あさま山荘事件はショッキングだが、少なくとも権力側(警察・機動隊)と思想犯との対峙であったため、まだ僅かだが救いがある。
しかし、山岳ベース内で起きた連続殺害事件は無意味な集団暴行でしかなく、その矛盾に現在も苦しむ生存者も少なくない。
しかし、山岳ベース内で起きた連続殺害事件は無意味な集団暴行でしかなく、その矛盾に現在も苦しむ生存者も少なくない。
【警察の捜査と森の裏切り】
・大規模な山狩りの結果、警官隊は迦葉山ベースを発見。
証拠隠滅のために焼かれた榛名ベースとは異なり、大量の異様な証拠品が残されていた。
数の多すぎる寝袋、リュック等の荷物、不自然に切り裂かれた衣服と、大量の糞尿である。
人間は窒息死の際、屎尿を垂れ流す。
切り裂かれた衣服は、死後硬直した死体から衣服を脱がせた事を示していた。
また当初からメンバーの人数が合わない事が指摘されており、これらのことから警察は早い段階で大量殺人があったことをほぼ確信していたが、雪山での遺体捜索は警察犬でも難しく、逮捕者達の自白を待つことになる。
2月19日
・永田は旧知の弁護士と面会。森への伝言を託す。
「山で大変な闘争」があり、「誰にも話してはいけない」「弁護士にも話せない」ため、森にも黙秘を貫くよう励ましのつもりだったのかもしれない。(権力への協力=裏切り行為=敗北となる)
弁護士が伝言を伝えたところ森は無言だったが、口止めは3週間と持たなかった。
3月5日
・妙義ベースに残されていた最後の被害者・山田孝の衣服の写真を見せられた奥沢修一が殺害を供述。
事件の関与を認めた。
3月6日
・加藤兄弟も事件関与を認め、殺害を供述。
3月8日
・突然、連合赤軍リーダー森恒夫本人が裁判所へ事件の全容を書いた上申書を提出。
これは実質的な全面自供であり、黙秘(=闘争)を続けていた他メンバーは驚愕、強いショックを受けた。
永田は後に、「いかなる自供も許さなかった」彼の「『共産主義化』に反する事」であり、「共産主義化への確信の何かが、その上申書を見てすぐガラガラと崩れる落ちるように感じ」たという。
坂口は森の権力に対する屈服と明言し、「総括を主導した人物の重大な裏切り」であると断定。
しかも、森本人は指示するのみで実際には死亡したメンバーの埋葬すら参加していない。
森は上申書は被害者の遺体を遺族に返す為のものであり自供にはあたらないとしたが、遺体を返すためには関与メンバーの自白が必須となる。この行動は、他メンバーの自白をも間接的に強要するものだった。
⁂不思議なことに、森にとって上申書はあくまで裁判所に提出したものであり、警察への協力(自白)とは考えもしなかったらしい。相次ぐメンバーの自白と遺体の発見にひどく困惑していたという。
この事態に、逃亡(脱走)していた4人も出頭、供述を始め、生存者17名全てが警察に逮捕された。
見つかった遺体は12人。
メディアは連日遺体捜索のニュースを報道し、無残に痩せ細り性別もつかないほど損傷した遺体の写真も公開された。
また、吉野らの供述により印旛沼事件も明るみになり、2人の遺体も発見される。
永田・坂口は頑なに黙秘を続行。
⁂夫を殺されて逃亡した山本保子は、生後数ヶ月の娘は死んだものと思っていたらしい。
再会できた時には号泣し、中村に感謝したという。
しかし4月には検察官が理論武装に弱い永田の弱点を見抜き、「革命を主張するならば統一公判が必要」であること、このままでは「同志殺害は精神異常者の犯行」となることを伝えると、永田は供述書に同意し、やがて自供へと繋がった。
坂口は最後まで黙秘を続けていたが、金子と胎児の遺体写真を正視することができず、「屈服」する。が、供述書を書くことは拒否し、手記というかたちで告白した。
この凄惨極まりない事件は当時の世論にも大きな影響を与えた。
社会党議員やマスメディアのなかには、あさま山荘事件後も連合赤軍を擁護する声も少なからず続いていたが、両事件の真相及び実態が判明するにつれ、彼ら擁護者派の面目と信用は丸つぶれとなり、手のひらを返すように批判側へと鞍替えする。
