サイケデリック・奇譚

永遠の日常は非日常。

タグ:殺人

あさま山荘事件はショッキングだが、少なくとも権力側(警察・機動隊)と思想犯との対峙であったため、まだ僅かだが救いがある。
しかし、山岳ベース内で起きた連続殺害事件は無意味な集団暴行でしかなく、その矛盾に現在も苦しむ生存者も少なくない。

【警察の捜査と森の裏切り】
・大規模な山狩りの結果、警官隊は迦葉山ベースを発見。
証拠隠滅のために焼かれた榛名ベースとは異なり、大量の異様な証拠品が残されていた。
数の多すぎる寝袋、リュック等の荷物、不自然に切り裂かれた衣服と、大量の糞尿である。
人間は窒息死の際、屎尿を垂れ流す。
切り裂かれた衣服は、死後硬直した死体から衣服を脱がせた事を示していた。

また当初からメンバーの人数が合わない事が指摘されており、これらのことから警察は早い段階で大量殺人があったことをほぼ確信していたが、雪山での遺体捜索は警察犬でも難しく、逮捕者達の自白を待つことになる。

2月19日
・永田は旧知の弁護士と面会。森への伝言を託す。
「山で大変な闘争」があり、「誰にも話してはいけない」「弁護士にも話せない」ため、森にも黙秘を貫くよう励ましのつもりだったのかもしれない。(権力への協力=裏切り行為=敗北となる
弁護士が伝言を伝えたところ森は無言だったが、口止めは3週間と持たなかった。

3月5日
・妙義ベースに残されていた最後の被害者・山田孝の衣服の写真を見せられた奥沢修一が殺害を供述。
事件の関与を認めた。

3月6日

・加藤兄弟も事件関与を認め、殺害を供述。

3月8日
・突然、連合赤軍リーダー森恒夫本人が裁判所へ事件の全容を書いた上申書を提出
これは実質的な全面自供であり、黙秘(=闘争)を続けていた他メンバーは驚愕、強いショックを受けた。

永田は後に、「いかなる自供も許さなかった」彼の「『共産主義化』に反する事」であり、「共産主義化への確信の何かが、その上申書を見てすぐガラガラと崩れる落ちるように感じ」たという。
坂口は森の権力に対する屈服と明言し、「総括を主導した人物の重大な裏切り」であると断定。

しかも、森本人は指示するのみで実際には死亡したメンバーの埋葬すら参加していない
森は上申書は被害者の遺体を遺族に返す為のものであり自供にはあたらないとしたが、遺体を返すためには関与メンバーの自白が必須となる。この行動は、他メンバーの自白をも間接的に強要するものだった。

不思議なことに、森にとって上申書はあくまで裁判所に提出したものであり、警察への協力(自白)とは考えもしなかったらしい。相次ぐメンバーの自白と遺体の発見にひどく困惑していたという。

この事態に、逃亡(脱走)していた4人も出頭、供述を始め、生存者17名全てが警察に逮捕された。
見つかった遺体は12人。
メディアは連日遺体捜索のニュースを報道し、無残に痩せ細り性別もつかないほど損傷した遺体の写真も公開された。
また、吉野らの供述により印旛沼事件も明るみになり、2人の遺体も発見される。
永田・坂口は頑なに黙秘を続行。

⁂夫を殺されて逃亡した山本保子は、生後数ヶ月の娘は死んだものと思っていたらしい。
再会できた時には号泣し、中村に感謝したという。

しかし4月には検察官が理論武装に弱い永田の弱点を見抜き、「革命を主張するならば統一公判が必要」であること、このままでは「同志殺害は精神異常者の犯行」となることを伝えると、永田は供述書に同意し、やがて自供へと繋がった。
坂口は最後まで黙秘を続けていたが、金子と胎児の遺体写真を正視することができず、「屈服」する。が、供述書を書くことは拒否し、手記というかたちで告白した。

この凄惨極まりない事件は当時の世論にも大きな影響を与えた。
社会党議員やマスメディアのなかには、あさま山荘事件後も連合赤軍を擁護する声も少なからず続いていたが、両事件の真相及び実態が判明するにつれ、彼ら擁護者派の面目と信用は丸つぶれとなり、手のひらを返すように批判側へと鞍替えする。
新左翼運動は嫌悪されるようになり、世論の一部に残っていた連合赤軍に対する共感も立ち消えた。
これらの現象は、その後の左翼派運動にも大きな負のイメージを国内に植え付ける結果となる。


【混迷する裁判と森の自殺】
・被害者は12名であるが、検察側は最初の被害者・尾崎充男のみ傷害致死とし、他の11名は殺人事件と断定。裁判でも認定された。
印旛沼事件・あさま山荘事件も関与が大きすぎる為、本事件と併せて扱われている。

公判開始前、森は原稿用紙500枚もの「自己批判書」を書き上げた。
事件全貌を明らかにするためであり、事件の責任は自身と永田にあると断罪するためだったというが、その内容はあまりにも拙い。

この後、信じがたい事に坂口と永田は再び革命左派に復帰する。
一方、次々と罪を認め服役に甘んじる者も多かった。

1972年 5月
・坂口の革命左派復帰。

10月
・当時の革命左派は、事件の原因はかつての最高指導者(故人)による「反米愛国路線の放棄」のためと主張しており、納得できないまま永田も派に復帰する。
・森は4~5月に書いた自己批判書を全面撤回

11月
・森・永田・坂口・坂東國男・吉野・加藤倫教の6名で統一公判が行われることが決定。

また坂口と森との間では手紙が交換されており、その一部が公開されている。
S(坂口)
「君(森)が革命左派の反米愛国路線を攻撃するのは構わない。
だが、彼等に対して様々な中傷を加え、暴力の行使まで宣言したことはどんな理由をつけても正当化できるものではない。」
M(森)
「反米愛国路線を放棄したから粛清を引き起こしたなどという革命左派メンバーの主張は、絶対に受け入れられない」
S
のぼせ上がるのもいい加減にしてほしい
君は山岳ベースであれほど過酷な要求をメンバーに課して置きながら、獄中での態度はなんだ!
『上申書』は書く、『自己批判書』は書く、自供はする。
こんな筋の通らないことをした君が、他組織のことをむやみに批判する資格があるのか!
M
「断固たる批判を待ちます! 君の批判については、一片の弁護もなく認めるものだと思います」

1973年 1月
・公判間近になり、森は拘置所で首を吊って自殺
坂東宛に遺書が残されていたが、その文章は驚くほど稚拙な文体だった。
独自の理論を辻褄あわせのように並べ立てているため、正直よく意味がわからない。
自分の理論は後付けによるものと認めつつ、革命左派の組織的民主主義のため方向性が純化しなかったが故に自分が主導せざるを得なかった。自己嫌悪と絶望にさいなまれ、初めての革命的試練を飛躍するために真の勇気を出すといった内容。

森の自殺を知った他メンバーの反応は様々。
永田は「ずるい!」と叫び、坂口は「卑怯者」と批判。
坂東は自分(坂東)の弱さが、結果として森を追い詰めたと発言。
妻子を失った吉野は、森は優柔不断で実行力もない小心者と表現した上で、「自己処刑の闘争」を遂げて満足しているだろうと語った。

2月
・出廷拒否の末、ようやく統一公判判開始。
思想が一致しない彼らの齟齬や矛盾点が明確に浮き上がる。

1974年 7月
・革命左派に疑問を感じた永田が派を離党。
植垣・坂東とともにプロレタリア革命派(赤軍派)に参加。

1975年8月
クアラルンプール事件発生
日本赤軍の要請により超法規的措置で坂東が釈放され、国外へ逃亡。そのため裁判は混乱し、坂東本人の公判は休止状態のままである。
坂口も釈放要求があったものの、坂口本人が武装闘争は間違いであるとして出国を拒否

クアラルンプール事件・・・日本赤軍がマレーシアにあるアメリカとスウェーデン大使館を占拠し、約50名を人質に赤軍の囚人釈放を要求したテロ事件。

その後の公判は、事件の重大性に対し、あまりに情けない展開が続く。
12名の死者に対し、真実を明らかにすべきとする吉野に対し、坂口は死者に鞭打つ事はできないとして反対姿勢を崩さず。あくまで理論・闘争・思想に拘る。

1977年 8月
・思想的対立のため、吉野と加藤が統一被告団から離脱。
分離裁判開始。

9月
ダッカ日航機ハイジャック事件発生
日本赤軍が東アジア反日武装戦線と組み日航機をハイジャック、収監中の活動家ら9人の釈放を要求。
連合赤軍では植垣が釈放対象だったが、やはり本人が出国を拒否

ダッカ日航機ハイジャック事件・・・日本航空472便が5人の武装したテロリストにハイジャックされた事件。実行犯の1人は坂東國男。乗客・乗務員ら約150人を人質に、バングラデシュのダッカ国際空港に強制着陸させ、囚人釈放とともに600万ドル(当時の16億円)を日本政府に要求した。

1980年 7月
・永田と植垣他が決別。事件の一因に永田の個人的な要因があると指摘された事による。
(同じ指摘を坂口は1977年から行っており、永田は個人攻撃だと批判)

1982年 6月
・永田と坂口の死刑判決。植垣は懲役20年。

一連の連続リンチ事件において、監禁時少なくとも数名は食事を与えられ、心肺停止時には蘇生が試みられていたが、死を予見しながら「やむを得ない」と認容していたため消極的な殺人罪となる。
(最初の被害者尾崎充男のみ、傷害致死認定)
「総括」は、対象者に対する客観的基準や方針が全くなく、ただ森と永田の優越感、または猜疑心・嫉妬心またはその場の雰囲気から場当たり的にターゲットになった。

