サイケデリック・奇譚

永遠の日常は非日常。

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「暗い日曜日」という曲は、1933年にハンガリーで発表された、ヤーヴォル・ラースロー作詞、シェレッシュ・レジェー作曲による曲である。

ハンガリー語の原題のSzomorú vasárnap [ˈsomoruː ˌvɒʃɑ̈ːrnɒp](ソモルー・ヴァシャールナプ)の意味は「悲しい日曜日」。

自殺者の出る曲として有名。

初めてレコーディングされたのはハンガリー語で1935年。
英語での最初のレコーディングは1936年である。

日本国内においても、淡谷のり子・榎本健一・東海林太郎・越路吹雪・美輪明宏・戸川昌子・岸洋子・金子由香利・夏木マリなど以外と多くのシャンソン歌手がカバーしている事に驚く。

因縁めいた話しとしては、フリー・ジャズのサックス奏者である阿部薫氏がカバーした後、1978年に睡眠薬の多量摂取により亡くなられた。(自殺かどうかは不明)
また、彼の妻の作家鈴木いづみ氏も1986年に首を吊って自殺している。




【自己責任においてお聴きください】


作曲したレジェーは元々独学で音楽を学んでいた。
作曲家を目指していたものの願いは叶わず、せっせと送った曲は全て彼の元へと送り返され続けた。
意気消沈の中、レジェーは1932年12月にこの曲の歌詞と曲を作り著名な出版社に投稿。
しかし、最初の会社ではメロディーとリズムが暗すぎると送り返され、次の会社で採用、翌年発表された。
しかしながら、元の歌詞は使われる事もなく、ラースローの歌詞が採用となる。
当時、ラースローもまた当時婚約者を失ったことで失意の底にいた。


【自殺ソングとされた背景】

・曲調、歌詞ともに陰鬱さを醸し出した本作は「自殺ソング」、または「自殺の聖歌」とも称される。

歌詞の内容は暗い日曜日に女性が亡くなった恋人を想い嘆き、最後は後追い自殺を決意するという一節で終わる。


本作を聴いて世界中で数百人、うち157名はハンガリー人が自殺したともされているが実は因果関係は明確には証明されておらず、本曲が原因とされる自殺の記録もはっきりしない。
そのため、都市伝説にきわめて近いものとされる。

とはいえ、当時の自殺者の中に曲の関係を匂わせる形で自殺をした者が少なからずおり、そのため政府が放送禁止に指定したという話がある。
とはいえ、当時はナチス・ドイツによる軍事侵攻の危機が迫りくる世相でもあり、追い詰められた人々にとっては自殺を扱ったこの曲が、間接的に「引き金」になった可能性は多少あるかもしれない。
また、当時は「暗い日曜日」曲そのものがヒットしており、自殺しようとする者が残すメッセージとしてこの曲を選びやすかった可能性もある。


作曲家の自殺
曲のヒット後にも関わらず作曲家が自殺してしまい、その逸話もまた噂の元となった。

自殺の理由は、曲の通り彼の恋人が自殺し、後追い自殺で死んだと噂されたが、実際にはそうではない。
ヒット当時からすでに「自殺ソング」として世間の反響・非難も大きかったため、レジェー自身が思い悩み、病んでしまった可能性が高い。
喉の病気に罹ったと強く思い込み、悩んでいたことからも鬱状態に近かったと思われる。

・また、イギリスのBBCでは放送禁止の曲に指定している。



「自殺ソング」の真偽のほどは定かではないが、どちらにせよ現在でも多くのアーティストによって歌われ、カバーされ続けている曲である。
特に1936年のフランスで発表されたフランス語によるダミアのシャンソンが世界的に有名となり、シャンソンの作品であると誤解されることが多い。
非常にしっとりと歌い上げた情感は美しい余韻を残している。

なお、ダミアは満88歳の長寿で亡くなっている。



星条旗よ永遠なれ




1名無しさん :2015/12/30(水) 22:35:06 ID:SqQBkhh20

某掲示板サイトに投稿した話を再編集して投稿します。
一気に投下するので、できたら返信お願いします。
コピペではありませんし、フィクションではありません。実話です。

ひいおじいちゃんがついこの間亡くなりました。
なので、いつもおじいちゃんが語っていた話をします。
おじいちゃんに怖い話をしてくれと頼むといつも話してくれる話しがありました。
その前に、おじいちゃんについて少し説明させていただきます。
僕のひいおじいちゃんは、太平洋戦争で陸軍の戦車兵でした。
それも、戦車を運転する操縦手だったそうです。

