竹島は主に2つの岩石からなる島根県の隠岐郡の島であるが、1952年から韓国政府による実効支配(軍事占領)が続いており、武装警官が多数常駐している。
あまり知られていないが、ややこしい事に北朝鮮も所有権を主張している。
竹島
韓国・北朝鮮での呼称は「独島」。
日本政府は不法占拠であるとして抗議しており、国際司法裁判所への提案を続けているが、韓国側はこれを拒否。
この小島を巡り、一方的で凄惨かつ残虐な監禁事件が13年間に渡り続き、現在の日本国内にも大きな暗い影を落としている事をご存知の方も多いだろう。
1959~1965年に起きた、ごく普通の民間人の漁師らが訓練された韓国海軍に集団拉致、あるいは襲撃された
李承晩ラインをめぐる一連の事件は、当時も、現在においても重大な国際法違反である。
【李承晩ライン】
・そもそも李承晩ラインとは、朝鮮戦争時に日本海に暫定的に定められたマッカーサーラインに端を発する。
太平洋戦争終了後、日本を統治していたGHQの司令官がマッカーサー氏であったが、その後朝鮮戦争の勃発により朝鮮半島南部の軍事統括も同氏が行っていた。
日本の復興も含め日本海側の漁船活動もGHQは保証しており、活動可能海域として設けられたのがマッカーサーラインである。
一時的な軍事的な意味での設定でもあり、1952年には廃止された。
李承晩ラインは、マッカーサーラインの廃止の直前に突然宣言されたものであり、近海漁業の独占が目的だったとも考えられているが正確なところは不明。
因みに、竹島はマッカーサーラインには含まれていない。
⁂正確には、対馬・竹島周辺は軍事的拠点の関係でGHQの管轄内とされていた。
国際法的には全く無効の李承晩ラインではあったが、韓国側は軍事力行使に出た。
ラインを侵犯したとして多数の日本人の漁師が拘束され、多くの死傷者が出ている。
海洋法の観点からも違法である事は間違いなかったが、韓国が米国の軍事統治下において解釈を曲解し「許可を得た」と主張したために、南米諸国でも漁業権を巡って国際トラブルを引き起こす結果を招く。
【漁師らの拉致事件発生】
・李承晩ラインとは、言わば一方的な海洋主権宣言による漁船立入禁止線である。
当然各国の承認は一切受けておらず、日本国内の承認どころか明確にラインを超えたという証拠もなしに、韓国海軍が民間の漁船を攻撃・拿捕、死傷者を含む数千人の民間人を拘留した。
民間人である漁師たちは人質となり過酷な環境下で監禁され、彼らの命を条件に韓国政府は不条理な条件を日本側に押し付けはじめる。
拿捕された漁船の数は判明しているだけで328隻。民間人3929人を抑留させ、死傷者は44人(死亡者数は不明)。射殺された者、餓死した者、病死、虐待死(拷問死含む)など、死因は様々と思われる。
拷問により領海侵犯を自白させ、一方的な裁判で牢獄に収監する。
抑留者(監禁された人々)は狭い空間に時には数十人ほど押し込まれることもあり、与えられるのは僅かな食糧のみであった。
そのためほぼ全員が栄養失調などの飢餓状態に置かれており、餓死者も少なくなかった。
拷問により生きたまま体を焼かれた男性。他にも体中キズだらけだった。
また、後述するが1954年以降はさらに事態は悪化し、「刑期」を終えたはずの収監者達も釈放されず、より明確に人質としてあからさまな扱いを受けるようになっていった。
帰国の望みを失くした人々は極限状態に陥ったと考えられる。
また、生活の担い手を失った日本に残された家族の境遇も悲惨なものであった。
韓国軍からの日本海上保安庁巡視船への銃撃・発砲事件は15件。
攻撃を受けた巡視船は16隻に及ぶ。
当時は日本の漁船が韓国船に襲撃された場合、漁船を逃がすために敢えて巡視船が間に割り込んでいったという。流石に巡視船の拿捕はできなかったらしい。
(武装した韓国船に対し、日本の海上巡視船は当然丸腰である)
だが、不思議なことにGHQの公文書によれば、同様の日本漁船拿捕事件は李承晩ライン宣言の前にも5件発生していたことが記録されている。(瑞穂丸拿捕事件含む)
1953年1月12日
李承晩ライン宣言。以後、韓国海軍による日本漁船への拿捕、銃撃が相次ぐ。
2月4日
第一大邦丸事件発生。済州島付近で同船の漁労長が韓国側の襲撃を受け死亡。
民間人の漁師瀬戸重次郎氏も殺害された。
4月20日
韓国より「独島義勇守備隊」が竹島駐屯開始。
6月24日
日本の水産高校の船舶が独島義勇守備隊に拿捕。
6月27日
日本の海上保安庁と島根県による竹島調査。竹島に住みついていた韓国の漁民6名を退去させる。
「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建設。
