負けじと顔をおっさんの鼻先に突き出す。しかしおっさんは、にやりと笑うと「違うねえ」と言った。
「本当に道があるんだよ。いいからついてきな。
知ってるやつじゃなきゃ絶対に分からない、あそこへ行く道が、一本だけあるんだ」
そしてまた頼りない足取りで繁華街を進んでいく。
なんだこのおっさんは。意味がわからない。
しかしなんだか楽しくなってきた。
「さあ、こっちだ」
おっさんは三叉路で南に折れようとした。
「ちょっとちょっと、北の通りでしょ。そっちは南」
たぶん目的地は北の大通りの、屋上でビアガーデンをやっているビルだ。方向が違う。
しかしおっさんは不敵な笑みを浮かべて人差し指を左右に振った。
「北に向かうのに、そのまま北へ向かうってぇ常識的な発想が、この道を見えなくしてんだよ」


682 :空を歩く男◆oJUBn2VTGE :2012/09/02(日) 00:04:30.97 ID:xOvjnYct0
そんなことを言いながらふらふらと南の筋に入り、
やがてその通りにあったビルとビルの隙間の細い路地へ身体をねじ込み始めた。
太り気味の身体にはいかにも窮屈そうだった。
だめだ。酔っ払いすぎだ、これは。

「いいから、ついてこい。
世界は折り重なってんだ。
同じ道に立っていても、どこからどうやってそこへたどり着いたかで、
まったく違う、別の道の先が開けるってこともあるんだ」
うおおおおおおおおお。
そんなことを勢い良くわめきながら、おっさんは雑居ビルの狭間へ消えていった。
なんだか心魅かれるものがあった僕も、酒の勢いを駆ってついていく。

それから僕とおっさんは、廃工場の敷地の中を通ったり、
古いアパートの階段を上って、二階の通路を通ってから反対側の階段から降りたり、
居酒屋に入ったかと思うと、なにも注文せずにそのまま奥のトイレの窓から抜け出したりと、
無茶苦茶なルートを進みながら、少しずつまた北へ向かい始めた。
ますます楽しくなってきた。
街のネオンがキラキラと輝いて、すべてが夢の中にいるようだった。

気がつくと、また最初の幸町の東西の通りに戻っていた。
随分と遠回りしたものだ。
「どうやって知ったんですか、この空への道」
「ああん?」
先を歩くおっさんの背中に問い掛ける。
「おれも、教えてもらったのよ」
「誰から」
「知らねえよ。酔っ払った、別の誰かさぁ」
おっさんも別の酔っ払いから聞いたわけだ。
その酔っ払いも別の酔っ払いから聞いたに違いない。空を歩く道を!

その連鎖の中に僕も取りこまれたってわけだ。光栄だなあ。
僕も空を歩くことができたら、今度は師匠にもその道を教えてやろう。

そんなことを考えてほくそ笑んでいると、
おっさんは薄汚れた雑居ビルの階段をよっちらよっちらと上り始めた。
ほとんどテナントが入っていない、古い建物だった。


683 :空を歩く男◆oJUBn2VTGE :2012/09/02(日) 00:05:27.69 ID:itFWmvQ50
最上階である四階のフロアまで上がると、
奥へ伸びる通路を汚らしいソファーやらなにかの廃材などが塞いでいた。
「おい、通れねえぞ」
おっさんがわめいて僕に顎をしゃくって見せるので、仕方なく力仕事を買って出て、障害物を取り除いた。
また気分よくおっさんは鼻歌をうたいながら通路を進む。
やけに長い通路だった。
さっきの東西の通りから、一本奥の通りまでぶち抜いているビルなのかも知れない。
その鼻歌は何か、酒に関する歌だった。
どこかで聞いたことはあるが、世代の古い歌だったので、タイトルまでは思い出せなかった。
なんだっけ?
酒の、酒が、酒と。
そんなことを考えていると、ふいに、頭に電流が走ったような衝撃があった。

あ。
そうか。
違和感の正体が分かった。
急に立ち止まった僕に、おっさんは振り返ると「どうした、にいちゃん」と声をかけてくる。
そうか。あの時感じた違和感。おっさんが僕に顔を近づけて、
『あそこには目に見えない道がある』と言ったときの。
あれは……
足が震え出した。そしてアルコールが頭から急に抜け始める。

「どうしたぁ。先に行っちまうぞ」
その暗い通路は左右を安っぽいモルタル壁に囲まれ、遠くの非常灯の緑色の明かりだけが
うっすらと闇を照らしていた。
おっさんはじりじりとして、一歩進んで振り返り、二歩進んで振り返り、という動きしている。

僕はアルコールが抜けていくごとに体温も奪われていくのか、猛烈な寒気に襲われていた。
そうだ。
おっさんは、息がかかるほど顔を突き出したのに、酒の匂いがしなかった。
あの赤ら顔で、千鳥足で、バーから出てきたばかりなのに。
そのバーに、そもそもあのおっさんはいなかった。
今日ハシゴした他の店にも。
客からあの話を訊くことも目的だったので、すべての店でどんな客がいるか観察していたはずなのだ。
なのに、おっさんは僕が空を歩く男の話を訊いて回っていたことを知っていた。
まるで目に見えない客として、あのいずれかのバーにいたかのように。