新左翼運動は嫌悪されるようになり、世論の一部に残っていた連合赤軍に対する共感も立ち消えた。
これらの現象は、その後の左翼派運動にも大きな負のイメージを国内に植え付ける結果となる。
【混迷する裁判と森の自殺】
・被害者は12名であるが、検察側は最初の被害者・尾崎充男のみ傷害致死とし、他の11名は殺人事件と断定。裁判でも認定された。
印旛沼事件・あさま山荘事件も関与が大きすぎる為、本事件と併せて扱われている。
公判開始前、森は原稿用紙500枚もの「自己批判書」を書き上げた。
事件全貌を明らかにするためであり、事件の責任は自身と永田にあると断罪するためだったというが、その内容はあまりにも拙い。
この後、信じがたい事に坂口と永田は再び革命左派に復帰する。
一方、次々と罪を認め服役に甘んじる者も多かった。
1972年 5月
・坂口の革命左派復帰。
10月
・当時の革命左派は、事件の原因はかつての最高指導者(故人)による「反米愛国路線の放棄」のためと主張しており、納得できないまま永田も派に復帰する。
・森は4~5月に書いた自己批判書を全面撤回。
11月
・森・永田・坂口・坂東國男・吉野・加藤倫教の6名で統一公判が行われることが決定。
また坂口と森との間では手紙が交換されており、その一部が公開されている。
S(坂口)
「君(森)が革命左派の反米愛国路線を攻撃するのは構わない。
だが、彼等に対して様々な中傷を加え、暴力の行使まで宣言したことはどんな理由をつけても正当化できるものではない。」
M(森)
「反米愛国路線を放棄したから粛清を引き起こしたなどという革命左派メンバーの主張は、絶対に受け入れられない」
S
「のぼせ上がるのもいい加減にしてほしい。
君は山岳ベースであれほど過酷な要求をメンバーに課して置きながら、獄中での態度はなんだ!
『上申書』は書く、『自己批判書』は書く、自供はする。
こんな筋の通らないことをした君が、他組織のことをむやみに批判する資格があるのか!」
M
「断固たる批判を待ちます! 君の批判については、一片の弁護もなく認めるものだと思います」
1973年 1月
・公判間近になり、森は拘置所で首を吊って自殺。
坂東宛に遺書が残されていたが、その文章は驚くほど稚拙な文体だった。
独自の理論を辻褄あわせのように並べ立てているため、正直よく意味がわからない。
(自分の理論は後付けによるものと認めつつ、革命左派の組織的民主主義のため方向性が純化しなかったが故に自分が主導せざるを得なかった。自己嫌悪と絶望にさいなまれ、初めての革命的試練を飛躍するために真の勇気を出すといった内容。)
森の自殺を知った他メンバーの反応は様々。
永田は「ずるい!」と叫び、坂口は「卑怯者」と批判。
坂東は自分(坂東)の弱さが、結果として森を追い詰めたと発言。
妻子を失った吉野は、森は優柔不断で実行力もない小心者と表現した上で、「自己処刑の闘争」を遂げて満足しているだろうと語った。
2月
・出廷拒否の末、ようやく統一公判判開始。
思想が一致しない彼らの齟齬や矛盾点が明確に浮き上がる。
1974年 7月
・革命左派に疑問を感じた永田が派を離党。
植垣・坂東とともにプロレタリア革命派(赤軍派)に参加。
1975年8月
・クアラルンプール事件発生。
日本赤軍の要請により超法規的措置で坂東が釈放され、国外へ逃亡。そのため裁判は混乱し、坂東本人の公判は休止状態のままである。
坂口も釈放要求があったものの、坂口本人が武装闘争は間違いであるとして出国を拒否。
⁂クアラルンプール事件・・・日本赤軍がマレーシアにあるアメリカとスウェーデン大使館を占拠し、約50名を人質に赤軍の囚人釈放を要求したテロ事件。
その後の公判は、事件の重大性に対し、あまりに情けない展開が続く。
