サイケデリック・奇譚

永遠の日常は非日常。

タグ:師匠

師匠シリーズ

257 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:26:02.38 ID:cMOGa5XM0

先週の金曜のことだった。
その日は朝から曇りがちで、天気予報でも降水確率は50%となっていた。
空が暗いと気分も暗くなる。
悦子先生は園庭で遊ぶ子どもたちを見ながら、
ここ最近続く気持ちの悪い出来事のことを考えていた。

一階や二階のトイレで、何か人ではないものの気配を感じることがたびたびあった。
他にも花壇やプール、時には室内でさえ、何か人影のようなものを見ることもあった。
先輩から聞いた噂によると、
この保育園の敷地は元々、罪人の首をさらす場所だったとか……

悦子先生だけではなく、他の先生や子どもたちまでも、
何か幽霊じみたもののを見てしまう、ということがあった。
少なくともそんな噂がまことしやかに囁かれている。
お祓いをしてもらった方がいいんじゃないか。
先生の間からそんな意見も出たが、園長先生はとりあってくれなかった。
馬鹿らしい。子どもに悪影響が出る。
そんな言葉で却下された。

『だいたいねえ、うちは公立なんだから、
そんなお祓いなんていう宗教的なものに予算がつくはずないでしょう?』
そんなことを言われたので、悦子先生は市の保育担当職員にこっそりと訊いてみたが、
やはりそういう支出はできないのだそうだ。





258 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:28:26.76 ID:cMOGa5XM0
公立だろうが私立だろうが、出てくるお化けの方はそんなことを気にはしてくれないのに。
理不尽なものを感じたが、どうしようもなかった。
ああいやだ。
そんなことを考えながら一瞬ぼんやりしていると、パラパラと雨が降り始めたらしく、
子どもたちがきゃあきゃあと騒ぎだした。
すぐにみんなを室内に引き上げさせる。
そうこうしていると、お昼を食べさせる時間がきた。
それぞれの教室で食事を取っていると、外はかなり雨脚が強くなり風も少し出てきたようだった。

食事の時間が終わり、昼寝の時間になったが、
子どもたちはカーテンの隙間から外の様子を見たがってなかなか落ち着かなかった。
「はい、もう寝るの!」
カーテンをジャッ、と閉め、たしなめると子どもたちはようやく布団に入る。

それから悦子先生は事務室とトイレに一度だけ立ち、
それ以外は自分の五歳児室で子どもの寝顔を見ながら連絡帳などをつけて過ごしていた。
叩きつけるような雨音を聴きながら。



259 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:32:12.26 ID:cMOGa5XM0
一度だけ外が光ったかと思うと雷が鳴って、その時だけは
子どもたちを起こさないようにそっとガラス戸のところまで行って、
カーテンの隙間から外を覗いたが、特に変わったことはなかった。
随分近くで鳴ったような気がしたのだけれど。

それからしばらくして昼寝の時間が終わった。
ちょうどそれに合わせるように雨が止んだようだった。

子どもたちに「おはよう」と言いながらカーテンを開けると、
外はまだ曇っていたが、遠くの空から光が射している。

ふと、園庭の一箇所に目が留まった。
地面になにかある。
なんだろう、と思いながらガラス戸を開け、サンダルをつっかけて外に出る。
雨は降っていない。
しかし強く降った雨で、地面はかなりぬかるんでいる。
泥にサンダルを引っ張られながら、園庭の中ほどまで進むと、悦子先生は自分の目を擦った。
え?
思わず呆けたような顔をしてしまう。
あまりに似つかわしくないものがそこにあったからだ。



260 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:34:22.59 ID:cMOGa5XM0
魔方陣。
そうとでも呼ぶしかないような模様が泥の中に描かれている。
円の中に三角形だか四角形だかが重なったような図形、
そして円の外周にそってなにか文字のようなもの……
「   」
悲鳴を上げた、と思う。
園舎からガラス戸が開く音がして、他の先生たちも顔を出した。
子どもたちまで出てこようとしているのをみんな必死で止める。

状況を把握した園長先生が物置の方へ走ったかと思うと、
地ならしをするトンボを持って来て、すぐにその魔方陣のようなものを消し始めた。
そして「みんな部屋に戻りなさい」と怒ったように叫ぶ。

悦子先生は呆然としながら、頭の中に繰り返される声のようなものを聞いていた。
『だから言ったのに。だから言ったのに』
それは自分の声だったと思う。
でも。いやに他人事のような声だった。



261 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:36:24.47 ID:cMOGa5XM0
「で、今日がその出来事があってから、ひいふう……九日目か」師匠が指を折る。
気持ちの悪い話を聞いたばかりなのに平然としている様子はさすがというべきか。
「この写真は誰が?」
問い掛けに、洋子先生と呼ばれた一番若い保育士がおずおずと手を挙げる。

「私です。悦子先生の悲鳴を聞いたあと、カーテンを開けると、
その……魔方陣みたいなものが見えて、
ちょうど私、次の遠足の写真の担当だったから、カメラをいじってるところだったんで」
「思わず、シャッターを切った、と」
「はい」
「これ一枚だけですか」
「はい。園長先生がすぐにトンボで消してしまったので」
「消した後の園庭の写真は?」
「撮っていません」
「そうですか。分かりました」
師匠は写真を手にして、少し考えているような顔をする。

「この写真を撮ったのは、二歳児の部屋からですね?」
「はい、ちょうどこの部屋の真上です」



262 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:39:19.18 ID:cMOGa5XM0
「なるほど、ではこの魔方陣は、この部屋の正面に近い位置にあったわけですね」
そう言って師匠は立ち上がり、ガラス戸の方へ向かう。
開け放してあった戸から外へ出て、すぐ外にあった小さな板敷きから自分の靴を選んで園庭へ出て行った。
僕らもそれについていく。

数メートル進んで、写真と周囲を見比べながら「このへんですね」と言う。
当然だが、地面はすっかり乾いていて、
泥に描かれていたという魔方陣のらしきものの痕跡すらない。
「ふうん」
師匠は怪訝な表情で地面を触る。
そして首を傾げた。
その場所からは部屋の正面側のフェンスや左手側の花壇まで、まだ十メートルほどもある。

「あそこから撮ったんですね」師匠が園舎の二階を指さす。
園庭から見て一番右端の部屋だ。
一階の倉庫と調理室にあたる部分には二階がないためだった。
そしてその二階にはテラスがなく、師匠の指さす方向には窓と壁だけが見えている。

「念のための確認ですが、これが描かれているところを、誰も見てないんですね?」
「はい」
「雨の降っていた時間は?」
「十一時から昼の二時までです」
悦子先生が答える。
「それ以外の時間は曇ってはいましたが、雨は降っていません」
それを聞いて、師匠が意味深に頷く。
「なるほど、呼ばれた訳が分かりましたよ」
じゃあ、部屋に戻りましょうか。
師匠にそう促されて全員、五歳児室に戻る。



263 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:39:51.12 ID:cMOGa5XM0
また同じような配置で床に座ったとたん、師匠が口を開く。写真を手にしたままで。
「これを、どう思ったんです」
先生たちは顔を見合わせる。
「園長先生は、たちの悪いイタズラだと」
悦子先生がそう答えたのを、師匠はニヤニヤしながら聞いている。
「何年か前にあった、机を9の字に並べるイタズラ事件のことを思い出しますね」
師匠の言葉に僕もその出来事のことを思い出した。

確か東京の中学校で、夜のうちに何者かが校内に侵入し、
何百という大量の机を運び出して校庭に並べた、という事件だ。
校庭から見ると、ただむちゃくちゃに放置された机にしか見えなかったが、
屋上から見るとそれがアラビア数字の『9』の形になっている、という奇怪な事件だった。
そのことが全国的に報道されると、視聴者たちは素人探偵となって
その事件の犯人や『9』の意味、そして動機について様々な推理がなされることになった。
規模はまったく違うが、保育園の園庭に奇妙な図形が描かれるというのは、
その時のことを彷彿とさせるものがあった。


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師匠シリーズ

252 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:18:12.74 ID:cMOGa5XM0
次の日、つまり日曜日。
師匠と僕は市内のとある保育園に来ていた。

子どもの声のしない休日の保育園はやけに静かで、
こんなところに入っていいのだろうかと不安な気持ちになる。
二階建ての園舎の一階、その中ほどにある部屋で僕らは座っていた。
床は畳ではなくフローリングで、
開け放した園庭側のガラス戸から暖かな風と光が入り込んできている。
ガラス戸からはそのまま外へ出られるようになっていて、
すぐ前には下駄箱がある。

横長の園舎の一階の部屋は全部で五つ。
門を潜るとすぐ左手側に園舎の玄関があり、そこをつきあたりまで進むと
右手に真っ直ぐに廊下が伸びていて、そのさらに向かって右手側に
事務室、四歳児室、五歳児室、倉庫、調理室、という順で部屋が並んでいる。
また玄関の奥には二階へ上がる階段があり、
玄関の下駄箱はその二階へ上がる人たちのためのものだった。
階段を上るとまた廊下が真っ直ぐ伸びていて、
右手側に遊戯室、0歳児室、一歳児室、二歳児室と並んでいる。





253 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:19:10.75 ID:cMOGa5XM0
保育園の敷地は四角形で、おおよそ園庭と園舎とで半々に区切られている。
門の真正面はその園庭側で、
わずかな遊具と砂場、そしてその奥には花壇と小さな農園がある。
園庭側の周囲は背の高いフェンスで覆われており、そのフェンスの内側は木が並べて植えられている。
残りの半分の園舎側はフェンスが途中で材質変更されたような形でブロック塀に切り替わり、
それがぐるりとちょうど農園の手前まで周囲を覆っている。

門を通り抜けてすぐ左手に進むと、
園舎の玄関とブロック塀の間に隙間があり、裏側へ進むことが出来るが、
途中に物置があるくらいで園舎の真裏にはブロック塀との間にほとんどスペースがなく、
調理室の裏手のあたりでフェンスに阻まれ行き止まりとなっている。

そしてその向こうはプールだ。
出入りは園舎の廊下側からしか出来ないようになっている。
敷地で言うと調理室の隣ということになる。
以上がこの保育園の概要だ。



254 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:22:03.01 ID:cMOGa5XM0
師匠は到着して早々、一通りの案内を頼み、
ようやくその構造が頭に入ったところで一階にある一室に腰を落ち着けたのだった。

「で、ここは五歳児室というわけですね」
師匠が周囲の壁を見回す。
「はい」
女性が頷いた。
小川調査事務所に依頼人としてやって来た人で、悦子さん、という三十歳くらいの保育士だ。
「私が担任をしています」
悦子さんはいつもはエプロン姿なのだろうが、今日は私服だ。本来は休みである日なので当然か。
僕と師匠の前には悦子さんの他に三人の女性が座っている。
順に紹介される。



255 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:24:42.58 ID:cMOGa5XM0
「あと、麻美先生が隣の三・四歳児室の担任、
それから洋子先生が二階の二歳児室、由衣先生がその隣の一歳児室の担任です」
それぞれが緊張気味に会釈する。
お互いが先生と呼び合うのか。
そう言えば自分が昔保育園に通っていた時もそうだったことを思い出して懐かしくなる。

悦子先生は見るからにしっかり者、という感じで喋り方や動きがキビキビしていて、
明らかに他の先生を引っ張っているリーダー役だった。



256 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:25:12.55 ID:cMOGa5XM0
「で、これが問題の写真ですね」
師匠の言葉に、全員の視線が床に置かれた一枚の写真の上に注がれる。

それはこの園舎の二階の窓から園庭に向かってシャッターを切った写真であり、
雨に濡れてぬかるんだ園庭の中ほどに、
奇妙な丸い模様が浮かび上がっている様が写し出されている。
その丸い模様は直径二メートルほど。
すぐそのそばにエプロン姿の女性が一人写っていて、園舎側から足跡が伸びている。
写真を見ながら、四人の若い保育士が息を呑む気配があった。