また、裁判で強調されたのは「そもそも総括達成の方法・基準が全くないのに、総括が出来ると思うこと自体論理矛盾」である事、「敗北死」とは「被害者に汚名を着せ」た責任転嫁であり、「総括=(遅かれ早かれ)死」であることをほぼ全員が認識しながら共犯関係に引き込まれ、ある種の集団思考停止状態に陥っていた点である。
事実、メンバー達は自分達の行動の無意味さを知りつつ森に刃向かうことはなかった。
「何をやっているんだろうな」とつぶやき、密かに諫められた者もいるほど、森の恐怖政治は強固だった。
(森は密告制をとっており、メンバーらの信頼関係は崩壊していた)

裁判にて、本事件の原因とされた主犯2人の分析は以下。
森恒夫
「自己陶酔的な独断に陥り、公平な判断と部下に対する思いやりが乏しく、人間的包容力に欠けて」おり、「長たる器量に著しく欠けるものがあった」
永田洋子
「個人的資質の欠陥」として「自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を有していた」

一方、坂口は実質的な組織のNO.3であったものの決して安泰であったわけではなく、常に危ういバランスの上に立っており、また仲間へも密かな気遣いを見せることもあったが、やはり事件の重大性から死刑を免れることはできなかった。

以下、他のメンバーらの最終判決。
(関与した金融強盗、山岳ベース事件、あさま山荘事件等一連の事件に及ぶ)
主犯・森恒夫 -・・・・公訴棄却(公判前に自殺の為)
主犯・永田洋子 -・・・・死刑
坂口弘 ・・・・ 死刑
坂東國男 ・・・・国外逃亡中(日本赤軍と合流 国際指名手配中
吉野雅邦 -・・・無期懲役と罰金
植垣康博・・・・懲役20年
青砥幹夫・・・・ 懲役20年
前沢虎義・・・・懲役15年
加藤倫教 -・・・・懲役13年
杉崎ミサ子・・・・ 懲役12年
寺林真喜江・・・・懲役9年
中村愛子・・・・ 懲役7年
伊藤和子・・・・懲役7年
奥沢修一・・・・ 懲役6年
岩田平治・・・・・懲役5年
山本保子・・・・懲役4年
加藤元久・・・・未成年のため保護処分


2011年永田は東京拘置所内で脳腫瘍のため病死
坂口と吉野はともに収監中。(生存)

坂口の死刑は確定しているものの、共犯者である坂東が逃亡中であるため裁判が終了しておらず、刑執行の見通しが立っていない。

【閲覧注意】

【事件の終焉】
2月1日
・山本・大槻の遺体を埋めるため車で移動中の坂口らが、大勢の警官と指名手配のポスターに警戒、遺体を車に乗せたままベースに戻り報告する。

しかし森は坂口を信用せず、翌日坂東に様子を見に行かせることを決定。

森は金子が総括しない時には「子供を取り出す」必要があり、いざとなれば自分が取り出すと話しだす。永田も手伝うと言い、子供の父親である吉野は「拒絶はできない」ためやるしかないと決意

子供を組織の子として育てるという森に、永田は母体である金子を小屋に入れ食事させることを提起し、坂口の同意を得て彼女を屋内に移動させる。
小屋内でも金子への批判・追及は続いたが、永田は女性陣に金子の体をきれいに拭かせて新しい服を着せてから再び縛った。

この頃は森と山田の対立が深まっていた。
執拗な過去の追及に山田はCC(中央委員会)からの辞任を表明するが、批判と総括要求は続く。

2月2日
・森から青砥に婦人科の医学書購入の指示あり。
あまりにも非常識な指示に呆れ結局青砥は従わなかったが、森は本気だったのか何度か同じ指示を繰り返している。

山田の総括が不完全であるとして食事の禁止が決定
森は屋外に雪で台を作らせ、その上に山田を正座させた。
この時思わず植垣が「またか」とつぶやくと、隣にいた青砥も「いやだなあ」と答えている。

正座は一日中続いたが、夜も「総括できていない」として屋内で正座が続く。
森は山田の総括は「0.1パーセントの可能性」でしかないとし(つまり不可能)、監視付きで一日一杯の水のみで重労働の薪拾いをさせることを決定。

2月3日
・早朝、山本と大槻の遺体を埋めたメンバーが帰還し、森・永田・坂口の指名手配ポスターが多く張られていることを報告。

金子は永田にトイレを訴え、永田は森に進言したが森は無視。繰り返し永田が訴えると、ようやく認めたものの間に合わなかった。
下着を替え再び柱に縛ろうとするが衰弱した金子は立つ事ができず、永田は森に金子を横に寝かせることを進言。森は金子が刃向かう可能性があるとして寝かせて縛った。

この夜、就寝前に永田は吉野に金子へ牛乳(ミルク)を与えるよう指示を与えている。
金子本人は既に正気を失いつつあったが、吉野は気づかなかった。
メンバーの傍らで奇妙な発言を繰り返す妻に焦った夫は、森の視線を気にして牛乳を与えることを失念してしまった。
動揺を隠し冷静な振りをして就寝した吉野は、翌朝、妻の餓死死体を発見することになる。

一方、空腹のまま薪拾いを行っていた山田は不慣れなため良い成果を出す事ができなかった。
再び山田は逆エビ型に縛られ、そのまま追及と暴行が始まった。

2月4日
・早朝に金子みちよの死亡が確認される。
11人目の被害者

⁂事件発覚後、掘り起こされた金子の遺体には妊娠8ヶ月で身長40.5cm、体重1630gの胎児がいた。
逮捕後、吉野は女の子だった事を聞き泣き出したという。

金子の死に、森は体内の子供を取り出す事を断念。
金子が自分の死を隠していたため不可能になったとし「子供の私物化と闘えなかった」、「子供の私物化を許したのはCCが躊躇したから」とCCへの自己批判を行った。
(あくまで自分の責任ではなく、委員会全体の責任とすり替えた)

この件は大きな波紋を呼んだようである。
永田は山田の総括について、食事の有無と総括は無関係であること、丸太敷きの床のうえに逆エビに縛るのは厳しすぎると主張。坂口らの同意を得て、山田に食事を与え柱に縛り直すことを決定。
金子の遺体はこの日のうちに吉野らによって埋葬された。

⁂思考が麻痺していた吉野は、妻の遺体を埋葬するにあたって初めて遺体は物ではなく「人」だと認識したらしい。穴に落とされた彼女は痛いだろうと感じ、腹部が地面に当たると「子供の悲鳴が聞こえたような気がした」という。

この日以降、森は永田とともにベースを離れ都内のアジトに潜伏
かつて下山メンバーが交通手段を決めずに行動していたことを激しく批判・追及していた森本人が、全くのノープランで下山したことに永田はひどく驚いた。
(その後も同じような事態を永田は何度も目撃する)

ようやくここで永田は森の大きな矛盾口先だけの言行不一致と自己保身責任逃れの現実逃避に気づくことになるが、引き返すにはもう遅かった。

2月5日
【迦葉ベース】
・榛名ベースを解体するため、数人のメンバーが榛名山に出発。

2月6日
【迦葉ベース】
殺された山本順一の妻、保子が脱走
子供は取り上げられており、夫も殺されたためたった1人での逃亡だった。(1972年3月出頭)

脱走に気づいた中村愛子が坂口に報告、坂口は保子が子供奪還のため警察を連れて来ることを警戒した。
総括中で縛られたままの山田に警察が来たらどうするか問い、手榴弾で自爆するという回答に何故銃で戦うといわないのかと反論。山田が銃を持って戦うと答えると、「総括は終了した」と宣言、縄をほどくが山田の手足は凍傷で動かなくなっていた

坂口は中村に金を渡し、山本夫妻の子供を連れて榛名に向かい、その後ベースメンバーに妙義山に移動するよう伝えるよう要請。坂口の言葉を受け、中村は乳児を連れて迦葉山を下山。榛名に向かう。

2月7日
【榛名ベース】
・小屋の解体を終えたメンバーは迦葉への移動を開始していた。
移動手段にはバスが使われたが、服装や悪臭などから不審がられ、当初予定のバスを見送り停留所で次のバスを待つ。
この時、前沢虎義が突然走り出し脱走。(1972年3月出頭)
板東が同行していたが、人目を気にして追うことができなかった。

また、赤ちゃんを連れた中村はタクシーで榛名山に向かったが、その汚れた身なりと表情から親子心中を疑ったタクシー運転手が警察に通報保護された。
(中村は翌日友人に迎えに来てもらい、次の日には友人に山本夫妻の子供を預けて消息を絶つ。1972年3月出頭)

【迦葉ベース】
・坂口が森への報告のために下山、公衆電話から都内のアジトに連絡するも連絡がつかず。
坂口は必ず山田を助けるつもりでおり、いざとなれば森の殺害すら考えていた。

しかし突然の榛名メンバーの帰還に事態は混乱する。
妙義山への移動が伝わっていなかった上、前沢の脱走中村の失踪にメンバーは浮き足立ち、騒然とした状態のなかで坂口は山田の総括完了宣言ができず、坂口と青砥がレンタカーの調達中に再び山田は縛られてしまった

2月8日
【迦葉ベース】
・メンバーら妙義山へ出発。
ようやく森らと連絡が取れ、坂口は前沢と中村の脱走を伝え、自己判断で妙義山への移動開始、山田の縄を解いたと報告。
しかし、途中で強硬派の板東が電話を奪い取り、山田の自爆する発言は問題であると進言
山田への総括の必要性が森と板東との間で強調される。
これにより、坂口が森に感じ始めていた「戦闘意思が腰砕けになって」しまったという。