12名の死者に対し、真実を明らかにすべきとする吉野に対し、坂口は死者に鞭打つ事はできないとして反対姿勢を崩さず。あくまで理論・闘争・思想に拘る。
1977年 8月
・思想的対立のため、吉野と加藤が統一被告団から離脱。
分離裁判開始。
9月
・ダッカ日航機ハイジャック事件発生。
日本赤軍が東アジア反日武装戦線と組み日航機をハイジャック、収監中の活動家ら9人の釈放を要求。
連合赤軍では植垣が釈放対象だったが、やはり本人が出国を拒否。
⁂ダッカ日航機ハイジャック事件・・・日本航空472便が5人の武装したテロリストにハイジャックされた事件。実行犯の1人は坂東國男。乗客・乗務員ら約150人を人質に、バングラデシュのダッカ国際空港に強制着陸させ、囚人釈放とともに600万ドル(当時の16億円)を日本政府に要求した。
1980年 7月
・永田と植垣他が決別。事件の一因に永田の個人的な要因があると指摘された事による。
(同じ指摘を坂口は1977年から行っており、永田は個人攻撃だと批判)
1982年 6月
・永田と坂口の死刑判決。植垣は懲役20年。
一連の連続リンチ事件において、監禁時少なくとも数名は食事を与えられ、心肺停止時には蘇生が試みられていたが、死を予見しながら「やむを得ない」と認容していたため消極的な殺人罪となる。
(最初の被害者尾崎充男のみ、傷害致死認定)
「総括」は、対象者に対する客観的基準や方針が全くなく、ただ森と永田の優越感、または猜疑心・嫉妬心またはその場の雰囲気から場当たり的にターゲットになった。
また、裁判で強調されたのは「そもそも総括達成の方法・基準が全くないのに、総括が出来ると思うこと自体論理矛盾」である事、「敗北死」とは「被害者に汚名を着せ」た責任転嫁であり、「総括=(遅かれ早かれ)死」であることをほぼ全員が認識しながら共犯関係に引き込まれ、ある種の集団思考停止状態に陥っていた点である。
事実、メンバー達は自分達の行動の無意味さを知りつつ森に刃向かうことはなかった。
「何をやっているんだろうな」とつぶやき、密かに諫められた者もいるほど、森の恐怖政治は強固だった。
(森は密告制をとっており、メンバーらの信頼関係は崩壊していた)
裁判にて、本事件の原因とされた主犯2人の分析は以下。
・森恒夫
「自己陶酔的な独断に陥り、公平な判断と部下に対する思いやりが乏しく、人間的包容力に欠けて」おり、「長たる器量に著しく欠けるものがあった」
・永田洋子
「個人的資質の欠陥」として「自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を有していた」
一方、坂口は実質的な組織のNO.3であったものの決して安泰であったわけではなく、常に危ういバランスの上に立っており、また仲間へも密かな気遣いを見せることもあったが、やはり事件の重大性から死刑を免れることはできなかった。
以下、他のメンバーらの最終判決。
(関与した金融強盗、山岳ベース事件、あさま山荘事件等一連の事件に及ぶ)
主犯・森恒夫 -・・・・公訴棄却(公判前に自殺の為)
主犯・永田洋子 -・・・・死刑
・坂口弘 ・・・・ 死刑
・坂東國男 ・・・・国外逃亡中(日本赤軍と合流 国際指名手配中)
・吉野雅邦 -・・・無期懲役と罰金
・植垣康博・・・・懲役20年
・青砥幹夫・・・・ 懲役20年
・前沢虎義・・・・懲役15年
・加藤倫教 -・・・・懲役13年
・杉崎ミサ子・・・・ 懲役12年
・寺林真喜江・・・・懲役9年
・中村愛子・・・・ 懲役7年
・伊藤和子・・・・懲役7年
・奥沢修一・・・・ 懲役6年
・岩田平治・・・・・懲役5年
・山本保子・・・・懲役4年
・加藤元久・・・・未成年のため保護処分
2011年、永田は東京拘置所内で脳腫瘍のため病死。
坂口と吉野はともに収監中。(生存)
坂口の死刑は確定しているものの、共犯者である坂東が逃亡中であるため裁判が終了しておらず、刑執行の見通しが立っていない。