師匠が顔を上げ、そんな様子を意にも介さない口調ではっきりと言う。
「では、詳細な説明を」

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師匠シリーズ    

246 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:12:00.11 ID:cMOGa5XM0
メモ帳にはキノコのようなものが小さく描かれ、それがゴチャゴチャした線で消されていた。
「これもだ」
何頁かメモを捲り、またぐいと開かれる。
オカッパのような髪型の誰かの顔が描かれているが、失敗したのか途中で線が途切れている。
「そしてこれ」
ドキリとした。
別の頁に、さっきとはまるで違う筆致で頭のようなものが描かれている。オカッパ頭が。
顔は描かれていない。頭の外殻だけの絵。

「お……女の子」
「そうだ」
師匠はニヤリと笑う。
僕は思わずメモ帳を受け取り、さっきのキノコのようなものの絵を見る。

髪だ。あらためて確認すると、キノコではなく明らかに髪の毛として描かれていた。
ドキドキしながら頁を捲っていくと、他にもそのオカッパのような髪型がいくつか現れた。





247 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:12:34.50 ID:cMOGa5XM0
偶然。
にしては多すぎる頻度だ。
電話ボックスに入った不特定多数の通行人が無意識に握ったペン。
それが描くものがたまたま同じであるという蓋然性は?
そしてそれが偶然ではないのだとすると、そこに描かれたものは一体……
生唾を呑んで僕は師匠を見る。

しかし彼女はへら、と笑うとメモ帳を摘むようにして取り上げた。
「だいたい分かったし、もういいや」
そうしてメモ帳をデスクの引き出しに放り込み、また雑誌を手に取った。
読みかけた場所から頁を追い始める。
さっきまで興奮気味だったのに、すっかり興味を失っているようだ。

この熱しやすく冷めやすいところが師匠の特徴の一つだった。
そんなやりとりの間にも事務所の中には服部さんが叩くキーボードの音が静かに響いていて、
僕はふいにここがどこであるのかを思い出す。



248 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:13:07.60 ID:cMOGa5XM0
「何時からでしたっけ」
僕が言うと、師匠は雑誌から目を逸らさずに壁を指さした。
そこにはホワイトボードが掛かっていて、
『所長』と『中岡』の欄に『十三時半、依頼人』という文字がマジックで走り書きされている。
もう少しでその時間だ。
「あれ、そう言えば所長は?」
「あれだよ。下のボストンで待ち合わせ」

ああ、そうか。思い出した。
今度の依頼人は若い女性で、こんな妖しげな雑居ビルにある
興信所などという場所に、いきなり足を踏み入れるのを躊躇したのだ。
気持ちは分かる。
それで、まずビルの一階にある喫茶店『ボストン』で所長と待ち合わせをしていたのだった。
そこで少しやりとりをして、多少なりと安心してもらってから
事務所まで招き入れる、という算段だろう。



249 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:13:43.57 ID:cMOGa5XM0
この零細興信所の所長である小川さんは、服の着こなしからして随分くだけた大人なのだが、
人あたりは良く、初対面の依頼人の緊張をほぐすようなキャラクターをしていた。
「あ、やべ。お茶切れてたんじゃないか」
師匠はふいに立ち上がって台所の方へ小走りに向かった。
そしてガタゴトという音。
引き出しをかき回しているらしい。

傍若無人な振る舞いをしている師匠だったが、
何故かこの事務所ではコーヒーやお茶などを出す係を当然のように引き受けている。
女だから、などという固定観念で動く人ではないはずなので、意外な一面というところだろうか。
台所をひっくり返すような騒々しさに苦笑していると、
服部さんがキーを叩く手を止め、
ぼそりと呟いた。

「彼女は、この仕事に向いてない」
服部さんから僕らに話しかけて来ること自体まれなので、
この部屋に他に誰かいるのかと一瞬キョロキョロしそうになったが、
どうやらやはり僕に聞えるように言ったらしい。



250 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:14:18.89 ID:cMOGa5XM0
「探偵には」
そう補足してから、服部さんはまたキーを一定のリズムで叩き始める。

自分の師匠が馬鹿にされたというのに、僕は何故か腹が立たなかった。
ただ服部さんがどうして今さらそんなことを口にするのか、
そのことを奇妙に思っただけだった。

「でも、服部さんだって一緒に仕事したことあるでしょう。僕はあの人、凄いと思いますけど」
一応反論してみる。
確かに師匠はオカルト絡みの依頼専門なので、
どうしても本来の興信所の業務とは異なる手法を取ることが多いが、
その端々で見せる発想や推理力の冴えは、
探偵としても凡庸ではないと十分に思わせるものだったはずだ。
そんな僕の説明を聞き流していたように見えた服部さんだったが、またピタリと手を止め、
眼鏡の位置を直しながら淡々とした口調で言った。

「名探偵に向いている仕事なんて、何一つない」
「え」



251 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:15:30.22 ID:cMOGa5XM0
それってどういう意味ですか、と訊こうとした時、
「あったー」という声がして、
ふにゃふにゃになったインスタント緑茶の袋を手に台所から師匠が顔を出した。
「間に合った?間に合った?セーフ?」
師匠が入り口のドアを見てそう繰り返す。
階段を上ってくる足音が聞こえる。

師匠と、そしてそのオマケの僕が呼ばれた依頼。
つまり、不可解で、普通の人間には解決できない不気味な出来事が、
これからドアを開けてやってくるのだ。


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師匠シリーズ


238 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:05:37.87 ID:cMOGa5XM0
師匠から聞いた話だ。


土曜日の昼ひなか、僕は繁華街の一角にある公衆電話ボックスの扉を開け、中に入った。
中折れ式のドアが閉まる時の、皮膚で感じる気圧の変化。
それと同時に雑踏のざわざわとした喧騒がふいに遮断され、強制的にどこか孤独な気分にさせられる。
一人でいることの、そこはかとない不安。
まして、今自分が密かな心霊スポットと噂される電話ボックスにいるのだという意識が、
そのなんとも言えない不安を増幅させる。
夜の暗闇の中の方がもちろん怖いだろうが、この昼間の密閉空間も十分に気持ち悪い。





239 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:07:17.52 ID:cMOGa5XM0
僕は与えられた使命を果たすべく、
緑色の公衆電話の脇に据え付けてあるメモ帳に目をやる。
メモ帳は肩の部分に穴があけられていて、
そこに通した紐で公衆電話の下部にある金具に結び付けられている。
紐を解き、メモ帳を手に取る。
何枚か破った跡もあるが、捲ってみると各頁にはびっしりと落書きがされていた。
僕は頷いて、財布を取り出すとテレホンカードを電話機に挿し込む。
「えーと」
記憶を確かめながら、バイト先の番号を押す。

『……はい、小川調査事務所です』
この声は服部さんだ。
「あ、すみません、僕です。加奈子さんはいますか」
『……中岡さんのことですか』
「あ、すみません。そうです」



240 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:08:26.71 ID:cMOGa5XM0
僕も、先輩にあたる加奈子さんもバイト用の偽名を使っているのだが、
依頼人がいる場所でもついうっかり本名で呼んでしまいそうになることが多々あった。
なるべく小川調査事務所でのバイト中は偽名で呼び合うように
気をつけているのだが、正直徹底できていない。
しかしバイト仲間の服部さんには時々それを嫌味であげつらわれている。
服部さんはクスリとも笑わないので、嫌味なのか怒っているのか分からないのでとても怖い。

『代わります』
保留音に変わった。ワルキューレの騎行にだ。
いつもイントロで終わってしまいメインラインを聴けない。
だいたい二十五秒くらいで勇壮なメインラインに入るはずなのだが、
『あたしだ』、
ほらね。 静々と始まったイントロが盛り上がってきたところで、保留が解ける。



241 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:08:51.41 ID:cMOGa5XM0
『首尾はどうだ』
「手に入れました。これから戻ります」
『ご苦労。ボールペンも忘れるなよ』
そう言われて手で探るが、メモ帳を置いてあるあたりにはない。
誰かに盗っていかれたのかと思ったら、足元に落ちていた。
拾ってから「じゃあ、これで」と言って受話器を戻す。

扉を押すとベキリという折れるような音とともに、気圧の変化と外のごみごみとした騒々しさがやってくる。
その瞬間にあっけなく孤独は癒され、拍子抜けしたように僕は太陽の下に足を踏み出した。



242 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:09:19.30 ID:cMOGa5XM0
大学二回生の春だった。
僕は繁華街から少し外れた通りを足早に進み、立ち並ぶ雑居ビルの一つを選んで階段を上っていった。
そのビルの三階にはバイト先である小川調査事務所という興信所がある。
ドアをノックして中に入ると、カタカタという音が静かな室内に響いていた。
フロアには観葉植物の向こうにデスクがいくつか並んでいて、二人の人物の顔が見える。

「お疲れ」
バイト仲間であり、オカルト道の師匠であるところの加奈子さんが、
やる気なさそうにデスクに足を乗せたまま雑誌を開いている。
「……」
もう一人、ワープロを叩いていた服部さんが僕の方に一瞬だけ視線を向け、
そしてまた何の興味も失ったようにディスプレイに目を落とす。相変わらず冷たい目つきだ。
嫌な空気が漂っている。



243 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:10:00.78 ID:cMOGa5XM0
同じアルバイトの身ではあるが、服部さんは所長である小川さんの本来の助手である。
それに対して師匠と僕はイレギュラーな存在であり、ある特殊な依頼があった時だけ呼び出される。
この界隈の興信所業界では『オバケ』と陰口を叩かれている
奇妙な、そして時に荒唐無稽な依頼、つまり心霊現象が関わるような事件の時にだ。

霊感などとは無縁の服部さんからすれば、師匠のやっていることなど胡散臭いだけで、
口先で依頼者を騙して解決したように見せかけている姑息なやり口に見えることだろう。
元々無口な服部さんは実際のところ何を考えているのか分からないのだが、
師匠と仲が良くないのは間違いない。

「メモは?」
師匠は雑誌を置いて、催促するように右手を伸ばした。



244 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:10:31.00 ID:cMOGa5XM0
僕はポケットからさっき電話ボックスから回収したばかりの
メモ帳とボールペンを取り出してデスクの上に置いた。
「ほほう」
師匠は身を乗り出してデスクの上のメモ帳を捲り始めた。
どのページにもゴチャゴチャと線が走り、色々な落書きが残っている。
三角形がいくつも重なった図形もあれば、グルグルと丸を続けたもの、
そして割と上手なドラえもんの顔や、
かわいいコックさんを失敗してグチャグチャに消してある絵……
他にも形をとどめない様々な落書きがあった。

感心したような溜め息をつきながらメモを眺める師匠に、ようやく声をかける。
「それがなんなんですか」
「うん」
生返事で顔を上げもしない。



245 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:11:23.67 ID:cMOGa5XM0
僕が知っているのはただ、あの電話ボックスに一人で入っていると、
目に見えない何かに肩を叩かれたり物凄い寒気に襲われたり、
あるいは足を掴まれたりする、という噂だけだった。
そして師匠がこっそりとその電話ボックスにメモ帳とボールペンを持ち込み、
まるで備え付けのものであるかのように偽装して放置してから
三日目の今日、僕に回収に行かせたのだ。

回収したメモ帳は電話口で訊いた用件をメモしたのであろう、破りとられた頁もあったが、
ほとんどが落書き帳と化していた。
「無意識にだ」
師匠がメモから視線を切らずに口を開く。

「人間は電話中にペンを取る時、電話の内容や、そこから連想したもの、
あるいは全く関係がないような、その時頭に浮かんだもの書きつける。
たいていは意味のない落書きだ。
後からそれを見ると、自分でも描いたかどうか覚えていないような模様が残っていたりする」