684 :空を歩く男◆oJUBn2VTGE :2012/09/02(日) 00:07:40.66 ID:xOvjnYct0
「どうした」
声が変わっていた。
おっさんは冷え切ったような声色で、「きなさい」と囁いた。
ガタガタ震えながら、首を左右に振る。
通路の暗闇の奥で、おっさんの顔だけが浮かんで見える。
沈黙があった。
そうか。
小さな声がすうっと空気に溶けていき、
その顔がこちらを向いたまま暗闇の奥へと消えていった。

それからどれくらいの時間が経ったのか分からない。
金縛りにあったかのようにその場で動けなかった僕も、外から若者の叫び声が聞こえた瞬間に、
ハッと我に返った。
酔っ払った仲間がゲロを吐いたという意味の、囃し立てるような声だった。
僕は気配の消えた通路の奥に目を凝らす。
そのとき、頬に触れるかすかな風に気がついた。
その空気の流れは前方からきていた。
三メートルほど進むと、その先には通路の床がなかった。
一メートルほどの断絶があり、その先からまた通路が伸びていた。
ビルとビルの隙間に狭い路地があった。
長く感じた通路は、一つのビルではなく二つのビルから出来ていた。
崖になっている通路の先端には、手すりのようなものの跡があったが、壊されて原型を留めていなかった。
向こう側の通路の先も同じような状態だった。
知らずに手探りのまま足を踏み出していれば、この下の路地へ落下していただろう。
四階の高さから。

生唾を飲み込む。
最後に「きなさい」と言ったおっさんの顔は、あの断絶の向こう側にあった。
そうか。僕は導かれていたのだ。折り重なった、異なる世界へ。
ビルとビルの狭間へ転落する僕。
そして別の僕は、自分が死んだことにも気づかず、そのまま通路を通り抜け、
導かれるままに秘密の道を潜り、あの空への道へと至るのだ。

高層ビルの屋上から、足を踏み出し……
そこは壮観な世界だろう。
遥か足元にはネオンの群れ。
大小の雑居ビルのさらに上を通り、酔客たちの歩く頭上を気分良く歩いて進む。


685 :空を歩く男 ラスト ◆oJUBn2VTGE :2012/09/02(日) 00:08:48.45 ID:xOvjnYct0
夜の闇の中に、目に見えない一筋の道がある。
それは折り重なった別の世界の住民だけにたどることの出来る道なのだ。
はあ。
闇の中に冷たい息を吐いた。
僕はビルの階段を降り、通行人の減り始めた通りに立った。
もう夜の底にわだかまった熱気が消えていく時間。
人々がそれぞれの家へ足を向け、ねぐらへと帰る時間だ。
遠くで二度三度と勢いをつけながらシャッターを閉めている音が聞こえる。
そして僕は振り仰いだ星の見えない夜空に、空を歩く男の影を見た。

「殺す気だったんですか」
師匠にそう問い掛けた。
そうとしか思えなかった。師匠はすべて知っていたはずなのだ。
かつての死者が新しい死者を呼ぶ、空へ続く道の真相を。
いくらなんでも酷い。
そう憤って詰め寄ったが、そ知らぬ顔で「まあそう怒るな」と返された。
「まあ、ちゃんと見たんだから合格だよ。優良可でいうなら、良をあげよう」
なんだ偉そうにこの人は。
ムカッとして思わず睨むと、逆に寒気のするような眼に射すくめられた。
「じゃあ、優はなんだっていうんですか」
僕がなんとか言い返すと、師匠は
暗い、光を失ったような瞳をこちらに向けて、ぼそりと囁く。

「わたしは、空を歩いたよ」
そして両手を、両手を羽ばたくように広げて見せた。
うそでしょう。
そんな言葉を口の中で転がす。
「臨死体験でもしたって言うんですか」
僕が訊くと、
師匠は「どうかな」と言って笑った。


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【師匠シリーズ】


668 :空を歩く男◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:03:50.75 ID:itFWmvQ50

師匠から聞いた話だ。


大学一回生の春だった。
そのころ僕は、同じ大学の先輩だったある女性につきまとっていた。もちろんストーカーとしてではない。
初めて街なかで見かけたとき、彼女は無数の霊を連れて歩いていた。
子どもの頃から霊感が強く、様々な恐ろしい体験をしてきた僕でも、
その超然とした姿には真似の出来ない底知れないものを感じた。
そしてほどなくして大学のキャンパスで彼女と再会したときに、
僕の大学生活が、いや、人生が決まったと言っても過言ではなかった。
しかし言葉を交わしたはずの僕のことは、全く覚えてはいなかったのだが。
『どこかで見たような幽霊だな』
顔を見ながら、そんなことを言われたものだった。
そして、綿が水を吸うように、気がつくと僕は彼女の撒き散らす独特の、そして強烈な個性に、
思想に、思考に、そして無軌道な行動に心酔していた。
いや、心酔というと少し違うかも知れない。
ある意味で、僕の、すべてだった。


