福岡の漁船「第一大邦丸」と「第二大邦丸」の2隻の乗員である民間人が、韓国海軍により突然銃撃を受け拿捕されるという事件が起きた。
2つの漁船が銃撃を受けた場所は韓国領済州島の沖20マイルの公海であり、本来何ら問題のある場所ではない。
にも関わらず、一方的に韓国側が「済州島沖わずか9マイル」と主張、民間漁船に国家海軍が襲い掛かった。
これは海賊行為以外の何物でもなく、その際に民間人の瀬戸重次郎氏が被弾して死亡している。
何の関係もない民間人を賤しくも国の軍隊が殺害・虐待したこの事件は後々まで尾を引き、現在まで残る日米韓軋轢の1つとして今だ完全に解決されたとは言い難い。
赤い丸地点が拿捕地点。韓国領海というよりは日中の中間水域であることがわかる。
【事件の背景】
・当時は朝鮮戦争の膠着状態が続き、国連軍(米軍)が疲弊していた時期でもあった。
1945年の平洋戦争終了後、日本を占領統治していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、1950年の朝鮮戦争の勃発により、急遽半島の南部を軍事統治下においていた。
そのため、あくまで一時的なものとしてマッカーサー・ライン(日本漁船の活動可能海領域)が設けられていた。
⁂マッカーサー・ラインは本来の日本国領海域とは異なり、戦時下における便宜的・都合上のものでしかない。
事実当時の米国政府も「最終的なものではない(正式なものではない)」と認めている。
後の1951年のサンフランシスコ講和条約においては廃止が決定され、1952年には事実上廃止された。
しかし、韓国の当時の大統領李承晩はこの案には反対だったようだ。
1951年の7月には米国にマッカーサー・ラインの継続を要求するが、同年8月にはラスク書簡にてラインの有効性を否定されている。
(余談だが、ラスク書簡はサンフランシスコ講和条約において竹島が日本国有の領土である証拠資料の1つであるが、韓国側はラスク書簡を無効と主張)
1952年4月、予定通りマッカーサー・ラインが廃止された。
韓国側が海洋主権宣言により李承晩ラインを一方的に宣言したのが直前の1月である。
当時は1951~1953年まで朝鮮戦争は休戦状態にあり、韓国vs北朝鮮というよりは米ソ対立(資本主義・共産主義対立)の代理対立に近い状態と化していた。
北朝鮮は中国・ソビエト連邦国や他の共産国家からに支援を受けており、国連軍(米軍)の疲労と混乱は相当に大きかったものと思われる。
現在も韓国内には米軍基地があるものの、国連軍(米軍)の面子をつぶした形での李承晩ライン宣言は、その後の国際関係にも大きく影を落としてゆく事になる。
⁂問題の李承晩ラインだが、韓国は日本併合以前の旧大韓帝国の図に基づいてラインを設定したとされる。
竹島においても主権を主張。
・朝鮮戦争の休戦協定は、GHQと中国人民軍、北朝鮮の金日成が調印したものの、肝心の韓国大統領の李承晩本人は参加していない。
そのため、韓国は正式には休戦には賛同しておらず、休戦状態なのは北朝鮮のみという不思議な構図が出来上がる。
また、韓国内にても疑心暗鬼になった自国民による大量虐殺事件が後を絶たない時期でもあった。
【事件の勃発】
・「第一大邦丸」及び「第二大邦丸」が福岡港を出港したのは1953年1月22日。
朝7時頃に活動可能海域にて操業中、韓国の漁船2隻が近づき「魚は獲れますか」と日本語で話しかけてきたという。
韓国船は一旦はそのまま通り過ぎたものの、付近で操業を装って日本船を監視し始めた。
その後、「第一大邦丸」が揚網作業に取り掛かったところ、突然韓国船から自動小銃で銃撃が始まった。
その時の距離は船尾からわずか30メートル。
民間人でありごく普通の漁船でしかない2隻は逃走を始めたが、8時15分頃には「第二大邦丸」が拿捕。
「第一大邦丸」も銃撃のあまりの激しさに逃走を断念。
この時操舵室内に坐っていた漁労長が後頭部左側より銃撃をうけ意識不明となった。
「第一大邦丸」が拿捕されたのは8時30分。
韓国船の船員に「翰林に行け」と日本語で命令されたという。
・この時、韓国船側は明確な軍事行為目的を持っていたと思われる。
漁船を装ってはいたが、韓国船2隻には乗組員12名の他にも憲兵1名・特務隊員1名・情報隊員1名・警邏4~5名が乗船していた。
また、民間人に対する無警告攻撃行為など彼らを援護するべき要素はどこにもない。
・その他にも取り調べと称した漁師ら民間人に対する虐待行為も判明し、当時半島南部を軍事統治していた米国をも巻き込む国際的な混乱を招く。
【乗組員への虐待】
・2隻は同日の11時30分には済州島の翰林に入港した。
日本人船員は憲兵によって全員が警察に引き渡されたが、船内の物や私物、装備及び漁獲物は没収(略奪)されている。
船員らは意識不明の負傷者の存在を憲兵に伝え、彼らは翰林面の『高医院』に収容されたという。
しかし、そこには病室も設備も全く無い場所であり、医師は一目見ただけで漁労長の手当てを拒否。
仕方なく船員たちは警察に赴き軍病院等への入院を依頼。
しかし警察は軍の命令に従ったのみで「我々に責任はない」として入院依頼を拒絶。
次に船員らは憲兵隊へ赴き再度依頼するが、憲兵隊長は再び拒否。