いきなり師匠がメモ帳開いて僕の前に突きつける。
「そんな無意識下におきた現象がこれだよ」
その妙な圧力のある言葉に息を呑む。


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師匠シリーズ

229 :風の行方 後編◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:29:16.14 ID:13YZ4scB0
我ながら子どもがだだをこねるような口ぶりに、
師匠は「なんとかするさ」と口角を上げた。
どれほど追い詰められても、
この人はそのたびに常識を超えた解答を導き出す。
正答、正しい答えではない、
ただ複雑に絡まりあった事象を一刀で断ち切るような、解答をだ。
そんなとき、彼女の周囲には夥しい死と生の気配が、
禍々しく、震えるように立ち込め、僕はそれにえもいわれない恍惚を覚える。
「行くぞ」
どこへ、ではなく「はい」と僕は言った。




ビルの屋上は風が強かった。
いつもそうなのか、それとも今日という日だからなのか、それは分からなかった。
時間は夜の十二時を少し回ったころ。
展望台として開放されているわけではない。ただこっそり忍び込んだのだ。
高い場所から見下ろす夜景は、なかなかに壮観だった。
周辺で一番高いビルだから、その周囲の小さなビルの群れが月光に照らされている姿がよく見えた。
そして、その下のぽつぽつと夜の海に浮かぶ小船のような明かりも。

師匠は転落防止のフェンスを乗り越えて、
切り立った崖のような屋上の縁に腰をかけ、足を壁面に垂らしてぶらぶらと揺らしていた。
片方の手ですぐそばのフェンスを掴んではいるが、強風の中、実に危なっかしい。
僕は真似ができずに、フェンスのこちら側で師匠のそばに座り、その横顔をそっと窺っていた。
『…………』
持ち込んだ携帯型のラジオからニュースが流れている。
「続報、やらないなあ」
師匠が呟く。

さっき聴いたローカルニュースには僕も驚いた。
市内の中心街で、夕方に毒ガス騒ぎがあったというのだ。
黄色いガスがビルの回りに立ち込めて、周囲は騒然としたそうだ。
すぐにそのガスはただの着色された無害なガスと分かり、
厳戒態勢は解かれることになったのだが、
こんな平和な街でそんな事件が起こること自体が異常なことだった。
犯人はまだ分かっていない。
しかしその誰かは、師匠と同じことを考えたのに違いないだろう。
騒動のあった場所は、僕らが行き詰ったビルの前とは離れていた。
しかし、そんなトラップのような場所が一ヶ所とは限らない。
僕らよりもかなり手前にいたのか、あるいはずっと先行していたのかも知れない。



230 :風の行方 後編◆oJUBn2VTGE  :2012/05/19(土) 23:30:28.88 ID:13YZ4scB0
「だれでしょうね」
そう問うと、師匠は「さあ、なあ」と言ってラジオの周波数を変えた。
「あの子たちじゃない気がするな。
まあ、この街にも、こういう異変に気づくやつらが何人かはいるってことだろう」

そのガスをつかった誰かは、風の行き着く先にたどり着けたのだろうか。
それとも、出口のないウロボロスの蛇の輪に囚われてしまっただろうか。
僕は今日一日、西へ東へと駆けずり回った街を感慨深く眺める。
この高さから夜の底を見下ろすと、地上のすべては箱庭のように見えた。現実感がない。
さっきまであそこで這いずり回っていたのに。
急に得た神の視点に、頭のどこかが戸惑っているのかも知れない。
「で、このあと、どうなるんです」
なにも解決などしていなかった。
それでもここでただこうしているだけだ。もう僕はすべてを師匠に委ねていた。


あの後、僕らはビルを離れ、師匠の秘密基地へ向かった。
ドブ川のそばに立っている格安の賃貸ガレージだ。
部屋の中に置けない怪しげな収集物はそこに隠しているらしい。
シャッターを上げると、かび臭い匂いが鼻をついた。
そして、感じられる人には感じられる、凄まじい威圧感がその中から滲み出していた。
その空気の中へ、「どれで行くかな」などと鼻歌でも歌う調子で足を踏み入れた師匠は、
しばらくゴソゴソとやっていたかと思うと、一つの箱を持ってガレージの外に出てきた。
「やっぱりこれだな」
そしてなにごとか呟いて、箱に施されていた細い縄の封印を解いた。
呟いたのは、短い呪い言葉のようだった。

箱の中から現れたのは仮面だった。
鬼のような顔をした古そうな仮面だったが、どこかのっぺりとしていた。
だが、そのときの僕は、もっととてつもないものが現れたのだと思った。
恐ろしさや忌々しさ、無力感や憤怒、そして嘆き。そうしたものが凝縮されたもの。
なにか災害のようなものが現れたのだと。

身体が硬直して動けない僕を尻目に、
師匠はその仮面の頭部に手をやり、そこに生えていた毛を一本毟り取った。
そう。その仮面には髪の毛が生えていた。
いや、髪の毛というより、その部分の皮膚が仮面に張り付いて、
剥がすときに肉ごとこそげ落ちてしまったかのようだった。



231 :風の行方 後編◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:32:01.44 ID:13YZ4scB0
髪は、仮面の裏側にこびり付いた赤黒い肉から生えていた。
「これでいい」
師匠はそう言って、また仮面を箱に戻し、
引き抜いた髪の毛だけをハンカチに包んで、「行こう」と言った。


それから師匠はまた市街地に戻り、強い風が吹いている場所に立ってニヤリと笑ってみせた。
日は落ちて、街には人工の明かりが順々に灯っていた。
目深に被ったキャップの下の目が妖しく輝いている。
「どうすると思う?」
もう分かった。師匠がなにをするつもりなのか。
「こうするんだ」
そう言ったかと思うと、ハンカチから出したさっきの髪の毛をそっと指から離した。
それは風に乗り、あっと言う間に見えなくなってしまった。
風の唸る音が、耳にいつまでも残っているような気がした。


「あの仮面は、なんだったんです」
風の舞う深夜のビルの屋上でフェンスを挟んで座り、僕はぽつりと漏らした。
聞けばゾッとさせられるのは間違いないだろう。
しかし聞かずにもいられなかった。
「あの面か」
むき出しの足を屋上からはみ出させ、前後にぶらぶらと揺らしながら師匠は教えてくれた。

「金春(こんぱる)流を知ってるか」
曰く、能の流派の一つで、主に桃山時代に
豊臣秀吉の庇護を受けて全盛期を迎え、一時代を築いた家なのだという。
現代でも続くその金春流は、
伝承によると聖徳太子のブレーンでもあった渡来人の
秦氏の一人が伝えたものだと言われ、非常に古い歴史を持っている。
その聖徳太子が神通力をもって天より降ろし、金春流に授けたのが『天之面』と呼ばれる面だ。
その後、その面は金春家の守護神として代々大切に祀られ、
箱に納めた上に注連縄を張り、金春家の土蔵に秘されていたという。
天之面は恐ろしい力を持ち、
様々な天変地異を起こしたと伝えられている。
人々はその力を畏怖し、厳重に祀り、『太夫といえども見てはならぬ』と言われたほどであった。
享保年間の『金春太夫書状』によれば、『世間にておそろし殿と申す面也』とされている。



232 :風の行方 後編◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:34:55.04 ID:13YZ4scB0
また、『能に掛け申す面にては御座(イ)無く候』とも記されているとおり、
能の大家の守護神たる面にもかかわらず、
能を演じるときに被られることはなく、
ただ秘伝である『翁』の技を伝授された太夫のみが、一代に一度のみ見ることを許されたという。
それは『鬼神』の面とも、『翁』の面とも言われているが、正体は謎のままである。
時代の下った現代では、大和高田の面塚に納められているとも言われるが、
その所在は判然としていない。
その『おそろし殿』と呼び畏れられた面が。
『太夫といえども見てはならぬ』と称された面が……


「ちょっと、まってください」
ようやく口を差し挟んだ。
師匠は僕の目を見つめ返す。
「あの面には、その、肉が。ついていました」
能を演じる際に掛ける面ではない、と言われているのに、あきらかに誰かが被った痕跡があった。
いや、それ以前に、それほど古い面ならば、
人間の肉など風化して崩れ落ちていてしかるべきではないか。
「ニンゲンの肉ならな」
師匠は口元に小さく笑みを浮かべる。
いや、そもそも、どうしてそんな面を師匠が持っているのだ。
「話せば長くなるんだが。まあ簡単に言うと、ある人からもらったんだ」
「誰です」
「知らないほうがいいな」
そっけない口調で、つい、と視線を逸らされた。

なんだか恐ろしい。恐ろしかった。
その面はただごとではない。
自分自身がそれを見た瞬間に、『災害のようなもの』と直感したことを思い出した。
そして次に、師匠がその面の裏に張り付いた肉から抜き取った髪の毛を、
風の中に解き放ったときの光景が脳裏に蘇る。
そのときの、風の唸り声も。
ゾクゾクと寒気のする想像が頭の中を駆け巡る。
髪の毛は風に乗って宙を舞い、街中を飛び続ける。
まるで巨大ななにかが深く吸う息に、手繰り寄せられるように。
やがて髪の毛は誰かの手元にたどり着く。
そして人間を模したヒトガタの奥深くに埋められる。
それを害することで、その髪の持ち主を害しようとする、昏い意思が漏れ出す。
そして……
二十分か、三十分か。沈
黙のうちに時間が経った。



233 :風の行方 後編 ラスト◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:37:16.82 ID:13YZ4scB0
深夜ラジオの音と、轟々という風の音だけが響く高層ビルの屋上で、
僕はふいにその叫びを聞いた。

h ―――――――――………………
声にならない声が夜景の中に充満して、そして弾けた。
断末魔の叫びのようだった。

その余韻が消え去ったころ、恐る恐る街を見下ろすと、
遥か地上ではなにごともなかったかのように、車のヘッドライトが連なる糸となって流れていた。
きっとあの叫び声が、悲鳴が、聞こえたのはこの街でもごくひと握りの人間たちだろう。
その人間たちは昼間の太陽の下よりも、暗い夜の中にこそ棲む生き物なのだ。
自分と、師匠のように。

「結局、曽我ナントカだったのか、別の誰かだったのか分からなかったな。
黒魔術だか、陰陽道だか、呪禁道だか知らないが、たいしたやつだよ」
その夜の側から、師匠が言葉を紡ぐ。
「だけど」
相手が悪かったな。なにしろ国宝級に祟り神すぎるやつだ。
ひそひそと、誰に聞かせるでもなく囁く。

僕はその横顔を金網越しに見つめていた。
落ちたら助からない高さに腰をかけ、足をぶら下げているその人を。
その左目の下あたりからは、いつの間にかぽろぽろと光の雫がこぼれている。
そしてその雫は、高いビルの屋上から海のような暗い夜の底へと、音もなくゆっくりと沈んでいく。
この世のものとは思えない幻想的な美しさだった。
われ知らず、僕はその光景に重ね合わせていた。
見たこともないはずの、鷹の涙を。あるいは、夜行性の鳥類の涙……例えば、フクロウの流すそれを。

気がつくと、風はもう止んでいた。


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師匠シリーズ

225 :風の行方 後編◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:19:25.47 ID:13YZ4scB0
それから僕らは、師匠の感じ取る風の向かう先を追い続けた。
それは本当の意味で、目に見えない迷路だった。

「あっち」「こっち」と師匠が指さす先に
ひたすら自転車のハンドルを向け続けたが、
駅前の大通りを通ったかと思うと、
急に繁華街を外れて住宅街の中をぐるぐると回り続けたりした。
かと思うと川沿いの緑道を抜け、国道に入って延々と直進したりと、
法則もなにもなく、その先に終わりがあるのかまったく見えなかった。




そしてまた風に導かれるままに繁華街に戻ってきて、
いい加減息が上がってきた僕が休憩しましょうと進言しようとしたとき、
師匠が短く「止まれ」と言った。
そして後輪から降り、一人で歩き出した。