師匠と呼んでつきまとっていたその彼女に、ある日こんなことを言われた。
「空を歩く男を見てこい」
そらをあるくおとこ?
一瞬きょとんとした。
そんな映画をやっていただろうか。
いや、師匠の言うことだ。なにか怪談じみた話に違いない。
その空を歩く男とやらを見つければいいのか。

「どこに行けばいいんですか」と訊いてみたが、答えてくれない。
なにかのテストのような気がした。ヒントはもらえないということか。
「わかりました」
そう言って街に出たものの、全く心当たりはなかった。
空を歩く男、というその名前だけでたどりつけるということは、
そんな噂や怪談話がある程度は知られているということだろう。
正式な配属はまだだが、すでに出入りしていた大学の研究室で訊き込みをしてみた。





669 :空を歩く男◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:06:25.24 ID:itFWmvQ50
地元出身者が多くないこの大学で、同じ一回生に訊いても駄目だ。
地元出身ではなくとも、何年もこの土地に住んでいる先輩たちならば、
そんな噂を聞き及んでいるかも知れない。

「空を歩く男、ねえ」
何人かの先輩をつかまえたが、成果はあまり芳しくなった。
なにかそんな名前の怪談を聞いたことがある、というその程度だった。内容までは分からない。
所属していたサークルにも顔を出してみたが、やはり結果は似たりよったりだった。
さっそく行き詰った僕は思案した。
空を歩く、ということは空を飛ぶ類の幽霊や妖怪とは少しニュアンスが違う。
しかも男、というからには人間型だ。
他の化け物じみた容姿が伴っているなら、その特徴が名前にも現れているはずだからだ。
想像する。
直立で、なにもない宙空を進む男。
それは、なにか害をもたらすことで恐れられているようなものではなく、
ただこの世の理のなかではありえない様に対してつけられた畏怖の象徴としての名前。
空を歩く男か。
それはどこに行けば見られるのだろう。
空を見上げて、街じゅうを歩けばいつかは出会えるのだろうか。

近い怪談はある。
例えば部屋の窓の外に人間の顔があって、ニタニタ笑っている。あるいはなにごとか訴えている。
しかしそこは二階や三階の高い窓で、下に足場など無く、
人間の顔がそんな場所あっていいはずがなかった、というもの。
かなりメジャーで、類例の多い怪談だ。

しかし、空を歩く男、という名前の響きからは、なにか別の要素を感じるのだ。
結果的に空を歩いていたとしか思えない、というものではなく、
空を歩いている、というまさにその瞬間をとらえたような直接的な感じがする。
…………
そらをあるくおとこ。
そんな言葉をつぶやきながら、数日間を悶々として過ごした。



670 :空を歩く男◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:09:40.92 ID:itFWmvQ50
「知ってるやつがいたよ」と教えてくれたのは、サークルの先輩だった。
同じ研究室に、たまたまその話を知っている後輩がいたらしい。
さっそく勢いこんで研究室に乗り込んだ。

「ああ、空を歩く男ですよね」
「知ってる知ってる」
僕と同じ一回生の女の子だった。それも二人も。
どちらも地元出身で、しかも市内の実家に今も住んでいるらしい。
優秀なのだろう。うちの大学の学生で、地元出身の女性はたいてい頭がいいと相場決まっている。
女の子だと、親があまり遠くにやりたくないと、近場の大学を受けさせる傾向がある。
その場合、本来もう少し高い偏差値の大学を狙えても、地元を優先するというパターンが多い。
そんな子ばかりが来ているのだ。
つまりワンランク上の偏差値の頭を持っている子が多いということになる。

「なんだっけ。幸町の方だったよね」
「そうそう。うちの高校、見たって子がいた」
「高校に出るんですか」
「違う違う。幸町だって。高校の同級生がそのあたりで見たの」
バカを見る眼で見られた。説明の仕方にも問題がある気がするのだが。
とにかく聞いた話を総合すると、このようになる。

『空を歩く男』はとある繁華街で夜にだけ見られる。
なにげなく夜空を見上げていると、ビルに囲まれた狭い空の上に人影が見えるのだ。
おや、と目を凝らすとどうやらその人影は動いている。
商店のアドバルーンなどではない。ちゃんと、足を動かして歩いているのだ。
しかしその人影のいる位置は周囲のビルよりさらに高い。
ビルの間に張られたロープで綱渡りしているわけでもなさそうだった。
やがてその人影はゆっくりと虚空を進み続け、ビルの上に消えて見えなくなってしまった。明らかにこの世のものではない。
その空を歩く男を見てしまった人には呪いがかかり、
その後、高いところから落ちて怪我をしたり、
もしくは高いところから落ちてきたものが頭に当たったりして怪我をするのだという。

「その見たっていう同級生も怪我をした?」
「さあ。どうだったかなあ」
首を捻っている。



671 :空を歩く男◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:11:05.06 ID:itFWmvQ50
どうやら最後の呪い云々は怪談につきもののオマケようなものか。