何度も交渉し、依頼し、ようやく軍病院への入院の許可が降りる。
「すぐに車が来る」との言葉に漁労長のもとへと戻るが、実際に搬送用の車が用意されることはなかった。
だが、船員たちは搬送を信じ、彼の命をつなぎとめるために医師にリンゲル注射を求めた。
⁂リンゲル液・・・・おもに点滴などに使用される。
しかし、リンゲルは高価だと医師は躊躇。
船員が私物を売り払って金を払う約束のもと、ようやく1本のリンゲル注射を得た。が、結局漁労長は2日後の6日23時にそのまま死亡。船員らになす術は無く、彼が見殺しにされるのを見守る他なかった。
ようやく韓国側が行動を起こしたのは、その翌日。
漁労長を撃った弾は軍のものなのか、それとも警察によるものなのか。
解剖により憲兵の銃撃によるものであると判明したが、それは遺体の所有権を確認するためだけのものだった。
残された船員たちは警察に火葬を頼むが事実上無視される。
そのため、やはり船員が私物を売って葬儀を揃え、足りない薪は付近の枝等で補い、翌日に自分達のみで火葬を行ったという。
18人が監禁された詰所の広さは約4畳。
食糧は一切支給されなかったため、船内食料で食いつないでいた。
・この時点の取り調べの内容は「済州島から9マイル」の位置に日本船が侵入、領海侵犯だというもの。
しかし、日本人船員が韓国船のコンパスの自差と速度の矛盾を指摘する。
その言葉を受けて、驚くことに韓国側は両者の主張の中間を取ろうと提案。
13マイル付近を拿捕位置として捺印させられたという。
⁂同時期に取り調べを受けていた漁撈長の通信士の証言によれば、拿捕地点は済州島から30マイル。
・同月12日、一行は済州島に移送されることが決定。
亡くなった漁労長の遺骨を取りに行きたいと要求するが拒否される。
その後、船員らは移送用の車に乗せられる事になるが、強硬に拒否したために1人だけ翌日に持ち越すことが認められ、残りの船員らは素直に車で移送されていった。
済州島に到着したのは、夜中の23時頃。
済州島警察に引き渡され、そのまま留置所に入れられている。
この留置場も4畳ほどの広さしかなく、他の韓国人とも一緒に入れられていたという。
だが、ここでは粗末ではあったが食事は与えられていた。
【各国の反応】
・韓国側の主張によれば、李承晩ラインを侵犯した日本側が悪い。
しかし前述したように、李承晩ラインは韓国側が一方的に設定、宣言したものであり当然国際法上無意味である。日本側の指摘に対し、韓国政府は米国公使より作戦妨害にならなければ良いと説明されたと反論。
また通常の場合、群島国家であれば島と島を結んだ線から領海が計測される。(群島基線)
(フィリピン・インドネシア・フィジー等。日本も含まれる)
李承晩ラインは群島基線によるものであり有効であると韓国側は主張したが、そもそも韓国は群島国家ではない。むしろ突然言い出した言いがかりに近い。
これらの事から、李承晩ラインは国際法的には全くの無効だが、韓国側は船員の領海侵犯をしたという嘘の調書をハングルで作成、捺印させた事から日本への正式通知と主張した。
しかし、海図の調査においても定規1本とタバコ、マッチを使って測定するという杜撰な方法を取っていた為に調書には矛盾が存在し、正式に公海上の事件であった事が判明する。
佐世保の朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊の司令官であったグリッチ少将が李承晩大統領に会見を求めたところ、大統領は遺憾の意を表し、ようやく船員らの釈放に応じる事になった。
⁂当時の李承晩大統領を始め、韓国政府が何を画策していたのか現在となっては不明。
朝鮮戦争の最中においても韓国政府内は混乱を極めており、米国軍への援軍要請とともに中国への接近があった可能性が高い。
【船員らの帰還】
・1953年2月15日。
10日以上を経てようやく「第一大邦丸」と「第二大邦丸」の船員らの帰国が実現する。
13時に船体の受け渡しが行われたが、船員らに領事館より帰国通告があったのはその日の朝だった。
2隻は同日済州島を出航、アメリカ海軍の軍艦「エバンズビル」に護衛されて日本に向かう。
・2月17日。
17時30分頃に佐世保港に入港。数日停泊した。
・2月21日。
佐世保を出航。
翌22日の朝7時に福岡港に帰港。ようやく船員らは故郷に帰る事ができた。
この事件の被害者である船員らには何らかの落ち度は全く無い。
当初こそ強硬な態度を崩さなかった韓国だが、米国が介入した事により態度は一変する。
帰国の際には韓国政府側の人間から船員らは「挨拶」を受けていた。
その要旨は次の通り。
「死亡した人に対しては非常にすまないと思う。
だが今韓国は戦時下であるので、君たちに食糧をやりたくてもやれなかった。
(だから)あまり内地へ帰っても韓国のいわば官憲の悪口を言わないように」
⁂1951年より、朝鮮戦争はほぼ休戦状態。
これらの事件は日米間にも大きな影響を与え、他にも似たような事件が頻発する。
李承晩ラインは国際法的には100%無効な設定であるにも関わらず現在も強く主張され続けているが、その根拠は「米国の許可を得た」という証言のみである。