大通りからは一本裏に入った、レンガ舗装された商店街の一角だった。
師匠の背中を目で追うと、その肩越しに二人の人間の姿があった。
女性だ。二人ともセーラー服を着ている。
腕時計を見ると、いつの間にか高校生の下校の時間を過ぎていた。
二人は並んで立ち止まったまま、師匠をじっと見ている。
二人ともかなり背が高く、目立つ風貌をしていた。

師匠が「よう」と気安げに声をかけると、髪の長い方が口を開いた。
「どうも」
少しとまどっているような様子だった。
それにまったく頓着せず、師匠は親しげに語りかける。
「あの夜以来か。いや、一度会ったかな。元気か?」
「ええまあ」
短く返して、困ったような顔をする。
僕もそちらに近づいていった。
「この道にいるってことは、おまえも気づいたんだな」
師匠の言葉にその子はハッとした表情を見せた。

「危ないから、子どもは家で勉強してな」
やんわりと諭すような言葉だったが、
見るからに気の強そうな目つきをしているその女子高生が、
反発せずに聞き入れるとは思えなかった。
そしてその子が口を開きかけたとき、
「どなた」と、じっと聞いていた髪の短い方の子が一歩前に出た。

それは一瞬、髪の長い方を庇う様な姿に映った。
薄っすらと笑みを浮かべた目が値踏みするように師匠に向けられる。
師匠がなにか言おうとして、ふと口を閉ざした。
そしてなにかに気づいたような顔をしたかと思うと、すぐに笑い出した。



226 :風の行方 後編◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:22:45.51 ID:13YZ4scB0
そのとき、強い風が吹いて全員の髪の毛をなぶった。
髪の短い方が、その髪を手で押さえながら不快げに眉間を寄せる。
「おいおい、あのときの覗き魔かよ。憑りつかれてるのか思ったのに、仲良しこよしじゃないか!」
一人で笑っている師匠に、女の子たちの空気が凍りついた。
「なにを言っているの」
髪の短い方が冷淡に言い放つ。
「なにって、しらばっくれるなよ。ひっかいてやったろ」
指先を曲げて猫のような仕草を見せる師匠の言葉に、彼女は怪訝な顔をする。
師匠もすぐに彼女の顔を凝視して、おや、という表情をした。
「おい。あんなつながり方しといて、無事で済むわけないだろ。目はなんともないのか」
言われた方は自分の目をそっと触った。細く長い指だった。

「なにを言ってるのかわからない」
「ノセボ効果を回避したのか?それともおまえ……」
髪の長い方は連れと師匠との言い合いに戸惑った様子で、口を挟めないようだった。
「おまえ、過去を見てたのか」
師匠の目が細められる。
異様な気配がその場に立ち込め始めたような錯覚があった。
「だったら悪かったな。初対面だ。どうぞよろしく」
からかうように師匠が頭をぴょこんと下げる。
髪の短い方が冷ややかな目つきでその様子をねめつける。
「もう行きましょう」
ただならない雰囲気に気おされて僕は、師匠のジャケットを引っ張った。
「まあいいや。とにかくもう家に帰れ。分かったな、子猫ちゃんたち」
バイバイ、と手を振って師匠はようやくセーラー服の二人から離れた。

遠ざかっていく二人を振り返り、僕は師匠に訊いた。
「あの子たちは誰なんですか」
「さあ。名前も知らない。ただ、追いかけているらしい。同じヤツを」
髪の毛が風に流されていく先をか。
こんなバカな真似をしているのは僕と師匠だけだと思ったのに。
「あんのガキ」
急に師匠がTシャツの裾をこすり始めた。
その裾が妙に汚れていて、こするたびにその汚れが薄く広がっていくように見えた。
赤い染み。まるで血のように見えた。
「なんです、それ」
「イタズラだよ」



227 :風の行方 後編◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:23:36.85 ID:13YZ4scB0
ガキのくせに。師匠はそう呟いて、
シャツの裾をくるくると巻いてわき腹でくくり、僕の肩に手を置いた。
「さあ急ぐぞ。日が暮れる」
そう急かされたが、僕には師匠のへそのあたりが気になって仕方がなかった。


その後、さっきの二人が追いかけてくる様子もなく、
また街なかをくるくると自転車で回り続けた。
確かに同じ場所は通らなかったが、風の道が本当に一本なのか不安になってきた。
道がどこかでつながっていたとしたら、
尻尾を飲み込んだウロボロスの蛇のように堂々巡りを繰り返すだけだ。

そして、あるビルの真下にやってきたとき、師匠は忌々しげに「くそっ」と掃き捨てた。

ビルを見上げると、十階建てほどの威容がそそり立っている。
風は垂直に昇っていた。ビルの壁に沿って真上に。
これでは先に進めない。
ひたすらペダルをこぎ続けた疲れがドッと出て、僕は深く息を吐いた。
目を凝らしても壁に沿って上昇した後の風の流れは見えなかった。

しかし、師匠は「ちょっと、待ってろ」と言って、近くのおもちゃ屋に飛び込んで行った。
そして出てきたときには、手に風船のついた紐を持っていた。
ふわふわと風船は浮かんでいる。ヘリウムが入っているのだろう。
「見てろよ」
師匠は一際大きく吹いた風に合わせて紐を離した。
風船はあっと言う間に風に乗って上昇し、ビルの壁に沿って走った。
そして五階の窓のあたりで大きく右に曲がり、そのままビルの壁面を抜けた。
壁の向こう側へ回りこんだようだ。
僕と師匠はそれを見上げながら走って追いかけ、風船の行く先を見逃すまいと息を飲んだ。
だが、風船はビルの壁の端を回りこんだあたりで、風のチューブに吸い込まれるような
鋭い動きを止め、あとはふわふわと自分自身の軽さに身を任せたかのように、
ゆっくりと空に上昇していった。
「しまった」
師匠はくやしそうに指を鳴らす。

そうか。
風が上昇するときは、風船もその空気の流れに沿って上昇していくが、
下降を始めたら、風船はその軽さから下向きの空気の流れに抗い、
一瞬は風とともに下降しても
やがてその流れから外れて、勝手に上昇していってしまうのだ。
恐らくは何度やっても同じことだろう。
飛んで行く風船を見上げながら、僕たちはその場に立ち尽くしていた。
これで道を指し示すものがなくなった。
気がつくとあたりは日が落ちかけ、薄暗くなっていた。



228 :風の行方 後編◆oJUBn2VTGE :2012/05/19(土) 23:24:38.31 ID:13YZ4scB0
「どうしますか」
焦りを抑えて僕がそう問い掛けると、師匠は難しい顔をした。

もう、零細興信所に持ち込まれた小さな依頼どころの話ではなかった。
ありえないと思いつつも、起こりうる最悪の事態をあえて想定した時、
この街に訪れるかも知れない最悪の未来は、凄惨なものだった。
想像してしまって、自分の顔を手のひらで覆う。
風の行き着く場所で大きな口をあけて、
そのすべてを飲み込もうとしている怪物。
その怪物が自らの口に飛び込んできた無数の人々の髪の毛を集めて、なにかをしようとしている。

ガーンッ……
金属性のハンマーの音が頭の中に走った。
思わず顔を上げ、幻聴であったことを確かめる。
うそだろ。そんなことが現実に起こるのか。うそだろう。
助けを求めるように師匠の方を見たが、いつになく蒼白い顔をしていた。
「ガスか」
「え」
「着色したガス。それを流せば風の道が見える」
それだ。その思いつきに興奮して、師匠の手を取った。
「それですよ。いけます、それ」

しかし師匠は浮かない顔だった。
確かに、着色ガスなどどこで手に入れたらいいのかとっさには分からない。
しかし知り合いに片っ端から訊くとか、
あるいは街なかのミリタリーショップにでも行けばあっさりと売っているかも知れない。
もしくは駄菓子屋で売っていたような煙玉でもいい。
少なくともここでビルを見上げているよりはマシだ。

しかし師匠は首を振る。そして自分の腕時計を指し示す。
「時間がない」
「なぜです」
「もう日が暮れる。なにかあるとしたら夜だ。
確かに昨日から風は吹いていたけど、明らかに今日になってから強くなった。
今夜、それが起こるかも知れない。
ここまでに掛かった時間を考えてみろ。
わたしたちはスタートがどこかも知らないんだ。この先、どこまでこの風の道が続くのかも」
僕は口ごもった。
しかし、腹の底から湧いてくる焦燥が、考えも無く口を開かせる。
「だったらどうするんですか」



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師匠シリーズ

191 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:26:25.78 ID:wBpB+Oun0
アパートはすぐに分かり、
表札のないドアをノックしていると、
隣の部屋から無精ひげを生やした男が出てきて、こう言った。
「引っ越したよ」
「いつですか」
ぼりぼりと顎を掻きながら「四,五日前」と答える。

ここに住んでいたのが曽我という学生だったことを確認して、
引越し先を知りたいから
大家はどこにいるのかと重ねて訊いた。
すると、その隣人は、
「なんか、『当日に急に引っ越すからって連絡があって、
敷金のこともあるのに引越し先も言わないで消えた』って、大家がぶつぶつ言ってたよ」
と教えてくれた。




四,五日前か。ちょうど人形の事件があったころだ。
その符合に嫌な予感がし始めた。

礼を言ってそのアパートから出た後、今度はその足で市内のハンコ屋に行った。
以前師匠のお遣いに行かされた店だった。

師匠は店内にズラリとあった三文判の中から、『曽我』の判子を選んで買った。
安かったが、領収書をしっかりともらっていた。
宛名が『上様』だったことから、これからすることがなんとなく想像できた。


ハンコ屋を出ると、案の定次の目的地は市役所だった。
師匠は玄関から市民課の窓口を盗み見て、
僕に「住民票の申請書を一枚とってこい」と言った。
言うとおりにすると、今度は建物の陰で
僕にボールペンを突きつけ、その申請書の『委任状』の欄を書かせた。
もちろん委任者は『曽我タケヒロ』だ。
そして買ったばかりの判子をついて、「ここで待ってろ」と市民化の窓口へ歩いて行った。

そのいかにも物慣れた様子に、興信所の調査員らしさを感じて感心していた。
なにより、ポケットから携帯式の朱肉が出てきたことが一番の驚きだった。
前にも持っているところを見たことがあったが、
こんなこともあろうかと、いつも持ち歩いているらしい。
どっぷり浸かっているな、この世界に。
しかしそれさえ、彼女の持つバイタリティの一面に過ぎないということも感じていた。



192 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:28:18.48 ID:wBpB+Oun0
しばらく待っていると、浮かない顔をして戻ってきた。
「どうでしたか」と訊くと、
「駄目だ。こっちに住民票自体移してなかった。
蒸発の仕方から、転出届けは出してない可能性が高かったから、
住んでたアパートの住民票さえ取れれば、
戸籍と前住所が分かって、色々やりようがあったんだけど」

師匠はそう言いながら市役所の外へ歩き出す。
「大家をつかまえて、アパートに越してくる前の住所を訊き出しますか」
「いや、難しいだろう。住民票を市内に移してないということは、
遠方の実家に住所を置いたままだった可能性が高い。

カンだけど、曽我はまだこの街にいる気がする。
だから実家を探し出しても、やつの足取りをたどれるかどうかは怪しいな。
ま、逆に実家に帰ってるんだったら、実害はなさそうだ。
とりあえず今すべきことは、最悪の事態を想定して、迅速に動くことだな」
となると、やっぱり
大学と演劇部の連中に訊き込みをするしかないか。
師匠は忌々しそうに呟いた。
もし曽我がまだその近辺にいるのなら、
それではこちらの動きも筒抜けになってしまう可能性があった。

「どうすっかなあ」
師匠は大げさに頭を両手で掻きながら歩く。
クーラーの効いていた市役所の中から出ると、
熱気が全身に覆いかぶさってきて、息が詰まるようだった。
そして太陽光線が容赦なく肌を刺す。