森は永田に坂口は「共産主義化をわかっていない」と批判、「坂口君はこれまで永田さんに庇護されてきた。今後はそれは許されない」と強く主張。
残念ながらこの段階で、事実を最も的確に把握していた坂口の行動は封じられてしまった。
坂口は山田の総括完了を宣言できず、山田の運命が決まってゆく。

実はこの日、たった1日違いでで榛名ベース跡地が警察に発見されている。

2月9~11日
・移動しながらベース候補地の探索。
ようやく妙義山に洞窟を見つけ、ベースとする。(妙義ベース)
坂口のリーダーシップは的確であったが、それ故に山田のケアにまで手が回らなかった。
縛られたまま寝袋に入れられて放置されていた山田の衰弱は激しく、体を必死にねじって雪を食べようとしていたという。青砥はその様子に山田が脱水症状になっているのではないかと感じていた。

2月12日
・12人目の最後の被害者、山田の死亡が確認される。

坂口が森に電話で死亡を報告。その様子が悲しそうだったと、森は永田相手に坂口批判を開始。永田は坂口を擁護したものの、それも批判の対象になった。

勢いあまったのだろうか、森は自分の妻にも問題があるため森と永田が結婚するのが「正しい」道だと宣言。永田は了承し、翌日坂口にその旨伝えることを告げると、今度は森が躊躇ったという。

2月13日
【都内】
・坂口上京。
森は山田の縄をほどいた事で坂口を批判
山田の遺体はまだ埋葬されておらず、森はすぐに埋めるよう坂口に要請。
坂口は山田の最後の言葉「総括しろだって?ちくしょう!」を森に伝え、暗に賛同していないことを示したが、森本人に伝わったかどうかは不明。
永田、森が好きになったので離婚したい旨を坂口に告げる。坂口はしばらく無言の後、頷く。

2月14日
【都内】
・森の不在時に、永田は本当は坂口が好きだと伝えるが、坂口は取り合わず。
森の帰宅後、離婚に向けて相談と称して2人は喫茶店で総括について話し合う。永田は必要なことだと諭すが、坂口は「総括が何だか分からなくなった」と回答。

2月15日
【都内】
・榛名ベース跡地発見の記事を新聞で知った森と永田が妙義山へ移動開始。

【妙義山ベース】
坂口・板東による総括会議。(坂口は14日のうちに帰還)
坂口が山田の縄をほどいた件で自己批判の後、「私を批判して欲しい」と言うも誰も発言せず
各自の総括を順番で行うが、途中で居眠りはじめた者もおり、「もうやめた」と植垣が発言。全員で眠ってしまった。
深夜、坂口ら数人で山田の遺体を妙義山中に埋葬。

2月16日
【妙義山ベース】
・坂口らはラジオで榛名ベース跡地が発見されたことを知り、移動を決定。
少人数の方が怪しまれないため、合流地点で再集結することにして、先発隊の車が出発。
坂口も森達2人に電話連絡するため一緒に同乗。
(2人は妙義山へ移動中だったが連絡がなかったため坂口は知らなかった)

途中、検問に引っかかり警官の職務質問を受けるが、坂口は顔の割れていない杉崎ミサ子と奥沢修一に時間稼ぎを命じ、板東ともに逃走
杉崎と奥沢は9時間車に籠城し、その間に坂口らは一旦妙義山ベースに戻り、残っていたメンバーと一緒に再び長野方面へと移動。

⁂警官達は森と永田の2人組をメインに探しており、「不審なアベックを見ませんでしたか?」との問いにまさか坂口は森と永田のことだとは夢にも思わなかったらしい。

【妙義山中】
・妙義山ベースへ移動中の永田と森が、山狩り中の警官に職務質問を受ける。
が、身綺麗で手配中の山岳組とは雰囲気が異なっていたため、うまくすり抜けることに成功。
ベースへ戻る方法で永田と森で意見が食い違う。永田は最短距離でベースに向かおうとするが、森は山狩りを警戒して迂回ルートをたどる事を主張。
結局は森の主張通り迂回ルートを通ったため、翌日先回りされて逮捕される結果を招く。

2月17日
【榛名ベース】
・森と永田が無人のベースに帰還。
山狩りの警察官達に包囲された事を知った2人は「殲滅戦」を覚悟。
森は「もう生きてみんなには会えないな」とつぶやいたが、それは「敗北主義以外のなにものでもなかった」と永田は後に回想

警察官に発見された2人は格闘の末、あっさりと逮捕。「殲滅戦」で彼らは傷1つ負わなかった。

【逃亡中のメンバー・場所不明】
・2人の逮捕はラジオで速報で流れ、坂口達は驚くが奪還に向けて決意を表明。

2月19日
・坂口らは山中で道に迷い、何とか軽井沢にたどり着く。
着の身着のままで逃げてきた彼らはまず食料を確保しようとして、通報され4名が逮捕された。
(植垣、青砥、伊藤和子、寺林真喜江)

この逮捕もまたラジオで速報として流れ、残った坂口、坂東、吉野、加藤兄弟の2人があさま山荘事件を引き起こす。

あさま山荘事件・・・追い詰められた連合赤軍メンバーが保養所の管理人の妻を人質に立て籠もった事件。警官隊・機動隊に囲まれた長期にわたる籠城にも関わらず一切の要求もなく、人々に不気味な印象を与えた。連合赤軍メンバーの親族らも集まり説得を行ったが、その中には処刑された寺岡の親族もおり、籠城したメンバーらは無言でそれらを聞いていたという。

2月28日
・長時間の籠城により人質の安否が気遣われ、ついに機動隊が山荘に突入。
抵抗したものの5人は逮捕。
これで脱走者を除く生存メンバーは全員逮捕となったが、この時点ではまだ死者(総括リンチ被害者)の存在は判明していなかった。

しかし、まもなく迦葉ベースが発見されると、大量殺人の証拠が浮上する。
次々と発見される無残な総括遺体の様子は連日報道され、そこで初めて我が子の暴行死を知った親も少なくない。

また報道を受け、逃亡中の4人(岩田平治、山本保子、中村愛子、前沢虎義)も翌3月中に全員が自首・出頭。事件は終結した。

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【閲覧注意・事件】連合赤軍・山岳ベース事件 蛇足

【閲覧注意】

【混乱するメンバー達】
1月25日
・迦葉ベースにて、新しい地獄が始まる。
車をぬかるみにはめたとして山本が批判され、しかし免許のない者に車の仕組みが理解できるはずもなく山本は批判を認めなかった。
あくまで「自分は革命の手伝いに来た」のであり、CCの決定には従うがそれだけだという山本は正座の罰を受け「山に来るべきでなかった」と涙を流す。
山本夫妻の子供は別のベースに隔離されていた

榛名では大槻が「なんで総括をされているかわからない」と泣いており、永田本人も理由がわからないまま森に従い続けていた。
相変わらず森は懐中電灯の電池を金子が隠し持っていると主張、永田に荷物を調べさせるが見つからず。
さらに妊娠中の金子は出産に備えてこっそりタオル類を隠しているに違いないと主張、調べさせるが見つからず。

森は次に、金子は永田に反発し男を利用しているとしたが肝心の永田がそうは思えないと反論
しかし森は持論を撤回せず。
印旛沼事件で殺害した向山と大槻がかつて恋人関係にあった事を持ち出し、厳しく追及・批判
金子と大槻を縛る事を永田に提起。

永田は無言のままだったが、妊婦の金子はタンスに寄りかかれるように縛り、食事も与えるといった内容にようやく同意する。
が、縛られた後は2人ともトイレにも行けず放置されることとなった。

1月26日
【迦葉ベース】
・森の指示で山本の総括が決定追及・暴行の後に逆エビ型に縛る
坂口は榛名で大槻と金子が総括のため縛られていることを報告。植垣は大槻に恋心を抱いており、その関係についての追及も行われた。植垣は追及終了後も大槻が縛られているのならと正座を続ける。

【榛名ベース】
総括されている者の態度ではないとの理由で、金子が柱に縛り付けられる。
森は前日の発言を翻し、当面食事を与えないと決定
出産を控えた普通の主婦的な態度で甘えている、妊娠を言い訳にしているというのが問題であり、生まれる子は個人の所有物ではなく我々全体のものでなければならない、と語る。

永田はこっそり大槻に食事を与えたが、その後は食事を与えることが禁じられた。

1月27日
【榛名ベース】
・山本総括の報告を聞いた森は、ベース小屋の完成前であるにも関わらず別の場所への移動を提起。
森・永田連名で坂口へメモを伝えたが、実際は永田は全く関与していない
別行動をとっていた奥沢と山田孝が風呂に入った事を知り、森と永田は山田への批判・総括要求を決定。(奥沢は迦葉へ主発した後であり、その後も奥沢への批判追及は行われなかった)
さらに森は金子がお腹の子供を私物化しているため、子供を(体内から)取り出すことを考えなければならないと永田に語る。

1月28日
【榛名ベース】
・森は坂口らに金子逃亡の危険性ありとして髪を切る事を指示。妊婦への暴行が始まった。

さすがに永田は殴るのを躊躇していたが、森は金子に「永田さんが憎いだろう?」と尋ね、はいと答えさせると、「組織の女ボスになろうと思っても無駄よ」と針金で殴らせた。
入山を後悔していた金子は、森に脅されながらも山本夫妻の子供と一緒に榛名ベースへと移動する。

1人残された青砥は自殺・逃走を考え、警官隊のガサ入れが来ないかとさえ期待していたという。
(山田孝と合流後、迦葉へ向かう)

【迦葉ベース】
・奥沢の落とした運転免許証が近隣の者に発見され、警察に情報が漏れるのではないかと騒然となる。
吉野は、例え相手が一般人でも殲滅戦を行うべきだと決意。