伝え聞いた人が誰かに話すとき、
そういう怪異があるということだけでは物足りないと思えば、
大した良心の呵責もなく、ほんのサービス精神でそんな部分を付け足してしまうものだ。
ツタンカーメン王の墓を暴いた調査隊のメンバーが次々と怪死を遂げたという
『ファラオの呪い』は有名だが、実際には調査隊員の死因のみならず、
死んだということさえ架空の話である。
その『呪い』はただの付け足された創作なのだ。
発掘調査に関わった二十三人のその後の生死を調査したグループの研究では、
発掘後の平均余命二十四年、死亡時の平均年齢七十三歳という結果が出ている。
なにも面白いことのない数字だ。
しかし、そんな怪異譚を盛り上げるための誇張やデタラメはあったとしても、
ハワード・カーターを中心に彼らが発掘したツタンカーメン王の墓だけは真実である。

空を歩く男はどうだろうか。
そんな人影を見た、ということ自体は十分に怪談的だけれども、どこか妙な感じがする。
因縁話も絡まず、教訓めいた話の作りでもない。
そこから感じられる恐ろしさは、その後のとってつけたような
怪我にまつわる後日談からくるものではないだろうか。
なんだか本末転倒だ。
つまり肝心の前半部分が、創作される必然性がないのである。
すべての要素が、こう告げている。
『空を歩く男は、実際に観測された』と。
その事実から生まれた怪談なのではないだろうか。
錯覚や何かのトリックがそこにはあるのかも知れない。

話を聞かせてくれた二人に礼を言って、僕は実際にその場所へ行ってみることにした。


平日の昼間にその場所に立っていると変な感じだ。
繁華街の中でも飲み屋の多いあたりだ。
研究室やサークルの先輩につれられて夜にうろつくことはあったが、
昼間はまた別の顔をしているように感じられた。
表通りと比べて人通りも少なく、店もシャッターが閉まっている所が多い。
道幅も狭く、少し寂しい通りだった。
なるほど。どのビルも大通りにあるビルほどは高くない。良くて四階、五階というところか。



672 :空を歩く男◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:13:47.16 ID:itFWmvQ50
聞いた話から想像すると、この東西の通りの上空を斜めに横断する形で男は歩いている。
恐らくは北東から南西へ抜けるように。
その周囲を観察したが、特に人間と見間違えそうなアドバルーンや看板の類は見当たらなかった。

当然昼間からそれらしいものが見えるわけもなく、
僕は近くの喫茶店や本屋で日が暮れるまでの間、時間をつぶした。

太陽が沈み、会社員たちが仕事を終えて街に繰り出し始めると、このあたりは俄かに活気づいてくる。
店の軒先に明かりが灯り、陽気な話し声が往来に響き始める。
その行き交う人々の群の中で一人立ち止まり、じっと空を見ていた。
曇っているのか月の光はほとんどなく、夜空の向こうにそれらしい影はまったく見えなかった。

仮に……と想像する。
この東西の通りでヘリウムが充満した風船を持ち、その紐が十メートル以上あったら。
その風船が人間を模した形をしていたら。
そして紐が一本ではなく、両足の先に一本ずつそれぞれくっついていたとしたら。
下から紐を操ることで人型の風船がまるで歩いているよう見えないだろうか。
今日と同じように月明かりもなく、下から強烈に照らすような光源もなければ、
周囲のビルよりも遥かに高い場所にあるその風船を、
本物の人影のように錯覚してしまうことがあるのではないだろうか。
その人影に気づいた人は驚くだろう。
そしてそちらにばかり気をとられ、
その真下の雑踏で不審な動きをしている人物には気づかないに違いない。
誰がなぜそんなことを?という新たな疑問が発生するが、
とりあえずはこれで再現が可能だという目星はついた。
結局その後小一時間ほどうろうろしてから、飽きてしまったのでその日はそれで帰ったのだった。


次の日、師匠にそのことを報告すると、呆れた顔をされた。
「情報収集が足らないな」
「え?」
「風船かも知れないなんて、誰でも思いつくよ」
師匠は自分のこめかみをトントンと指で叩いて見せる。
「だいたい人影は、最終的に通りのビルを越えてその向こうに消えてるんだ。
下から操っている風船でどう再現する?」



674 :空を歩く男◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:16:30.24 ID:itFWmvQ50
あ。
そのことを失念していた。今さらそれを思い出して焦る。
「ちゃんと噂を集めていけば、
その人影を見た人間が呪われて、高い所から落ちて怪我をするというテンプレートな後日譚が、
別の噂が変形して生まれたものだと気がつくはずなんだ」
「別の噂?」
空を歩く男の話にはいくつかのバージョンがあるのだろうか。
「あの通りでは、転落死した人が多いんだよ。
飲み屋街の雑居ビルばかりだ。
酔っ払って階段から足を踏み外したり、低い手すりから身を乗り出して下の道路に落下したり。
何年かに一度はそんなことがある。
そんな死に方をした人間の霊が、夜の街の空をさまよっているんだと、そういう噂があるんだ」