しかし、しばらく歩いていると、
強い風が吹き付けてきてその熱気が少し散らされた。
相変わらず風が強い。
朝からずっと吹き回っている。

「昨日からだよ」と師匠は言った。
風は昨日から吹いているらしい。
そう言えば昨日はほとんど寝て過ごしたので覚えていないが、そうだったかも知れない。

「そう言えば昨日、友だちが髪の毛の話をしてましたよ」
僕には、男のくせにやたらと髪の毛を伸ばしている友人がいた。
高校時代からずっと伸ばしているというその髪は
腰に届くほどもあって、
周囲の女性からは気持ち悪がられていた。

本人は女性以上に髪には気を使っているのだが、
長いというだけで不潔そうに見えるのだろう。
だが大学にはそういう髪の長い男は結構多かった。
いわゆるオタクのファッションの一類型だったのだろう。



193 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:32:30.07 ID:wBpB+Oun0
その友人が昨日、自分の部屋にガールフレンドを呼んだのだが、
あるものを見つけられて詰め寄られたのだという。
どうせ他のオンナを部屋に上げていた痕跡を見つけられたという、
痴話喧嘩の話だろうと思って
その電話を聞いていると、案の定
『髪の毛が部屋に落ちてるのを見つけられたんだ』と言う。
ふうん、と
面白くもなく相槌を打っていると、彼は続けた。
『それで詰め寄られたんだ。この短い髪の毛、誰のよ?って』
少し噴いた。
なるほど、そういうオチか。彼女も髪が長いのだろう。

市役所の前の通りを歩きながらそんな話をすると、
師匠はさほど面白くもなさそうに「面白いな」と言って、
心ここにあらずといった様子でまだ悩んでいた。
僕は溜め息をついて、歩きながら自転車のハンドルを握り直す。
またじわじわと熱さが増してきた。
早く自転車にまたがってスピードを出したかった。
そう思っていると、また風が吹いてきて、その風圧を仮想体験させてくれた。

「うっ」
いきなり顔になにがか絡み付いてきた。
虫とか、何だか分からないものが顔にあたったときは、
口に入ったわけではなくても一瞬息が詰まる。
そのときもそんな感じだった。

なんだ。
顔に張り付いたものを指で摘んだ瞬間、得体の知れない嫌悪感に襲われた。
髪の毛だった。
誰の?とっさに隣の師匠の横顔を見たが、長さが違う。
そしてそのとき風は師匠の方からではなく、全然違う方向から吹いていた。

髪の毛。
髪の毛だ。髪の毛が風に乗って流されてきた。
立ち止まった僕を、師匠が怪訝そうに振り返る。
そして僕の手に握られたそれを見ると、
見る見る表情が険しくなる。

「よこせ」
僕の手から奪いとった髪の毛に顔を近づけて凝視する。
それからゆっくりと顔を上げ、水平に首を回して周囲の景色を眺めた。
風がまた強くなった。
心臓がドクドクと鳴る。
偶然だろう。偶然。



195 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 22:06:24.13 ID:wBpB+Oun0
そのとき、近くを歩いていた女子高生たちが悲鳴を上げた。
「やだぁ。なにこれぇ」
その中の一人が、顔に吹き付けた風に悪態をついている。
いや、風にではない。
その指にはなにかが摘まれている。

「なにこれ。髪の毛?」
「気持ち悪ぅい」
口々にそんなことを言いながら、女子高生たちは通り過ぎていった。

髪。
偶然……ではないのか。
師匠はいきなり自分の服の表面をまさぐり始めた。
猿が毛づくろいをしているような格好だ。
ホットパンツから飛び出している足が妙に艶かしかった。
しかしすぐにその動きは止まり、
腰のあたりについていたなにかを慎重に摘み上げる。
そして僕を見た。
その指には茶色の髪の毛が掴まれている。
反対の手の指には、さっき僕の顔に張り付いた髪の毛。色は黒だ。

長さが違う。
色も。
どちらも師匠とも、僕の髪の毛とも明らかに違っていた。

「お前、その友だちの話」
「え」
「短い髪の毛誰のよ、って怒られた友だちだよ」
「はい」
「本当に浮気をしていたのか」
その言葉にハッとした。
浮気なんかしていないはずだ。
今の彼女を見つけただけでも奇跡のような男だったから。

その部屋に、彼女のでも、自分のでもない短い髪の毛。
普通に考えれば誰か他の、
男の友人が遊びにきて落としたのだろうと思うところだ。
しかし、そう連想せずに
いきなり詰め寄られたということは、なにか理由があるはずだ。
例えば、前の日に二人で部屋の掃除をしたばかりで、
友人は誰も訪ねては来ていないはずだったとか。

だったらその髪の毛は、どこから?
僕は思わず自分の服を見た。隅から隅まで。
そして服の表面に絡みついた髪の毛を見つけてしまった。それも三本も。
ぞわぞわと皮膚が泡立つ。



196 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 22:08:29.86 ID:wBpB+Oun0
どれも同じ人間の髪の毛とは思えなかった。
よく観察すると長さや太さ、色合いがすべて違う。

こうして、友人の服についた誰かの髪の毛が、部屋の中に落ちたのか。
そう言えば、今日自分の部屋を出たときから、
顔になにかほこりのようなものが当たって息が詰まることが何度かあった。
あれはもしかして髪の毛だったのかも知れない。すべて。

空は晴れ渡っていて、ぽつぽつと浮かんだ雲はどれもまったく動いていないように見えた。
上空は風がないのだろうか。
師匠は歩道の真ん中で風を見ようとするように
首を突き出して目を見開いた。
そしてしばらくそのままの格好でいたかと思うと、前を見たまま口を開く。

「髪が、混ざっているぞ」
風の中に。
そう言って、なんとも言えない笑みを浮かべた。

「小物だと思ったけど、これは凄いな。いったいどういうことだ」
師匠のその言葉を聞いて、そこに含まれた意味にショックを受ける。

「これが、人の仕業だって言うんですか」
街の中に吹く風に髪の毛が混ざっているのが、誰かの仕業だと。
僕は頬に吹き付ける風に嫌悪感を覚えて後ずさったが、
風は逃げ場なくどこからも吹いていた。

その目に見えない空気の流れに乗って、
無数の誰かの髪の毛が宙を舞っていることを想像し、吐き気をもよおす。

「床屋の……ゴミ箱が風で倒れて、そのまま
ゴミ袋いっぱいの髪の毛が、風に飛ばされたんじゃないないですか」
無理に軽口を叩いたが、師匠は首を振る。
「見ろ」
摘んだままの髪の毛を二本とも僕につきつける。
よく見ると、どちらにも毛根がついていた。

慌てて自分の身体についていたさっきの髪の毛も確認するが、
そのすべてに毛根がついている。
ハサミで切られたものではなく、明らかに抜けた毛だ。

確かに通行人の髪の毛が自然に抜け落ちることはあるだろう。
それが風に流されてくることも。
だが、問題なのはその頻度だった。
師匠が近くにあった喫茶店の看板に近づいて指をさす。
そこには何本かの髪の毛が張り付いて、吹き付ける風に小刻みに揺れていた。



197 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 22:11:04.43 ID:wBpB+Oun0
「行くぞ」
師匠が僕の自転車の後ろに勢いよく飛び乗った。
僕はすぐにこぎ出す。
それから二人で、街なかをひたすら観察して回った。
だが、その行く先々で風は吹き、その風の中には髪の毛が混ざっていた。

僕は自転車をこぎながら、混乱していた。
今起こっていることが信じられなかった。
現実感がない。
いつの間にか別の世界に足を踏み入れたようだった。

風は広範囲で無軌道に吹き荒れ、
市内の中心部のいたるところで髪の毛が一緒に流されているのを確認した。
目の前で風に煽られ髪の毛を手で押さえる女性を見て、師匠は言った。
「この髪の毛、どこからともなく飛んできてるわけじゃないな」
通行人の髪が強風に撫でられ、
そして抜け落ちた髪がそのまま風に捕らわれているのだ。

師匠は被っていたキャップの中に
自分の髪の毛を押し込み、
僕には近くの古着屋で季節外れのニット帽を買ってくれた。
もちろん領収書をもらっていたが。

師匠に頭からすっぽりとニット帽を被せられ、
「暑いです」と文句を垂れると、
「もう遅いかも知れんがな、顔面を砕かれたくなかったら我慢しろ」と言われた。

顔面を?
まるであの人形だ。
ゾクゾクしながらされるがままになる。
「よし」と僕の頭のてっぺんを叩くと、師匠は顔を引き締めた。
「追うぞ」
「え?」と訊き返すと、
「決まってるだろ、髪を、集めてるヤツだ」。

何を言っているんだ。
呆れたように師匠の顔を見ながら、それでも僕は、
自分の心の奥底では、
彼女がそう言い出すのを待っていたことに気がついていた。

「曽我ですか」
「タイミングが合いすぎている。わたしの勘でも、これは偶然じゃない」
想い人である浮田さんの髪を手に入れ損ねた男が、
騙されたことに怒り狂い、無差別に人の髪の毛をかき集めている、
そんな狂気の姿が頭に浮かんだ。
浮田さんは家に閉じこもっていて正解だったのだろう。
しかし、丑の刻参りだけならまだしも、
こんなありえない凄まじい現象を、ただの大学生が起こしているというのか。



198 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 22:14:41.76 ID:wBpB+Oun0
「いや、分からん。曽我は浮田の髪の毛を手に入れたが、
それが誰か他のやつの手に渡った可能性はある」
「他のやつって?」
「……」
師匠は少し考えるそぶりを見せて、慎重な口調で答えた。
「どうもこのあいだから、こんなことが多い気がする」

このあいだって。
口の中でその言葉を反芻し、自分でも思い当たる。

師匠が少し前に体験したという、街中を巻き込んだ異変のことだ。
僕も妙な事件が続くなあと思ってはいたが、
その真相にたどり着こうなどとは考えつかなかった。
その後も師匠にはそのことでしつこく詰られていた。
こういう大規模な怪現象が立て続くことに、師匠なりの警戒感を覚えているらしい。
その怪現象のベールの向こうに、なにか恐ろしいものの影を感じ取っているかのようだった。

「どうやって追うんです」
少し上ずりながら僕がそう問うと、師匠は
自分の人差し指をひと舐めし、唾のついたその指先を風に晒した。
風向きを知るためにする動作だ。

「風を追う」
風が人々の髪の毛を巻き込みながら
街中を駆け回り、そしてその行き着く先がどこかにあると言っているのだ。

「でもこんなにバラバラに吹いてるのに」
「バラバラじゃない。確かに東西南北、どの方角からも風が吹いている。
でも一つの場所では必ず同じ向きに風が吹いている」

師匠のその言葉に、思わず「あっ」と驚かされた。
言われてみると確かにそうだったかも知れない。

「迷路みたいに入り組んでいても、目に見えない風の道があるんだ」
そうじゃなきゃ、髪を集められない。
そう言って師匠は僕の自転車の後輪に足を乗せ、行き先を示した。
つまり、風が向かう方向だ。

ゾクゾクと背筋になにかが走った。
恐怖ではない。感心でもない。畏敬という言葉が近いのか。
この人は、こんなわけのわからない出来事の根源に、たどり着いてしまうのだろうか。
力強く肩を掴まれ、「さあ行け」という言葉が僕の背中を叩いた。


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師匠シリーズ

183 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:09:55.96 ID:wBpB+Oun0
師匠から聞いた話だ。


大学二回生の夏。
風の強い日のことだった。

家にいる時から
窓ガラスがしきりにガタガタと揺れていて、
嵐にでもなるのかと何度も外を見たが、空は晴れていた。
変な天気だな。
そう思いながら過ごしていると、
加奈子さんという大学の先輩に電話で呼び出された。