1月29日
【迦葉ベース】
・森らが合流。吉野の「殲滅戦計画」を受けた森は、一般民間人を巻き込む事について吉野を批判・追及。吉野は釈明した。
ベース小屋はまだ半完成だったがテントを引き払い小屋内へ移動。
大槻、金子、山本の3人は床下に縛られた

山本はCCの矛盾点を挙げ、論理の破綻を指摘したが、森は相手にせず。
舌を噛み切り自殺しようとし猿轡をさせられた。(山本は抗議のため水すら飲むことを拒否
妻である保子は夫の胸に顔を埋め、泣きながら「総括して」と繰り返した。

1月30日
【迦葉ベース】
・夜中のうちに山本が死亡。(9人目の被害者
森は「敗北死」であると断定した。

また大槻がベース移動後は真面目に総括に取り込んでいないとして批判対象になったが、永田が無言を貫き、この時は大槻問題はスルーされた。
代わりに奥沢と山田が風呂に入ったことが問題視され、山田への総括要求が決定する。(山田本人不在

しかし後に会議では永田は突如大槻の攻撃側へと変化し、永田の言葉を受けるかたちで森は大槻への殴打を決定。
その後床下へ移動すると既に大槻節子は死亡しており、死因は殴打決定の声が聞こえた事による「ショック死」=「敗北死」であると森が断定。永田が全体へと報告する。(10人目の被害者

1月31日
【迦葉ベース】
・資金集めに奔走していた山田がベースに帰還。カンパ失敗を森に報告。
批判が始まったが、山田が反論すると今度は風呂問題を持ち出して追及、しかし批判のみで終了する。

面白くなかった森は、金子は夫・吉野から自分に乗り換えて権力を奪おうとしている「権利主義者」であると騒ぎ、批判攻撃しつつ、お腹の子供の様子を看護学生の中村愛子と医大生の青砥に診察させている。

【閲覧注意】

【処刑の開始】
1月17日
・寺岡恒一を含む山岳調査隊がベースに帰還。
森は板東國男に寺岡に逃亡の様子はなかったか問いただし、CC(中央委員会)で総括できなければ死刑も止むなしと決まったと告げるが、実際にはそのような合意は無かった

夜、CC会議にて寺岡の総括・追及開始
殴打のなか、森から自分が指導者になりたかったんだろうとの言葉が飛び出した。
寺岡は森にリーダーの器ではない旨を発言、殴れと言ったが、森は「寺岡の指示で殴る」事を拒否。

1月18日
・早朝、睡眠中の全員が起こされ永田による寺岡の過去の問題点が追及される。
被指導部メンバーに決定権はないため全員無言だっだが、追及が始まると全員が参加し暴行開始

初めから総括=死を覚悟していた寺岡は、逆に森を挑発して煽り続けた
逃亡の意思を聞かれそのつもりだったと答え、組織を乗っ取りどうするつもりだったかと聞かれ金と女に囲まれた生活をすると答えた。
女について聞かれた寺岡は永田以外の女性のメンバー名を挙げ、永田が「私は」と聞くと「あんたは関係ない」ときっぱりと断言。

追及の中で、ついに森はナイフを取り出す。
寺岡の足を刺し、永田とともに権力との癒着があるだろうと責めた。
強く否定した寺岡に、森は「反革命」の烙印を押し、「死刑」を宣告。異議を唱える事のできる者はいなかった。

森は縛られ取り押さえられた寺岡の胸をアイスピックで刺すが、寺岡は死ななかった。
他のメンバー達も首・胸・心臓めがけて刺すが、それでも絶命しなかった。
数人がかりでタオルで首を絞め、ようやく寺岡は息絶える。

さすがの森も寺岡の死を「敗北死」とは言えなかったらしい。処刑は「テロリズムとの闘い」であったとして寺岡を刺した者を多いに評価するとしたが、他者からは同意も反対もなかった。
その後森は処刑を「分派主義との闘争」と言い換え、会議では永田が森のメモを読み上げ、総括の一環と位置づけている。

気まずかったのか、森は山本順一がスターリン主義について触れたこと処刑時の大槻節子の態度にも問題があると言い出し、矛先を他者に向けようとする。
なかでも山崎順は寺岡処刑に消極的だったとしてターゲットとなり、森は総括要求に踏み切った。

この日、名古屋で活動中の岩田充男が伊藤和子に逃亡を宣言。そのまま立ち去った。
伊藤は自分が試されているのではと訝しみ、その後ベースに帰還。

1月19日
・伊藤がベースに到着。
山崎が岩田不在に気づき「逃げたな」と言うと、森は自分が常に逃亡を考えているからそう考えるのだと責め立てた。が、実際に岩田逃亡の報告を受けた森は驚き、脱走者がでたことで逮捕されれば自分は死刑になると焦ったらしい。

だが岩田も殺人罪に関与しているため自首はしないだろうと考え直し、ベースの移動を提案。
永田は森の「敗北死」理論を信じ切っており自分が罪を犯したとは思っておらず、森の様子を見て逆に不思議に思ったという。

最もこの頃は都会部で活動していた女性メンバーの逮捕がラジオで山岳組にも伝わっており、彼女もかつて別の山岳組のベースにいたことがあること、また殺害された進藤隆三郎の恋人でもあったことからもベースの移動が論じられていた。(この時点でまだ女性は進藤の死を知らない

ベース移動に関し、森は山崎を連れて行けないとして処刑を示唆
移動のための処刑はあまりにも安易すぎるとして、永田は一芝居を提案。髪を切られ縛られた山崎に、死刑を宣告しその様子次第で今後を決めるというニセ死刑である。

森が山崎に死刑宣告を伝え数人でナイフを突きつけたが、坂口は力を抜いて暗に芝居であることを山崎に知らせていた。自分は死んで当然と答えた山崎に、森はこの日は満足する。

1月20日
・山崎の様子に深刻さが無くなったとして再び森が批判開始、アイスピックを使った総括を要求
寺岡の処刑時に「刺さなかった奴がいる」と言い出した森の言葉を受け、坂口が名乗り出た。

追及された山崎は、青砥に優しい言葉をかけられた時「逃がしてくれる」と思ったと発言。
慌てた青砥は山崎に殴りかかり、坂口が山崎の足にアイスピックを刺した。
森は山崎に他メンバーの批評を要求。他メンバーにも山崎への憎悪を煽ろうとしたと思われるが、逮捕された生き残りのメンバーの多くが「実に的確に言い当てていた」と証言。

森による暴行開始。他の者も参加した。
森主導の追及により、かつて山崎は警察に逃げ込もうとしたと話し、死刑宣告を受ける。

森、山崎の胸をアイスピックで刺すが絶命せず。
植垣と青砥がナイフで刺し、数人がかりで首をロープで締めて絞殺
8人目の被害者
森は山崎がそれまでの被害者達を「殺された」と解釈「人の弱みにつけ込んだ権力闘争」を行なっていた事が悪いと総括批判

同日、森は懐中電灯の電池の紛失は金子が隠したからだと騒ぐ。(金子は否定
会議上でこの問題が取り上げられると森は無言を貫いたが、その後は金子みちよへの批判が相次ぐ。

森曰く「僕の方ばかり見ている」金子は内縁の夫の吉野から自分に乗り換えようとしており、男を利用価値のあるなしで見ていると主張。吉野本人に妻への批判要求を行わせ、吉野に「もう金子に足を引っ張られたくない」発言を引き出した。
以前から金子は永田に気に入られようと離婚希望をしていたが認められず、森の一言であっさりと吉野からの離婚表明となる。

この日、ベースに奥村修一が合流。

1月21~25日
・ベース移動時期。(榛名→迦葉山ベース)
この間も森は吉野及び金子への追及を緩めなかった。

23日ひっそりと山崎の遺体が埋められ、メンバーの一人・青砥は皆に気づかれないようこっそりと合掌したという。青砥もまた森から批判対象になっていた。

また冬の山岳地帯のため、24日には山本保子、25日には夫である山本順一の運転する車がぬかるみにはまるトラブルが続いて起き、森を苛つかせた。

【閲覧注意】

ここで軽く印旛沼事件に触れておく。
連合赤軍の発足は1971年の7月だが、実際には12月まで革命左派・赤軍派と分離したまま情報交換のみを行っていた。
事件が起きたのは革命左派の山岳ベースであり、建前としては思想は比較的自由であり、また進学希望や親族に会いに行くなど、当初は下山は自由のはずだった。
(ベースはあくまで警察の追及を逃れるための拠点にすぎなかったため)

しかし向山茂徳早岐やす子の2名はは下山が許されず、やむなく脱走
後に捕まり殺害され千葉県印旛沼周辺に埋められた2人は、ともに情報漏洩の恐れありと判断されたため、処刑対象となった。
(実際には向山は大学進学、早岐は恋人に会いたいという下山理由)

この2人の処刑を提案したのが赤軍派の森恒夫であり、この件は革命左派の中でも一部以外には伏せられていた。
しかし森は本当に殺害するとは思っておらず、処刑を知って驚愕・震撼「あいつらは革命家じゃない!」と叫んだという。


【崩壊する組織】
1971年 8月 印旛沼事件の発生
・早岐殺害時に関わった小嶋和子の精神が不安定になり、衝動的に脱走を繰り返す。

9月
・印旛沼事件実行犯の1人が脱走しようとして失敗。
「殺されちゃうんだぞ」と吉野雅邦が泣きながら詰め寄り、既に不穏な空気が流れ始めていた。

9月11日
・元赤軍派の坂東國男と植垣康博が福島県の交番をナイフで武装し襲撃するが失敗。(失敗の原因は、たまたま交番が無人だったため)

森は印旛沼事件から革命左派に内心恐れを抱いていた。そのため、箔をつけて優位に立とうと必死だったらしい。
交番襲撃失敗に関し、ナイフではなく銃でしっかり攻撃しろと2人に強く指示
この心理は後の残虐性に繋がってゆく。