しまった。
たった二人から聞いて、それがすべてだと思ってしまった。
怪談話など、様々なバリエーションがあってしかるべきなのに。
あと一度しか言わないぞ。そう前置きして、師匠は「空を歩く男をみてこい」と言った。
「はい」
情けない気持ちで、そう返事をするしかなかった。


それから一週間、調べに調べた。
最初に話を聞かせてくれた同じ一回生の子に無理を言って、
その空を歩く男を見たという同級生に会わせてもらったり、
他のつても総動員してその怪談話を知っている人に片っ端から話を聞いた。
確かに師匠の言うとおり、あの辺りでは転落事故が多いという噂で、
それがこの話の前振りとして語られるパターンが多かった。
実際に自分が目撃したという人は、
その最初の子の同級生だけだったが、あまり芳しい情報は得られなかった。
夜にその東西の通りでふと空を見上げたときに、そういう人影を見てしまって怖かった、というだけの話だ。
それがどうして男だと分かったのかと訊くと、『空を歩く男』の怪談を知っていたからだという。



675 :空を歩く男◆oJUBn2VTGE :2012/09/01(土) 23:19:22.75 ID:itFWmvQ50
最初から思い込みがあったということだ。
暗くて遠いので顔までは当然見えないし、服装もはっきり分からなかった。
ただスカートじゃなかったから……
そんな程度だ。
見てしまった後に、呪いによる怪我もしていない。
ただ記憶自体はわりとはっきりしていて、彼女自身が創作した線もなさそうだった。
その正体がなんにせよ、彼女は確かになにかそういうものを見たのだろう。

これはいったいなんだろうか。
本物の幽霊だとしたら、どうしてそんな出方をするのだろう。地上ではなく、そんな上空にどうして?
霊の道。
そんな単語が頭に浮かんだ。
霊道があるというのだろうか。なぜ、そんな場所に?
少しぞくりとした。

見るしかない。自分の目で。考えても答えは出ない。

僕はその通りに張り付いた。
日暮れから、飲み屋が閉まっていく一時、二時過ぎまで。
しかし同じ場所に張っていても、周囲を練り歩いても、それらしいものは見えなかった。
焦りだけが募った。
死者の気持ちになろうともしてみた。あんなところを歩かないといけない、その気持ちを。
気持ちよさそうだな。
思ったのはそれだけだった。

目に見えない細い細い道が、暗い空に一本だけ伸びていて、
その道から落ちないようにバランスをとりながら歩く……
落ちれば地獄だ。
かつて自分が死んだ汚れた雑踏へ急降下し、その死を再び繰り返すことになる。
落ちてはいけない。
では落ちなければ?
落ちずに道を進むことができれば、その先には?
人の世界から離れ、彼岸へ行くことができるということか。
そんな寓意が垣間見えた気がした。


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師匠シリーズ

565 :連想Ⅰ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:16:29.89 ID:qKV0Rmwv0
白い闇の中で、目に見えない一寸先に
自分と愛機の命を奪う危険な物体が浮かんでいるのではないか…… 
その想像が、熟練の飛行機乗りたちの心を苛むんだ。
その雲の中にある『なにか』がファントムロック、つまり『幻の岩』だ。

自転車に乗っていて、目を瞑ったことがあるかい。 
見通しのいい一本道で、前から人も車もなにもやってきていない状態で、
自転車を漕ぎながら目を閉じるんだ。
さっきまで見えていた風景から想像できる、数秒後の道。
絶対に何にもぶつかることはない。
ぶつかることなんてないはずなのに、目を閉じたままではいられない。必ず恐怖心が目を開けさせる。
人間は、闇の中に『幻の岩』を夢想する生き物なんだ」
くくく、と笑うような声が僕の前方から漏れてくる。
では、その旧家の地下に伸びる古い隧道で起きた出来事は、いったいなんだったのだろうね?
師匠は光の失われたガレージの中でその依頼の顛末を語った。

真奈美さんはそんなことがあった後、
地下通路でぶつかったのは死んだ祖父なのだと結論付けた他の家族に、
祖父自身もそれを体験したらしいということを告げずにいた。
そして自分以外の家族が旅行などで全員家から出払う日を選んで、
小川調査事務所の『オバケ』の専門家である師匠を呼んだのだ。

ここで言う『オバケ』とはこの界隈の興信所業界の隠語であり、
不可解で無茶な依頼内容を馬鹿にした表現なのだが、
師匠はその呼称を楽しんでいる風だった。 
真奈美さんからも「オバケの専門家だと伺いましたが」と言われ、苦笑したという。

ともあれ師匠は真奈美さんの導きで、
本宅の地下の物置から地下通路に入り、その奥の土蔵に潜入した。
その間、なにか異様な気配を感じたそうだが、何者かの姿を見ることはなかった。
土蔵には代々家に伝わる古文書の類や、真奈美さんの祖父がそれに関して綴った文書が残されていた。
今の家族には読める者がいないというその江戸時代の古文書を、師匠は片っ端から読んでいった。
かつてそうしていたという真奈美さんの祖父にならい、
一人で土蔵に篭り、燭台の明かりだけを頼りに本を紐解いていったのだ。
そしてその作業にまる一晩を費やして、次の日真奈美さんを呼んだ。