家の外に出たときも顔に強い風が吹き付けてきて、
自転車に乗って街を走っている間中、ビュウビュウという音が耳をなぶった。
街を歩く女性たちのスカートがめくれそうになり、
それをきゃあきゃあ言いながら
両手で押さえている様子は眼福であったが、
地面の上の埃だかなんだかが舞い上がり
顔に吹き付けてくるのには閉口した。
うっぷ、と息が詰まる。
風向きも、あっちから吹いたり、こっちから吹いたりと、全く定まらない。
台風でも近づいてきているのだろうか。
しかし新聞では見た覚えがない。
天気予報でもそんなことは言っていなかったように思うが……

そんなことを考えていると、
いつの間にか目的の場所にたどり着いていた。
住宅街の中の小さな公園に古びたベンチが据えられていて、
そこにツバの長いキャップを目深に被った女性が片膝を立てて腰掛けていた。
手にした文庫本を読んでいる。
その広げたページが風に煽られて、舌打ちをしながら指で押さえている。

「お、来たな」
僕に気がついて加奈子さんは顔を上げた。
Tシャツに、薄手のジャケット。
そしてホットパンツという涼しげないでたちだった。
「じゃあ、行こうか」
薄い文庫本をホットパンツのお尻のポケットにねじ込んで立ち上がる。

彼女は僕のオカルト道の師匠だった。
そして小川調査事務所という興信所で、『オバケ』専門の依頼を受けるバイトをしている。
今日はその依頼主の所へ行って話を聞いてくるのだという。
僕もその下請けの下請けのような仕事ばかりしている零細興信所の、
アルバイト調査員である師匠の、さらにその下についた
助手という、素晴らしい肩書きを持っている。
あまり役に立った覚えはないが、
それでもスズメの涙ほどのバイト代は貰っている。
具体的な額は聞いたことがないが、
師匠の方は鷹だかフクロウだかの涙くらいは貰っているのだろうか。



184 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:12:15.96 ID:wBpB+Oun0
「こっち」
地図を手書きで書き写したような半紙を手に住宅街を進み、
ほどなく小洒落た名前のついた二階建てのアパートにたどり着いた。
一階のフロアの中ほどの部屋のドアをノックすると、
中から俯き加減の女性がこわごわという様子で顔を覗かせる。
「どうもっ」
師匠の営業スマイルを見て、
少しホッとしたような表情をしてチェーンロックを外す。
そしておずおずと部屋の中に通された。

浮田さんという名前のその彼女は、市内の大学に通う学生だった。
三回生ということなので、僕と師匠の中間の年齢か。

実は浮田さんは以前にも小川調査事務所を通して、
不思議な落し物にまつわる事件のことを師匠に相談したことがあったそうで、
その縁で今回も名指しで依頼があったらしい。
道理で気を抜いた格好をしているはずだ。

ただでさえ胡散臭い『自称霊能力者』のような真似事をしているのに、
お金をもらってする仕事としての依頼に、
いかにもバイトでやってますとでも言いたげな
カジュアル過ぎる服装をしていくのは、相手の心象を損ねるものだ。
少なくとも初対面であれば。
師匠はなにも考えてないようで、わりとそのあたりのTPOはわきまえている。

「で、今度はなにがあったんですか」
リビングの絨毯の上に置かれた丸テーブルを囲んで、浮田さんをうながす。
学生向きの1LDKだったが、家具が多いわりに
部屋自体は良く片付けられていて、随分と広く感じた。
師匠のボロアパートとは真逆の価値観に溢れた部屋だった。
「それが……」
浮田さんがポツポツと話したところをまとめると、こういうことのようだ。


彼女は三年前、大学入学と同時に演劇部に入部した。
高校時代から見るだけではなく自分で演じる芝居が好きで、
地元の大学に入ったのも演劇部があったからだった。
定期公演をしているような実績のあるサークルだったので
部員の数も多く、一回生のころはなかなか役をもらえなかったが、
くさらずに真面目に練習に通っていたおかげで、
二回生の夏ごろからわりと良い役どころをやらせてもらえるようになった。



185 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:15:08.37 ID:wBpB+Oun0
三回生になった今年は、
就職活動のために望まずとも半ば引退状態になってしまう秋を控え、
言わば最後の挑戦の年だったのだが、
下級生に実力のある子が増えたせいで、
思うように主役級の役を張れない日々が続いていた。

下級生だけのためではなく、
本来引退しているはずの四回生の中にも、
就職そっちのけで演劇に命を賭けている先輩が数人いたせいでもあった。
都会でやっているような大手の劇団に誘われるような凄い人はいなかったのだが、
バイトをしながらでもどこかの小劇団に所属して、
まだまだ自分の可能性を見極めたい、という人たちだった。
真似はできないが、それはそれで羨ましい人生のように思えた。

そしてつい三週間前、
文化ホールを借りて行った三日間にわたる演劇部の夏公演が終わった。
同級生の中には自分と同じように秋に向けて
まだまだやる気の人もいたが、これで完全引退という人もいた。
年々早くなっていく就職活動のために、
三回生とってはこの夏公演が卒業公演という空気が生まれつつあった。


だが、彼女にとって一番の問題は、
就職先も決まらないまま、
まだズルズルと続けていた四回生の中の、ある一人の男の先輩のことだった。
普段からあまり目立たない人で、
その夏公演でも脇役の一人に過ぎず、台詞も数えるくらいしかなかったのだが、
卒業後は市内のある劇団に入団すると言って周囲を驚かせていた。
誰も彼が演劇を続けるとは思っていなかったのだ。
同時に、区切りとしてこれで演劇部からは引退する、とも。

その人が、夏公演の後で彼女に告白をしてきたのだ。ずっと好きだったと。
なんとなくだが、普段の練習中からも
粘りつくような視線を感じることがあり、それでいてそちらを向くと、
つい、と目線を逸らす。
そんなことがたびたびあった。
いつも不快だった。気持ちが悪かった。
その男が今さら好きだったなんて言ってきても、返事は決まっていた。

はっきりと断られてショックを受けたようだったが、
しばらく俯いていたかと思うと、
蛇が鎌首をもたげるようにゆっくりと顔を上げ、ゾッとすることを言ったのだ。

「髪をください」
口の動きとともに、首が頷きを繰り返すように上下した。



186 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:17:21.65 ID:wBpB+Oun0
「せめて、思い出に」
そう言うのだ。
大げさではなく震え上がった。

「いやですよ。髪は女の命ですから」と、
最初は冗談めかしてごまかそうとしたが、
それで乗り切れそうな気がしないことに気づき、やがて叫ぶように言った。
「やめてください」
男は怯んだ様子も見せず、同じ言葉を繰り返した。
そして、「一本でもいいんです」と、懇願するような仕草を見せた。

彼女は「本当にやめてください」と言い捨てて、
その場を逃げるように去ったが、追いすがってはこなかった。
しかしホッとする間もなく、それから大学で会うたびに髪の毛を求められた。
「髪をください」と、ねとつくような声で。

彼と同じ四回生の先輩に相談したが、
男の先輩は「いいじゃないか、髪の毛の一本くらい」と言って、
さもどうでもよさそうな様子で取り合ってくれず、
女の先輩は、
「無駄無駄。あいつ、思い込んだらホントにしつこいから。
まあでも髪くらいならマシじゃない?
変態的なキャラだけど、そこからエスカレートするような度胸もないし」
と言った。

以前にも演劇部の女の同級生に言い寄ったことがあったらしいのだが、
その時も相手にされず、
それでもめげないでひたすらネチネチと言い寄り続けて、
とうとうその同級生は退部してしまったのだそうだ。
ただその際も、家にまで行くストーカーのような真似や、
乱暴な振る舞いに出るようなことはなかったらしい。

そんな話を複数の人から聞かされ、
今回はその男の方が演劇部から引退するのだし、
髪の毛だけで済むのならそれですべて終わりにしたい。
そう思うようになった。
それで済むうちに……


そしてある夜、寝る前にテレビを消した時、その静けさに
ふいに心細さが込み上げてきて、
「よし、明日髪の毛を渡そう」と決めたのだった。

しかし、いざハサミを手に持って、
もう片方の手で髪の毛の一本を選んで掴み取ると、
これからなにか大事なものを、文字通り切り捨ててしまうような感覚に襲われた。
一方的な被害者の自分が、どうしてこんなことまでしなければならないのか。
そう思うとムカムカと怒りがこみ上げてきた。



187 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:18:48.09 ID:wBpB+Oun0
そうだ。なにも自分の髪の毛でなくとも良いのだ。
同じくらいの長さだったら、誰のだろうがどうせ分かりっこない。

そう思ったとき目に入ったのが、
部屋の衣装箪笥の上に飾っていた日本人形だった。
子どものころに親に買ってもらったその人形は、
今でもお気に入りで、この下宿先まで持ち込んでいたのだった。
状態も良く、いつか自分が着ることを夢見た綺麗な着物を清楚にまとっていた。

そっとその髪に手を触れると、滑らかな感触が指の腹を撫でた。
確か本物の人毛を一本一本植え込んでいると、親に聞かされたことがあった。
これなら……
そう思って、摘んだ指先に力を込めると、一本の長い艶やかな髪の毛が抜けた。
根元を見ると、さすがに毛根はついていなかったが、
あの男も『抜いたものを欲しい』なんて言わなかったはずだ。

少し考えて、毛根のないその根元をハサミで少しカットした。
これで生えていた毛を切ったものと同じになったし、
長さも彼女のものより少し長めだったのでちょうど良い。
黒の微妙な色合いも、自分のものとほとんど同じように見えた。
それも当然だった。
両親は彼女の髪の色艶と良く似た人形を選んで買ってくれたのだから。


次の日、男にその髪の毛を渡した。ハンカチに包んで。
「そのハンカチも差し上げますから、もう関わらないでください」と言うと、
思いのほか素直に頷いて、「ありがとう」と嬉しそうに笑った。

最後のその笑顔も気持ちが悪かった。
カエルか爬虫類を前にしているような気がした。
袈裟まで憎い、という心理なのかも知れなかったが、
もう後ろを振り返ることもなく足早にその場を去った。
すべて忘れてしまいたかった。


それから数日が経ち、その男も全く彼女の周囲に現れなくなっていた。
本人の顔が目の前にないと現金なもので、
たいした実害もなかったことだし、
だんだんとそれほど悪い人ではなかったような気がしはじめていた。
そして、メインメンバーの一部が抜けた後の最初の公演である
秋公演のことを思うと、
自然と気持ちが切り替わっていった。


そんなある日、夜にいつものように
部屋でテレビを見ている時に、それは起こった。
バラエティ番組が終わり、
十一時のニュースを眺めていると、ふいに部屋の中に物凄い音が響いた。
なにか硬い家具が破壊されたような衝撃音。



188 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:20:52.18 ID:wBpB+Oun0
心臓が飛び上がりそうになった。
うろたえながらも部屋の中の異常を探そうと、息を飲んで周囲に目をやる。
箪笥や棚からなにか落ちたのだろうかと思ったが、
それらしいものが床に落ちている痕跡はない。

そしてなにより、そんなたかが二メートル程度の高さから物が落ちたような
生易しい音ではなかった。
もっと暴力的な、ゾッとする破壊音。

それきり部屋はまた静かになり、
テレビからニュースキャスターの声だけが漏れ出てくる。
得体の知れない恐怖に包まれながら、
さっきの音の正体を探して部屋の中を見回していると、ついにそれが目に入った。

人形だ。箪笥の上の日本人形。
艶やかな柄の着物を着て、長い黒髪をおかっぱに伸ばし、……
その瞬間、体中を針で刺されるような悪寒に襲われた。

悲鳴を上げた、と思う。
人形は顔がなかった。
いや、顔のあった場所は粉々にくだかれていて、原型をとどめていなかった。
巨大なハンマーで力任せに打ちつけたような跡だった。
まるで自分がそうされたような錯覚に陥って、
ひたすら叫び続けた。