7月12日
報復として、独島義勇守備隊が日本の海上保安巡視船に90メートルの距離から機関銃200発を発射。
⁂以後、韓国側は鬱陵島の警察官約40名を竹島に常駐させており、日本の戦艦の接近を拒否。
また、竹島の西島には韓国人夫婦が定住。さらに韓国は毎年独島防衛軍事訓練を実施。
日本側からの抗議は「内政干渉」として退けている。
実は、当時の韓国では他国船拿捕の法的根拠とされる「漁業資源保護法」は施行されていなかった。
そのため日本漁船拿捕は国際法とともに、韓国国内法においても非合法的な行為にあたる。
日本の水産庁は韓国に対し、抑留者(人質)の生活環境が「他国の類似事例とは比較にならないほど苛烈」と批判、抗議を行う。しかし韓国側は1952年1月18日の大韓民国海洋主権宣言を根拠に突っぱねた。
・当時の日本弁護士連合会はこれらの事件は悪辣な人権侵害であるとし、日本全国で抗議運動が展開されてゆくことになる。
【米国の対応】
・李承晩ラインに対し、実は米国も強く抗議を行っている。
しかし、日本はサンフランシスコ平和条約に署名はしていたものの発効前であり国としての主権は回復しておらず、後の海上自衛隊の前身組織となる海上警備隊もまだ存在していなかった事が大きなネックとなっていた。
さらに、韓国大統領李承晩の行動は、米国をも窮地に追い込んでゆく。
前述したように南米諸国でも漁業権を巡るトラブルが群発し、自国民による排他的な漁業独占権を一方的に設定する事態が相次いだ。
米国の船が拿捕・襲撃される事件が発生し、米国が抗議するという構図が出来上がる。
韓国側は李承晩ラインは米国(連合軍)が許可したものであると強く主張しており、ならば他の国々にもその漁業独占権を与えるべき、という事だ。
いうまでもなく韓国側の主張はかなり曲解したものであり、米国側は相当頭が痛かったらしい。
後に判明した事ではあるが、1954年には米国は竹島は日本の領土であること、李承晩ラインは違法であることを非公式に韓国に通告していた。(ヴァン・フリート特命報告書)
しかし韓国側は通告を黙殺。
日本政府側及び抑留させた漁民らへの圧力・虐待をよりエスカレートさせる結果となる。
・1960年、李承晩大統領が失脚すると、駐日米国大使を務めていたダグラス・マッカーサー2世は本国国務省への機密電文(電報)の中で「このタイミングで竹島を日本へ返還させるよう圧力をかけるべき」と提言。
韓国の行為を「国際的な品行や道徳等の基本原理を無視した実力行使の海賊行為」と表現、日本の苦しい状況を報告した。
機密電文3470号と名付けられた提言の内容の要旨は以下の通り。
・韓国に違法に拿捕された日本人漁師の人質を全員解放させること
・日本の漁船を公海上で拿捕する行為をやめさせること
・韓国に人質外交 (hostage diplomacy) をやめさせること
・不法占拠された竹島を日本に返還させること
・竹島が日本に返還されるまで、日韓全体の和平が決着することはない
マッカーサー2世は李承晩の外交を「野蛮な人質外交」と非難している。
⁂この提言には、もし韓国が新体制後も態度を改めなかった場合、人道的立場からも李承晩ラインによる虐待事件を国際司法裁判所に付託、仲裁を求めることに合意するよう主張すべきであるとの内容も含まれていた。
韓国大統領李承晩の失脚は1960年。
しかし、これらの過酷な状況は1965年の日韓基本条約の日韓漁業協定が成立するまで続いた。
(ハワイに亡命した李承晩が死亡したのが1965年)
ダグラス・マッカーサー2世
李承晩政権は失脚したものの、状況は好転せず日本人抑留者への虐待は苛烈を極めた。
そのため日本政府は問題解決にあたり、韓国政府の要求に応じて凶悪または重大な犯罪常習者として収監されていた在日韓国・朝鮮人ら472人を苦慮しつつも放免する事に同意。
そのかわりに人質となった漁民らの解放と帰国を約束させた。
だが、韓国側は在日同胞を自国に招くつもりは全く無かったらしい。
日本国内に自由に解放して特別永住許可をとらせ、現在も韓国と日本の間を自由に行き来させている。
ここに至りようやく李承晩ラインは正式に廃止されるはずだった。
が、実際には民間人である漁師等への攻撃がやや収まった程度であり、未だ韓国政府は李承晩ラインの有効性を主張したままである。
また、韓国政府から被害を受けた漁師たちに対する謝罪・補償の類いは全くされていないこともここに記載しておく。
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