おじいちゃんの話によると、それはルソン島での戦いで起きたそうです。
ルソン島の戦いといえば、恐ろしい激戦地であったという話をよく耳にします。




2名無しさん :2015/12/30(水) 22:35:39 ID:SqQBkhh20

おじいちゃんは、この話をする時いつもこのように話しました。
ここから先はおじいちゃんの話を再現して書きます。

「忘れもしない1945年6月...あれは何日だったか、今では思い出せんな。
雨が降っていて、ただでさえ高いフィリピンの気温に加え
チハ車(97式中戦車チハの呼称)のエンジンの熱によって蒸し暑かったのを覚えいる。」

「日も傾いてきた頃、戦闘中に味方の戦車隊からはぐれてしまったんだ。
すぐ近くで砲声は聞こえるんだが...」

「戦車長が外に出ても味方の戦車も敵の戦車も暗くて見えないと言うのだ。
馬鹿な、そんなことないだろう、味方も敵も撃ちゃあ分かるだろ、と言ったが、
操縦席の細い窓から覗いても、本の数メートルまでしかヘッドライトは照らしていない他
何の光も見えなかった。」


3名無しさん :2015/12/30(水) 22:36:43 ID:SqQBkhh20

「しばらく前進していると、急にがくんと衝撃がきて、戦車が停止しちまったんだ。
それも、エンジンが止まったわけじゃなく、
なんかにぶつかってつっかえたみたいに、履帯が空回りしているように。

おかしいな、溝にはまったか?と怪しんでいたら、
突然四方八方から激しい砲声や銃声が聞こえたんだ。
車内に響く跳弾の音に、乗組員四人全員が震え上がっていたのを覚えている。
いつまでたっても音は止まらない。戦車は無事なようで、動力にも乗組員にも何ら異常は無かった。」

「それでも戦車は前に進まなかった。
俺は、アクセルも全開で戦車を走らせようとしたんだが、
除き窓からは戦車が前進してる様子は見られなかった。

すると、跳弾の音が少し収まって、音楽が聞こえてきたんだ。
日本の軍歌じゃなくて、...これは後で説明するか。
銃撃が収まってきた頃に、砲手のひとりが外の様子を見ると言って、
ハッチを少し開けて、身を乗り出したんだ。

ここからやっと全員が異常に気付き始めた。
その砲手が急に笑い出して、狂ったように軍歌を歌い始めた。
異変に気付いたもう一人の砲手が半身外に出てる砲手を捕まえると、そいつも軍歌を歌い出した。」

「二人の砲手が涙を垂れ流しながら狂ったように砲撃を始めたので
俺とあと一人は唖然として砲手の様子を見ていた。
俺はどうしたのかと聞くために操縦席を立って二人に詰め寄ったが、もう完全に乱心だった。
明らかに変だ、一刻も早く味方と合流しなくてはならないと直感した。」

「操縦席に戻ろうとしたところで、俺は恐ろしいものを見た気がしてすぐに後ろを向いた。
はっきりとは見ていないが、操縦席の除き窓に何か景色以外の物があった。
禍々しいものだとは気付いた。
上で軍歌を歌う奴らもこいつが原因だともすぐに分かった。
まだ正気を保っているもう一人の仲間もそれに気付いて、こっちを向いて口をぱくぱくさせていた。
俺はそれを見ないように後ろを向きながらアクセルを踏んだ。
戦車は走っているのか止まったままなのかよくわからないが、とにかく前進する努力をした。
俺はとても恐ろしかった。もう無我夢中だった。」


4名無しさん :2015/12/30(水) 22:37:26 ID:SqQBkhh20

「そのうち、また銃声が聞こえてきた。もうその音でほかの音は何も聞こえなかった。
隣の仲間もうわぁ、助けてくれぇ!と泣き叫んでいた。
俺も同じだった。銃声に紛れてあの音楽も聞こえてきた。
みるみるうちに音量が大きくなっていった。
俺が全て諦め、耳を塞いだその瞬間に、とてつもない衝撃とともに俺は意識を失った。」

「大丈夫か?と言われて俺は目を覚ました。もう元の戦場の音しか聞こえなかった。
声をかけてくれたのは隣にいた仲間だった。
もう大丈夫だ。安心しろと言われて後ろを見たら、あの砲手の二人は自決した後だった。
いつ自決したのかわからないが、二人の近くには拳銃が落ちていた。
俺たちは二人で戦車からはい出た。
東に日が見えた。
もう朝だった。
自分たちの乗っていた戦車を見て、これまたあっと声を上げたのを覚えている。
忘れもしない。戦車は血みどろだった。至るところに血がついていた。
そして、戦車の履帯のところに、星条旗(アメリカの国旗)の切れ端が絡まっていた。」

「その後、俺たちは友軍の戦車に助けられた。
後で聞いた話、俺たちが所属していた戦車隊は全滅したらしかった。
戦後、あの時聞いた音楽は『星条旗よ永遠なれ』だったと知った。」

そして、いつもこの話をした後にひいおじいちゃんはCDで『星条旗よ永遠なれ』を聞かせてくれました。
長々とすみません。
この話はこれで終わりです。



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