浮田さんは語り終え、自分の肩を両手で抱いた。
見ているのが可哀そうなくらい震えている。
「髪か」
師匠がぽつりと言った。
ゾッとする話だ。
もし、彼女が自分の髪を渡していたら……
そう思うと、ますます恐ろしくなってくる。
なぜ彼女がそんな目に遭わなくてはいけないのか。
その理不尽さに僕は軽い混乱を覚えた。

その時、頭に浮かんだのは『丑の刻参り』だった。
憎い相手の髪の毛を藁人形に埋め込んで、
夜中に五寸釘で神社の神木に打ち付ける、呪いの儀式だ。
藁人形を相手の身体に見立て、
髪の毛という人体の一部を埋め込むことで、
その人形と相手自身との間に空間を越えたつながりを持たせるという、
類感呪術と感染呪術を融合させたジャパニーズ・トラディショナル・カース。
しかしその最初の一撃が、
顔が原型を留めなくなるような
寒気のする一撃であったことに、異様なおぞましさを感じる。



189 :風の行方 前編◆oJUBn2VTGE :2012/05/11(金) 21:22:43.12 ID:wBpB+Oun0
「その後は?」
師匠にうながされ、浮田さんはゆっくりと口を開く。
「なにも」
その夜は、それ以上のことは起こらなかったそうだ。

壊された人形はそのままにしておく気になれず、親しい女友だちに捨ててきてもらった。
怖くて一歩も家を出ることができなかったが、
その友人を通してあの男が大学にも姿を現していないことを聞いた。

もしあいつが、渡したのが人形の髪の毛だったことに気づたら、
と思うと気が狂いそうになった。
もう私は死んだことにしたい、と思った。
実際に、友人に対してそんなことを口走りもした。
私が死んだと伝え聞けば、あいつも満足してすべてが終わるんじゃないかと、そう思ったのだ。
喋りながら浮田さんは目に涙を浮かべていた。

「わたしにどうして欲しい?」
師匠は冷淡とも言える口調で問い掛ける。
締め切った部屋には、クーラーの生み出す微かな気流だけが床を這っていた。
「助けて」
震える声が沈黙を破る。
師匠は「分かった」とだけ言った。


僕と師匠はその足で、近所に住んでいた浮田さんの友人の家を訪ねた。
頼まれて人形を捨てに行った女性だ。
彼女の話では、人形は本当に顔のあたりが砕けていて、
巨大なハンマーで力任せに殴ったようにひしゃげていたのだそうだ。
彼女はその人形を、彼氏の車で運んでもらって、遠くの山に捨ててきたと言う。

「燃やさなかったのか?」
師匠は、燃やした方が良かったと言った。
友人は浮田さんと同じ演劇部で、以前合宿をした時に幹事をしたことがあり、
その時に作った名簿をまだ持っていた。
男の名前もその中にあり、住所まで載っていた。
「曽我タケヒロか」
師匠はその住所をメモして友人の家を出た。
曽我の住んでいるアパートは市内の外れにあり、
僕は師匠を自転車の後ろに乗せてすぐにそこへ向かった。


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981 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:42:26.98 ID:C8/Dhig30
ああ、ピーチが喋っている。人の言葉で。
私はわけもなく湧いてくる寒気が、身体の表面を走り抜けるのを感じた。
いったいなにを喋っているのだろう。

×××

私はゆっくりと近づきながら耳をすませる。
こんな時間にピーチはどうして起きているのだろう。
たまたまだろうか。
それともいつも起きているのだろうか。
いつも家族が寝静まった深夜に、
小さな籠の中でひとり、私たちの知らないなにかを話しているのだろうか。




妹の言葉が頭をよぎる。
ピーチは、ここにいない人や
死んでしまった人の思念を受信して、それを言葉にして囀るのだと。
まるでラジオのように。
だから時おり、誰も教えていないはずの言葉を流暢に発するのだ。

今もそうなのだろうか。
誰も教えていない言葉を、あるいは家族の誰も知らないはずの話を……
だったら、今この暗い部屋の中には、
目に見えない人間の言霊が漂っているのか。
あるいは、見ることも触れることもできない死んだはずの人間が
今、この部屋の中に立っているのか。
鳥籠の形をした布の先に手が触れ、私は動きを止める。



982 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:43:11.21 ID:C8/Dhig30
妹の主張がもたらしたそんな恐ろしい想像がふいに希薄になり、
また別の想像が自分の中のどこか暗いところから湧いてくるのを感じた。

妹の話をなかば笑いながら聞いた時、
私はそれとは全く別の想像をしてしまっていた。
とっさに気味の悪いそれを心の奥に押し込め、忘れようとしていた。今まで。

なのに。
私のした想像。いや、してしまった想像。
それは、
夜中にふいに寝床から起きる私。
しかし私には意識がない。私としての意識が。
夢遊病のように階段を降り、鳥籠の前に立つ。
そしてその中に話しかける。
無意識の私が。いや、あるいは私という器の中に入り込んだ、もう一人の別の私が。
その言葉は、

…………ソウムド…………

耳に入った音に、私は我に返った。



983 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:43:42.46 ID:C8/Dhig30
鳥籠の中から声が聞こえる。
押しつぶされたような声。ひどく聞き取りづらい。
私は息を飲んで耳をすませる。
布越しに声は続く。

…………ミツカ…………
…………シキチ…………
…………ルノサン…………

ようやくそれだけが聞こえる。
それで声は止まり、しばらくするとまた同じ言葉が繰り返される。

…………ソウムド…………
…………ミツカ…………
…………シキチズ…………
…………ルノサンポシャ…………

やはり良く聞き取れない。
なぜか背筋がぞくぞくする。



984 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:44:13.70 ID:C8/Dhig30
…………ソウムドイ…………
…………ミツカイ…………
…………シキチズ…………
…………ルノサンポシャ…………

四つの言葉が繰り返されているようだ。いったいこれは誰の言葉なのか。
私ではない。
そう直感が告げている。
想像してしまっていたように、
記憶のない時間、私自身がピーチに教えた言葉などではない。

ピーチ自身の言葉?
いや、それも違う。
イメージが浮かぶ。
鳥の小さな頭は空洞で、遠くから目に見えない
波のようなものが押し寄せてきて、その空洞の中で反響し、くちばしが言葉として再生する。
誰もいない部屋で、誰にも聞かれず。

なぜこんなに怖いのだろう。ガチガチと歯が音を立てる。
悪意。
夜に滲み出る目に見えない悪意が、
ほんの気まぐれに寝静まった住宅街を通り過ぎていく。
そんな気がした。



985 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:44:48.84 ID:C8/Dhig30
…………キケン…………
…………キケン…………
…………ゼンイン…………
…………ケス…………

最後にそう言って、鳥籠の中の声はぴたりと止まった。
微かな月明かりの中に沈む部屋に、静けさが戻ってきた。

私はハッとして腕を伸ばし、布を取り払うと、
駕籠の中のピーチが驚いたように頭を振って小さく鳴いた。
不思議そうに首を傾げながら、
口の中で小さくウロウロという低い声をこねている。
それが私には、我に返った姿のように思えた。

仄かな月の光を反射し、ピーチの瞳が一瞬くるりとまたたく。
それが妖しく艶かしい黒い宝石のように見えた。
なにか、恐ろしいことが起こる前触れのようだった。


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師匠シリーズ

970 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:18:31.06 ID:C8/Dhig30
京介さんから聞いた話だ。


高校一年生の春。
私は女子高に入ってからできた友だちを、自分の家に招待した。
ヨーコという名前で、言動がとても騒がしく、
いつもその相手をしているだけでなんだか忙しい気持ちになるような子だ。
そのころの自分にできた唯一の友だちだった。

私の家は動物をたくさん飼っていて、
その話をすると「見たい見たい」と言い出してきかなかったのだ。




「でか。猫でか!」
リビングで対面するなり、ヨーコはそう言って小躍りした。
「名前は?名前」
「ぶー」
「ぶー?」

妹や母親は『ぶーちゃん』と呼んでいる毛の長い猫だ。
アメリカ原産のメインクーンという種類で、
子猫の時に知り合いからもらってきたのだが、元々かなり大きくなると聞いていたのに、
さらにこいつは底なしの食欲を発揮するに至って、実に体重は十キロを超えてしまっている。
『ブマー』というのが彼の本名だが、家族の誰も今はそう呼ばない。

「重っ」
ヨーコはぶーを抱きかかえて嬉しそうに喚いている。
ぶーは身じろぎするのもめんどくさいというように、
眠そうな顔をしてされるがままになっている。



971 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:19:08.76 ID:C8/Dhig30
その騒ぎを聞きつけて、ラザルスが部屋の中にやってきた。
「あ、犬だ」
ウェルシュ・コーギーという種類で、とても賢い男の子だ。
おとなしく、また言いつけをよく聞くので、室内で飼っている。
こげ茶色の背中に、胸は白い。
手足が短くてちょこちょこと走るのでかわいらしい。
成犬だけど小柄なので、猫のぶーと同じくらいの大きさに見える。

ラザルスは舌を出しながら、
ぶーを抱えたヨーコの周りをくるくると回転し始めた。
ぶーは抱きかかえられたままその動きを目で追っている。
ヨーコは「わわわわわ」と言いながら、同じようにきょろきょろしてはしゃいでいる。
うちには他にも『もも太』という名前の雑種のオス猫がいるが、
いつも外に遊びに出ていてあまり家には帰ってこない。

「お姉ちゃん、お客さん?」
いつの間に帰ったのか、妹までも制服のまま顔を覗かせた。
「そうだよ。お前、いいから引っ込んでろ」
友だちに家族を見られるのが気恥ずかしくて、邪険に追い払うと、
妹は「べ」と舌を出して顔をしかめて見せた。
そして廊下から首を引っ込める。
ヨーコは驚いて目を丸くしていた。
妹の消えた廊下の方を指差して「まじで?」と訊いてくる。
「そうだよ」と答えておいた。



972 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:19:56.88 ID:C8/Dhig30
それからひとしきりぶーとラザルスに遊んでもらった後、
ヨーコは「他には?他には?」と訊いてくる。

「あと、九官鳥の『ピーチ』と、ハムスターを二匹飼ってる」
私がそう言うと、ヨーコは少し顔色が悪くなった。
「ハムスター飼ってんだ……」
と、強張ったような表情を浮かべる。
どうしたんだろう。

「いや、子どものころ毒ハムに噛まれてから、どうも苦手なのさ」
毒ハムスター?
冗談のわりには嫌に真剣な口調だった。
「好きなんだけどね」と空笑いをしている。
よく分からない。

「見るだけ見るか?」と訊くと、
「……うん。見るだけ見る」と言うので、隣の部屋に案内する。
棚の上にオレンジ色のケージを置いていて、
その中にゴールデンハムスターのつがいを飼っていた。
そのころはなかなか子どもを生まないなあと思っていたのだが、
後に分かったところによると、結果的に両方オスだったので無理からぬことだった。

「かわいいなあ」
ヨーコは部屋の入り口のドアの後ろに隠れ、顔を半分だけ出してそう言う。
そんなに離れていたらよく見えないだろうに。
「毒なんてないよ」
人に慣れているから、
よほど気が立ってない限り、指を差し出しても噛まれることはなかった。
しかし、そう言って呼んでもヨーコは頭を振る。

後から知ったのだが、ヨーコはハムスターにアレルギーを持っていて、
その抜け毛やフケにも反応して、
咳き込んだり発疹が出たりする身体だった。
以前友人の家でハムスターに噛まれた時にはショック症状を起こし、
救急車で運ばれることになったのだそうだ。



973 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:21:17.72 ID:C8/Dhig30
それでもよほどハムスターが好きなのか、
ヨーコにはその後も、時々市内の
百貨店にあるペットショップに行くのに付き合わされた。