10月
・森、永田洋子、坂口弘、寺岡恒一(後に森により死刑宣告)の4人で会議が開かれ、合同軍事訓練を赤軍派拠点の新倉ベースで行う事が決定。

12月2日
・山梨県新倉ベースに向かう山道に元革命左派が集結するも、各自水筒を持参せず。

12月3日
・新倉ベースにて「連合赤軍」が初めて合流。水筒問題を利用して森は優位側に立つ事に成功。

12月4日
・森が元革命左派所有の銃の譲渡を要求
永田は要請を保留しつつ、元赤軍派の遠山美枝子が指輪をしたままでいることを「革命的警戒心が足りない」として批判対象に挙げた。

⁂前日の水筒問題で、リーダーである永田らが自己批判を行わせられた報復との指摘あり。
遠山は美人であったため永田に目をつけられ、陰惨な最後を遂げる。彼女の遺体は顔が潰されていた。

12月5日
・遠山が指輪を外さないことに永田が激怒。しかし元赤軍派には理由がわからず、怒った永田は「このままではとても一緒にやっていけない」ふて寝

12月6日
・元赤軍派メンバーで遠山問題について議論。
何が悪いのかと首をひねる面々に、森は革命左派は脱走者を殺害すると告知。ここで初めてメンバー達は「下山=死」であることを知った。

同日、森は永田に遠山批判は至極当然のことと報告。彼女が総括終了しないうちは下山させないこと、他の者も下山したら殺害すると伝えた。
対して永田は「必ず」「なるべく早く総括」し「総括できるまで山から降ろさない」と強く要求。

その日のうちに遠山は総括(全員からの批判)を受ける。その直後、行方正時と進藤隆三郎(森と折り合い悪し)の総括も行われた。

12月7日
・合同訓練最終日。
全員が訓練の感想を述べ、団結に涙を流して感動・感激する者もいたが、理解できずに戸惑う者も少なからず。統一性全く無し
元革命左派メンバーは新倉ベースを去り、別の山岳ベースに移動。

⁂この後も遠山・進藤・行方の批判・総括は連日続く
森は3人に雪の降る屋外での射撃訓練を命じていたが、実際には訓練でも何でもなく、ただ発射の構えをひたすら長時間繰り返させるだけの意味のないものだった。

12月10~12日
・元革命左派が本来の拠点である群馬県の榛名の山榛名ベースに帰還。
後に元赤軍派が合流し、惨劇の場所の1つとなる。

12月20日
・森と坂東が指導部会議のために榛名ベースに到着。
留守中も総括対象の3人に監視をつけ、訓練を続行

この日には様々な論議が芽吹く。
森は小嶋和子の発言を問題視し、擁護する永田と寺岡恒一と対立
また妊娠中にも関わらずキャンプに参加した金子みちよを絶賛する一方で、尾崎充男の行動が「軍人らしくない」と批判
永田は強くこれに反発、尾崎を擁護するとともに同志であるはずの金子には問題があると主張。
議論は夜を徹し、最終的には森が中国の革命戦争史を共産主義に絡めた理論演説で永田を説き伏せた形となる。森の毛沢東思想への強い執着に感動した永田は、その後は彼に心酔し無条件で従う。

⁂この頃に革命左派内で都市部と山岳部で対立が悪化
世論の動きを肌で感じていた都市部と柴野の一周忌を巡って衝突した永田らは荒れていた。

12月21日
・連合赤軍としての結束を固めるために元赤軍派の坂東と元革命左派の伊藤和子の結婚が決定
永田は伊藤に他に好きな人がいる事を知りつつ、説得という名の命令を下す。
小嶋が印旛沼での殺害が「良い」結果をもたらしたと口を滑らせ、森の不評を買う。

この日、山本順一と保子夫妻が生後1ヶ月の乳児を連れてキャンプに合流
しかし理想と現実のギャップは大きすぎ、離脱は不可能となった。

12月22日
加藤能敬小嶋が革命左派の歌のリードを取っていたところ、森が批判を始め、空気を察した寺岡が歌うのをやめさせる珍事が発生。夜、森は各自に自己批判を要求。

12月24日
・森が指導部会議にて革命左派の最高指導者である川島豪を批判
川島と森は意見が合わず、川島の立場の方が上だったため渋々森が従った因縁がある
更に深夜、被指導部の人間が再び能敬のリードで歌を歌っている事が気に食わず、寺岡に命じて歌をやめさせた。永田が能敬と小嶋の2人に討論による総括を提案、以降2人は作業から外される

12月25日
・再び森の川島批判が続く。
大きく影響を受けた永田に対し、坂口にはその批判内容は荒唐無稽に感じられた。

更に森は能敬と小嶋の態度が「総括する態度ではない」として正座させ、2人を呼び捨てにする。(以後、他のメンバーもこれに倣う)
「総括に集中させるため」、2人に食事を与えることを禁止

12月26日 
・能敬と小嶋のキス現場を永田が目撃。「神聖な場を汚した」として強く激怒・批判
加藤が沈黙すると他にも隠していることがあるはずと永田は感じ、森にどうするか詰寄り、森は「殴るか」と返答。

森は以前に剣道の試合で負けて気絶した事があり、覚醒時には新鮮な気持ちで全てを受け入れることができたと語り気絶するまで能敬を殴る事を提案。

坂口は残酷と思いつつ、気絶すれは終わると考え賛同。
就寝していた他のメンバーも起こされ、全員が加藤と小嶋のリンチに加わる事が義務付けられた。
加藤の弟である倫教と元久はためらったが逃げ場はなく、倫教は泣きながら兄を殴る

厳しい追及と暴行に、やがて能敬は小嶋と性的関係にあると答え、永田はさらに激怒
暴行を受けていた小嶋がトイレを訴えると、その場で排泄させた。

キャンプ内での性的関係はその時によって善悪が変化する。
永田本人は妊娠不可能の体であり、森と性的関係を結ぶ前は坂口とも関係があった。
恋愛沙汰は永田にとってかなり複雑なものであり、気分次第で追及・放置が繰り返されている。
(本人は「恋愛はブルジョワ的」なもので「戦士には必要ない」境地に至ったと後に証言)

ブルジョワ・・・ここでは資本主義の金持ちを指す。⇔プロレタリア(労働者)階級

12月27日
・能敬は一晩中殴られたが気絶せず。腹を立てた永田は極寒の屋外の木に縛り付けて放置を指示。
森は気絶しなかったのは「総括できていないから」であり、木への束縛は「集中させるため」と説明。
この後さらに数人の批判が行われ、殴るのをためらった、或いは途中でやめた者も批判対象となった。

この日、決定的な判断が下される。
元赤軍派は覚悟が足りないとされ、新倉ベースから榛名ベースへの全員移動が決定。
被害者らの運命が決まった。

12月28日
・縛られた小嶋がガラス戸を見ていたところ、森は彼女が逃亡を企てていると騒ぎたて、永田に何故見抜けないのかと批判(抗議)
永田が指導部メンバーと協議し始めると、今度は嫉妬「指導者として正しくない」と批判
その後永田は指導部メンバーとの会話を避けるようになり、コミュニケーション分裂に拍車がかかった。

夜。尾崎充男が正座させられる。森は彼が「日和見主義」「敗北主義」だと追求。

12月29日
・森の指示で尾崎の主義克服のため警官役をさせ、坂口との決闘が開催される。
実際には一方的な殴り合いでしかなかったが、この決闘で森と尾崎が和解すると、今度は永田が嫉妬で苛立ち尾崎批判を始めた。
決闘中に妊婦である金子が席を立った事を指摘(批判)し、決闘後に尾崎がティッシュを取ってくれと頼んだ事を「甘え」と批判。総括する態度ではないとして、さらに殴る事を提案
その後は直立不動を命じ、食事なし、トイレも禁じる。
殴られる尾崎に「頑張れ」とエールを送った加藤能敬は、今度は森に褒められている。

リンチを「暴力的総括援助」と言い換えた彼らは、肉体の限界状況下の態度で初めて真価が問われると考え始めていた。閉ざされた世界で、急速に彼らの思考は麻痺してゆく。

大槻節子は美容室で髪を切ったため批判対象者となった。
杉崎ミサ子は「革命戦士として自立するため」内縁の夫・寺岡と離婚すると表明。永田と森は多いに評価したが、肝心の寺岡本人は不在のまま。
様子をみていた金子みちよもまた吉野との離婚を持ち出したが、永田は許可しなかった。

12月30日
・一晩中立たせられていた尾崎が弱音を吐いた事に怒り、森はさらに殴打し立ったまま縛り付けた
ところが尾崎の腕に長時間縛られた事による水疱が現れると、森はひどく動揺する。
山田孝に相談し、結局は「腕の1本や2本なくなっても革命戦士になったほうがよい」と判断。
尾崎の刑はそのまま続行となる。

また、森は加藤能敬・小嶋・尾崎ら3人に食事は与えず、今後の総括態度により様子を見て決めるという「決定報告」を宣言。さすがに永田は驚くが無条件で従った。

また、警察に収監されていた中村愛子がベースに帰還。
空腹に耐えかねて刑事が出した食事を食べた事を自己批判するが、永田は総括者の見張りを命じただけで追求せず。能敬の弟の倫教は兄との待遇の違いに不満を持つが口には出さなかった。

⁂印旛沼事件の被害者・早岐は親族の刑事と食を共にしたことが殺害原因の1つ。

12月31日(大晦日)
1人目の被害者・尾崎の死亡
食事の準備の傍らで、空腹に耐えかねた尾崎が「すいとん」と繰り返しつぶやいたのが暴行の発端

森はかつて能敬は顔面を殴ったせいで気絶しなかったと考え、腹部を中心に殴ることを提案。
尾崎は繰り返し腹部に膝蹴りを受けたが失神せず。森は強く憤ったものの、夜には死亡しているのが見つかった。