572 :連想Ⅰ◆oJUBn2VTGE:2012/08/18(土) 23:18:41.95 ID:qKV0Rmwv0
            ◆


「結論から言うと、わかりません」
「わからない、というと……」
「あなたがその先の地下通路でぶつかったという誰かのことです」
文机の前に座ったまま向き直った師匠がそう告げると、真奈美さんは不満そうな顔をした。
霊能力者という触れ込みを聞いて依頼をしたのに、あっさりと匙を投げるなんて。
そういう言葉を口にしようとした彼女を、師匠は押しとどめた。
 
「まあわかった部分もあるので、まずそれを聞いてください。
これは江戸後期、天保年間に記された当時のこの家の当主の覚え書きです」
師匠はシミだらけの黄色く変色した書物を掲げて見せた。
「これによると、彼の二代前の当主であった祖父には息子が三人おり、
そのうちの次男が家督を継いでいるのですが、それが先代であり彼の父です。
そして長子継続の時代でありながら家督を弟に譲った形の長男は、
ある理由からこの土蔵に幽閉されていたようなのです」

「幽閉、ですか」
真奈美さんは眉をしかめる。
「あなた自身おっしゃっていたでしょう。かつてここには座敷牢があったと。
家の噂話のような伝でしたが、それは史実のようです。
この地下の土蔵……いえ、そのころは地上部分があったので、
土蔵の地下という方が正確かも知れません。
ともかく土蔵の地下にはその長男を幽閉するために作られた座敷牢がありました。
その地下空間は座敷牢ができる前から存在していましたが、
もともとなんのための地下室なのかは不明なようです。

この覚え書きを記した当主は、自分の伯父にあたる人物を評して、『ものぐるいなりけり』としています。
気が狂ってしまった一族の恥を世間へ出すことをはばかった、ということでしょう。
結局、座敷牢の住人は外へ出ることもなく、牢死します。
その最後は自分自身の顔の皮をすべて爪で引き剥がし、血まみれになって
昏倒して果てたのだと伝えられています」
 
遠い先祖の悲惨な死に様を知り、真奈美さんは息を飲んだ。
それも、自分は今その血の流れた場所にいるのだ。
不安げに周囲を見回し始める。



579 :連想Ⅰ◆oJUBn2VTGE:2012/08/18(土) 23:21:00.63 ID:qKV0Rmwv0
「座敷牢で死んだ伯父は密かに葬られたようですが、
その後彼の怨念はこの地下室に満ち、
そして六間の通路に溢れ出し、やがて本宅をも蝕んで多くの凶事、災いをもたらしたとされています」
師匠は机の上に積み重ねられた古文書を叩いて見せた。
その時、真奈美さんの顔色が変わった。
そして自分の両手で肩を抱き、怯えた表情をして小刻みに震え始めたのだ。
「わたしが………… ぶつかったのは…………」
ごくりと唾を飲みながら硬直した顔から眼球だけを動かして、
入ってきた狭い扉の方を盗み見るような様子だった。
その扉の先の、地下通路を目線の端に捕らえようとして、そしてそうしてしまうことを畏れているのだ。 
師匠は頷いて一冊のノートを取り出した。
 
「あなたのお祖父さんも、何度か真っ暗なこの通路でなにか得体の知れないものにぶつかり、
そのことに恐怖と興味を抱いて色々と調べていたようです。
このノートは失礼ながら読ませていただいたお祖父さんの日記です。
やはり座敷牢で狂死した先祖の存在に行き着いたようなのですが、
その幽霊や怨念のなす仕業であるという結論に至りかけたところで筆をピタリと止めています」
師匠は訝しげな真奈美さんを尻目に立ち上がり、一夜にして散らかった土蔵の中を歩き回り始めた。
 
「この土蔵には確かに異様な気配を感じることがあります。
お父さんなど、あなたのご家族も感じているとおりです。
亡くなったお祖父さんもそのことをしきりと書いています。
気配。気配。気配…… しかしその気配の主の姿は誰も見ていません。
なにかが起こりそうな嫌な感じはしても、この世のものではない誰かの姿を見ることはなかったのです。
ただ、暗闇の中で誰かにぶつかったことを除いて」
どこかで拾った孫の手を突き出して、たった一つの扉を指し示す。
その向こうには白熱灯の明かりが照らす、地下の道が伸びている。
明かりが微かに瞬いている。また、玉が切れかかっているのだ。
それに気づいた真奈美さんの口からくぐもったような悲鳴が漏れた。
交換したばかりなのに、どうして。
呆然とそう呻いたのだ。



587 :連想Ⅰ◆oJUBn2VTGE:2012/08/18(土) 23:23:17.47 ID:qKV0Rmwv0
「あなたのお祖父さんはこう考えました。
本当にこの家を祟る怨念であれば、もっとなんらかの恐ろしいことを起こすのではないかと。
確かにそのようなことがあったとされる記録は古文書の中に散見されます。
しかし今ではそれらしい祟りもありません。
にも関わらず、依然として異様な気配が満ちていくような時があります。
これはいったいどういうことなのか。
そう思っていた時、お祖父さんはある古文書の記述を見つけるのです」
 