そんな時ヨーコは、離れた場所からハムスターのコーナーをじっと見つめていて、
その小動物たちがどんな様子か逐一私に訊いてきた。
そのたびに私は苦笑しながら、
エサを食べる様子や小さな手の動きなどを身振り手振りで説明したものだった。
照れくさいというより、正直恥ずかしかったが、
嬉しそうなヨーコを見ていると、そんな思いもどこかへ行ってしまった。

「こっちがピー助だ」
私は部屋の隅にいた九官鳥のピーチを鳥籠ごと持ち上げて、ドアの方へ向かった。
ヨーコが部屋の中に入ってきそうになかったからだ。
「わー、かわいい」
そんなことを言うヨーコの脇をすり抜けて、元のリビングに戻る。

ピーチは自分の居城が動き出したことに
興奮して、頭を振りながら甲高い声でさえずっている。
背の低いタンスの上に鳥籠を乗せるとピタリと鳴きやみ、
今度はここが城下町かい、とでも言うような
ふてぶてしい顔で周囲を見渡した後、またピョロピョロと鳴き始める。

「ピースケちゃん」とヨーコが呼びかけると、ピーチはすぐに返事をする。
「ピーチャン、ピーチャン」
「男の子?」
「そう」
「ソウ、ソウ、ピーチャンイイコ、ピーチャンイイコ」



974 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:22:58.46 ID:C8/Dhig30
ピースは鳴きながら鳥籠の中を歩き回る。
「ピー助、ももたろうは?」
私がそう言うと、首を傾げる。

「むかし、むかし、あるところに」
導入部分を口にすると、やがて真似をするように
「ムカシ、ムカシ、アルトコロニ……」とやけに低い声で始める。
ピーチはこれが得意なのだ。
「オジーサント、オバーサンガ、スンデ、オリマシタ、ピョロピョロ……」
「すごーい。上手」
ヨーコが手を叩いて喜んでいる。
ピーチのももたろうは、結局猿を仲間にしたあたりで
また最初のムカシ、ムカシに戻ってしまい、鬼が島までは到着しなかった。

以前父親が頑張って教え込んでいた時には、
鬼をやっつけて故郷に凱旋するところまで通して言えたのだが、
少し時間が空くともう忘れてしまうものらしい。

私が分析するに、犬、猿、キジを仲間にする過程で、
焼き回しというか、同じ展開が繰り返されるのが
一番の原因ではないかと思う。

「オコシニツケタ、キビダンゴ、ヒトツ、ワタシニ、クダサイナ」
という印象的なフレーズがあるが、
犬を仲間にしたあと、
また猿の時にも繰り返されるので、そこでわけが分からなくなるらしい。



975 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:25:26.58 ID:C8/Dhig30
それでもヨーコは大喜びで、餌をやっていいかとせがんできた。
仕方がないのでオヤツを少しだけあげることにして、
大好きなひまわりの種をいくつかヨーコに持たせ、
それを鳥籠越しに手ずから食べさせた。

ピーチがくちばしを伸ばしてくるたびに、ヨーコはきゃあきゃあと騒ぐ。
その騒ぎを訊きつけて
またラザルスが尻尾を振りながらリビングにやってきて、
ふんふんとヨーコの足のあたりを嗅いで回る。

「ねえ、ピースケちゃんはどこかで買ったの?人にもらったの?」
「ああ、親戚からもらった。三歳の時にもらって来て、今二年目だから、四歳か五歳くらいだな」
「ふうん。うちも九官鳥とかオウムを飼いたいなあ」
無邪気にそう言うヨーコに、軽いいじわるのつもりで私はこんなことを言った。

「でも、こいつはたまに気持ちの悪いことを言うぞ」
「ええ?気持ちの悪いことってなに」
「……誰も教えてないこと」

それを聞いてヨーコは少し気味悪そうな顔をした。
そもそもピーチは親戚の家で飼われていたが、
その家のお祖父ちゃんが亡くなった後、
奇妙な言葉をさえずり始めたのだ。

「メシガマズイ。アジガシナイ。メシガマズイ」
「タバコガナイ。タバコヲスイタイ。タバコスワセロ」



976 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:37:27.40 ID:C8/Dhig30
いずれも亡くなる前の入院中に祖父が口にしていたことだ。
そんな言葉を生前の祖父は家で口にしたこともなかったのに。
それだけではなく、まるで祖父そのもののように小言めいたことを喋ることもあった。

「トイレノ、トハ、チャントシメナサイ」
「ヤサイハ、サイゴノ、ヒトカケマデ、ツカイナサイ」
などのような言葉だ。

それらだけならば、普段から祖父が口にしていたので、
ピーチが覚えていてもおかしくはないのだが、
祖父が亡くなってまだひと月と経っていないころに、ふいにこんな言葉を発したのだ。

「カミダナニハ、チャント、シロイカミヲ、ハリナサイ」

確かにピーチは、神棚に白い紙を貼れ、と言った。
家族は始めなんのことか分からなかったが、
あまりその言葉を繰り返すので気味が悪くなり、
近所の年寄りに訊いてみると、それは古来からの風習の一つだった。

神棚封じ、と言って、その家から人死にが出ると、
四十九日があけるまで白い紙で神棚を封じ、
拝んだりもしてはいけないのだそうだ。
黒不浄、つまり死の穢れを神棚に近づけないためだ。

しかし、そんなことは家族の誰も知らなかった。
そんな慣習を知っているのは、古い人である祖父くらいだったからだ。
ピーチはまるで祖父が乗り移ったかのように、
そのことを教えてくれたのだった。
そんなことが続き、気味悪がったその親戚の家は、ピーチを手放すことにした。

そこで動物好きの私の両親の悪い癖が出て手を挙げ、
うちにもらわれてきたという経緯だ。
前の家で喋っていたようなことも段々と口にしなくなり、
というよりもうちの家族みんながこぞって好き勝手なことを覚えさせようとするので、
トコロテン式に忘れていった。

特に、親戚が怖がっていた、亡くなったお祖父ちゃんのような口ぶりの言葉は、
うちに来てからはピタリと止まり、
本当にそんなことを言っていたのかと逆に疑ったものだった。



977 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:38:37.29 ID:C8/Dhig30
しかし、親戚の話の裏付けは別のところからやってきた。
ピーチがうちの家族になってから半年ほど経った時、
急に「コロシテヤル」という汚い言葉をさえずり始めたのだ。
本人はいたって楽しそうにさえずっているのだが、
聞いている方はゾッとした。

誰が教えたのか、犯人探しが行われたのだが、
家族みんなが知らないという。
私も身に覚えはなかった。
テレビを置いていない部屋で飼っていたので、勝手に覚えることはない。
家族の誰かが教えたはずなのだ。
犯人と疑われた妹が憤慨して、プチ家出をしたのを覚えている。

結局どこでその「コロシテヤル」という言葉を覚えてしまったのかは分からなかったが、
ピーチはそのころから時おり、
そういう誰も教えていないはずの言葉をさえずるようになった。

「コウエンノスナバ、ポシェットガ、オチテル」
「カキザワサンノ、ゴシュジン、ブチョウニナッタ」
「センキョカー、ウルサイ」

そのほとんどは他愛のないものだったが、みんな全く身に覚えがなく、
それどころか、誰も知らなかったような情報まであった。
例えば、選挙カーがうるさい、とピーチが言った時点では、
まだ選挙カーはうちの家のあたりにはまだ来ていなかった。

いったいどうしてピーチがそんな言葉を喋るのか
分からないので、気持ちが悪かった。
妹の説では、ピーチは言わば生きたラジオのようなもので、
周波数のあった誰かの意思を受信して、
それを自動的に口にしているのではないかとのことだった。

飼われていた親戚の家ではお祖父ちゃんが亡くなったが、
その霊魂がまだその家に漂っていて、時々ピーチの口を借りて喋るのだという。
そんなわけあるか、と言ってやったが、
動物は人間よりもお化けに対する霊感が強いのだと主張する。
『猫のぶーちゃんだって、時々なにもない壁を見ている』というのがその補強材料だった。
あれは確かに私もなんでだろうと思ったことがある。



978 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:40:15.68 ID:C8/Dhig30
妹が言うには、うちにやってきたピーチは
近くにお祖父ちゃんの霊もいなくなったので、今では
近所の人の思念や、浮遊霊の声を受信してしまっているのだ、ということだった。
そんなことを説明すると、ヨーコは嫌そうな顔をして後ずさった。

「うそだあ」
今まさについばもうとしていたひまわりの種を引っ込められたピーチが、
苛立ったように籠の枠を内側から噛んで
ガシャガシャと揺らせた。
「あたしそういうの苦手なんだから、やめてよね」
「悪い悪い」
私は笑ってそう言いながら、
どこか胸の片隅でふと、凍りつくような
冷たいものに撫でられたような感覚をおぼえた。

それは妹の主張する怪談めいた話とはまた別の、異質な想像であり、
ある時ふいに自分の頭の中にするりと入り込んだそれは、
ある種の茫漠とした不安と、眩暈とを私にもたらした。
それを思い出してしまったのだった。

「ああ、もう」
ヨーコは顔を強張らせた私に気づきもせず、
頭を振りながら、ピーチにひまわりの種をもう一度あげようと手を伸ばす。
その足元ではまだラザルスが上目遣いに鼻先を近づけていて、
そうしてあんまり匂いを嗅いでいるのが気になったのか、
部屋の隅で丸くなっていたぶーまでが起き上がって、
反対のヒザ側から匂いを嗅ぎ始めた。

「ねえちょっと、なんかさっきからこの子たち、レディーに失礼じゃない?」
立ったまま変な顔をするヨーコに私は笑って言う。
「初めて見るような人には、いつもこうだよ」
「ほんとにぃ?」
「本当だ」
腕組みをしながら私は無駄に力強く断言した。



979 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:40:44.73 ID:C8/Dhig30
そんなことがあった数日後。

夜中にふと目が覚めた私は、
喉の渇きを覚えて寝床から起き上がった。
いま何時だ?
明りをつけようとしたが、
目が眩むのが嫌で、
結局そのまま歩いて自分の部屋を出る。
二階の廊下は階段の脇の小さな照明だけがぽつんと点いていて、
その明りを頼りに一階に降りていく。

家族はみんな寝ていて、家の中はしん、としている。
私は足音を忍ばせて台所に入り、
炊飯器についているディスプレイの青い光を頼りに、冷蔵庫からお茶を取りだす。
コップ一杯を飲みきると一息ついた。

静寂に、耳の奥が甲高く鳴っている。
夜中に目が覚めたのはいつ以来だろうかとふと考える。

家族を起こさないようにひっそりと台所を出て、
忍び足で廊下を進んでいる時だった。

私の耳は静寂以外のなにかをとらえた。
立ち止まり、それが聞こえた方向に目をやると、居間のドアが少し開いている。
それが微かに揺れた気がした。
キィ、という聞こえなかったはずの音を、頭の中で勝手に再生する。
普段から鍵を掛けるわけでもなく、
また冷房や暖房をつけている季節でもないので、
ドアが半開きなのはいつものことだったが、
私の直感はなにか得体の知れない予感を告げていた。

そっと近付いてドアの隙間を広げると、暗い室内がその奥にのびる。
「ピー助?」
声をひそめながら、九官鳥のピーチをいつもの愛称で呼ぶ。



980 :ペットの話:2012/03/04(日) 11:41:31.02 ID:C8/Dhig30
×××

また、なにか聞こえた。
部屋の中から。
誰かの声だ。
ハムスターの鳴き声とは明らかに違う。人間の声のように聞こえた。

「ピーチ?」
部屋の中に入り込むと、窓のカーテン越しに月の光が微かに差し込み、
海の底のような暗い空間に奇妙な縞模様を浮かび上がらせていた。

×××

まただ。また聞こえた。
部屋の隅にある鳥籠の方から。

鳥籠には黒い布を被せてある。光が入り込まないように。
ピーチが寝る時にはいつもそうするのだ。
その黒い布の内側から、ぼそぼそという話し声が聞こえてくる。


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