死因は餓死(栄養失調)凍死衰弱死内臓破裂等いくらでも可能性はあるが、彼は死ぬ前に舌を噛み切っていた。自殺か、苦悶の痙攣によるものかはわからない。
(遺体発見は翌年3月以降のため、正確な死因は不明)

尾崎の死亡は「共産主義化しようとしなかったために、精神が敗北し、肉体的な敗北に繋がっていった」結果であり、「本気で革命戦士になろうとすれば死ぬはずがない」ため、「総括できなかったところの敗北死」であり自己責任の死であると森が結論づけ、以後「敗北死」が常用される。

永田は尾崎の死に気づかぬよう、能敬と小嶋を屋外の木に縛り付けた。
遺体は吉野雅邦、前沢虎義の2人が地中に埋め、山田と岩田充男が縛られた2人の監視に立つ。
前沢と岩田はここで初めて印旛沼事件の事を知る。
岩田にとって向山は同級生であり、尾崎は大学の寮で同室で、ともに親しい友人達であった。

更に永田が全体会で尾崎の敗北死を報告。
「彼の敗北死を乗り越えて前進する決意を我々自身がより固めていかなければならず、食事が食べられないということもあってはならない」と宣言し、全員にパンとコンビーフを配布。
活動資金に困っていた彼らにとって、これは非常に豪華なディナーとなった。
 
時系列は前後するが、この日、元赤軍派が榛名ベースに到着。
森は到着を受け入れたが、進藤・遠山・行方ら3人の総括が終了していないと批判。
進藤が脱走を考えていると感じ、永田と坂口に総括不足を報告。
しかし2人の同意は得られなかった。

森が総括不足と感じた理由は以下。
進藤・・・縛られた尾崎、能敬、小嶋を気にして落ち着きがない
遠山・・・女同士のライバル心がまだ残っている
行方・・・神経質でノイローゼ的な様子に見える

翌日、年の明けた1月1日から、一気に死者が続出する。

【閲覧注意】

もともとは革命左派が毛沢東主義であり、赤軍派はトロツキストと考えられていたらしい。
両派が結託した連合赤軍は毛沢東主義を掲げていたが、森はかなり原理主義的な考え方をしており、現中国(当時)のあり方にも批判的だったため、親中派の坂口とはソリが合いにくかった。

毛沢東主義・・・ここでは文化革命当時の思想を指す。
人民戦争理論による暴力革命及び武装闘争を肯定し、平和革命を強く否定。階級による闘争の必要性を説く。カンボジアのポル・ポト派が奉じていた事で有名。

トロツキスト・・・トロツキズム(トロツキー主義)者。マルクス主義の1派。
本来は「平和を求める大衆の要求を軽視してはならない」思想であるが、共産主義思想としてはやや異端であるため、揶揄の意味を込めて反逆的な共産主義者を思想に関係なく「トロツキスト」と呼ぶ。

森は論理展開が上手く、論理的演説や論理的説明などは永田や坂口もかなわなかったという。
だが後に残された遺書の文章や行動を鑑みるにあまりにも幼稚かつ矛盾点が多く、疑問が残る。

例えば、毛沢東思想は基本的にはスターリン擁護であるが、連合赤軍内ではスターリンは絶対悪であり、スターリン傾向を持つとして「死刑」となり処刑されたメンバーもいる。
党結成はしたものの、実質には何ら具体的な活動をせずひたすら仲間内で殺し合った連合赤軍には、そもそも明確な活動プランすらなかった可能性が高い。

相次ぐ凶悪事件に、当時既に「過激派=迷惑な犯罪集団」といったイメージが先行し、事件が明るみになった後も、被害者の死を悼むというよりは興味本位な関心が集まりやすかった。
しかし、この事件は主義・思想による連続殺人事件というよりは、北九州連続監禁殺人事件に近い性質を持つ。

言わばテロリズムを隠れ蓑に、個人が閉鎖された空間で自己満足と優位的保身のために他者を虐殺していったに他ならない。強制的に共犯関係に持ち込み、有無を言わせぬ従属関係を作り上げた点でも同様である。
 

映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」予告編

【連合赤軍メンバー】
・初の合同訓練は赤軍派の用意した新倉ベース(山梨県・新倉山)で行われた。
最終的に山岳ベースに集合するのは29名(うち女性10名)であり、12~1月の間に全員が揃うはずだったが、実際には12月には既に死人が出ており、何も知らずに合流しそのまま戻れなくなった者を含む。

メンバー構成は元赤軍派が9名元革命左派が20名
しかし集合日に元革命左派メンバーが水筒を持参しなかった事を、「革命戦士としての自覚が足りない」と責めたことから、元赤軍派リーダー森恒夫が連合赤軍リーダーとなった。
この水筒問題はその後のパワーバランスに大きな影響を及ぼす。

また、元革命左派のリーダー・永田洋子は坂口弘と内縁関係だったが離婚し、森と再婚するのが思想的に正しいという結論にいたるが、森は既婚者であり妻子を残してのベースキャンプ参加だった。

ややこしい事に、永田は森に心酔しつつも元革命左派リーダーとして常にライバル意識を持ち続けていた。「総括」(仲間によるリンチ)「革命戦士を覚醒させるために必要不可欠」と信じ切っており、批判追及を競い合うような部分が見受けられる。
個人的気質から特に女性同志へは辛く当たり続けた。

森自身はかつて交番襲撃事件の前には逃亡するなど、後に証言されるように実は小心者だった。
学歴コンプレックスが強く、優柔不断というよりは相手によって態度を変えるなど、必死に虚勢を張りつつ理論だけで優位に立とうとする癖があり、実行力を伴わない肥大した自己顕示欲の持ち主だったと思われる。
森は常に行動力のある永田の陰に隠れており、それが現実乖離に拍車をかけた。

当時の連合赤軍メンバー構成と、年齢、その後の運命を記載する。
元赤軍派(9名)
森恒夫・・・当時27歳 (連合赤軍中央委員会委員長) 公判前に拘置所内で自殺
坂東國男・・・25歳 あさま山荘事件に関与 日本赤軍テロにより国外脱出 国際指名手配中
植垣康博・・・24歳 軽井沢駅で逮捕 
青砥幹夫・・・22歳 逮捕 
進藤隆三郎・・・21歳 死亡
遠山美枝子・・・25歳 死亡
行方正時・・・25歳 死亡
山崎順・・・21歳 死亡
山田孝・・・・・27歳 死亡

元革命左派(20名)
永田洋子・・・27歳 (連合赤軍中央委員会副委員長) 死刑 2011年病死
坂口弘・・・25歳 あさま山荘事件に関与 死刑
吉野雅邦・・・23歳 金子の内縁の夫 あさま山荘事件に関与 無期懲役
金子みちよ・・・24歳 妊娠8ヶ月 死亡
加藤能敬・・・22歳 死亡
加藤倫教・・・19歳 能敬の弟 あさま山荘事件に関与 逮捕
加藤元久・・・16歳 同じく弟 あさま山荘事件に関与 逮捕
奥沢修一・・・22歳 杉崎ミサ子の夫 逮捕 
杉崎ミサ子・・・24歳 奥沢修一の妻 逮捕 
山本順一・・・28歳 死亡
山本保子・・・年齢不詳  山本順一(死亡)の妻 乳児の娘を置いて脱走 自首
寺林真喜江・・・23歳 逮捕 
中村愛子・・・22歳 山本夫妻の娘の世話係 乳児を連れて脱走 自首
伊藤和子・・・22歳 逮捕 
前沢虎義・・・24歳 脱走 自首
岩田平治・・・年齢不詳 脱走
尾崎充男・・・22歳 死亡
小嶋和子・・・22歳 死亡
寺岡恒一・・・24歳 死亡
大槻節子・・・23歳 死亡

実はこの事件の全ての詳細が明らかになっているとは言い難い。
後に逮捕された数人(あさま山荘犯人含む)の供述は各自証言が食い違い整合性が合わない
山岳ベースは数カ所あり、それぞれに人員が配置されていたほか、資金集めなどで別行動をとる者もおり全員が常に揃っていたわけではなく、故に責任の擦り付け合いがあった可能性も高い。

それぞれの証言を元に、事実を再現、補足、推察したものが事件の概要となる事を念頭に入れておいていただきたい。


【総括】
・概要の前に、彼らの精神状態について簡単に説明する。

活動家において「総括」とは、互いの批判や自己批判も含む反省や評価、今後の検討等を指す。
山岳ベース事件では好んで「自己総括」が使われたが、偏った自己批判はアイデンティティの崩壊を招き、うつ状態になりやすく、思考停止などの洗脳に近い状態を招く。
山岳ベース内では、援助と称して周囲の者が総括対象者に対し、意見や批判を各々行うものへと変化していった。

それは実際にはただの虐めでしかなく、問題のある者(殆どが些細な理由)は仲間外れにされるなど、いつ自分がその対象になるか常に緊張が続いていた。

暴力肯定の組織内では「総括」はエスカレートし、やがて攻撃的なものへと変化する。
「集中のため」に行われた心理的攻撃は、「革命戦士へと生まれ変わるため」に必要な暴力的儀式へと移り、長時間の正座食事抜きから殴る蹴るの身体的虐待へと変わっていった。
仲間全員から受ける暴行は強い反省を強要するものであり、実質的なリンチではあったが、「総括援助」のために必要なこととされた。