師匠は文机に戻り、その引き出しから一冊の古びた本を取り出した。
「これは、お祖父さんが見つけたもので、
死んだ座敷牢の住人を葬った、当主の弟にあたる人物が残した記録です」
やけにしんなりとした古い紙を慎重に捲りながら、ある頁に差し掛かったところで手を止める。
「彼はこの文書の中で、伯父の無残な死の有り様を克明に描写しているのですが、
その死の間際にしきりに口走っていたという言葉も書き記しています。
ここです」
真奈美さんの方を見ながら、確かめるようにゆっくりと指を紙の上に這わせた。
「ここにはこう書いています。『誰かがいる。誰かがいる』と」
その時、すぅっ、と扉の向こうの地下道から明かりが消えた。 
真奈美さんは身体を震わせながら地下道への扉と、師匠の掲げる古文書とを交互に見やっている。
泣き出しそうな顔で。
 
「あなたにぶつかったのは、誰だかわからない誰か…… 
あなたのお祖父さんも言っていたように、わたしのたどり着いた結論もそれです。
それ以上のことを、どうしても知りたいのですか?」
師匠は静かにそう言って真奈美さんの目を正面から見つめた。


            ◆


淡々と語り終えた師匠の声の余韻が微かに耳に残る。
俺は鼻を摘まれても分からない暗闇の中で、ぞくぞくするような寒気を感じていた。
そしてまた声。



595 :連想Ⅰ◆oJUBn2VTGE:2012/08/18(土) 23:28:49.50 ID:qKV0Rmwv0
「土蔵から出ようとした時、地下道の白熱灯は消えたままだった。
土蔵の中はたよりない燭台の明かりしかなかったので、
入り口のそばの照明のスイッチを押したが、なぜかそれまでつかなかった。
カチカチという音だけが響いて、地の底で光を奪われる恐怖がじわじわと迫ってきた。
真奈美さんが持ってきていた懐中電灯で照らしながら進もうとしたら、
いきなりその明かりまで消えたんだ。

叩いても、電池をぐりぐり動かしてもダメ。
地面の底で真っ暗闇。さすがに気持ちが悪かったね。
で、悲鳴を上げる真奈美さんをなだめて、なんとか手探りで進み始めたんだ。
怖くてたまらないって言うから、手を握ってあげた。
最初の角を右に曲がってすぐにまた左に折れると、あとほんの五メートルかそこらで
本宅の地下の物置へ通じる階段にたどり着くはずだ。
だけど…… 長いんだ。やけに。
暗闇が人間の時間感覚を狂わせるのか。それでもなんとか奥までたどり着いたさ。
突き当たりの壁に。壁だったんだ。そこにあったのは。
階段がないんだよ。上りの階段が。

暗闇の中で壁をペタペタ触ってると、右手側になにか空間を感じるんだ。
手を伸ばしてみたら、なにもない。通路の右側の壁がない。
そこは行き止まりじゃなく、角だったんだ。ないはずの三つ目の曲がり角。
さすがにやばいと思ったね。
真奈美さんも泣き喚き始めるし。
泣きながら、『戻ろう』っていうんだ。一度土蔵の方へ戻ろうって。
そう言いながら握った手を引っ張ろうとした。
その、三つ目の曲がり角の方へ。
わけが分からなくなってきた。戻るんなら逆のはずだ。 回れ右して真後ろへ進まなくてはならない。
なのに今忽然と現れたばかりの曲がり角の先が戻る道だと言う。
彼女が錯乱しているのか。わたしの頭がどうかしてるのか。
なんだか嫌な予感がした。
いつまでもここにいてはまずい予感が。

真奈美さんの手を握ったまま、わたしは言った。
『いや、進もう。土蔵には戻らないほうがいい』それで強引に手を引いて回り右をしたんだ。
回れ右だと、土蔵に戻るんじゃないかって? 
違う。その時わたしは直感した。
どういうわけかわからないが、わたしたちは全く光のない通路で知らず知らずのうちに
ある地点から引き返し始めていたんだ。
三つ目の曲がり角はそのせいだ。



600 :連想Ⅰ◆oJUBn2VTGE:2012/08/18(土) 23:32:38.41 ID:qKV0Rmwv0
本宅と土蔵をつなぐ通路には、どちらから進んでも右へ折れる角と左へ折れる角が一つずつしかない。
そしてその順番は同じだ。最初に右、次に左だ。
土蔵から出たわたしたちはまず最初の角を右、次の角を左に曲がった。
そして今、さらに右へ折れる角にたどり着いてしまった。
通路の構造が空間ごと捻じ曲がってでもいない限り、
真っ直ぐ進んでいるつもりが、本宅側の出口へ向かう直線でUターンしてしまったとしか考えられない。
心理の迷宮だ。
だったらもう一度回れ右をして戻れば、本宅の方へ帰れる。