リーダーの森は暴行等で気絶した後総括対象者には別の人格が発生し、真の戦士になれると嘯いていた。そのため、暴行(リンチ)は総括の援助であると正当化される。

被害者の死因は内蔵破裂から凍死衰弱死(餓死)など多岐にわたるが、それはあくまで「総括できないことに絶望してショック死した」本人の責任であると森は主張、「敗北死」と命名。
冷酷な責任転嫁ではあるが誰も異論を唱えず、また総括援助は全員が強制参加であるため、加害者と被害者が入り交じる奇妙な共犯関係へと繋がってゆく。

やがて総括不可能と森が判断した者は、人民裁判によって「死刑」が宣告され(最高責任者は森)、縛ったままアイスピックで刺しその後絞殺という処刑が行われていた。

総括の対象となる理由は特になく、他者への「総括」中に個人的な文句を言ったというだけで次のターゲットになり得る。
あまりにも有名な「殺らなければ、殺られていた」とは、逮捕された後に生存者が語った証言。

【閲覧注意】

山岳ベース事件とは、1971~1972年に起きた連合赤軍同志による凄惨な連続リンチ殺人事件
1972年に連合赤軍によるあさま山荘事件が発生。(死者3名・負傷者27名
事件収束後に発覚したのがこの事件であり、この2つを合わせて「連合赤軍事件」とする。
これらの衝撃的な事件は社会に大きな衝撃を与え、日本の新左翼運動が衰退する大きな要因となった。

新左翼運動・・・1950年代以降に世界的規模で拡大した、既存の社会主義・共産主義を批判する新しい社会・共産主義勢力。幅広い意味合いを持ち、主に反帝国主義、反共産党、スターリン批判などがある。イデオロギーは多種多様で、アナキズム・マルクス主義・トロツキズム・毛沢東主義や構造改革派まで含む。

事件現場となったのは群馬県の榛名山・迦葉山・妙義山のベース(活動拠点)。
連合赤軍は警察の追及を逃れ、山岳地帯に潜み活動を続行するはずだった。


【連合赤軍の誕生】
・事件の背景には、少々説明を要する。
かつて日本国内で学生や労働者による政治活動や運動が多発、学生を中心に1967年に急速に新左翼派組織が活発化、諸派の中でも1969年に結成された関東派中心の赤軍派は過激で武力革命を謳って憚らなかった。
戦争と称しては大阪・東京等各地の交番を襲撃し、多くの殉職者を出している。
(火炎瓶で火だるまになった機動隊員を集団で襲い掛かる「東峰十字路事件」など、悪質凶悪な事件の他、婚姻関係等で一般の住民を巻き込み思想的支配ー強制・洗脳ーを積極的に行った)
動員された中には高校生も多く、革命の意味を理解していない者も多かったと思われる。

「東峰十字路事件...」の画像検索結果

だが、首相官邸襲撃の計画が漏れ(大菩薩峠事件)多数の逮捕者が出ると、組織そのものは一気に崩れ出す。

1970年には「よど号ハイジャック事件」が発生、9人が北朝鮮へ亡命。
1971年には赤軍の一派が中東へ脱出し、「日本赤軍」を名乗る。

よど号ハイジャック事件・・・羽田空港を離陸した日本航空351便のハイジャック事件。
乗員らは福岡・ソウルで解放、運航乗務員や政府関係者は北朝鮮まで連行された。

⁂国際指名されたテロ組織「日本赤軍」は、1971年に国外脱出した赤軍派のグループ。
後にイスラム過激派と組み多くの無差別テロ事件を起こす。

残された日本国内組は米軍基地攻撃(ダイナマイト闘争)など過激の一途を辿り、刃物・鉄パイプ・爆弾・火炎瓶の他に銃武装するなど明確なテロリストへの道を進んでゆく。

銀行強盗等で資金を調達し、警官・機動隊員の死亡(殺害)は権力側に非があると叫ぶ彼らは、殺人を「殲滅戦」と言い換え、自らの正当性を主張。
銀行や銃取扱店は権力側の味方であり、従業員は一般人ではなく敵の一味と見做された

上赤塚交番襲撃事件ではメンバーの一人である柴野春彦が死亡。死者が出たことに被害者感情を爆発させた彼らの活動は更に凶暴・凶悪化する。(多数の機動隊・警察官らの死傷者は無視

念のために記載すると、新左翼派全てが過激な行動に出たわけではない。
1955年には日本共産党や日本社会党は暴力革命路線の放棄を表明しており、過激派はただのテロリストにすぎなかったが、当時はまだテロという概念が浅かったためか同調する者も少なくなかった。

過激派はそれぞれ複数の思想派が集結したものであり、その中の一派・革命左派は合法部(法を守る部)と非合法部(犯罪部)に分かれ、非合法部は警察の追求を逃れるために山岳地帯に拠点(ベース)を作り活動していた。

革命左派(正式名称・日本共産党革命左派神奈川県委員会)
マルクス・レーニン主義派と毛沢東主義派等、内部はやはり分裂気味だった。
都市活動組(合法部)・山岳組(非合法部)に分かれて活動していたが、最終的に分裂。
赤軍派と合流したのが山岳組であり、リーダーは永田洋子と坂口弘の2人。
永田は「革命で殉死」した柴野の恋人であり、過激活動の象徴的存在となっていた

赤軍派はM作戦(金融機関強盗)により資金はあったが武器が少なく、革命左派は交番襲撃真岡銃砲店襲撃事件等、銃はあったが資金力が弱かった。
赤軍派も警察の追及から逃れるため山岳拠点活動を視野に入れており、ここで利害が完全に一致した。
彼らは自らを軍隊組織と見做しており、赤軍派の中央軍・革命左派の人民革命軍が合流、「連合赤軍」と名乗る。

赤軍派のリーダーは森恒夫であり、森と永田が連合赤軍のダブルリーダーとなったが、一見友好的に見えるこの関係には常に主導権争いが見え隠れしていた。(後に永田は森に心酔)

連合赤軍の結成は1971年7月だが、実際にメンバーらが合流したのは同年12月。
赤軍派の新倉ベース(南アルプス・新倉山)で初の合同軍事訓練を行った。
そのまま榛名ベース(榛名山)、迦葉ベース(迦葉山)、妙義ベース(妙義山)へとメンバーは移動し、数名の脱走者とともに12人の死者を出す結果となる。

赤軍派メンバーらは知らなかったが、同年8月には革命左派は山岳ベース脱走者を粛正(処刑)しており(印旛沼事件)、処刑の発案者は森本人

さらに柴野の一周忌の対応を巡って、革命左派内で都市部(合法部)と山岳部(非合法部)が対立したため山岳部は派と決別し、元赤軍派・元革命左派による新党が結成。

両派の特性上、暴力を厭わない下地ができあがった。


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【閲覧注意・事件】連合赤軍・山岳ベース事件 蛇足

http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1432129078/

633 : 本当にあった怖い名無し:2015/06/25(木) 15:49:51.97 ID:qYpsP1vw0.net
流れ読まずに投下する。
何年か前に別のスレに書いたが、創作扱いされたのでそれ以来黙ってた。

1人暮らしの祖母が体調を崩した時、母親と俺とで交代で母の実家に泊まった。
俺の当番の日、特にすることもないし疲れていたので、床に就いて本を読んだ。
いつの間にか眠っていたようだが、
壁を隔てた隣で男性二人がケンカをしているような荒っぽい声で目を覚ました。
うるさいけど、注意するのは怖いな…と思い、窓を少しだけ開けて覗いてみようと思った。

窓の外、俺の目の高さで、ガラの悪そうな男性二人が殴り合いのケンカをしていた。
というより、片方が一方的にやられているようで、ぐったりとして頭から血を流していた。
通報した方が…と思ったがすぐに窓を閉めた。
この壁の向こうは空き地で、窓にはベランダもついていないことを思い出したからだ。
その後は布団をかぶって寝てしまった。

そんなことを忘れた頃、母が祖母に「隣の空き地、ずっと何も建たないよね」と話していた。
祖母が「あんたはまだ小さかったから覚えてないか。
隣はアパートだったけど、二階の部屋でチンピラ二人がケンカしてさ、片方を殺しちゃったんだ。
それでそれ以降アパートも入る人がいなくなって、潰してそれっきりなんだよ。」と。
あの夜見たことを思い出して背筋が凍りついた。

http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1388120101/

329 :本当にあった怖い名無し:2014/07/26(土) 22:59:14.66 ID:oUcuUpfV0.net
文章は得意じゃなくて分かりにくいかもしれないけど、
10年程前の肝試しに起きた事を書いていきます。

当時、中学時代からの悪友達と
毎晩のように心霊スポットと言われるところへ度胸試しをして遊ぶのが流行っていた。
名古屋で比較的有名なところから、怖いなと思う所までいろいろと…
散々行ったけど、特段怖い思いもしないまま、
結構有名な廃ホテルには何回か女の子を連れて肝試しをしたりして遊んでいました。

その廃ホテルは竜泉寺の向こうという行きやすい立地もあって何回も遊びに行っていた。
帰り際に記念写真を撮ろうという事になり、
その時は何にも写ってないと思っていたのですが、
帰ってみんなで見てみると無数の顔が写っている事に気付きました。
何回も行った事があり、警戒心も無くなっていたことから、
あんなところで撮れる訳がないと思っていた写真が、こんな事になるとは思ってもなく
一様にショックを受けていた。

霊の存在など信じていなかっただけに、
本当に撮れた事が返って心霊スポットの散策に火をつけた。
当時は本当にバカだったと思う。ここでやめておけばよかったと心の底から思う。





330 :本当にあった怖い名無し:2014/07/26(土) 23:00:00.56 ID:oUcuUpfV0.net
それから間もなく、今度は大高緑地公園に行ってみよう!!と友人が言い出した。
私は「はぁ??」と
あんなのとこ何にもないじゃんと言わんばかりの生返事を返した。
私は転校生だったという事もあり、そこで事件があったことなど知る由もなかった。
友人たちは面白そうだね!と意気投合し、その晩女の子も誘って肝試しをする事になった。

多分冬だったと思う。
真夜中にとても長いクネクネした山道?を車で登って売店のある駐車所に着いた。
途中、柵の様な門があったけどその日は空いていた。
結構広めの駐車所に車を止めて、
全く霊の存在を信じていないA君は「俺は寝てるからー」と
やる気の無い感じで車中に留まり、残り6人は公園内を探索する事になった。

駐車場を抜けると、電柱の明りは無くなり、本当に真っ暗で何あるか分からない。
ただ目の前の歩道だけが、下り気味の右カーブしている事だけが分かるぐらいだった。

当時、この公園内ではモデルガンの戦争みたいな遊びをする人たちがいることや、
暗視カメラでアベックを盗撮している人がいると噂を聞いたことがあって、
BB弾に当たるのも怖いし、変質者に会うのも
女の子がいるので男はとても警戒していた。

少しずつ歩道を下り、カーブの手前に差し掛かったころ、
その先は更に暗く何にも見えないので、
一番先頭だった私の心の心の中では「もう帰りてぇーこれ以上無理だろ」と
チキンめいた感情が渦巻いていた。
他のみんなも足を止め、
その暗闇を行くか行かないか迷うように眺めているだけになっていた。


331 :本当にあった怖い名無し:2014/07/26(土) 23:00:30.24 ID:oUcuUpfV0.net
もう少しだけ歩いたら暗過ぎるから帰ろうと促そう、みんなもあんな感じだし諦めるだろと、
やだなーと思いながら少し進むと歩道の右手に
何て言ったらいいか分からないけど、
真っ暗な中にそれ以上真っ黒な建物(見た目長方形)が立っている事に気付いた。
「おーい!なんか建物っぽいのがあるから見てくるわ―」
と私はその建物に少し近づいた。

距離にして30mぐらいだったと思う、近づけば近づくほど真っ黒で、
嫌な感じもあって近づけなくなった。
でも興味はあって、この建物はなんだろと目を凝らすように眺めていたが分かる訳もなく、
怖いから帰ろう後ずさりし始めた時、変なものが見える事に気付いた。
その真っ黒な建物の直ぐ脇の地面がゆらゆら動いてる気がするなと眺めていると、
地面からもっと黒い筑紫の様な物体が生えてきた。
「なんだよあれ…」
怖かったけど興味が勝りそれを眺め続けた。
すると更にとなりからもう一本…全部で4本手の指の様な段差の物が生えてきた。
「なんだあれは…」
建物の大きさと比較してかなり大きな物体である事は理解できたけど、
その他は真っ黒と指の様としか分からない。
後ろの方で私を見ていた友人達が、「おーい○○!どうしたんだよ」と叫んでる。
「いや、なんか地面から生えてきたんだよ」と言い返したその時だった。
4本あった黒の物体の内、一番右の黒が大きくなってきている事に「はっ!!」とした。
「なんだ??でかくなってきてる??」
「え、え??」
一瞬訳分からない感じになったけど、直ぐその状況を理解した。
「こいつは近づいてきている…」
すごい寒気が全身を走った。


332 :本当にあった怖い名無し:2014/07/26(土) 23:01:18.57 ID:oUcuUpfV0.net
音もない…でもこいつは近づいてきている!本能だった。このままじゃ危ない!
とっさに振り返り「逃げろーーーーーーーーーーっ!!!」と叫び走った。
みんなもそれにビビったのか一目さんに駐車場へ逃げていく。

あまりの恐怖に無我夢中に走っていた私に一人の友人が声を掛けた(走りながら)。
友人「どーしたんだ?何があった?」
私「後ろを振り返ってみろ!」
友人「はぁ??」
友人と走りながら振り返る。

それまで何が近寄ってきてたのか分からなかったけど、その時初めて理解した。
歩道から浮いて走ってくる人型の真っ黒な物体。
その歩道はかすかだけど明りがあった。
洋服の色とかそれが人間であることぐらいの色彩を確認できる明りがあった。
少なくても友人の肌の色とかは分かるぐらいの明るさだったのに、
その人型の物体は真っ黒すぎる程黒い。

振り返った友人と目があった。
友人「何だあれ!?普通じゃない!浮いてる!!!」
私「分からない、ただ追いつかれたらヤバい!」
友人の速度が上がった。
一刻も逃げ出したいのに、目の前で女の子が転んでしまった。
その子は振り返ってもおらず、後ろに何が居るのかも分かってない。
このままではまずい!!
私「早く立てーーーーーーーー!!」
思わず言葉が乱暴になってしまった。それほど必死だった。
追いつかれたら多分殺される…
もう後ろを振り返る事が出来なかった。

その後、車で寝ていた友人を叩き起し逃げ帰るように返った。
もう二度と行かない。それから心霊スポットに行く事も無くなった。
ごめん、落ちは無いです。
事件のとは友人達は知っていたみたい。
あれは何だったのか気にはなるけど確かめようもなく、確かめたくもない。


333 :本当にあった怖い名無し:2014/07/26(土) 23:28:28.93 ID:Rj/dxdog0.net
夏厨はこれだから…


335 :本当にあった怖い名無し:2014/07/27(日) 07:26:01.54 ID:GW/OqZY50.net
別にオチはいらんから
少しだけでも怖さをくれ


336 :本当にあった怖い名無し:2014/07/27(日) 08:30:46.94 ID:wV97F3N70.net
一度でいいから読み直そう
無駄な部分だらけ


337 :本当にあった怖い名無し:2014/07/27(日) 19:12:13.30 ID:+qQru+uS0.net
アベック殺人事件は20年以上前だな


https://toro.open2ch.net/test/read.cgi/occult/1339071354/

71:名無しさん:2014/03/22(土)17:55:50 ID:cXQLQ1iEP 
こんにちは。シンガポールで軍隊で体験した話しをしたいとおもいます。
日本語があまりうまくないのでわかりずらいかもしれませんが。

まず徴兵はみんなプラウテコンという離れ島で三ヶ月基礎訓練します。
そのあとで部隊にランダムで配属(たとえば戦車、歩兵、artilleryとか)。
その離れ島での訓練は色々な怖い事がおきてきたけど
その中のひとつ。私の友達のの部隊の話し。

友達のプラトゥーンには一人弱い人がいた(すぐいじめられる)。その人はリーとします。
いじめとまではいかないがよく周りからからかわれてた。
だから、上官もそいつを集中的にねらった。

その上官は、あまり詳しく言えないけどシンガポールの偉い人の息子です。
凄い嫌なやつでとにかく理不尽だから皆嫌ってた
(例えば顔が気に食わないという理由で罰された)
そんで、ジャングル訓練という物があって、
本当に7日間風呂も歯も磨かないし、寝るにはtrench掘ってライフル構えながらねる。
その訓練は上官にとっては楽しい場所。
何故なら好き放題私新兵をいじめられるから。
やはりリーが狙われ、毎日何かと罰をうけた。
例えば、お前体臭くさいとか、メガネ取られて、夜、光のない中目標まで歩けとか。
そんなのできっこないから、出来なきゃ罰を受ける。

ジャングル訓練での罰は皆寝てる時に見張りをする。
リーは毎日狙われ、全く眠れなかった。
又、彼は弱いからすぐないて、それを見て上官と下士官達は大笑い。


72:名無しさん:2014/03/22(土)17:56:04 ID:cXQLQ1iEP 
シンガポールではとにかく金持ちが凄い権力もってる。
例えば、私が小学校の時に、
クラスに大臣の息子がいてマンチェスターユナイテッドがシンガポールに来た。
その時我々にとってマンチェスターは皆見たいけど平日だから見られない。
しかし大臣の息子が見にいけて、
おまけに新聞にまででっかくベッカムと記念撮影の写真があった。
我々は不満に思い、先生に怒った。
しかし先生は「大臣の息子だから君たちとは立場が違うんだ」と怒られた。

話しを戻します。
その三日目、河を渡る訓練だったんだけどここで事件が起きた。
簡単そうに見えるけど25kgのカバン、6kgのlbv、
さらに3.6kgのSAR21ライフルにヘルメット着けて渡るにはかなりの体力が必要。
ここでも、リーはできなかった。
上官は怒って腹を蹴り、ライフルで顔を殴った。
リーは倒れうずくまってた。
さらに上官はリーの顔を河の中に突っ込んだ。かなり長く。
リーはもがいたがしばらくして大人しくなった。

しばらくして上官は手をはなした。
しかしリーは顔をあげない。皆青ざめて彼を起こしたが息はしていない。
すぐさま救急隊をよんだけどかれは生きかえらなかった。


73:名無しさん:2014/03/22(土)17:57:02 ID:cXQLQ1iEP  
勿論訓練は中断、皆キャンプに戻って今日は家に帰すといった。
起こった事に恐怖してた皆は皆疲れてた。
しかし、これで帰れるという少しの嬉しさもあった。

しかし、帰る前、誰にも言わないという約束の紙にサインさせられ、
絶対にただの事故って言え、でなければお前らの家族ごと潰すと上官にいわれた。

リーの親には勿論事故で話し、上官はいかにも彼が悪いみたいな芝居でウソをした。
親は事故は起きるもんだからと悲しいけどしょうがないといって事は終わった。
その後、上官は何事もなかったかのように暮らした。

何が怖いかって百人以上も現場で目撃してたのに
誰一人証言する勇気のなさと親は息子の死に方をわからずに葬式した事と、
上官がその後、肺がんになるまで6年間何事もなかったかのように生きた事。

ながくて下手でごめんなさい。必死にかきました。
私が軍人だった頃も人が死に、幽霊もいっぱいいたから軍隊は怖かった。



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