『来るんだ』って強引に手を引いてね、戻り始めたんだよ。ゆっくり、ゆっくりと。
壁に手を触れたまま絶対に真っ直ぐ前に進むように。
その間、誰かにぶつかりそうな気がしていた。誰だかわからない誰かに。
でもそんなことは起こらなかった。
わたしがこの家の人間じゃなかったからなのか。
でもその代わりに奇妙なことが起きた。

土蔵に戻ろう、土蔵に戻ろうと言って抵抗する真奈美さんの声がやけに虚ろになっていくんだ。
ぼそぼそと、どこか遠くで呟いているような。
そして握っている手がどんどん軽くなっていった。
ぷらん、ぷらんと。まるでその手首から先になにもついていないみたいだった。
楽しかったね。最高の気分だ。笑ってしまったよ。
そうして濃霧を振り払うみたいに暗闇を抜け、階段にたどり着いた。
上りの階段だ。本宅へ戻ったんだ。
真奈美さんの手の感触も、重さもいつの間にか戻っていた」

チリチリ……
黒い布の下でオイルランプが微かな音を立てている。酸素を奪われて呻いているかのようだ。
奇妙な出来事を語り終えた師匠は口をつぐむ。
僕の意識も暗闇の中に戻される。息苦しい。
「その依頼は結局どうなったんです」
口を閉じたままの闇に向かって問い掛ける。




604 :連想Ⅰ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:34:33.10 ID:qKV0Rmwv0
「分からないということが分かったわけだから、達成されたことになる。正規の料金をもらったよ。
まあ、金払いの悪いような家じゃないし。それどころか、料金以外にも良い物をもらっちゃった」
ガサガサという音。
「あった。土蔵で見つけたもう一つの古文書だよ」
何かが掲げられる気配。
「これは、そこに存在していたこと自体、真奈美さんには教えていない。
彼女の祖父はもちろん知っていたようだけど」 
それはもらったんじゃなくて勝手に取ってきたんじゃないか。
 
「なんですかそれは」
「なんだと思う?」
くくく…… 闇が口を薄く広げて笑う。

「座敷牢に幽閉されていたその男自身が記した文書だよ」
紙をめくる音。
「聡明で明瞭な文章だ。あの土蔵で起こったことを克明に記録している。
明瞭であるがゆえに、確かに『ものぐるいなりけり』と言うほかない。
それほどありえないことばかり書いている。 

彼は三日に一度、寝ている間に右手と左手を入れ替えられたと言っている。何者かに、だ。
左腕についている右手の機能について詳細に観察し、記述してある。
それだけじゃない。ある時には、右手と左足を。
ある時には、右足と首を。そしてまたある時には文机の上の蝋燭と、自分の顔を、
入れ替えられたと書いている」
師匠の言葉に、奇怪な想像が脳裏をよぎる。

「わたしがこの古文書を持ち出したのは正しかったと思っている。
危険すぎるからだ。これがある限り、あの家の怪異は終わらないと思う。
そしてなにかもっと恐ろしいことが起こった可能性もある。
その座敷牢の住人は、最後には自分の顔と書き留めてきた記録とを入れ替えられたと言っている」
書き留めてきた記録? 
それは今師匠が手にしているであろう古文書のことではないのか。



609 :連想Ⅰ ラスト ◆oJUBn2VTGE :2012/08/18(土) 23:36:36.02 ID:qKV0Rmwv0
「そうだ。彼はそこに至り、ついに自分の書き記してきた記録を破棄しようとした。
忌まわしきものとして、自らの手で破こうとしたんだ。
最後に冷静な筆致でそのことが書かれている。
それは成功したのだろうか。
彼は顔の皮を自分で引き剥がして死んでいる。彼が破いたものはいったいなんだったのか。
そして、現代にまで残るこの古文書は、いったい……」

ゆがむ。闇がゆがむ。
異様な気配が渦を巻いている。
 
「それからだ。わたしはよくぶつかるようになった。
あの地下道ではなく、明かりを消した自分の部屋や、その辺のちょっとした暗がりで。
誰だかわからない誰かと……」
ぐにゃぐにゃとゆがむ闇の向こうから、師匠の声が流れてくる。
いや、それは本当に師匠の声なのか。
川沿いに立つ賃貸ガレージの中のはずなのに、地面の下に埋もれた空洞の中にいるような気がしてくる。
 
「そこで立って歩いてみろよ」
囁くようにそんな声が聞こえる。
僕は凍りついたように動かない自分の足を見下ろす。
見えないけれど、そこにあるはずの足を。
 
今は無理だ。
ぶつかる。ぶつかってしまう。
ここがどこだかも分からなくなりそうな暗闇の中、誰だか分からない誰かと。
そんな妖しい妄想に囚われる。
 
沈黙の時間が流れ、やがて目の前にランプの明りが灯される。
覆っていた布を取が取り払われたのだ。
黒い墓石に腰掛ける師匠の手にはもう古文書は握られていない。
「この話はおしまいだ」
 指の背を顎の下にあて、挑むような目つきをしている。

そして口を開き「おじいちゃんじゃないかな、と言えばこんな話もある」と次の話を始めた。
その言葉に反応したように、またまた別の不気味な気配がガレージの隅の一角から漂い始める。
降り積もるように静かに夜は更けていった。



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